浅草キッド(あさくさキッド)は、日本の漫才コンビ。オフィス北野所属。たけし軍団に在籍。ビートたけしの追っかけをしていた東京都出身の玉袋は、当時たけしの食事に連れて行ってもらえる、追っかけ界では有名なエリートだった。岡山県から上京して同じく追っかけをしていた博士は、玉袋の待遇に嫉妬していたという。たけしは、テレビ番組で「浅草キッドとはたけし軍団に入る前の頃の方が多く会話をした」と述べている。1986年、毎週『ビートたけしのオールナイトニッポン』終了後にスクーターで追跡し、ビートたけしに弟子入り志願を繰り返すも成就しない日々が続いた。同じように、レギュラーの志願者が5、6名集まった所で顔を覚えられたダンカンの発案で「ぷらぷらしてるならたけし城に出てみろ」と機会を貰い、たけし城に一般参加者に混じって出演していた(入門ではなくあくまでたけし城に出る機会を得たのみ)。この頃、自ら志願し浅草フランス座に修行中であった大阪百万円を通じ当時の支配人・岡山が、「もっと若い奴がいるならうちで修行させないか」とたけしに打診する。軍団セピアを中心に浅草フランス座での修行を促すが、これを全員拒絶。誰なんだ吉武だけは「行かないとクビだ」と言い渡され、決定。まとまった人数にならず困ったたけしは、以前からいる弟子入り志願者を思い出し、たけし城のロケ中に呼び出し「ぷらぷらしてるなら浅草に行け」と強制的に6名を住み込み前提でフランス座行きを言い渡す。その際、これらのメンバーに東京キッドブラザースを揶揄した“浅草キッドブラザース”と命名した。この年末にフライデー事件が発生するも、これをテレビのニュース番組で知ることになる(大阪百万円はこの頃、修行完了として軍団へ復帰していたため、事件に参加)。この時ビートたけしは浅草キッドブラザースに対し「もうやめて俺から離れていいぞ」と軍団メンバーに連絡させている。そもそもこの時、軍団メンバーから尋ねらなければ浅草のメンバーをたけしは完全に忘れていたという。1987年、たけしの許にいれば安易にテレビに出られると考えていたメンバーは、浅草で試練にあう。昼はストリップ劇場、夜は岡山経営のスナックに駆り出され、ろくに睡眠も取れなかった。さらには、支配人・岡山は修行の名目をかさに着て、賃金もまともに支払わない。(日給1,000円で時給換算すると60円くらい)「話が違う」と、メンバーは次々に脱落。この状況を打開するため、博士と玉袋は自らを“浅草キッド”を名乗り、岡山には内緒でフランス座業務を抜け出しコント赤信号の渡辺正行が主催(当時)していた“新人コント大会”にコンビで出演を試みる。しかし、依然厳しい状況に耐えかねた博士は、元々自らが浅草に来たかった訳ではなかった事もあり、たけしに、土下座をし「お願いですから浅草から引き上げさせて下さい」と懇願。やむを得ないと考えたたけしは、支配人・岡山に連絡し、全員をフランス座から引き上げさせる。その後博士と玉袋は、たけし城にのみ出演しながらコンビ活動を継続。ライブハウスではバナナパワー等にも出演をし、精力的に活動を行う。1989年、渋谷109スタジオで初の単独ライブを行う。1990年には、たけしの口利きで、作家の高田文夫が構成作家を務めるテレビ朝日の番組『ザ・テレビ演芸』の「飛び出せ笑いのニュースター10週勝ち抜きシリーズ」に出場。10週勝ち抜き、第5代目(最後の)チャンピオンになる。そして、1991年にはテレビ東京の番組『ナベさんミッちゃんのまねまね天国!』で5週勝ち抜いてチャンピオンになるなど、全て高田文夫の後ろ盾があったにせよ、若手の実力派として認められるようになり、ラジオ番組『オールナイトニッポン』の月曜第2部を担当。『オールナイトニッポン』のコーナーから生まれた書籍「言わんのバカクイズ」は、70万部のベストセラーとなった。翌1992年には、テレビ東京の番組『浅草橋ヤング洋品店』などに出演し、人気を集めた。芸人の、芸人以外ではファッションデザイナーの中野裕通、料理人の周富徳・周富輝兄弟や金萬福、宮路年雄社長(城南電機)、石井秀忠医院長(大塚美容外科)などの魅力を主にレポーターとして引き出す。1996年10月に、博士が道路交通法違反容疑で書類送検されたことにより、玉袋ともども半年間の芸能活動を自粛。事件は、玉袋が『笑っていいとも!』で免許証を拡大コピーしたものを見せながら「警察に挑戦している」と喋ったことが発端だが、法律上取り締まれるのが博士だけだった。復帰後に初めて担当したバラエティ番組『未来ナース』で、料理研究家の鈴木その子を売り出す、この頃はAVにも出演している。1998年に、二代目「ツービート」をビートきよしのみの承認で襲名、さらにはキヨシと組んで「スリービート」を結成したが、キヨシのバカラ賭博容疑でご破算に。一度はたけしから破門を言い渡されるが、返上し謝罪、元の鞘に収まっている(後にたけしは、このことについて「あれ、誰か信じた奴いるのかな?」とテレビ内で発言し、ギミックだったことを明かしている)。ちなみに、その当時の通称は『自称・ツービート(元・浅草キッド)』であった(一説によると、2人はキヨシには襲名料として十万円払ったにも関わらず、たけしにはロースハムだけで済ませたため、たけしが激怒したと言われている。また、たけしは「B&Bに話をつけてやるから二代目『B&BEAT』なら名乗ってもいい」と譲歩案も出している。)。実際に、スリービートとして営業の仕事を入れた矢先の逮捕だった、と2人は語っている。2人共大の格闘技ファンであり、1999年にはテレビ東京の格闘技番組『格闘コロシアム』の司会を担当。その後も、2002年4月からは、田代まさしの後を継いでフジテレビの格闘技番組『SRS』の司会や、2000年からフジテレビで放送されていた『PRIDE』中継にもリポーターとして出演した。2001年からは、TBSテレビ深夜の番組「週刊アサ秘ジャーナル」に出演。毎回、大物政治家をゲストに呼び、政治記者なみのリサーチによるガチな質問と、政治家の人間性を引き出す巧みなインタビューで、人気を博した。2005年からは、テレビ朝日深夜の番組「草野☆キッド」に草野仁と共演、草野の予想を遥かに超えるナチュラルな変人ぶりに、浅草キッドも食われ気味である。2人の合作によりライターとしても活躍しており、雑誌のコラムや書き下ろし単行本などを執筆。特に、2004年に著した『お笑い男の星座2』は大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされ、ノンフィクション作家としても評価を受けた。「本物の漫才は舞台でのみ行う、寄席に来た客だけが浅草キッドの漫才が見られる」と称しており、放送などで演じられている芸(や掛け合い)は、漫才とは別の演目という位置づけで一線を引いている。東京ダイナマイトとは、師弟関係を結んでいる。『タモリ倶楽部』でソフト・オン・デマンドを訪問した際、「女格闘家VSレイプ魔」(合法的に女優をレイプし、怪我をさせた所謂鬼畜物)のAVを名作と褒め称えていた。カツラKGB(かつらケージービー)とは、浅草キッドが創設した秘密組織。世の中に「カツラをガンガンばらす(Katsura wo Gangan Barasu)」の頭文字を取ったもので、決して旧ソ連の諜報組織ではない。かなり以前より舞台等でその活動が報告されていたが、その存在が一般に知られるようになったのは『中井正広のブラックバラエティ』から。芸能人や有名人がカツラを着けているかを調査し、公開することを活動としていた。一見、プライバシーを暴露する極悪組織のようであるが、目的としてはカツラ着用をコンタクトレンズやアクセサリーの様なカジュアルな物にしたいという思いから発足したものであるとしている。芸能界の潜入捜査として1999年頃、水道橋博士自身が髪を剃り、カツラを着用していたことがあり、他のカツラを使用している芸能人の反応を伺ったりしていた。当時、博士はカツラを使用している、という噂が実際に流れたようで芸能界に対して波紋を引き起こしている。その活動のためか、レギュラーで出演していたTBS系列情報番組・『エクスプレス』にてタイの雑誌編集者がカツラを暴漢に取られたニュースを放送中に再現し、それを見ていたコメンテーターを顔面蒼白にし、数週間休みにする事件を起こす。かつて「ABCラジオパラダイス」時代には「ヅラGメン」とも名乗っていた。上記の行動を、2人は「売名(行為)こそがライフワーク」と言っている。いわゆるいっちょかみ芸人の1人であり、その行為は健康(博士)、家電(玉袋)格闘技(両方)など様々。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。