LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

春日一幸

春日 一幸(かすが いっこう、1910年(明治43年)3月25日 - 1989年(平成元年)5月2日)は、日本の政治家、実業家。勲章は正三位勲一等旭日大綬章。衆議院議員(14期)、民社党委員長(第3代)を歴任した。岐阜県海津郡東江村(現海津市)出身。生家は農家だったが、母親に「男、望むなら王まで望め」と見込まれ、名古屋逓信講習所に入学。1928年卒業。名古屋中央電話局(現・NTT西日本名古屋支店)職員となる。後年反共主義の立場を取ったが、この時期はプロレタリア文学を読みあさり、ダダイスムに傾倒した。無断欠勤して上京し、杉並の林芙美子宅に押しかけ、10日間粘ってついに自作の詩を生田春月に見てもらうよう約束を取り付けたという。生田に作品を評価され、春日は電話局職員を辞し詩人を志すも挫折。自殺を図ったが一命を取り留めた。1934年事業家に転向、貿易商や楽器製造会社(春日楽器製造)を手がけ、成功を収めた。1947年に日本社会党(左派)から出馬し、愛知県議に初当選。2期務める。1949年、進駐軍にデモ規制の公安条例が提案されると、「言論・集会・結社の自由を抑圧するものである」と批判。7月1日の県議会本会議では、反対の立場から時間切れを狙った議事妨害を敢行、演説は3時間に及んだ。時間切れによる廃案に成功すると、軍政部の中尉が駆け寄った。中尉は目の前で条例が阻止されたにもかかわらず、「素晴らしい! 民主政治はかくあるべきだ。敬意を表したい」と春日を絶賛した。1952年10月の第25回衆議院議員総選挙に右派社会党公認で旧愛知1区から出馬し、初当選。1955年10月、左右社会党が再び合流し日本社会党が結党。春日は党内右派の河上派に所属した。1960年1月の民主社会党結成に参加し、党国会対策委員長に就任。1965年の日韓国会で国対委員長として自民党の田中角栄幹事長とのパイプを築き親自民を鮮明にした。また、反共で鳴らし、日本共産党を激しく批判した。若い時とは異なり、実利を重視するようになり、自民党国対との折衝の後、自民党側の主張を「理屈は後から貨車で付いてくる」と評したことは有名。対外的には、反共のため韓国とパイプを持つほか、「日本・イスラエル議員連盟」の初代会長となった。1967年6月、民社党書記長に就任。1969年2月には副委員長(選対委員長兼務)に昇格。1971年8月、西村委員長の急死に伴い党委員長選挙が行われ、曽祢益元書記長を破り、春日が民社党委員長に就任した。佐々木良作書記長・竹本孫一政審会長を留任させ、国対委員長を池田禎治から塚本三郎副書記長に指名、18年に及ぶ党内支配が確立した。1972年の衆院選で20議席割れの大敗を喫し選挙戦を終える。他方では1969~70年の公明党・創価学会の政教分離問題(言論出版妨害事件)における池田大作の証人喚問の要求や、共産党宮本スパイ事件における宮本顕治の証人喚問の要求を行う。春日節を披露するなどパフォーマンスを繰り広げることでも有名だった。1974年2月に対立関係にあった佐々木良作書記長を副委員長に昇格させ、腹心の塚本三郎国対委員長を書記長に昇格させた。1977年11月、党委員長辞任。党常任顧問に就任。後任の佐々木委員長や塚本委員長の時代でも常任顧問として党内に影響力を残したが、1989年2月、リクルート事件で腹心の塚本が委員長辞任に追い込まれ、反春日派の永末英一が委員長が就任したことで影響力低下が囁かれた。同年5月、79歳で議員在職のまま死去。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。