磐梯急行電鉄(ばんだいきゅうこうでんてつ)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町の川桁駅と沼尻駅とを結んでいた鉄道路線およびその運営会社。東京証券取引所に上場していた。1969年(昭和44年)に全線が廃止された。一般には沼尻鉄道(ぬまじりてつどう)の名前で呼ばれ、耶麻軌道(やまきどう)という名称でも呼ばれていた。本鉄道は硫黄鉱山から採掘した硫黄鉱石を日本国有鉄道(国鉄)磐越西線まで輸送するために敷設された貨物輸送主体の鉄道で、旅客輸送は片手間に行われていた。硫黄鉱山の閉山後は観光鉄道として脱皮を図り、旅客輸送で経営を維持しようとするが休止となり、その後廃線になった。旅客輸送では磐梯山やスキー場へ行く観光客に利用されることもあり、観光シーズンの夏は学生の旅行者が多く、冬はスキー客とその荷物で車内は混雑した。また、岡本敦郎が歌う『高原列車は行く』の舞台になった。元来は沼尻鉱山で採れる硫黄鉱石の輸送を目的として、日本硫黄によって敷設された鉱山軌道である。アメリカ・ルイジアナ州などで大規模な硫黄鉱山が発見され、フラッシュ法による廉価な硫黄生産が開始される前の20世紀初頭、日本で産出する高純度の硫黄は稀少な鉱物資源であり、かつ近代工業がようやく軌道に乗り始めたばかりの日本にとっては貴重な外貨獲得手段の一つであった。ところが、沼尻鉱山からの硫黄輸送においては、悪路を荷馬車によって搬送していたため途中での荷傷みによる損失が著しく大きく、その改善が強く求められる状況にあった。そのため、鉄道を建設しこれによって鉱石輸送を実施することが計画され、1908年(明治41年)に日本硫黄関係者および地元有力者の手によって、川桁 - 大原間で耶麻軌道として609mm軌間・人力動力での軌道建設特許が出願された。しかし、この計画は資金難から一旦挫折した。このため、事態を重く見た日本硫黄本社が問題の解決に乗り出し、特許を出願者から譲受した上で社内に耶麻軌道部を設置、自社直轄事業として軌道建設を実施することを決断した。こうして旺盛な硫黄輸送需要に対応すべく762mm軌間・馬力動力に変更した上で建設工事を進め、1913年(大正2年)5月11日に日本硫黄耶麻軌道部として路線の営業を開業した。その路線は大原(沼尻)から順に近傍の集落を通過して最寄りの国有鉄道(鉄道院)磐越西線川桁駅に至るもので、途中福島と猪苗代町を結ぶ国道115号と併走する区間もあるが、この地域では最大の都邑である猪苗代町を避けて川桁と接続している。この路線設定については猪苗代と川桁で路線誘致競争が行われ、最終的に川桁側が積出港である横浜に2km近く、かつより有利な条件を提示したためにそちらを選択した、との原安三郎の証言や、国道115号が渡河している長瀬川への架橋を避けて川桁への路線建設を選択したとの説が存在するが、真相は定かではない。もっとも、川桁と沼尻の間の一部集落では路線建設に伴う用地買収に対して強い抵抗があり、結果途中3か所で公道上への路線敷設を強いられ、当初は軌道法に基づく軌道として建設されている。路線は沼尻と川桁の高低差が174.52mで、沼尻からほぼ連続的な下り勾配で川桁に至るが、その勾配は木地小屋 - 沼尻間に30 - 40パーミル台の急勾配が連続するという非常に厳しいものであった。なお、沼尻鉱山は終点沼尻からさらに奥地に存在し、製品・資材輸送のための索道が沼尻駅と精錬所・採鉱所の間に架設されていた。開業後は、1914年(大正3年)1月9日認可で蒸気機関車を導入して輸送力を飛躍的に強化、さらに1929年(昭和4年)には観光客誘致をもくろんで気動車を導入、一時は会津樋ノ口より分岐し、長瀬川に沿って秋元湖へ至る裏磐梯観光開発に主眼をおいた路線の建設も計画、特許が取得されたがこちらは未成に終わっている。また、1940年(昭和15年)の日本発送電による秋元発電所の建設に当たっては名家より分岐する資材搬入用側線を建設、本軌道を用いた資材輸送が実施されている。最盛期は昭和初期から太平洋戦争中にかけての期間で、この時期は沼尻鉱山だけでも約1200人の人々が働いていた『アサヒグラフ』(No.3138 1983年4月29日号 p102)より。。1945年(昭和20年)1月1日に運輸省および内務省からの行政指導に従い地方鉄道に変更、日本硫黄沼尻鉄道部と改称した。戦後はディーゼル機関車の導入をいち早く進めている。1950年代前半になると日章丸がアラビアから原油輸送を始め、四日市で原油の精製が始まり、硫黄も生産されるようになった。硫黄生産コストは、四日市では硫黄1トン当たり1万7千円だが沼尻では4万円もかかり、沼尻の硫黄は価格で勝負にならなくなった。1950年代後半以降、大規模かつ低コストな硫黄採掘技術の開発により海外での硫黄鉱山の開発が進み、沼尻産硫黄の国際競争力が相対的に大きく低下した。さらに硫黄の日本国内での大口消費者であった繊維業界のなべ底不況に伴う需要減少や、1960年代以降市場に出回るようになった廉価な回収硫黄の普及、といった事情も手伝って、1960年代中盤以降、日本国内における天然硫黄の採掘は次第に採算が取れなくなっていった。この結果、1968年(昭和43年)に沼尻鉱山は閉山となり、鉱山の主要施設は撤去あるいは焼き払われた。そのため、硫黄貨物輸送にその収入の多くを依存していた本鉄道の経営状況は急速に悪化。1957年(昭和32年)には無配に転落し、経営改善のために旅客輸送需要の拡大を図る必要に迫られるようになった。かくして本鉄道を裏磐梯への観光鉄道へ転換、スキー場や温泉などの開発とセットで存続を図るべく、日本硫黄が子会社である沼尻観光を1964年(昭和39年)6月1日に吸収合併、日本硫黄観光へ商号を変更し、さらに1967年(昭和42年)8月1日に磐梯急行電鉄へと改称した。また、これに合わせて1968年(昭和43年)には廃線になった宮城バス仙北鉄道線から中古車両を導入して旅客輸送力の増強が実施されるなど、観光鉄道化による存続を模索して様々な努力が行われた。しかし、同年7月に磐梯急行電鉄は突如会社更生法の適用を申請、同年10月14日には会社の倒産に伴い全線が休止、さらには1969年(昭和44年)3月27日に正式廃止された。本鉄道は末期には「電鉄」と名乗っていたものの電化はされず、最後まで非電化軽便鉄道規格のままであった。磐梯急行電鉄への社名変更は、1960年代後半になって日本硫黄観光の経営権を掌握した薬師寺一馬が、本鉄道線の接続する磐越西線の電化に合わせ、1067mm改軌・交流電化による磐越西線直通、牧場やスキー場・別荘地などの観光開発促進という計画を唱えたことによるものであった。もっとも、一連の事業計画は必要な資金を福島県や農林中央金庫からの融資で賄うというものなど、同社の苦しい実情から鑑みればあまりにも現実離れしており、実現の見込みは皆無であった。このため日本硫黄時代から保有していた山林の含み益や場合によっては転売するなどして、何とか資金捻出を図った。だが、それらも実際には金融機関が担保としていたり、そもそも移転登記すら行われていないものだったりして、場合によってはトラブルにまで発展した。加えて、経営実態に見合わない過大な利益計上や8分あるいは1割といった高率の配当実施など、健全な企業経営の原則から大きく逸脱した不自然な経営が常態化。倒産直前の1968年(昭和43年)には磐梯急行電鉄株(東京証券取引所二部上場)が仕手筋の介入によると見られる異常な値動きを示し、投機筋によるマネーゲームに翻弄されるがままに陥った。結局のところ一連の倒産直前の経営は、投機筋や出自の怪しい不動産業者が、倒産間際ではあるもののそれなりに社会的信用があった会社を隠れ蓑として、投資家から資金を集めながら企業の資産を食い潰したと見ても差し支えない。しかも唐突な会社更生法申請でさえ計画倒産に類するものであったと言われ、鉄道事業そのものの経営状況とは無関係に、経営的に不明朗な経緯で廃線に追い込まれたものであった。倒産当時はスキャンダルにもなったようで、新聞や雑誌に数々取り上げられたという。この休止→廃線は鉄道運行に当たっていた職員にとっても沿線住民にとっても青天の霹靂と言うべき事態であったらしく、労働組合による抗議・鉄道存続に向けた活動なども行われたとされる。だが、介入前の段階で既に鉄道部門は赤字経営となっており、さらに施設が総額20億円に上る負債支払いのため差し押さえ対象となったこともあり、そのまま路線廃止が実施されている。磐梯急行電鉄の倒産後、薬師寺らは新たに磐梯電鉄不動産という不動産会社を設立。1972年(昭和47年)に和歌山県の御坊臨港鉄道を買収し、紀州鉄道に改称して自らはその不動産部門となっている。その紀州鉄道も1979年(昭和54年)にリゾートホテル等を展開する鶴屋グループと経営陣が交代しており、その後の薬師寺らの消息は定かではない。会社倒産後の鉄道の線路や敷地などの土地は労働組合の管理下に置かれ、従業員の退職金はこれらの土地を猪苗代町や福島県に売却して得た金で支払われた。元従業員の話によるとその退職金は雀の涙ほどの金額であったという。なお、磐梯急行電鉄という法人自体は2008年(平成20年)時点においても休眠会社として存続している模様である。また沼尻地域周辺のスキー場などは、旧従業員らが設立した沼尻観光が引き継いで現在も営業を継続している。川桁駅(かわげた) - 白津駅(しろづ) - 内野駅(うつの) - 会津下館駅(あいづしもだて) - 荻窪駅(おぎくぼ) - 白木城駅(しらきじょう) - 会津樋ノ口駅(あいづひのくち) - 名家駅(みようけ) - 酸川野駅(すかわの) - 木地小屋駅(きぢごや) - 沼尻駅(ぬまじり)沼尻鉄道には以下の車両が存在した。なお、客車・気動車については川桁・沼尻以外の各駅・停留所にプラットホームの設備がなく、路面からの乗降を行うため、いずれも出入り台あるいは客用扉にステップ付きとなっている。累計で8両の蒸気機関車が在籍した。累計で3両のディーゼル機関車が在籍した。客車については、附番が混乱しており、未解明な部分が残されている。気動車は全3両が在籍した。貨車は、硫黄の輸送などに使われた3トン積みないしは4トン積みのセタと呼称する無蓋貨車および3トン積みのワフと称する車掌台付き有蓋貨車が存在した。その多くは自社工場製であったという。また、無蓋貨車のうちセタ36は、1950年に大改造を受けてラッセル車とされた。旧沼尻駅周辺には、沼尻駅前という地名が残っている。当時の駅舎も90度向きが変わっているが、現存している。廃線後の沼尻駅駅舎は1983年(昭和58年)時点で沼尻観光(株)が使用している。また、途中の駅の跡地には猪苗代町によって立てられた『懐かしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』という駅票を模した看板がある。猪苗代緑の村にはDC12 1とボサハ12・13が保存されている。また猪苗代の野口英世記念館脇にもボサハ14が保存されていたが、これは現在は廃棄されて存在しない。また、廃止時に個人に売却されたキハ2401も現存しているとの噂があるが、所在地不明である。沼尻温泉の田村屋旅館の浴場の入口には、磐梯急行電鉄の列車の写真が数枚、飾られている。会津下舘駅は廃駅ながら県道の名称に未だに残っている。さらに、会津下舘駅前に現存する、旧長瀬協同組合は、「村の停車場」と称された施設へと生まれ変わり、同鉄道の資料や模型などの常設展示が行われている。(著者・編者の五十音順)
出典:wikipedia
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