おすぎ(本名:杉浦 孝昭、すぎうら たかあき、1945年1月18日 - )は、日本のタレント、映画評論家である。プラムクリークス所属。ファッション評論家のピーコは一卵性双生児の兄。横浜市立桜丘高等学校、阿佐ヶ谷美術専門学校卒業。「おすぎ」の芸名は本名の杉浦から。あまり裕福な家庭ではなく、自ら貧乏だったと話しており、小さい頃は家が狭かったため、ピーコと「ネズミみたいにくっついて」寝ていたという。オネエキャラを全面に出して1975年のテレビ・ラジオデビュー以来、芸能界で活動している(実際の芸能界入りはデビュー前の銀座の歌舞伎座系列のテレビ番組制作プロダクション『歌舞伎座テレビ室』の制作進行補が最初)。本業の映画評論では本名の杉浦孝昭の名義で活動し、映画専門誌の「キネマ旬報」などに寄稿していた。美術専門学校卒の技能を生かし映画雑誌のレイアウトなどの仕事に編集者として携わる一方で、テレビでのタレント活動が、「おすぎとピーコ」として話題を呼んだ。1978年、大島渚監督作品『愛の亡霊』には俳優として出演している。人の好き嫌いがはっきりしている為、嫌いな芸能人が多数存在しており、普段からラジオ番組等で多数の実名を上げてきた。また石原慎太郎とも、彼が「君らは歌手か?」と聞いてきて、「私はオカマです。」と答えた所、「俺はナマコとオカマは大嫌いだ」と暴言を吐かれたことにおすぎが激怒し、猛烈な口論を繰り広げる遺恨があった(この件は佐高信が当時連載を持っていた「噂の眞相」で石原批判のエピソードとして掲載している)。ただおすぎが口にする「どうせ私たちはオカマだから」という物言いに対し美輪明宏は、「自分は同性愛に対する偏見に対して闘ってきたのに、あの二人(おすぎとピーコの事)はテレビで、偏見に満ちた蔑称である“オカマ”という言葉を自分たちから連呼して、あえて笑われ者になる事で、同性愛者への偏見を助長している。せっかく同性愛が市民権を得てきたのに、歴史が逆戻りすることになる。その根性が実に卑しい。消えてしまえばいい。この、馬鹿者どもが!」と厳しく批判、「昔はコンサートや舞台公演などに招待していたが、今は絶縁している。」と語り、ある時期から会っていない事を公表している。 36歳の時、両親を亡くし、1989年のピーコの眼球摘出手術により、ピーコが仕事が出来ない分自分が穴を埋めてやらねばと全国を飛び回っていたが、当時「おすぎとピーコ」の旬は過ぎていた為、病を機にピーコのレギュラー出演も打ち切られる番組が増え、中々仕事は無かった。その時、福岡のローカル局であるKBCテレビから「月に一回でもいいから『天神マンボウ(後のうるとらマンボウ)』に出演して頂けませんか?」と打診を受ける。その後『うるとらマンボウ』『おすぎとコージのあぶない関係』にレギュラー出演するようになり、それ以来KBCには恩義があるのか、再び売れっ子になった今でも毎週日〜月曜日(スケジュールや気象状況を考慮して土曜から入る場合も有り)は福岡に通っている。その他、福岡に通う以前から25年以上つながりのある札幌のSTVにも、現在は隔週ながら木〜金曜日に通っている。一時期は映画評論家としての仕事をメインとし(切っ掛けは淡谷のり子の激怒)、相変わらず全国を飛び回る日々を送っていた。だが、福岡関連で福岡放送制作の全国ネット番組『所的蛇足講座』に出演したことで全国ネットに久々に出演。同時期をピーコはファッション評論家の仕事メインで活動していたが、『SMAP×SMAP』での中居正広の物真似であるヒーコ(関根勤がおすき)の影響から再ブレイクし、『おすぎとピーコ』のパッケージとして再びお茶の間にお馴染みとなった。双方単独の仕事も多くなっている。前述の通り福岡での仕事がある為、福岡ソフトバンクホークスとアビスパ福岡のファンであり、特に川崎宗則を「ソウくん」、新垣渚を「なぎさ」と呼んで可愛がっている。その熱意は、新垣が勝利を挙げた日や川崎が活躍した日には誰よりも早く一番に祝福の電話を入れるほどで、2005年、ホークスがプレーオフで敗れ日本シリーズ出場を逃した際には、『アサデス。』の放送中に号泣したほどである。また、ピーコも近年全国ネットの番組で「おすぎはホークス大好き人間なのよ」と言う事が多い(ピーコも何度か『アサデス。』にゲスト出演している)。2006年8月28日放送の『みのもんたの“さしのみ”』内にて、みのもんたからのプレゼントで、川崎と新垣からのメッセージに感激の涙を流していた。2010年10月、福岡県へ転居。福岡でのレギュラー番組をこなしながら、東京での仕事は新幹線で移動という形をとるようになる。とはいっても、おすぎがネット上で書いている連載(該当記事)によると、本宅はあくまでも実家に近い横浜で、福岡の住家は別宅扱いであるが、1週間の生活の中心を福岡の別宅に置くことにしたという。首都圏からの転居を考え、長らく仕事をしている札幌と博多、どちらに転居しようかと考え、温暖な福岡を選んだ。事実上の福岡転居直後、県内の嘉麻市(かまし)が開いたイベント「嘉麻ふれあいまつり」で、嘉麻市オリジナル釜飯を選ぶ審査員として参加し、話題をさらった。「嘉麻」は古くからある地名で「嘉穂」の「嘉」は「嘉麻」から取られたものだが、当初地元では「おかま」を連想させるとして反対の声もあった。そうした経緯もあってか、おすぎはKBCラジオで「嘉麻市は何であたしを呼ばないのよ」と発言したとされる。翌年(2011年11月5日)の「嘉麻ふれあいまつり」において嘉麻市の観光大使に任命された。木曜日レギュラー(2006年春より)の『森田一義アワー 笑っていいとも!』では初登場(2002年春に火曜日隔週レギュラーとして)以来長らく、オープニングでのステージの立ち位置がレギュラー陣の中で最も下手(しもて)で、出演歴が長くなって後輩のレギュラー出演者が増えても、一向に中央に寄ろうとしなかった。しかし2006年秋からは自身より古株の出演曜日レギュラー(木曜日)が笑福亭鶴瓶しかいなくなったこともあって、ステージ中央の鶴瓶の隣に立つようになった。2008年10月1日から水曜日レギュラーへの異動となり、同じく水曜日に異動したピーコと兄弟共演する形になった。2011年3月30日二人そろって卒業。料理の腕前も評判であり、『アサデス。』などでその腕前を披露している。特に、分量などのメモをとらなくても手順を覚えれば、簡単で美味しく作れる料理を披露することも多く、料理本も執筆している。キネマ旬報(1981-1993)に長く寄稿した後、広告批評等の雑誌に移る。キネマ旬報に寄稿しなくなった理由は不明だが、キネマ旬報のGW特集(1993年5月)以後、1996年6月までの3年間、おすぎは映画評論活動をしていなかった。映画を批評するのではなく、「好き・嫌い」を基準におしゃべりするスタイルは、様々な批判を招来している。映画評論家の田山力哉に映画評論家としての姿勢を批判され、対立していた時にはクシシュトフ・キェシロフスキ監督の三部作『トリコロール/白の愛』を「田山力哉が誉めているから、この映画は嫌い!」と発言した事もある。その件に関して田山が当時、「キネマ旬報」で連載していたコラムでおすぎの事を「どうしようもないアホ」「クシシュトフ・キェシロフスキ監督に失礼だとは思わないのか!」と文面で罵倒した。映画のCMにナレーションで出演することがあり、この際の出演料は500万円前後であると自ら明かしている。このことに関してジャーナリストの大谷昭宏は、「たとえ自分が好きな映画であっても映画評論家と名乗る以上、映画のCMには出演すべきではない」と批判的な意見を寄せている。淀川長治との共著が多数ある。長年「淀川を殺してでも淀川になるっ!」と言っていたほどだったが、実際は淀川が病気になった時には弁当を作ってお見舞いに行くほどまでに親交が深かった。試写会で隣同士になった時には淀川がおすぎの口の中に持参のチョコレートを入れてあげていたとのこと(ピーコ・阿川佐和子の項目にある参考文献や著書に明記されている)。杉浦孝昭名義(1981-1998)及びおすぎ名義(1998- )のもの一覧ここまで本名の杉浦孝昭名義で出版(「いまの日本の大問題」を除く)、以降はおすぎ名義で出版したもの。おすぎとピーコ名義でLPレコード『ザ・パーティー』(1979年/CBSソニー)を発表。金子マリ & バックスバニーの演奏をバックに二人がひたすらお喋りするショー形式で構成されている。司会を久米宏が務め、大島渚、石井好子、西田敏行、近田春夫、星セント・ルイス、大屋政子、小森和子、稲川淳二、野沢那智、白石冬美、藤竜也、吉行和子、松島トモ子等、当時としても破格の豪華メンバーがゲスト出演した。ジャケットイラストは和田誠が担当。未だCD化はされていない。
出典:wikipedia
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