LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

ノモンハン事件

ノモンハン事件(ノモンハンじけん)とは、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。1930年代に日本(大日本帝国)とソビエト連邦間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。清朝が1734年(雍正十二年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中華民国の間で踏襲されてきた。しかし、1932年(昭和7年)に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を境界と新たに主張し、以後この地を国境係争地とした。1939年(昭和14年)5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢であったが「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わった」。日本とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国は、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の戦闘()」と呼び、モンゴル人民共和国及び中国は「ハルハ河戦争(戦役)」と称している。ソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である(ハルヒン・ゴル)。ほか、田中克彦はノモンハン戦争という呼称を使用している。この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンは、モンゴル語では「ノムンハン」といい、「法の王」を意味する。この名称は、清朝が1734年(雍正十二年)に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボー(祭礼場)の一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマクと中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。また、この土地を牧場としたハルハ系集団のうちダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くの左翼前旗の始祖ペンバの孫チョブドンが受けたチベット仏教の僧侶としての位階の呼称にも由来する。チョブドンの墓や、ハルハと新バルガとの境界に設置されたオボーのひとつなどにも、チョブドンの受けたこの「ノモンハン」の称号が冠せられている。1917年のロシア革命で共産主義の波及を恐れた日本はイギリス・フランス・イタリアとともにロシア内戦への干渉を決定、1918年にチェコ軍救出を名目にシベリア出兵を実施した。1922年の撤収後、1925年(大正14年)に日ソ基本条約が締結される。1920年代には日本とソ連は大陸方面では直接に勢力圏が接触する状態にはなかった。日本は租借地の関東州、ソ連は1924年に成立したモンゴル人民共和国を勢力圏に置いた。両国の勢力圏の中間にある満州地域は、1920年代後半には中国の奉天派が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、中国国民党の北伐に降伏(易幟)した奉天派の張学良はソ連からの利権回収を試みたが、1929年(昭和4年)の中ソ紛争(中東路事件)で中華民国は敗れた。ソ連はハバロフスク議定書を中国と結び、鉄道権益を復活、再確認させ、占領地から撤退した。また、ソ連は同年に特別極東軍を極東方面に設置した。日本の関東軍は1931年(昭和6年)に満州事変を起こし、翌年満州国が建国され勢力下に置いた。翌1932年(昭和7年)の日満議定書で満州国防衛のため関東軍は満州全土に駐留するようになった。満州国軍は1935年時点で歩兵旅団26個と騎兵旅団7個の計7万人と称したが、練度や装備は良好ではなかった。ソ連は満州国を承認しなかったが、満州国内の権益を整理して撤退する方針を採った。北清鉄路を南満州鉄道の売却交渉が始まったが難航した。ソ連はモンゴルと1934年(昭和9年)11月に紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年(昭和11年)にはソ蒙相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年(昭和8年)には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有していた。こうして日ソ両国の勢力圏が大陸で直接に接することになり、満州事変以後、日本とソ連は満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化し、張鼓峰事件を経てノモンハン事件で頂点に達した。モンゴル側は1734年以来外蒙古と内蒙古の境界をなしてきた、ハルハ川東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張。満洲国はハルハ川を境界線として主張した。満洲国、日本側の主張する国境であるハルハ川からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。係争地となった領域は、従来、ダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くの左翼前旗や中右翼旗などハルハ系集団の牧地であった。この地が行政区画されたのは1730年代で、清朝はモンゴル系、ツングース系集団を旧バルガ、新バルガのふたつのホショー(旗)に組織し、隣接するホロンバイル草原に配置し、1734年(雍正12年)、理藩院尚書ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものであった。北東アジアの満州地域の対ソ国境については、満州国建国以前から領土問題が存在していた。清とロシア帝国の間のアイグン条約・北京条約などで国境は画定されていたが、中華民国はこれらは不平等条約であるとして改正を求めてきていた。うちアムール川(黒竜江)は水路協定も1923年に中ソ間で締結されたが、これも中国に不利な内容であったため問題となっていた。1933年(昭和8年)1月、日本はソ連に対し国境紛争処理に関する委員会設置を提案。しかし、ソ連はアイグン条約などで国境は確定済みとの立場であった。また、日本が不可侵条約提案を拒絶していたことや、北満鉄路売却問題が優先事項であったことなども影響し、委員会設置は実現しなかった。満州国南西部の中華民国との国境でも1934年末から紛争が起きており、日本は緩衝地帯設置などを意図した華北分離工作を展開した。モンゴルは、1911年の辛亥革命を好機として、ジェプツンダンパ八世を君主に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部(ハルハ四部およびダリガンガ・ドルベト即ち外蒙古)を確保するにとどまり、モンゴル南部(内蒙古)は中国の支配下にとどまった。バルガの2旗が位置するホロンバイル草原は、地理的には外蒙古の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、東部内蒙古の一部を構成することとなった。その後、モンゴルではジェプツンダンパ政権の崩壊と復活、1921年の人民革命党政権、1924年の人民共和国への政体変更があった。これらモンゴルの歴代政権と、内蒙古を手中におさめた中華民国歴代政権との間では、ハルハ東端と新バルガの境界に問題が生ずることはなかった。旧東三省と東部内蒙古を領土として1932年に成立した満洲国は、新バルガの南方境界として、新たにハルハ川を主張し、本事件の戦場域は、国境紛争の係争地となった。これは、満洲国を実質的に支配する日本が、シベリア出兵中の戦利品であるロシア製の地図に基づいて、ハルハ川が境界と認識していた事による。しかし、日本軍は既に1934年の段階で現地調査により歴史的な境界線の存在を確認していたが、参謀本部は調査の結果は不適当であるとし、独白の検討と称するものに基づきハルハ河に沿って国境線を引いた。モンゴルと満洲国の国境画定交渉は1935年(昭和10年)より断続的に行われたが(満州里会議)、1937年(昭和12年)9月以降途絶した。1937年の6月から10月にかけて、日本と満洲国は現地を調査し、本来の境界を示す標識となるオボーの存在を確認している。その調査後も日本側は当初の主張を変更せず、不利な地図や資料は発禁、隠蔽し、関係者にも口止めした。このように領土問題を継続させ、モンゴル側の「越境」を主張したことが、ついにはノモンハン事件の戦端を開くに至った。満州方面における日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連側が優っていた。1934年(昭和9年)6月の時点で日本軍は関東軍と朝鮮軍合わせて5個歩兵師団であったのに対し、ソ連軍は11個歩兵師団を配備(日本側の推定)、1936年末までには16個歩兵師団に増強され、ソ連軍は日本軍の三倍の軍事力を有していた。日本軍も軍備増強を進めたが、日華事変の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年に日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。なお、満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に警備をゆだねていた。満州事変以後、1934年(昭和9年)頃までは紛争といっても、偵察員の潜入や住民の拉致、航空機による偵察目的での領空侵犯程度の小規模なものだった。1935年(昭和10年)に入ると国境紛争の規模が大型化したが、これはソ連側の外交姿勢の高圧化によるとされる。ソ蒙相互援助議定書の締結もこの時期であり、ソ連軍の極東兵力増加が進んだ。この時期の日本は、陸軍中央と関東軍司令部のいずれも不拡大方針で一致していた。前線部隊でも、騎兵集団高級参謀の片岡董中佐らが慎重な行動を図り、紛争の拡大に歯止めをかけることに寄与していた。1935年1月、満州西部フルンボイル平原の満蒙国境地帯で哈爾哈(ハルハ)廟事件が発生。哈爾哈廟周辺を占領したモンゴル軍に対して満州軍が攻撃をかけ、月末には日本の関東軍所属の騎兵集団も出動したが、モンゴル軍は退却した。以降、満州軍はフルンボイル平原に監視部隊を常駐させ、軍事衝突が増えた。6月にはソ連と接した満州東部国境でも、日本の巡回部隊10名とソ連国境警備兵6名が銃撃戦となり、ソ連兵1名が死亡する楊木林子事件が発生した。10月、モンゴルのゲンドゥン首相が「ソ連は唯一の友好国」であるとして、ソ連への軍事援助を求めた。12月のオラホドガ事件では、航空部隊まで投入したモンゴル側に対して、翌年2月に日本軍も騎兵1個中隊や九二式重装甲車小隊から成る杉本支隊(長:杉本泰雄大尉)を出動させた。杉本支隊は装甲車を含むモンゴル軍と遭遇戦となり、戦死8名と負傷4名の損害を受け、モンゴル軍は退去した。関東軍は不拡大方針を強調する一方、戦術上の必要があればやむを得ず越境することも許すとした方針を決め、独立混成第1旅団の一部などをハイラルへ派遣して防衛体制を強化した。1936年1月には金廠溝駐屯の満州国軍で集団脱走事件が発生し、匪賊化した脱走兵と、討伐に出動した日本軍・満州国軍の合同部隊の間で戦闘が発生。その際に脱走兵はソ連領内に逃げ込み、加えてソ連兵の死体やソ連製兵器が回収されたことから、日本側ではソ連の扇動工作があったと非難した(金廠溝事件)。1936年2月14日、ソ連のストモニャコフ外務人民委員代理は大田為吉駐ソ大使に対して、モンゴル人民共和国に脅威が発生する場合、ソ連は必要な援助を行うと述べた。3月12日、ソ蒙相互援助議定書が締結。これを機に、日ソ国境紛争が次第に大規模化していった。3月29日、タウラン事件が発生。オラホドガ偵察任務の渋谷支隊(歩兵・機関銃・戦車各1個中隊基幹)がフルンボイル国境地帯に向かったところ、モンゴル軍機の空襲を受けて指揮下の満州軍トラックが破壊された。モンゴル軍は騎兵300騎と歩兵・砲兵各1個中隊のほか、装甲車10数両の地上部隊を付近に展開させていた。渋谷支隊はタウラン付近で再び激しい空襲を受け、偵察に前進した軽装甲車2両がモンゴル軍装甲車と交戦して撃破された。モンゴル軍地上部隊は撤退したが、日本軍航空機の攻撃で損害を受けた。この事件で日本軍は戦死13名、捕虜1名、トラックの大半が損傷、モンゴル軍も装甲車を鹵獲された。本格的機甲戦や空中戦はなかったが、装甲車両や航空機を投入した近代戦となった。同月、長嶺子付近でも日ソ両軍が交戦し、双方に死傷者が出た(長嶺子事件)。1936年にはへレムテ事件、アダクドラン事件、ボイル湖事件、ボルンデルス事件など衝突が激化、その結果、ソ連はモンゴルでの軍事力増強に取り組むようになった。日本はソ連モンゴルの共同防衛体制が確立したことを警戒し、8月7日の四相会議で決定した帝国国防方針で、ソ連は「赤化進出を企図し、益々帝国をして不利の地位に至らしめつつあり」と書かれた。さらに日本は、ソ連の極東攻勢の強化を受けて、11月25日にドイツと日独防共協定を締結した。日華事変が勃発した1937年(昭和12年)以降、紛争件数は年間100件を超えた。ソ連は大規模なソ連軍をモンゴルに進駐させた。1937年6月から7月に、ソ満国境のアムール川に浮かぶ乾岔子(カンチャーズ)島周辺で、日ソ両軍の紛争である乾岔子島事件が起きた。アムール川の国境はアイグン条約によって全ての島がロシア帝国領と定められていたが、水路協定では航路が乾岔子島よりソ連領側に設定され、国際法の原則や居住実態からも日満側は同島を満州国領とみなしていた。ソ満間の水路協定の改定交渉は前年に決裂、ソ連は5月に水路協定の破棄を通告した。6月19日、ソ連兵60名が乾岔子島などに上陸し、居住していた満州国人を退去させた。日本陸軍参謀本部は関東軍に出動を命じたが、石原莞爾少将の進言により、6月29日に作戦中止を命じた。同日に外交交渉によってソ連軍の撤収も約束された。ところが、6月30日にソ連軍砲艇3隻が乾岔子島の満州側に進出したため、日本の第1師団が攻撃を開始し、1隻を撃沈したが、それ以上の戦闘とはならず、7月2日にソ連軍は撤収した。ソ連は強大な在蒙ソ連軍を背景にモンゴルへ内政干渉を大々的に開始、1937年から1939年にかけて「反革命的日本のスパイ」としてモンゴル政府指導者やモンゴル軍人に対して大粛清が実施された。ソ連によるモンゴル大粛清以降、親ソ派のチョイバルサン元帥が政府権力を掌握し、対日満政策を硬化させていった。1938年(昭和13年)7月、豆満江近くの張鼓峰で、日ソ両軍の大規模な衝突が発生した(張鼓峰事件)。7月中旬にソ連軍が張鼓峰に進軍、日本の朝鮮軍隷下第19師団も警備を強化した。日本の国境守備隊監視兵が射殺されたのをきっかけに7月29日から戦闘が始まった。(張鼓峰事件は満ソ国境でおこったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。)しかし、日本は不拡大方針で第19師団の一部のみで対処した。これに対してソ連軍は戦車や航空機多数を出撃させた。8月に入って日本軍も増援の砲兵部隊を出動させたが、モスクワでの日ソ交渉により8月11日に停戦。日ソ双方が停戦時点で張鼓峰を占領していたと主張している。動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷者は日本軍1500人、ソ連軍3500人であった。張鼓峰事件で陸軍省軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し関東軍は不信を抱き、断固とした対応を強調した「満ソ国境紛争処理要綱」を独自に策定した。辻政信参謀が起草し、1939年(昭和14年)4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱では「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する方針が示され、安易な戦闘拡大は避けるべきだが、劣兵力での国境維持には断固とした態度を示すことがかえって安定につながると判断された。この処理方針に基づいた関東軍の独走、強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも言われる。この要綱を東京の大本営は「正式な報告があったにもかかわらず正式の意思表示も確たる判断も示さなかった。」また、関東軍司令部ではハルハ川がソ連との確定された国境線とみなされるに至った。1939年には紛争件数は約200件に達した。一連の紛争のうち、外交的に解決されたものは少数であった。例えば1936年に起きた152件の紛争に関して、日本側からは122件の抗議が行われたが、ソ連側から回答があったのは59件にとどまり、遺体返還などのなんらかの解決に達したものは36件だった。哈爾哈廟事件をきっかけに、満州国とモンゴルは独自の外交交渉を開始していた(実質的には日ソ交渉)。1935年2月に満州国軍の興安北警備軍司令官ウルジン・ガルマーエフ(烏爾金)将軍がモンゴル側に会合を提案、1935年6月3日から1937年9月9日まで満州里で5回の満州里会議が開かれた。満州は全権代表の首都常駐相互受け入れ・タムスク以東からの撤兵を要求したが、モンゴル側は難色を示し、タウラン事件後に起きた凌陞の内通容疑での処刑などで難航した。紛争処理委員の現地相互駐在は妥結しかけたものの、ソ連の指示により1937年8月末から始まった粛清でモンゴル側関係者の大半が内通容疑で処刑され、打ち切りとなった。ソ連側には単純な国境紛争で無い政略的意図があったとも言われる。張鼓峰事件では、直前のゲンリフ・リュシコフ亡命事件があったため、ソ連側としては威信を示す必要があった。ノモンハン事件に関しては、日本に局地戦で一撃を加えて対ソ連積極策を抑える狙いを有していたとの見方がある。ソ連は、日本国内での報道やリヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らによる諜報活動などで日本側の不拡大方針を熟知していたため、全面戦争を恐れることなく大兵力の投入に踏み切れたと考えられるという。係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦することがあった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相は不明である。第23師団長の小松原道太郎中将は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えた。5月13日に飛行第24戦隊は出撃命令を受け、18日以降1個飛行中隊をカンジュル飛行場へ進出させ哨戒にあたらせた。5月20日に第一中隊鈴木中尉らがハルハ上空でソ連軍偵察機1機を撃墜し初戦果をあげた。日本機は自国主張の国境を越えてハルハ川西岸の陣地に攻撃を加えた。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決め、日本軍は飛行第11戦隊の第1、3中隊を5月24日に増援投入し、6月10日に一旦原駐地帰還命令がでるまで制空爆撃機支援を行った 。国境での衝突を受けて、ソ連軍は日本軍より機敏に行動を開始した。第57特別軍団長フェクレンコが、第11戦車旅団から機関銃狙撃兵大隊(狙撃兵中隊3とT-37戦車8)砲兵第2中隊(自走砲4)装甲車中隊(BA-6及びFAI装甲車21)に進出命令を出した。指揮官には狙撃兵大隊の大隊長であるブイコフ上級中尉が任命された。(指揮官名からブイコフ支隊とよく記される)さらに、5月19日にはブイコフ支隊はM-30 122mm榴弾砲や化学戦車(火炎放射器搭載の戦車)の増援を受け、ハルハ河に向かった。5月23日にはモンゴル軍の第6騎兵団も加わり、総兵力は2,300名(内モンゴル軍1,257名)T-37が13輌、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6 16両を含む装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲8門、KHT-26化学戦車5輌と戦力的に充実していた。指揮はウランバートルから来着した第57特別軍団参謀部作戦課長のイヴェンコフ大佐が執ることとなった。ソ連軍はさらに後詰としてウランバートルからタムスクに車載狙撃兵第149連隊と、砲兵一個大隊を移動させた。ハルハ河に達したブイコフ支隊は、工兵中隊がハルハ河に架橋し、ブイコフ支隊の主力の内、戦車と装甲車と狙撃兵2個中隊とモンゴル軍騎馬隊を渡河させ、距岸8kmの砂丘(日本軍呼称733高地)に陣地を構築、また122mm榴弾砲などの砲兵は西岸の高台に布陣させた。一方、第23師団長の小松原は、追い払ったはずのモンゴル軍がまた係争地に舞い戻ってきたのを知り、5月21日に、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1両を持つ)、輜重部隊340など総勢1,701名の日本軍と満州国軍騎兵464人の混成部隊を出撃させた。この部隊は、歩兵第64連隊長山県武光大佐がとり、山県支隊と呼ばれた。しかしこれまで、日本軍が兵力を出してはモンゴル軍が退去し、日本軍が去ればモンゴル軍が舞い戻るといった『ピストン方式』の兵力派出方式で際限がない戦いをしていると、第23師団参謀長の大内大佐から状況報告を受けた関東軍作戦参謀辻政信は、山県支隊出撃の方を聞くと「こんな方法では際限がない、何とか新しいやり方を」と考え、軍司令や他参謀の同意を取り付けると関東軍参謀長名で「ハルハ河右岸に外蒙騎兵の一部が進出滞留するようなことは、大局的に見て大なる問題ではない。暫く静観し、機を見て一挙に急襲したは如何」という電報を打った。この時点で関東軍は大本営の方針通り、日ソ間の紛争については不拡大の方針であったのでこのような自重の指示が行われたが、小松原はまったく意に介すこともなく5月22日の日記に「山県支隊は出動の直前なり。今さら其の出動を中止すること統率上出来難し。防衛司令官の遣り方異議ありとて軍が制肘すべきにあらず」と書くなど開き直った。それでも小松原は関東軍の指示に一旦は躊躇し、3日間部隊を待機させたが、5月25日に戦機到来と判断し部隊に出撃命令を下した。この出撃は、関東軍の指示を無視した形とはなるが、辻はこの小松原の行動に対して「師団長の善良な人柄は、関東軍のこのような電報に対してもなんら悪感情は抱かれなかったのである。」と逆に小松原を気遣うような表現で理解を示している。小松原がこうも強気であったのは5月20日に捕らえた捕虜の尋問などで、ソ連軍の兵力は兵員500名、トラック80台、戦車5両、対戦車砲12門と誤認していたからで、この程度の戦力であれば山県支隊にとって危険性はないと考えていたからであった。小松原は翌26日の午後に、山県支隊本部に出向き「28日払暁を期し、ハルハ河右岸に進出中の外蒙軍を攻撃し、右岸地区において補足撃滅せよ」という『作命46号』を下した。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ川渡河点3か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ川を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。しかし、兵力は日本軍1,701名に対しソ連・モンゴル軍2,300名と防御に回るソ連・モンゴル軍の方が多かった上に、砲も日本軍は射程の短い四一式山砲と九二式歩兵砲の5門しかないのに対し、ソ連・モンゴル軍は自走砲も含め76mm砲12門と122mm榴弾砲4門、戦車に至っては多数を投入したソ連軍に対し日本軍は皆無であったが、この戦力差を知らない山県大佐は「歴史の第1頁を飾るべき栄えある首途に際し必勝を期して已まず」という大げさな支隊長訓示を行い行動開始を下令した。先行する東捜索隊は、5月28日の早朝にほとんど抵抗を受けることなく突破に成功した。橋の1.7キロ手前に陣取り、応急陣地を構築していたが、東捜索隊の動きは既にソ連軍に察知されていて、3時40分にはブイコフ支隊のルビーノフ上級中尉が「砲と装甲車を伴った自動車化歩兵の縦隊が移動中」と報告している。その報告を受けたイヴェンコフはブイコフに装甲車6輌で東隊を攻撃に向かわせた。しかしブイコフの装甲車隊は、東捜索隊が構築中の応急陣地に突入してしまったため、東隊の激しい攻撃によりブイコフが搭乗していた指揮官車が擱座させられた。東捜索隊はブイコフの指揮官車を鹵獲しようと接近してきたため、やむなくブイコフは指揮官車を放棄して日本軍の追撃をかわし退避した。東捜索隊はブイコフが残していった書類を見て自分らがソ連軍の後方に達していたことを初めて認識した。ブイコフはどうにか戦闘指揮所に逃げ戻るとイヴェンコフに「敵はわが軍を包囲し、渡河施設を奪取した」と報告している。この時点では東捜索隊は渡河点までは達していなかったが、ブイコフは混乱により誤った報告をしたことなる。戦闘には勝利した東捜索隊であったが、これで存在がソ連軍に知られてしまったため不安を感じた隊長の東は6時10分に「敵の進路を遮断し、目下敵と対戦中にして、すでに戦車2(実際は装甲車)トラック1を捕獲す。速やかに支隊の進出を待つ」という打電をしている。しかしこの電報が山県大佐に届くことはなかった。山県支隊主力は28日の8時にソ連・モンゴル軍陣地中央を攻撃、攻撃を受けたモンゴル騎兵隊15連隊とブイコフ支隊のソ連狙撃兵第2中隊は退却した。日本軍はそのままソ連・モンゴル軍を包囲しようと2個中隊を前進させたが、ここでソ連・モンゴル軍は唯一予備部隊として残していたモンゴル第6騎兵師団学校隊を形勢逆転のために投入した。しかし、騎兵隊は進撃直後に日本軍の猛射で立ち往生させられたところに、ソ連軍の122mm榴弾砲と自走砲が日本軍と誤認し砲撃したため大混乱に陥り、さらに日本軍の追撃でバラバラに分散し潰走、師団長のシャリブが戦死した。この日の日本軍は、支隊主力、東捜索隊など6隊に分かれて前進したが、無線機の欠陥で互いに連絡が取りにくかった上に、目標物が乏しく地点評定ができなかったため、幅30㎞に近い広正面で各部隊がバラバラに戦うことになってしまった。その中で前進しすぎた東捜索隊が敵中で孤立することとなったうえに、支隊主力との戦闘で後退したソ連・モンゴル軍部隊と、ハルハ河西岸に集結しつつあった149自動車化狙撃兵連隊と砲兵1個大隊の増援部隊から挟撃されるという最悪な状況に陥りつつあった。一方、ソ連軍も全く同じ状況で、部隊や車両に無線機が十分行き渡っていなかったため、有線電話や連絡将校による通信に頼っていたが「交戦が始まった後指揮所と各部隊を結ぶ有線連絡は途絶し、統制は失われ、各部隊は放任され、分隊単位で現場の状況を想像しながら独自に戦った。」とソ連側が記録している通り、各部隊が個別判断でバラバラに戦闘しており、日ソ両軍とも上級司令部の指揮の及ばない中で独自の判断で戦うこととなった。日本軍の山県支隊主力が攻撃を開始した8時ごろから東捜索隊はソ連・モンゴル軍の猛攻を受けることとなった。ハルハ河西岸高台に配置されていたソ連軍の122mm榴弾砲と自走砲が直接照準の撃ちおろしで支援砲撃を加えてくる中で、東捜索隊は戦車や装甲車を伴った騎兵や狙撃兵の攻撃を何度も受けたが、死傷者続出ながらもその度撃退した。戦車8輌を伴ったソ連軍狙撃兵部隊の攻撃に対しては十三粍重機関銃を対戦車兵器として使用し、敵戦車2輌とトラック2台を撃破し撃退している。東捜索隊を完全に包囲したソ連・モンゴル軍は、接近することなく、榴弾砲と速射砲での砲撃を加えてきたが、撃ちこまれた砲弾数は3,000発にもなった。砲撃されている東捜索隊のもっとも強力な火器は十三粍重機関銃で、砲撃に対して対抗できる火器はなく、一方的に撃たれるのみであったため、砲撃を避けるため全兵力を背斜面に退避させた。隊長の東は支援要請のため、伝令を3度出したが、山県のいる指揮所ではなく、他の部隊に到達している。しかし、他の部隊も優勢な敵と相対しているか、高台の砲兵陣地から狙い撃たれているかで東捜索隊を支援する余力はなかった。17時にはようやく山県に連絡が通じた。実はこの時点で山県ら支隊主力は東捜索隊から3㎞におり、双眼鏡により山県は東捜索隊の苦境を見ていたが、他の隊同様に、過小評価していた敵の予想外の戦力に、増援を出すことはできず、武器・弾薬の支援しか行わなかった。しかし、この武器・弾薬も東捜索隊には届かなかった。28日の夜にタムスクからソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊の一部が自動車輸送で到着すると、残存の部隊の到着を待つこともなく行軍体勢のまま東捜索隊を攻撃した。しかし、隷下の部隊と全く統制が取れておらず、各隊バラバラに戦闘に突入したため、主要な火器が重機関銃2に擲弾筒しか持たなかった東捜索隊の夜襲攻撃により、放棄した戦車4輌とトラック数台を残して撃退された。この時点で東捜索隊は全兵員157名の内、中隊長2名を含む戦死19名、重傷40名、軽傷32名、合計の死傷者91名にも上り、戦闘力を喪失していたため、捜索隊に派遣されていた師団参謀の岡元少佐より「このままでは陣地の維持困難、後方へ後退」との意見具申があったが、山県からの正式な撤退命令は届いていなかったため隊長の東は「命令なき以上、一歩も後退せず」と突っぱねると全員を集めて「この方面で、日本軍が始めてソ連軍と戦うのだから、ここで退却しては物笑いの種になる。最後の一兵まで、この地を死守して、この次は靖国神社で会おう」悲壮な訓示をした。翌朝から東捜索隊には激しい砲撃が浴びせられた。温存していた捜索隊唯一の九二式重装甲車にも着弾し撃破された。その後、砲撃の支援を受けながら第149連隊の一個大隊がKht-26化学戦車5輌を伴って東捜索隊の陣地攻撃を行った。化学戦車の火炎放射にそれまで固く陣地を守っていた東捜索隊の兵士もひとたまりもなくなく陣地を放棄した。この事例により火炎放射が日本軍歩兵に対し有効であるということが立証され、この後も要所要所で投入されることとなった。14時に東は負傷兵に脱出を命じたが、もはやそのような状況ではなくなっていた。15時に鬼塚曹長を呼ぶと、山県への戦闘経過の報告と遺書を言付け脱出させ、18時、残存の20名の兵員を連れて突撃し戦死した。28日の夕刻には師団長の小松原は敵の殲滅に成功しなかったことを知り、山県に29日をもって後退するよう命令した。しかし、激戦続く中ですんなりとは退却できないと考えた山県は「敵に一撃を加えた後、撤退する」と時間稼ぎをおこなったが、それを真に受けた師団は機関銃・速射砲の計5個中隊を増援に送った。5月29日には、関東軍参謀の辻が支隊本部を訪れ、山県に「あなたの用兵のまずさによって東中佐を見殺しにした」と言い渡すと「今夜半、支隊を挙げて夜襲を決行し、東捜索隊の遺体収容しなさい。新京に帰ったら山県支隊は大夜襲敢行して敵を国境線外に撃退したと発表する。」と命じた。山県は辻の命令通り、30日の夜半に自ら600名の兵力と辻と第23師団の参謀を連れ、捜索隊陣地跡に夜襲をかけた。その時には、捜索隊を壊滅させたソ連軍が、軍団司令部の命令によりハルハ河西岸に撤退していたため、山県支隊は妨害されることなく東捜索隊の103名の遺体を収容した。ここでも辻は強権を振るい「3人で1人の遺体を担げ」と命令している。30日には、モンゴル第6騎兵師団部隊がハルハ河の東岸へと再度進出している。そこを日本軍航空部隊が攻撃し、モンゴル軍は軍馬に大きな損害を受けたが、午後6時にハルハ河東方7kmの高地頂上に到達した。そこで、日本軍の機関銃射撃により前進を阻止され、ハルハ河の西岸へ撤退した。このようにまだ戦闘は継続中であったが、辻ら関東軍による、東捜索隊の全滅を隠匿し「敵を包囲して之に一大打撃を与えたり」とする過大な報告を信じた大本営は30日に「ノモンハンに於ける貴軍の赫赫たる参加を慶祝す」との祝電を関東軍に送った。そして関東軍は植田謙吉司令官名で小松原に賞詞を送っている。ソ連軍のフェクレンコとイヴェンコフは、29日に日本軍の増援を恐れソ連・モンゴル軍に撤退命令を出し、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。小松原も31日に山県に撤収命令を出した。小松原は山県の指揮に大いに不満を抱き「前進せず、又捜索隊を応援せず。遂に見殺せしむるに至り」「任務を達成せんとするの気魄なし」と散々な評価を自分の日記に書き、山県が帰投するや呼びつけて作戦の細部について問い詰めているが、ソ連軍戦力の過少評価により、十分な砲兵等の支援兵力を出さなかった自分の失策についての反省はなかった。戦場を視察した辻は報告に「外蒙騎兵がこんなに戦車を持っていようとは誰も思ってはいなかった」、「戦場に遺棄された外蒙兵の死体には食糧も煙草もないが、手りゅう弾と小銃の弾丸は豊富に持たされていた」と気がついたことを記述し、この戦いの反省として「第23師団の左右の団結が薄弱であることと、対戦車戦闘の未熟さであろう」としていたが、そこにも十分な速射砲などの対戦車兵器を準備できなかった自分らの反省はなく、第2次ノモンハン事件以降も同じような光景が繰り広げられることとなった。第一次ノモンハン事件における損害は、日本軍、戦死159名(内東捜索隊105名)、戦傷119名、行方不明12名で合計290名、九四式37mm速射砲1門、トラック8台、乗用車2台、装甲車2輌に対し、ソ連軍の損害は戦死及び行方不明138名、負傷198名、モンゴル軍の損害は戦死33名の合計369名、戦車・装甲車13輌(内2輌はモンゴル軍のBA-6)、火砲3門、トラック15台であり、戦力が勝っていたソ連・モンゴル軍の方の損害が大きかった。6月1日には赤軍参謀総長B.シャーポシ二コフがクリメント・ヴォロシーロフ国防人民委員(国防相)にノモンハンの5月の戦闘について報告に出頭した際、ソ連軍の指揮官であるフェクレンコ第57特別軍団長について「ステップ砂漠地帯という特殊な条件下での戦闘活動の本質を理解していない」と辛辣な評価が下され更迭されている。この間、日本軍の戦闘機は終始空中戦で優勢を保ち、ソ連軍の航空機を数十機撃墜し、損失は軽微であった。また、日本の戦闘機と軽爆撃機はモンゴル領内の陣地と飛行場を攻撃した。なおモンゴル軍の航空機はわずかで、満州国軍は航空戦力を持たなかった。ノモンハンの紛争中の1939年5月27日、アムール川方面でも満州国軍とソ連軍の交戦があり、満軍の出動させた騎兵中隊1個と砲艇2隻が全滅した(東安鎮事件)。しかし、ノモンハン事件の拡大誘発を警戒した日本の関東軍が反撃を自重したため、それ以上の戦闘は発生しなかった。長年に渡って、ゲオルギー・ジューコフの『ジューコフ元帥回想録』の記述により、ジューコフのノモンハンへの到着は、第一次ノモンハン事件が終結した6月5日で、更迭されたフェクレンコに代わり軍司令に任命されたのが6月6日とされてきたが、グラスノスチによりロシア軍事公文書館の記録が明らかにされ、山県支隊との本格的な戦闘開始前の5月25日に、当時、ミンスクの白ロシア軍管区副司令官であったジューコフが、ヴォロシーロフ国防人民委員から、モンゴルに急行しソ連軍の問題点を洗い出すよう命令を受けていたことが明らかになっている。そこでフェクレンコらの作戦指揮を観察していたジューコフは、5月30日にスターリンとヴォロシーロフに向けて「5月28日、29日の極めて非組織的な攻撃の結果、わが軍は大きな損失を被った。戦術は稚拙で作戦指揮も構想力を欠いた」と辛らつな戦況報告を行っている。またジューコフは後日さらに、フェクレンコらの作戦指揮に下記の峻烈な評価を加えている。これらジューコフの報告を聞いていたヴォローシーロフは、ノモンハンの5月の戦闘状況を報告しに来たシャポニーコフとも協議し、スターリンの裁可を受けてフェクレンコを軍団長から更迭し、6月12日に更迭されたフェクレンコに代わりジューコフを軍団長に任命した。軍団長に就任したジューコフはさっそく、先の戦闘で部隊を指揮したイヴェンコフと軍団の参謀長クーシチェフと前線で戦ったブイコフを「日本のスパイ」と糾弾し「本来は軍法会議だが」と但し書き付きで、修理や厚生といった二線の部署へと更迭した。モスクワは第57軍団の戦力の増強を進めたが、特に力を入れたのは、5月の空戦で熟練の日本軍機に圧倒された航空隊の立て直しで、飛行6連隊を送ると共に、スペイン内戦でソ連空軍を指揮したスムシュケビッチ少将(空軍副司令官)と熟練飛行士48名を教官とし、徹底して再訓練にあたらせた。第57特別軍団の幕僚や前線指揮官まで、拙い戦闘をした咎で更迭したソ連軍に対し、日本軍は、敵の戦力を過少評価し敵の撃滅に失敗した小松原も、また、小松原や辻から「東捜索隊を見殺しにした」と散々非難された山県も留任させ、小松原には賞詞まで送っているなど、人事面では非情なソ連に対し関東軍の温情ぶりが際立つ結果となった。また、戦力の増強についても、ジューコフの希望を上回る増援を送り込んできたソ連に比べると、「ソ連に事件拡大の意図はない」と完全にソ連の意図を読み違え、兵力の増強を怠った日本陸軍中央の甘い情勢判断が対照的となった。そのような状況下でも小松原は再戦の機会を窺がっていたが、6月17日になってソ連軍航空部隊の再訓練の目途がつくとジューコフは航空隊に出撃を許可し、19日には陸上部隊にも偵察行動を命じた。17日から19日にソ連軍による満州軍への空襲と小規模な地上部隊による偵察攻撃が続いたため、19日に小松原は戦況について関東軍司令部に報告するとともに、之を撃滅すべしと意見具申している。ノモンハンへの再度の出撃は小松原による意見具申の前に関東軍司令部でも検討を始めており、後方担当の第3課参謀芦川春雄少佐によれば、小松原の報告前の6月17日時点で、服部卓四郎や辻ら関東軍参謀がノモンハン方面の敵の跳梁に鑑み、第23師団の他、第7師団も投入し敵の撃滅を図るとする計画を検討していた。19日に小松原の意見具申が届くと、関東軍司令部第一課で具体的な作戦計画について協議された。その席で関東軍作戦課長寺田雅雄大佐が慎重論を述べたところ、階級は下の辻が猛然と食い下がり「事ここに及んで、ノモンハンを放置すればソ連軍は我が軟弱態度に乗じ大規模攻勢をかけてくるだろう。撃破する自信もある」と説き、服部らも辻に同調したため、寺田の慎重論は却下されている。後に寺田は「職を賭しても主張すべきであった」と悔やみ、辻も「素直に寺田参謀の意見を採用しておけばノモンハン事件は立ち消えになったかも知れない」と反省しているが、後の祭りであった。辻はこの会議の結果を「対外蒙作戦計画要綱」としてまとめたが、その使用兵力として計画していた第7師団については、第23師団司令小松原のプライドを慮り「統帥の本質ではない、自分が小松原だったら腹を切るよ」との関東軍司令官植田の反対意見で除外された。作戦の見直しを余儀なくされた辻は、第7師団の中から4個大隊を引き抜き第23師団に編入するという策を講じることとしたが、この計画には初めからソ連軍との戦力差が考慮されておらず、第7師団を小松原の面子を尊重して除外したことは、第一次ノモンハン事件で小松原が手もとの戦力を出し惜しみし、東捜索隊を壊滅に追いやった戦訓が活かされていなかった。この辻による関東軍の作戦計画は21日に参謀本部に伝えられ、陸軍省も交えて大論争となっていた。陸軍省の軍事課長岩畔豪雄大佐や西浦進中佐らは「事態が拡大した際、その収拾のための確固たる成算も実力もないのに、たいして意味もない紛争に大兵力を投じ、貴重な犠牲を生ぜしめる如き用兵には同意しがたい」と強硬に反対していたが、結局は板垣征四郎陸軍大臣の「一個師団ぐらい、いちいち、やかましく言わないで、現地に任せたらいいではないか」の鶴の一声で関東軍の作戦計画は認められた。6月17日から連日、増強されたソ連軍航空機が自国主張の国境を越えてカンジュル廟を攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。ソ連軍の小規模部隊も満州国領内に侵入し偵察攻撃を繰り返していた。20日からは満州国内のデブデン・スメ地区に戦車・装甲車十数輌とソ連軍狙撃兵・モンゴル軍騎兵の約200名が来襲、ソ連軍は日本軍の宿営地と集落を発見し、戦車砲で攻撃してきた。兵舎が砲撃により炎上し、集落内はパニックとなったが、この野営地の日本軍は速射砲や機関砲などの対戦車火器を配備しており、戦車1輌と装甲車3輌を撃破、ソ連軍は45名の死傷者を出し撃退された。この戦闘が第二次ノモンハン事件の最初の戦闘となった。関東軍の計画では、ハルハ河を渡河した地上部隊をモンゴル領内深くに進撃させるとともに、航空部隊によりモンゴルのソ連軍前線基地タムスクの航空基地を爆撃することとなっていた。しかし中央の参謀本部は越境攻撃を原則禁じていため、関東軍は越境攻撃について中央に事前相談せず秘匿することとした。昭和天皇は関東軍に不信感を抱いており、陸軍大臣の板垣が関東軍への野戦重砲2個連隊の増派の裁可を得に参内した際に、板垣の楽観的な説明に対し「満州事変の際も陸軍は事変不拡大といいながら、彼の如き大事件となりたり」と陸軍と関東軍への不信感を露わにした上、武力ではなくむしろ話し合いによる国境画定をおこなったらどうかと示唆している。許可を得ない越境攻撃は、天皇の統帥大権を犯す陸軍刑法第三十七条に該当する犯罪で、死刑または無期にあたる重大な犯罪であったが、満州事変の折り、当時の朝鮮軍司令官林銑十郎が関東軍の求めに応じ、独断で軍を鴨緑江を渡らせ独断で越境したにも拘らず『越境将軍』と逆に持て囃され、首相にまで栄達した先例もあった。6月中旬航空部隊には出撃命令が下り、戦闘機部隊は飛行第11、24戦隊に飛行第1戦隊が新たに加わり20~26日の間に3個戦隊が、カンジュル廟、採塩所の両飛行場に展開した。関東軍のタムスク爆撃は、出撃直前に関東軍参謀の片倉衷中佐の内部告発により、参謀本部に知れる所となり、参謀本部は慌てて関東軍に「モンゴル領内の爆撃は適当ならず」と自発的中止を促す打電をした。それを受けた関東軍は騒然となったが、中央より連絡将校が到着する前に爆撃を強行することとし、計画通り、27日に戦闘機77機と重爆撃機24機、軽爆撃機6機でタムスクを爆撃した。この作戦計画の主導した辻はわざわざ戦果確認のために自ら爆撃機に同乗するほどの力の入れようであった。空襲は成功し、関東軍は華々しく撃墜98機、大破18機、中小破38機の合計149機を撃墜破する大戦果を挙げたと参謀本部に報告した。大戦果を報告してきた関東軍作戦課長の寺田に対し、陸士29期の同級生であった稲田正純参謀本部作戦課長は「馬鹿ッ、何が戦果だ」「余りと言えば無礼の一言」と怒鳴りつける異例の展開となったが、この独断専行が参謀本部と関東軍を決定的に対立させる導火線となった。侍従武官畑俊六大将が、ことの顛末を昭和天皇に報告すると、昭和天皇は「関東軍司令官を譴責するか、何らかの処分をすべきである」との意向を示し、その後に詳細を報告に参内した中島鉄蔵参謀次長に対しては「外蒙を無断で爆撃した責任は誰がとるのか」と下問したが、中島は「まだ作戦中ですので、終結した時点で、必要な処置を講じます」と返答し、結果的に関東軍の独断専行を容認することとなった。しかし、昭和天皇はよほど不満であったのか「将来もこのようなことは度々起こらざる様注意せよ」と閑院宮載仁親王参謀総長に念を押している。この頃になると関東軍を実質的に動かしているのは少佐に過ぎない辻であると参謀本部で認識されつつあった。作戦課長の稲田は陸軍省に出向き、参謀人事を所管する庶務課長や課長補佐に辻の更迭を申し出たが「あれは役にたつ男ですよ」と煮え切らなかったため、陸相の板垣に直談判したが、板垣はかつて辻を部下として重用したこともあり、稲田の直訴に対し笑みを浮かべながら「そういわないでかわいがってくれよ」と取り合わなかった。そのため、辻の独断専行はこの後も続く事となった。昭和天皇の懸念もあり、関東軍に一定の歯止めをかける必要に迫られた参謀本部は、昭和天皇の裁可を得た『大陸命320号』で関東軍の役割を規定し、『大陸指491号』で関東軍の作戦範囲を「地上戦闘行動は概ねブイル湖以東における満州国外蒙古境界地区に限定するに勉めるものとす」「敵根拠地に対する航空攻撃は行わざるものとす」と定めた。しかし、この大陸指に対する補足が、後日参謀本部から関東軍に示されたが、その中に「一時国境外に行動する件は、常続的権限としての御裁可は得られないが、万やむをない場合は、当方でも、それ相当の配慮をする所存である」とあり、タムスク爆撃で昭和天皇を激怒させた越境爆撃については明白に禁止していたが、陸上部隊の越境攻撃には含みを持たせており、結局辻ら関東軍参謀が計画していた陸上部隊による越境攻撃を抑止する効果はまったくなかった。辻の計画では突撃部隊でハルハ河を渡河し西岸に渡り、敵軍の後方に進出し、同時に主力部隊が敵を正面に釘づけにするためハルハ河東岸にいる敵軍を攻撃、そうして後方に進出した突撃部隊と主力部隊で敵を殲滅するという作戦であった。この作戦のために小松原に任された戦力は第23師団、第7師団より抽出した歩兵2個連隊、戦車2個連隊に砲兵・工兵・満州騎兵で、兵力は日本軍21,953名(輸送・補給等の後方部隊も含む)、満州軍2,000名、砲124門(速射砲32門)戦車73両、装甲車19輌であった。特に戦車第3連隊と第4連隊は日本軍初となる機械化部隊独立混成第1旅団が前身の日本軍の主力戦車部隊となる第1戦車団の中核部隊で、これほど多くの戦車がまとまって作戦に投入されるのは日本陸軍史上初めてであった。ハルハ河を渡河して敵軍の背後に回り込むのは第1戦車団を主力とする機械化混成部隊で第1戦車団長の安岡正臣中将が率いた。編成は戦車第3連隊と戦車第4連隊、歩兵第64連隊、自動車化部隊の歩兵第28連隊第2大隊、独立野砲第1連隊、砲兵第13連隊第1第2大隊、工兵第24連隊、配属高射砲3個中隊の合計6,000名(安岡支隊と呼称)、正面攻撃する小松原直率の部隊は歩兵第71連隊、第72連隊第1第2大隊、砲兵第13連隊第3大隊、工兵第23連隊、歩兵第26連隊、捜索隊、配属高射砲9個中隊の合計7,500名(小松原兵団もしくは指揮官小林恒一少将から小林兵団と呼称)、それで満州軍1,700名と通信隊、衛生隊等非戦闘要員を含めた総兵力は16,670名になった。関東軍参謀服部はこの作戦を「鶏を割くに牛刀を以ってせんことを欲したるもの」としソ連軍を『鶏』程度の戦力と考えていたが、『ジューコフ最終報告書』によれば、ソ連軍歩兵12,547名、戦車186両、装甲車266輌、火砲109門、航空機360機と兵員数で少し日本軍が上回っていたが、戦車・装甲車ではソ連軍が圧倒しており、後に歩兵も火砲も増援によりソ連軍が圧倒することとなった。当初の作戦では、ハルハ川に橋を架けて戦車を含む安岡支隊が西岸に渡り、敵の背後から包囲攻撃をかけることとされた。しかし、第23師団が持っていた架橋用資材は教育用として熊本から携行してきた80m分の乙式軽渡河材料と、漕渡用の折畳船20隻しかなかったため、戦車を渡すことができないことが判明した。水深が1m以下なら戦車がそのまま渡河することもできたが、水深は深かった上に河底の土壌の硬度などの情報もなかった。そこで様々な対策が考えられ、中には戦車数台を橋の支柱とする案や、ソ連軍の機材を奪うなどの奇策も考案されたが、どの対策も実現性に乏しかった。渡河資材に不安があることは師団長の小松原は十分に認識しており、渡河作戦を強硬に主張していた辻が渋る小松原を「師団長が独断でやれんようなら、関東軍司令官の名をもって軍命令を出す」と説き伏せたものであったが、結局、小松原の心配通りの結末となってしまった。6月30日に第23師団司令部が置かれていた将軍廟で小松原と辻らが協議した結果、小松原兵団がハルハ河を渡河し、西岸に渡って退路を遮断し、東岸に残った安岡支隊が北から攻撃をかけて南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅する作戦に、作戦開始直前になって変更せざるを得なくなった。6月30日に戦車第4連隊の九五式軽戦車中隊がソ連第11戦車旅団の対戦車砲と初めて交戦した。そこでソ連軍の53-K 45mm対戦車砲の砲撃により95式軽戦車1輌が撃破された。その対戦車砲と砲弾200発は日本軍に鹵獲されたが、その弾速の速さに日本軍戦車将校たちは「閃光を見るか見ないうちに我が方の戦車に穴が開いていた」と衝撃を受け、第4連隊の玉田美郎連隊長は「敵の兵器の性能は我が方より優れており、敵の資質は予想していたより遥かに高い」と悟らされた。7月2日、第1次ノモンハン事件で消極的な戦い方で非難を受けていた山県率いる歩兵第64連隊が、ハルハ川東岸のソ連軍に対し攻撃を開始したが、進撃を開始するや、ソ連軍の砲兵2個連隊の激しい砲撃に前進を停止させられた。特に西岸の砲兵陣地に設置されていたノモンハンでは初めて投入されたML-20 152mm榴弾砲の威力は絶大で、2時間に渡って砲撃を受け続けた第64連隊の兵士らは「筆舌に尽くしがたい敵の弾幕に恐れを抱いた」、「ソ連軍の砲撃は中国で経験してことのない効果的なものであった」との感想を抱き、日本軍の第13砲兵連隊も阻止射撃が強力過ぎて、効果的な反撃ができなかった。吉丸清武大佐率いる戦車第3連隊は、歩兵支援のために夕刻6時15分より前進開始、ソ連軍砲兵陣地の撃滅を目指したが、降りはじめた雨が目隠しとなり、8時ごろに最右翼を進む第1中隊が砲兵陣地に突入成功し、野砲2門撃破、2門を捕獲した。しかしピアノ線鉄条網に引っかかって行動不能となった装甲車2輌が対戦車砲の直撃を受け撃破された。第4小隊長の古賀康男少尉は撃破された九七式軽装甲車の車載機銃を下ろして、包囲したソ連兵相手に戦い、激闘1時間30分、最後は拳銃まで撃ち尽くして戦死している。連隊長の吉丸も新型の九七式中戦車に自ら搭乗し攻撃の先頭に立って装甲車や野砲を撃破したが、機械化部隊とは名ばかりで、十分な自動車が無い歩兵第64連隊や輓馬が引く砲兵隊は戦車に付いていくことができず、折角蹂躙したソ連軍陣地を戦車単独では確保することはできないため、後退を余儀なくされた。安岡は日中はソ連軍の砲撃が激しいため、夜襲を行うこととし、戦車第4連隊は7月2日から3日の夜間に、戦史上初のまとまった戦車部隊での夜襲となったバルシャガル高地攻撃を行った。暗闇と雷雨にまぎれて突入した第4連隊の八九式中戦車9両、九五式軽戦車28両、94式軽装甲車3両の内、日本軍の損失は95式軽戦車1両に対し(行動不能となったが回収できず放棄、後にソ連軍が鹵獲)ソ連軍戦車2両・装甲車10両・トラックを20台・砲多数を撃破し、ソ連軍防御陣地の奥深くまで突破するなど活躍を見せている。ハルハ河周辺を巡る7月の戦いで、ソ連・モンゴル軍は合計で452両の戦車・装甲車を投入したのに対し、日本軍が投入した戦車・装甲車は92両と五分の一の数であったが、この時点でハルハ河東岸に配備されていたソ連・モンゴル軍は3,200名の兵員に、122mm榴弾砲8門を含む重砲・野砲28門、対戦車砲7門、装甲車62輌、それに第11戦車旅団から分遣された戦車30輌と、攻める安岡支隊の兵力のほうがやや勝っていた。日本軍による戦果判定ではその内300名の兵士を死傷させ、20輌の戦車と多数の砲を破壊しており、ハルハ河東岸のソ連軍陣地は相当に弱体化していたが、東岸のソ連軍陣地を援護できる位置には152mm榴弾砲12門、122mm榴弾砲8門、76mm野砲・連隊砲14門が配置されおり、また予備戦力であった第11戦車旅団と自動車化狙撃兵連隊と装甲車旅団がタムスク近辺から戦場に急行しており、早急にソ連軍東岸陣地を攻略する必要があった。前日、ソ連軍の野砲陣地を襲撃し大戦果を挙げていた戦車第3連隊は、翌3日の日中にソ連軍陣地に正面攻撃をかけた。途中で遭遇した装甲車隊を殲滅し、反撃してきたBT-5や装甲車計20輌との戦車戦で、2両の八九式中戦車を失いながら3輌のBT-5を撃破し撃退したが、やがて防衛線に近づくと、巧みに擬装された対戦車砲の激しい砲撃を浴び、損害が増加していった。また陣前に張られたピアノ線鉄条網に履帯を絡めとられた戦車は行動不能となったが、そこを戦車と対戦車砲に狙い撃たれ、連隊長の吉丸大佐の搭乗する九七式中戦車が撃破され、吉丸は戦死した。ソ連軍戦車も加わった集中砲火の中で、日本軍戦車は次々と命中弾を浴びたが、日本軍戦車の多くがディーゼルエンジンであり、命中弾があっても容易に炎上せず、装甲は薄いながらも予想外の打たれ強さを発揮した。それでも日本軍は19輌の戦車を撃破され、撤退を余儀なくされた。防衛していたソ連の連隊指揮官は初の大規模な日本軍戦車攻撃を撃退し、司令部に喜びのあまり「日本戦車を食い止めました、奴らは次々に燃え上がっています。ウラー(万歳)」と興奮した報告を行っている。この戦闘は後に『ピアノ線の悪夢』と呼ばれることとなった。3日に撃破された日本軍戦車は回収され、後日に多くが戦線復帰したが、4日の時点では戦車第3連隊は戦闘力を喪失しており、第4連隊のみとなった日本軍戦車部隊は攻勢を取れず、逆に増援が到着したソ連軍戦車・装甲車部隊の執拗な反撃を受けることとなった。4日午前には戦車・装甲車19輌、対戦車砲数門と歩兵500名のソ連軍が攻撃してきたが、戦車第4連隊はこれまでの戦訓を活かし、装甲の弱さを補うため、砲塔のみを丘の稜線上に出して砲撃を加えた。乗員の練度は日本軍が圧倒

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。