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萬屋錦之介

萬屋 錦之介(よろずや きんのすけ、1932年(昭和7年)11月20日 - 1997年(平成9年)3月10日)は、中村 錦之助(なかむら きんのすけ)として歌舞伎役者、屋号は萬屋、定紋は桐蝶。また映画・テレビの時代劇俳優。映画・舞台制作会社中村プロダクション社長。愛称は萬錦(よろきん)。東映俳優労働組合委員長。本名は小川 錦一(おがわ きんいち)。歌舞伎俳優から映画・テレビの時代劇俳優に転じて成功。若い頃の芸名は歌舞伎名跡の中村錦之助。1971年に小川家一門が播磨屋を抜けるかたちで「萬屋」の屋号を使いはじめてからは萬屋錦之介に改めた。父は三代目中村時蔵、俳優の中村嘉葎雄は弟、五代目中村時蔵、二代目中村錦之助、二代目中村獅童はそれぞれ甥にあたる。妻はいずれも女優の有馬稲子(初婚)、淡路恵子(再婚)、甲にしき(再々婚)。長男で俳優の島英津夫と、芸能人ではない次男は淡路の連れ子。実子は淡路との間に三男の小川晃廣(元俳優、1990年にバイク事故死)と四男の萬屋吉之亮(元俳優、2004年に窃盗罪・家宅侵入罪で実刑判決、2010年に自殺)。初名は中村 錦之助(なかむら きんのすけ)。吉右衛門劇団立女形を父に持つ歌舞伎役者の御曹司で、1936年11月歌舞伎座で初舞台。長兄・種太郎(のち二代中村歌昇)、次兄・梅枝(のち中村時蔵)、三兄・中村獅童(初代)と同時で、五歳であった。女形・立役(男役)ともに務めて歌舞伎界にて役者修業を積んでいた。特に女形として評価が高かったが、四男であり、歌舞伎界で主役級俳優を目指すのは困難な状況だった。そこへ当時美空ひばりを抱え、ひばりの相手役として若手男優を探していた新芸術プロが着目、錦之助を映画界にスカウトし、錦之助は転身を考え始める。しかしその状況を知った歌舞伎役者たちからは「映画転出は許さない」と抗議が殺到、当時の梨園では“役者たちに歌舞伎・映画両方での活動を許せば、映画で人気を得た若造たちに梨園の秩序をかき乱される”という危機感ともとれる見方が大勢であり、父時蔵は「中途半端はいけない。映画界に行くなら歌舞伎を辞めて行きなさい。もし映画で失敗しても歌舞伎に戻ることは許さない」と錦之助に決断を迫ったといわれる。結局錦之助は歌舞伎を断念する道を選び、1953年11月15日歌舞伎座子供かぶき教室『菊畑』の虎蔵実ハ牛若丸を歌舞伎卒業公演として、1954年2月映画界に転向する。次々兄の初代中村獅童は錦之助と弟の中村賀津雄が東映入りすると、自らも梨園を去って東映のプロデューサーとなり弟たちを背後から支えることに徹した。以上のように波紋を呼んだ錦之助の映画転身であったが、転身を勧めてきたのが、この当時にすでにスターだった美空ひばりだったことも事態に負の要素となったといわれる(その証左に、錦之助は映画で名を成してから父時蔵を映画界に呼び寄せ、数本の映画に出演させたが、その際に父は特に歌舞伎をやめる必要はなかったことがあげられる)。映画俳優の道を選んだ錦之助は、美空ひばりとの共演作(新芸術プロ作品『ひよどり草紙』)で映画デビューの後、新東宝を経て東映に移籍。同社製作の映画『笛吹童子』に出演し、これの大ヒットにより一躍スターの座を手に入れた。以後、大川橋蔵や東千代之介らと共に東映時代劇映画の看板スターとなり、日本映画界の全盛期を支えた大スターの一員となった。『一心太助』シリーズと『宮本武蔵』シリーズは当たり役となり、特に武蔵役はライフワークとなった。その明るく気さくで豪快な性格から俳優仲間や裏方のスタッフなど、多くの人たちから「錦兄ィ」(きんにい)「錦ちゃん」と慕われ、親しまれた。レコード歌手としてもデビューし、「やくざ若衆」「いろは小唄」などの曲をリリースしている。昭和30年代後半、テレビに人気を奪われ、映画産業が徐々に斜陽化の様相を呈するようになった頃から、時代を読むのに長けていた錦之助はテレビドラマへの進出を図り、1966年には東映内部の労働争議に巻き込まれた(東映俳優労働組合の委員長に就任したが、収められなかった)こともあって東映を退社。1968年に「中村プロダクション」を設立し、本格的にテレビ時代劇の世界に進出し、高い評価を得る。この頃の出演ドラマとして、『子連れ狼』や『破れ傘刀舟悪人狩り』、『破れ奉行』、『長崎犯科帳』、『破れ新九郎』等がある。1956年の小川家による地方巡業『お祭』『仮名手本忠臣蔵 八段目道行旅路の嫁入』で舞台にも復帰。毎年6月に東京・歌舞伎座で定期興行を打っていた。なお歌舞伎座での興行でありながら、錦之助の演目はほとんどが歌舞伎ではない新作時代劇であった。そして、歌舞伎であっても全てが明治以降に作られたいわゆる「新歌舞伎」であった。本人も古典・伝統歌舞伎をやるつもりはなく、「子別れ(歌舞伎演目の一つである"重の井子別れ"のこと)なんてできねェよ」と言っていた。映画界入り後に舞台をつとめた歌舞伎の演目は次のとおり。復帰狂言『お祭』は、大向うの「待ってました!」掛け声の後に役者が「待っていたとはありがてえ」という、復帰にからめたお馴染みのもの。『道行旅路の嫁入』は本人は「ごちそう」(特別出演)として一瞬登場するだけである。最晩年の1994年に演じた『極付幡随長兵衛』の長兵衛役は二代目吉右衛門のを忠実に演じたが、水野役の十五代目仁左衛門(当時は片岡孝夫)とは子役時代からの友人である関係から、錦之介は「孝夫ちゃんと一緒にできる。」と久々の共演を楽しんでいた。なお、歌手として「錦ちゃん祭り」というライブ・イベントを各地で開催している。1971年10月、歌舞伎座の三代目中村時蔵十三回忌追善興行で「小川家」で一門をなすことを宣言し、屋号を萬屋に、定紋を桐蝶に改めた。翌1972年に自身の芸名も中村錦之助から「萬屋錦之介」と改めた。この際、名を占い(姓名判断)により「錦之助」を「錦之介」と変えている。この年前後から、舞台公演とテレビ時代劇が主な活動となった。1982年、牧野省三賞受賞。1982年、中村プロダクションが倒産し、莫大な借金を抱え、さらに、歌舞伎公演の最中に倒れ、入院し、重症筋無力症と診断され、さらに同年8月には胸腺腫摘出手術をし、同年11月退院。翌1983年に重症筋無力症を克服した。1990年、三男の晃廣が事故死。右目角膜剥離を発病。1996年、長年の芸能活動を文化庁から表彰される。同年咽頭癌を発症し、NHK大河ドラマ『毛利元就』の尼子経久役を降板した。1997年3月10日午後2時41分、入院先の千葉県柏市の国立がんセンター東病院で肺炎のため死去。。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」も同じく第9位になった。錦之介は、生前の彼を知る人の話を総合すると、相当な凝り性だったようである。『子連れ狼』で拝一刀を演じたときには、胴太貫の使い手である一刀に影響されてか、同田貫一門の刀コレクションを始め、多い時にはその数が数百本に達したという。また、占いにも凝っていたらしく、『ウルトラセブン』のモロボシ・ダン役で知られる森次浩司が森次晃嗣に改名したのも、占い好きの彼の助言によるという。また、自身も方位学に凝り、ひどい時には、方角が悪いといって、方違えのために家に帰らず、ホテルに泊まることもしばしばであったという。その結果、宝塚歌劇団出身で退団後女優活動をしていた甲にしきと不倫関係となり、当時の妻淡路恵子と離婚。甲と再々婚することとなった。歌舞伎界と別れたが、その後も関わりを持つこととなる。甥の二代目中村獅童が襲名披露をする際は、自ら後見人を買って出て口上を述べ、歌舞伎界で後ろ盾のない獅童の力になろうとした。また、有馬稲子の話によると、梨園の妻であった母親の存在が大きく、錦之介だけでなく、姑である母親の顔色もうかがわねばならなかったという。また、屋号を萬屋にしたのは、母親の意向が強かったためとも言われている。世界的スターである三船敏郎が取締役の三船プロダクションが製作する映画の常連であり、三船との共演も多かった。また、溺愛する息子達が子供だったころ『仮面ライダー』の大ファンであり、「父ちゃんは偉い役者だって言うけど、仮面ライダーに出てないじゃないか!」と言われ、『仮面ライダー』出演を本気で東映にオファーし、東映のスタッフ達を絶句させた。当時はこういった大御所の俳優が特撮番組に出演することはあまり前例がなかったため、出演は叶わなかったが、息子達のために、地獄大使を演じていた友人の俳優・潮健児に頼んで、その衣装で潮に家に来てもらったことがあるという。元プロ野球選手の王貞治(現・福岡ソフトバンクホークス会長)とは自宅が近所ということから、家族ぐるみの付き合いをしていた。一方ではプロ野球阪神タイガースのファンでもあり、阪神の選手とも家族ぐるみの付き合いをしていた。また、日本中央競馬会にも馬主登録をしており、中山金杯に優勝したヨロズハピネスなどを所有していたことでも知られる。中村玉緒が後に語っていたところによると、錦之介が亡くなったことを知った勝新太郎が「俺の兄弟の一人がいなくなってしまった」と語り、癌で闘病中だった自らの体調の悪化もあって錦之介の葬儀への参列を果たせずに残念がっていたという(錦之介が死去してわずか3か月後に勝自身も他界している)。萬屋は1971年に新しく制定した小川家の屋号である。もともとは、小川かめ(嘉女)の生家「小川吉右衛門」家(屋号「萬屋」)にちなんだものである。小川吉右衛門家は、「萬屋」という屋号で代々市村座の芝居茶屋をしていた。つまり歌舞伎の関係者であった。小川吉右衛門の娘であるかめは、三代目中村歌六の妻であり、初代中村吉右衛門(波野家を継ぐ)、三代目時蔵(小川家を継ぐ)の母であり、錦之介ら小川家5兄弟の祖母である。次男三代目時蔵のみあえて母の実家の姓を名乗った。三代目時蔵はそればかりでなく、小川家ごと「播磨屋」を脱して単独で屋号「萬屋」を名乗りたい意向を持っていたが、自身は果たせなかった。錦之介ら遺児たちが1971年に「萬屋」を名乗ったのは、両家がもはや一門をなさないという主張であり、吉右衛門家への対抗意識による。「萬屋」はそもそも中村吉右衛門家・小川家共通のルーツである。このことは中村吉右衛門家も強く意識していた。二代目中村吉右衛門は初名を中村萬之助と名乗った。また吉右衛門の弟子筋にも「萬(万)」の字をつけさせた(中村万之丞など)。しかし、小川家が「萬屋」となった後は、中村吉右衛門家は「萬」の字を使わないようになったのである(例:中村万之丞は中村吉之丞と改めた)。しかし2010年9月、前年に二代目中村又五郎が他界したため、本家ともいえる播磨屋が二代目吉右衛門とその門弟だけになるという状況となり、播磨屋の衰退を危惧した五代目中村歌六と三代目中村又五郎の兄弟一門は、ふたたび屋号を播磨屋に戻している。錦之助は生前、母・小川ひなから、父や早世した兄の名跡である「中村時蔵」を襲名してその五代目となるように再三懇願されたが、本人は拒否を貫いた。錦之助の名は本名の「錦一」に由来するもので、過去での歌舞伎に由来を持たない、まったく本人独自のものである。もちろん初代である。この名を歌舞伎・映画俳優時代を通じて名乗り続け、1972年に萬屋錦之介と改名した。彼の息子は歌舞伎界には入らず、映画界に入ったものの大成せず、三男は交通事故死、四男が不祥事の末に自殺という結末だった。そうとなれば、「中村錦之助」を名跡として復活させるには他人が名乗るしかない。しかし、この名は歌舞伎・松竹から離れ映画界に転じてから、しかも映画・舞台の興行会社として松竹とは競合関係にある東映で大成した名である。それゆえに、歌舞伎を仕切る松竹がタッチしたがらない名前、いわば永久欠番的な存在である、と長らく言われ続けていた。歌舞伎における軽い位置づけと裏腹に、映画界ではこの名の存在感があまりに重過ぎるため、このこともまた名跡復活にあたって壁になるかもしれないという懸念も長らく囁かれていた。結局「中村錦之助」の名は、死後10年経った2007年4月2日、東京歌舞伎座の大歌舞伎興行で、兄・四代目中村時蔵の次男で、自身の甥である中村信二郎が、『鬼一法眼三略巻・菊畑』の虎蔵実は牛若丸と『双蝶々曲輪日記・角力場(すもうば)』の長吉、与五郎で二代目錦之助を襲名した。「菊畑」の虎蔵実は牛若丸は初代が歌舞伎役者時代、最後に務めたゆかりある役どころである。二代目錦之助はこの「錦之助」の名跡を「歌舞伎では大したことのない名前」と語る。「中村錦之助」という名は前述の通り映画界では威厳ある名前であるが、歌舞伎界においては全く軽いものである。しかし二代目は「(映画界において大成した)中村錦之助という名を歌舞伎に戻すのが私の役割」と語る。まさに前例がない試みであり、二代目にとってみても生涯挑むべき目標とも言える。萬屋は新興の一門であるにもかかわらず、男子に恵まれており、歌舞伎俳優となった者も多かったことから、「錦之助」以外のゆかりある名跡や名前は現在も全て使われている。

出典:wikipedia

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