濃人 渉(のうにん わたる、1915年3月22日 - 1990年10月10日)は、昭和初期から後期(1930年代後半〜1970年代前半)のプロ野球選手、内野手(主に遊撃手)。名古屋金鯱軍契約第1号選手。プロ野球監督。(1961年5月4日〜1962年に「濃人貴実(たかみ)」と一時改名)。広島県広島市生まれ。両親はハワイ・カウアイ島に暮らしていたが、母親が姉二人を連れて広島に残した父親の母を世話するため帰国。このとき母親は妊娠中で渉は広島で生まれた。船で太平洋を渡って帰ったから、名前が渉という。ところが、渉の誕生を知った父親がハワイで出生届を出したため、日本生まれでアメリカ国籍を併せもつという本来ありえない二重国籍者となった。父親はカウアイ島ワイメアで雑貨商と電気工事会社を経営、1925年創立のカウアイ(加哇)日本人野球リーグ生みの親となった。中学卒業まで母親と広島で育つ。1932年旧制広陵中(現・広陵高校)で春選抜に出場、名遊撃手として鳴らすが、チームは明石中の名投手・楠本保に先発全員三振を喫し完封負け初戦敗退。楠本はこの試合を含め合計3度の先発全員三振奪取を記録、他に2度記録した投手すらいない大記録である。夏選手権は広島予選決勝で藤村富美男の大正中(のち呉港中、現・呉港高等学校)に敗れた。1933年卒業後、父親に呼ばれ無理にハワイへ行くが、「ハワイは暑くて嫌い」と日本に戻り、広陵中出身の先輩が多い明治大学への進学を準備中、やはり広陵野球部の先輩から引っ張られ広島専売局(現・JT広島支局)へ入社。広島専売はバレーボールの強豪(現・JTサンダーズ)で知られるが、当時は野球も強く濃人以外にも数人のプロ野球選手を輩出した他、1932年に来日した米ニグロリーグのロイヤル・ジャイアンツ相手に、日本の単独チームとして初めてアメリカのプロ野球チームに黒星をつけたことで、日米野球史にその名を残している。1935年、名古屋新聞社が野球会社設立の準備を始めると同年5月頃、岩本義行を介して岡田源三郎から誘われ、11月1日監督に決定した岡田に続き、契約第1号選手としてチーム創設に参加。背番号8。この会社が翌1936年1月にチーム編成を完了する名古屋金鯱軍で、その母体となる≪株式会社・名古屋野球クラブ≫の設立が同年2月28日となる。同年2月9日鳴海球場、巨人との日本初のプロ球団同士の試合(現在のプロ野球組織に属する球団同士の初試合)にも8番ショートとして先発出場。強肩の名ショートとして活躍。プレイングマネージャーで中堅手だった島秀之助が肩を痛めたため、島の近くまで行ってトスを獲り、バックホームしてランナーを刺した。1937年シーズン途中の7月に召集され、中国戦線に参加。1938年秋、広東の虎門要塞攻略戦に加わり、決死隊7人中、左半身に砲弾の破片を浴びながらただ一人生き残る。1940年帰還し金鯱に復帰。同年石本秀一が監督に迎えられ師弟関係となる。この頃国籍の二者択一を迫られ日本を選ぶ。チームは翼軍に吸収合併され、大洋軍・西鉄軍と変わるがそのまま在籍し、戦時下の1943年までプレー。1942年5月24日対・名古屋戦、トップリーグに於ける世界最長試合・延長28回のショート・2番打者としてフル出場、9打数1安打、4失策。1943年の西鉄軍の解散で、広島へ帰郷し開戦前に帰国していた父の経営する製材所を手伝う。製材所は広島市皆実町二丁目(現南区)にあり、1945年8月6日、広島への原爆投下により、爆心地から約2キロの同所材木置き場で被爆。材木の下敷きになったが無傷だったといわれる。ちなみに、プロ野球界で直接の被爆により被爆者健康手帳を持っている(持っていた)のは、張本勲と濃人のみである(原爆投下後に被爆地に入った「入市被爆者」では岩本義行が交付を受けている)。広島での原爆体験はあまり語らず、医療費などが無料となる被爆者健康手帳も「他に困っている人がたくさんいる」と懐へ忍ばせたまま使わなかったという。戦後は1946年、広島の社会人野球チーム・鯉城園の選手として第17回都市対抗野球大会出場。職業野球経験者をずらりと揃えながら、初戦で優勝した大日本土木に惨敗した。この後、阪急ブレーブスの村上実代表に誘われるが父親の製材所を継ぐために断る。しかし今度は広陵の後輩・倉本信護(年は多い)と田部輝男らがしつこく誘うため、門前眞佐人らと国民野球に参加した。農業をしていた石本秀一を監督として口説きグリーンバーグ・結城ブレーブス(茨城県結城市)でプレー。主将・トップバッターとしてチームを牽引、また資金難から地方巡業から帰ると焼け跡の東京を歩きまわり金策にも奔走した。国民リーグで一番のスター選手だった濃人は巨人から勧誘された。巨人球団代表市岡忠男の使い鈴木龍二(のちセ・リーグ会長)から「巨人が君を欲しがっている。千葉茂とコンビを組んだらもっとスターになれるよ」と言われたが、石本に相談すると一喝された。国民リーグは多くの問題を抱え1年で消滅。1948年に金星スターズに石本監督と共に復帰。選手過剰のため、2軍の金星リトル・スターズに在籍し同年現役引退。1949年、国民リーグで一緒だった真野春美が在籍していた日鉄二瀬(福岡県嘉穂郡、日鉄鉱業二瀬鉱業所)野球部に引っ張られ同チームの監督に就き、厳しい指導で無名選手を鍛え上げ強豪チームにする。1951年第22回都市対抗野球大会のチーム初出場、翌第23回大会は選手兼任監督1番遊撃手としてチームを牽引、準優勝に導く。1954年から監督専任、江藤愼一、古葉竹識、寺田陽介、吉田勝豊らを育て「濃人学校」と呼ばれ教祖的な人気を得て九州の野球のレベルアップにも貢献。第29回大会(1958年)で再び準優勝に導くなど11年指揮をとった。スポーツジャーナリスト・越智正典は1954年のサン大会(現在のスポニチ大会)で逞しく鍛えられた日鉄二瀬の魅力につかまり、何度も筑豊に足を運んだと話している。1959年退任。1960年、金鯱時代の知り合いで当時、中日の代表だった平岩治郎に誘われ、同チームの二軍監督としてプロ球界復帰。翌1961年一軍監督に就任と井上登、吉沢岳男、森徹ら、生え抜きトレードを敢行しチームを改革。与那嶺要らを入団させ新人権藤博の大車輪の活躍で、巨人より1勝多い72勝をしたにも関わらず引き分けの差で2位に甘んじる。ユニフォームを変更し(1962年中日ユニフォーム)この時代では斬新だったカラフルユニフォームは話題を呼び、翌年も3位と健闘したが、親会社(中日新聞社)の「六大学出身の監督が欲しい」という理不尽な理由で解任され、球団技術顧問という閑職へ追いやられる。解任の背景には当時、中日新聞社が、中日の前身・名古屋軍の親会社だった新愛知と、名古屋金鯱の親会社だった名古屋新聞の合併会社であり、両社の出身者が持ち回りで球団オーナーを務める取り決めから、1962年までは名古屋新聞系のオーナーで、翌1963年からは新愛知系のオーナーが就任する事が決まっていた、という事情があった。それに加えて、自身のノンプロからの子飼いの選手を入団させた一方、生え抜きの選手を多く放出した事に対し地元名古屋で総スカンを食らった。ただ森徹らを放出したことで、高木守道ら若手が抜擢されたという部分もある(その一方で権藤博を酷使してその選手生命を縮めさせた監督としても知られる)。濃人の後任として監督に就任したのが、中日OBの杉浦清である。そしてドラゴンズブルーのユニフォームがはじめて登場する事になったのも、1963年の事である。メジャーリーグ視察後の1963年秋、東京オリオンズからヘッドコーチに招かれる。1967年、成績不振で解任された戸倉勝城監督に代わり永田雅一オーナーに請われ、8月途中から監督昇格。1969年、近藤貞雄を再び投手コーチに招聘、また「ミサイル打線」復活を目指し、与那嶺を再び打撃コーチとして招き、球団名がロッテに変わった2年目の1970年、投の成田文男、木樽正明、小山正明、打の江藤愼一、アルトマン、榎本喜八、山崎裕之、有藤道世らを率いてパ・リーグ独走優勝。しかし日本シリーズは巨人に1勝4敗で敗れた。飯島秀雄在籍時の監督でもあった。翌1971年7月13日対阪急戦、日本プロ野球史最後の放棄試合(フォーフィテッドゲーム)を起こし(後述)シーズン途中に二軍監督に降格、シーズン終了後にスカウトに転出した。濃人に代わって一軍監督に昇格したのが大沢啓二。1975年のドラフト会議では、スカウト部長として「使いものにならなかったら腹を切る」と啖呵を切って田中由郎を全体1位で強行指名。結局、田中は物にならず、約束通り濃人は1978年退団。このため田中には「人斬り」というあだ名が付いた。退団後帰郷し、1979年から広島テレビで野球解説者を長く務め、後の余生は平穏に送った。広島が優勝を決めた1979年10月6日の阪神戦で教え子の古葉が胴上げされている時一緒に解説を務めていた村山実と共に泣いていた(濃人は古葉、村山はかつての弟分、江夏豊の晴れ姿にそれぞれ感極まったのだった)。1990年10月10日死去。。帝国ホテル大阪前総支配人・現顧問を務める濃人賢二は実子。孫は濃人一仁。: ※1 1961年から1962年、1967年から1996年までは130試合制: ※2 1965年、東京本堂安次監督の病気休養の6月17日から7月1日まで指揮(10試合5勝5敗): ※3 1967年、戸倉勝城監督休養の6月20日から7月30日、復帰した戸倉監督解任後の8月15日から閉幕まで指揮(67試合34勝31敗2分): ※4 1971年、7月23日に解任(74試合45勝27敗2分): ※5 通算成績は実際に指揮した試合
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