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与那嶺要

与那嶺 要(よなみね かなめ、本名: ウォレス・カナメ・"ウォーリー"・ヨナミネ(Wallace Kaname "Wally" Yonamine)、1925年6月24日 - 2011年2月28日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州()マウイ島生まれの元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。父親は沖縄県、母親は広島県出身のハワイ移民日系2世。日本IBM社長のポール与那嶺は息子。少年時代は家業のサトウキビ畑で働く。俊足を買われ、1947年にフェリントン・ハイスクールからアメリカンフットボールのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ(当時はNFLとは別のAAFCというリーグに所属していた)に入団。しかし度重なる怪我に見舞われて現役続行を断念し、1950年に野球に転向。マイナーリーグAAA級サンフランシスコ・シールズ傘下のC級ソルトレイクシティ・ビーズに入団した。、前年松竹ロビンスにリーグ優勝を奪われ戦力強化を急いでいた読売ジャイアンツのスカウトを受け、シーズン途中に来日し、入団。日本プロ野球では戦後初の外国人選手となった。来日初打席では杉下茂からいきなりセーフティバントを決める。1イニング3盗塁(日本タイ記録)や併殺崩し、本塁でのクロスプレーなどで本場仕込みの走塁技術を発揮し、同年シーズンは規定打数(現在でいう規定打席)不足ながら打率.354を記録した。翌にはリーグ2位の打率.344・38盗塁を残し、オールスターゲームにも初出場を果たす。オールスターには以後8年連続で選出された。この年までは、中堅手であった3番打者・青田昇の存在があり、与那嶺は主に左翼手を務めていたが、青田の移籍に伴って以降は中堅手を務めるようになった。同年シーズンもリーグ5位の打率を残し、には打率.361という自己最高の成績で自身初の首位打者を獲得。もリーグ4位の打率を記録するなど活躍した。、球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打を放つ(その後に巨人で記録した選手は2003年の清水隆行、2007年の高橋由伸)。同年は打率.338で2回目の首位打者となり、リーグ5位の13本塁打を残した。翌には打率.343で3回目となる首位打者を獲得し、MVPに選出される。からは左翼手になり、まで2年連続でリーグ3位の打率を残したが、長打力が落ち始め、35歳のシーズンとなった1960年には打率.228と成績が急降下した。同年オフに自由契約となり、中日ドラゴンズに移籍。その巨人を相手にしたの開幕戦では9回に決勝ホームランを放つ。中日では2年間プレーし、に現役引退した。巨人時代はベストナインを通算7回受賞するなどの活躍で第2期巨人黄金時代を支えた。1番・与那嶺、2番・千葉茂は当時球界屈指の1・2番コンビであり、4番打者の川上哲治とは首位打者を争うライバルであった。引退後は中日( - 一軍打撃コーチ, - ヘッドコーチ, - 監督)、東京・ロッテ( - 一軍打撃コーチ)、巨人( - 二軍外野守備・走塁コーチ、一軍打撃コーチ)、南海(一軍打撃コーチ、一軍ヘッド兼打撃コーチ)、西武(二軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ)、日本ハム(一軍守備・走塁コーチ、ヘッドコーチ、 - 一軍ヘッド兼打撃コーチ)で監督・コーチを歴任。東京・ロッテコーチ時代は池辺巌・山崎裕之・有藤通世を育てた。中日監督時代のには古巣・巨人のV10を阻止し、以来となる20年ぶりのリーグ優勝を果たした。外国生まれで解説者をつとめる自信がなかったこともあるが、この長期間切れ目のない指導者生活は異例であり、球界での厚い信望を示している。のオフにフジテレビ系『プロ野球ニュース』の企画「特別出前表彰式」に出演。都内の自宅にて、やや困惑した顔で中井美穂から表彰状を受け取っていた。1988年シーズンを最後にアメリカ合衆国へ帰国。、野球殿堂入り。日本プロ野球で活躍したアメリカ人選手は数多いが、その中でも殿堂入りを果たしたのは現在与那嶺ただ一人である。にハワイ高校体育協会に20万ドル寄付した。以降故郷のハワイ州で悠々自適の日々を送っていたが、2006年にプロ野球マスターズリーグ参加を機に18年ぶりに再来日した。にはオリックス・バファローズの招きで7月16日の対ロッテ戦で始球式をおこなったなど80歳を超えても元気な姿を見せたが、前立腺がんのため2011年2月28日にハワイ州ホノルルのシニアホームで死去。満85歳没。死去から3ヶ月後の2011年5月27日、東京都港区六本木の六本木教会(生前通っていた)にて『お別れの会』が催され、長嶋茂雄や王貞治、中日監督時代の教え子で1974年優勝時の投手だった星野仙一ら400人が参列し、故人との別れを惜しんだ。王は「全てを教えてくれ、野球人生が大きく変わった。与那嶺さんの加入は、プロ野球発展の節目の一つ」とスピーチした。また楽天監督を務める星野は「ウォーリーは生きています。私が『ウォーリーイズム』を楽天で作っています。必ずいい地盤を築き、ウォーリーに報告したい」 と挨拶し、最後は盛大な拍手と大歓声に包まれた。お別れの会は当初3月22日に千代田区麹町の聖イグナチオ教会で行う予定だったが、11日前に発生した東日本大震災により延期されていた。出身地であるハワイ州のホノルル国際空港内には、功績を称え、サンフランシスコ・フォーティナイナーズや巨人の選手時代、中日監督時代のユニフォームなどが展示されている。アメリカ仕込みのスライディング、タックルなどの激しいプレースタイルは、当時「スカートをはいたお嬢様野球」と揶揄された日本プロ野球に新風を吹き込んだ。「スライディングの際、足の甲で相手野手のグラブを叩いてボールをこぼれさせることでセーフになる」という走塁技術や、現在では当たり前に行われている打者の一塁ベースランニングの常識(コーナー内側を足で蹴り、90度の角度にすばやくスライドする)を日本プロ野球界に普及させた選手でもあった。また、犠打ではなく進塁を目的としたドラッグバントや、フライ球へのダイビングキャッチなどの新しい戦術は、与那嶺によってもたらされたと言われる。日本プロ野球界の走塁の意識を変えた外国人選手として、与那嶺はダリル・スペンサーと共に名前がよく挙がる選手であり、加藤良三は「日本の野球に革命をもたらしました。戦闘的スライディングはその一例で、芸術的な打撃はいまもまぶたに残っています」と語っている。川上哲治は与那嶺について「とにかく、足が速かった。速いだけでなく、それまで見たこともないような頭を使った走塁術がすごかった」と振り返っており、「当時の日本の野球は、ただ打って、投げる、という単純な野球だった。そこに、彼が米国の進んだ野球を持ち込んできた。そういう近代野球への目を開かせてくれたという意味で、大きな貢献だった」とその功績を称えている。2年連続で12球団を通じての首位打者を達成した選手は、歴代で与那嶺とイチローだけである。芸術的な打撃と走守に優れる選手であったが、アメフト選手時代に肩を怪我した影響で弱肩であったため、肩が唯一の弱点ともいわれた。また、ホームスチール通算11回は歴代1位であり、来日した1951年にはシーズン最多ホームスチール記録となる5回を決めている。日本語は日常会話であれば十分理解できるものの、読み書きはほとんどできず、細かな表現にはつたない部分もあった。与那嶺の日本語があまり上達しなかったのは、野球の練習に専念するために日本語の勉強の時間を惜しんでいたためとされる。中日監督時代の遠征の際、ある選手が門限を破って帰ってきたのを見付けた与那嶺は、「今晩は、寝ないで反省しろ!」と叱り付けたかったのを上手く言えず、「こんばんは」を何度も繰り返すばかりで言葉が先に進まず、結局何も言えないまま自室に帰してしまったことがある。周りにいた者たちは「なぜ監督は挨拶していったのだろう?」と不思議がったという。ただし本人も何も対策しなかったわけではなく、周囲の人に新聞を読み伝えてもらうことにより、スポーツ紙記者の考えなどはきちんと頭に入れていた。野球に対する姿勢は厳しかったが、日常では非常に大らかでアットホームな優しさを持っていた。谷沢健一は与那嶺の監督時代の思い出として、「開幕戦の前や移動日に家に全員招待してくれて、与那嶺夫人の手料理を振る舞ってもらって、息子さんや娘さんも歓待してくれた。そうやってチームの和ができていった。なかなか日本の監督さんにはないタイプだった」と語っている。与那嶺の監督時代にエースだった星野仙一は。「与那嶺さんに怒られたことは一度もない。懐の深い、米国の合理性と義理人情を両方持っている」と評したこともある。現役引退後サラリーマンと解説者をしていた権藤博を2軍投手コーチで招聘しており、権藤は与那嶺について「現場復帰への道を開いてくれた恩人」、「熱い思いと行動力、そしてアメリカの合理主義を併せ持つ生き様は私の描く理想の野球を具現化する存在」と述べている。1950年代前半頃、広島総合球場での対広島戦で小競り合いになると地元の広島ファンが降りて来たが、その中にヤクザがいて、「与那嶺、町中を歩いていたらぶっ殺すからな!!」と脅された。この体験は本人にとってトラウマになっていたらしく、後々まで「広島はヤクザが多くてホント怖いヨ」と口にしていた。現役時代は川上と毎年打率上位を争い(与那嶺入団以降では、川上が3回、与那嶺が3回首位打者を獲得している)、現役引退後も監督として川上と競い合った。与那嶺が限りで巨人を退団し中日に移籍したのは、水原茂監督の後任として就任した川上哲治が与那嶺を戦力外と見なし、自身のチーム構想に組み入れなかったことが原因とされている。そのため川上を激しく敵視しており、関連するエピソードをいくつも残している。当時同じ中日選手だった板東英二の著書『プロ野球知らなきゃ損する』には「中日の選手が川上さんと呼ぶと、川上じゃない、哲と呼べと訂正させた」「ベテランなのに若手と一緒に泥まみれになり、哲をやっつける為に鬼の形相でキャンプ練習に取り組んでいた」「与那嶺さんが巨人との試合で逆転ホームランを打った時、ウォーリーの大合唱が起きて試合が中断するほどだった」などの記述があり、近藤貞雄も「ドラゴンズの人間がうっかり彼の前で『川上さんが』、など口にしようものなら、『川上さんなんて言わんでよろしい、テツでいい』と一喝するなど、ライバル意識は衰えることがなかった」と著書で記している。中日監督時代には、川上率いる巨人との試合で劣勢になると「哲のヤロー!! チックショー!!」と叫んだり、試合前のミーティングでも「哲に負けるな!!」と片言の日本語で吠えまくっていたという。に川上率いる巨人のV10を阻むセントラル・リーグ優勝を決めた際には、「とうとうやったヨ、哲やっつけたヨ。Happyネ。長い間日本にいて良かったヨ、本当に良かったヨ……」と大はしゃぎしていたという。なお、川上はこの年限りで巨人軍監督を引退しており、与那嶺はまさに1960年のリベンジを果たした形となった(余談だが、この試合は清原和博がプロ野球を目指す、きっかけの一つの試合である。)。もっとも、川上本人も憎まれていたことは十分に承知しており、「(川上が巨人の監督に就任した当時の)与那嶺は既に体力が衰えていたため、彼を戦力外としたのは仕方のないことだった」「与那嶺は日本語が上手くなかったためにコーチとしての留任も全く考えられなかった」と川上は語っている。に二軍外野守備・走塁コーチとして巨人に復帰し、には打撃コーチを務めたが、同年に長嶋茂雄監督が解任されると、同時に与那嶺も辞表を提出した。この時の長嶋解任には川上が関わっていたとする説があり、それに反発してコーチを辞任したのではないかと見られている。コーチ辞任後は巨人OB会には不参加を貫いた(コーチ時代はOB戦に出場している)。川上が関与していなかった世界少年野球大会では、巨人のユニフォーム姿で協賛行事の日米OBオールスターゲームに出場したことがある。少年時代の王貞治が後楽園球場に観戦に来た際のことである。王少年は、観戦に来た大勢のその他のファン達と同様に、巨人の選手達に向かってサインを希望した。周囲の少年達はサイン用の色紙や本格的な硬球を差し出しサインを希望したが、経済的に豊かとは言えなかった当時の王少年は玩具のゴムボールを差し出し、そこにどうにかサインをもらおうと頑張っていた(本当は誰のサインが欲しかったのか、などは明らかになっていない)。だが選手達も忙しいこともあり、王少年は必死で差し出したものの、粗末で目立たないゴムボールなどは見向きもされなかった。その時、与那嶺だけが王少年のゴムボールに気付き、立ち止まって快くサインに応じた。この時の感激から、王は与那嶺と同じようにファン達からのサインの要望を断らず、できる限りサインの要望に応じる姿勢を貫いているという。王も非常にファンサービスを大事にする姿勢を持つことで知られ、様々なエピソードはつとに有名である。後年、このエピソードの真偽を問われた与那嶺は、「何で日本の選手はサインをしてあげないのか、不思議に思いました。彼が王君だったかは分かりませんが、目の大きな子供が軟球を差し出していました。誰もサインをしてあげなかったので、僕がしたことは覚えています」と返答した。なお偶然ではあるが、与那嶺と王は、同時に野球殿堂入りを果たしている。王は与那嶺が死去した際、「小学生の時に後楽園球場で初めてサインをいただいたのが与那嶺さん。プロ入りした時、野球の何たるかを教えてくれた恩人ともいえる方でした。温和な人柄でこんな形でお別れするのは残念でなりません」とコメントを寄せた。5,Robert K. Fitts「Wally Yonamine - The Man Who Changed Japanese Baseball-」2008 UNIVERSITY OF NEBRASKA PRESS LINCOLN AND LONDON,USA

出典:wikipedia

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