エドヴァルド・ムンク( (, 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀-20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。ムンクは、1863年、ノルウェーのロイテンで、医師の父のもとに生まれ、間もなく首都クリスチャニア〈現オスロ)に移った。1868年、母が病気で亡くなり、1877年には、姉が亡くなるという不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えている(→"子供時代")。1880年、王立絵画学校に入学し、1883年頃から、画家クリスチャン・クローグや作家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアン・グループとの交際を始めるとともに、展覧会への出品を始めたが、作品への評価は厳しかった〈→"王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン")。1889年から1892年にかけて、ノルウェー政府の奨学金を得てパリに留学した。この頃、「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」を書き残している。フランス滞在中に、印象派、ポスト印象派、ナビ派など、最先端の芸術に触れ、技法を学んだ(→"パリ留学")。1892年、ノルウェーに帰国してから、「生命のフリーズ」という、テーマを持った連作の構想を固め始めた。この年、ベルリン芸術家協会の招きにより個展を開いたが、これが新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるというスキャンダルになってしまった。その後もベルリンに住み、北欧の芸術家らと親交を深めながら、『叫び』、『マドンナ』、『思春期』といった代表作を次々生み出していき、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となった(→"帰国、ベルリン")。1896年には、パリに移り住み、版画の制作などに注力した(→"パリ")。1897年からは、ノルウェー海沿いの村オースゴールストランを一つの拠点とし、イタリア、ドイツ、フランスの各地と行き来しながら、「生命のフリーズ」を完結する作品を制作していった。この頃、ムンクは、トゥラ・ラーセンという女性と交際していたが、ラーセンと口論の末、暴発したピストルで手にけがを負うという事件があった(→"生命のフリーズの完成")。1903年頃からは、友人マックス・リンデのための連作を制作したり、イプセンの舞台装置の下絵を書いたりして、ドイツを中心に活動した(→"ドイツでの活動")。1908年、コペンハーゲンの精神病院に入院し、療養生活を送った。この時には、ノルウェー政府から勲章を与えられたり、国立美術館がムンクの作品を購入したりして、ムンクの評価は決定的になっていた(→"精神病院")。1909年に退院すると、ノルウェーに戻り、クリスチャニア大学講堂の壁画や、労働者シリーズを手がけた。1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、制作を続けていたが、1944年、亡くなった(→"ノルウェーへの帰還、晩年")。ムンクが代表作の多くを制作した1890年代のヨーロッパは、世紀末芸術と呼ばれる時代であり、同時代の画家たちと同様、リアリズムを離れ、人間の心の神秘の追求に向かった。『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しているが、彼が鋭敏な感受性をもって、人間の心の闇の世界を表現したものといえる(→"時代背景と作風")。作品の多くはムンク美術館等の美術館に収蔵されている(→"主な作品")。その中でも、『叫び』は世界的に抜群の知名度を誇り、複数バージョンのうち個人所蔵のパステル画が、2012年にオークションで手数料込み1億1990万ドル(約96億円)で落札されたことは、大きなニュースとなった(→"『叫び』")。エドヴァルド・ムンクは、1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県に生まれた。父クリスティアン・ムンク(1817年 - 1889年)は医者であり、1843年から船医、1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが、1861年、と出会い、間もなく結婚した。2人の間には、エドヴァルドの前に、長女ヨハンネ・ソフィーエ(1862年生)が生まれていた。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々、一家はクリスチャニア(現オスロ)に移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース(1865年生)、次女ラウラ・カトリーネ(1867年生)が生まれた。しかし、母ラウラ・カトリーネが結核に冒され、いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエ(1868年生)を産んだものの、1868年12月29日に亡くなった。以後、母の妹がムンク家の世話をすることになった。父は、もともと信心深い性格であったが、妻の死後、狂信的なほどキリスト教への信仰にのめり込み、子どもたちを叱るときは異常なほど厳しかった。ムンクは、父の狂信的な考えに反発して口論した日の夜、父の寝室を覗き、父がベッドの前にひざまずいて祈っているのを目撃し、衝撃を受けたことを後に回想している。ムンクは、その光景をすぐにスケッチに描くことによって、ようやく落ち着いて寝入ることができたという。ムンクは、「病と狂気と死が、私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」と語っている。1875年、一家は、クリスチャニア市内のグリューネル・ルッケン地区に引っ越した。しかし、その後、エドヴァルドは、慢性気管支炎を患った。さらに、姉ヨハンネ・ソフィーエが、結核に感染し、1877年11月15日に15歳で亡くなった。こうして身近に「死」を実感したことは、後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893頃)、『病める子』(1886)といった彼の初期の諸作品では直接のモチーフになっている。ムンクは、通っていた学校を1879年に中退している。この頃から彼は画家になりたいという希望を持っていたが、父の反対に遭い、技師になるためクリスチャニア工業学校に通うことになった。しかし、彼はリューマチ熱のため欠席が続き、1880年11月8日、退学した。その日、彼は日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書いている。それまでも水彩画や鉛筆画で風景や家屋のスケッチをしていたが、彼の日記によれば、1880年5月22日に油絵用の画材一式を買い、5月25日に古アーケル教会を写生している。ムンクは、父を説得し、同年(1880年)12月16日、ノルウェー王立絵画学校(現・オスロ国立芸術大学)の夜間コースに入学した。1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃モデル・クラスに編入した。彼はこの学校で健康を取り戻し、教官の彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーンの指導を受けた。また、同年(1882年)初め頃、友人6名とともに、カール・ヨハン通りの国会広場に面して建つ「プルトステン」ビルの屋根裏にアトリエを借り、そこで画家クリスチャン・クローグの指導を受けた。同年(1882年)夏、ヘードマルク県に滞在し、同年秋にはクリスチャニア西郊をスケッチして回った。1883年秋、親類の画家フリッツ・タウロウが主催する野外アカデミーに参加して制作や討論を行った。これがきっかけで、クリスチャニア・ボヘミアンという、当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる。この年(1883年)、彼は産業及び芸術展覧会に油絵『習作・若い女の頭部』、第2回秋季展(芸術家展)に『ストーブに火をつける少女』を出品した。さらに、1884年の秋季展(官立芸術展と改称)に『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』を出品した。しかし、特に『朝』は、ノルウェー国内で酷評された。一方、フリッツ・タウロウは、ムンクの才能を認めており、彼にパリのサロンを見学する機会を提供したいと、同年(1884年)3月、父クリスティアンに支援を申し出ている。ムンクの病気のためパリ行きはいったん延期されたものの、1885年5月に友人の画家とともにパリに向かった。ムンクは、パリで、サロンとルーヴル美術館に通い詰め、エドゥアール・マネの多くの作品に接して、色彩の表現や、画面の中の一点を強調する技法を学んだ。他方、サロンで尊敬を集めているアカデミズム絵画のブグローについては、「ブルジョア連中の関心を引いていたにすぎない」と切り捨てている。この年の秋季展には『画家カール・イェンセン=イェル像』を出品したが、これも酷評された。同年(1885年)4月、ムンク一家は、スカウ広場に面した建物に移った。彼は、ここで『春』、『思春期』(第1作)、『』、『その翌朝』を描いた。亡くなった母や姉を重ね合わせた『病める子』は、1年近くかけて描き上げたもので、1886年の秋季展に出展したが、これも、保守系日刊紙『モルゲンブラーデ』に、「当然必要な下塗りさえしていない」、「近づけば近づくほど、何が何やら分からなくなり、しまいには雑多な色の斑点だけになってしまう」と書かれるなど、激しく攻撃された。ムンクは、後に、『病める子』について、新しい道を切り開いた作品だと位置付けつつ、「ノルウェーではこれほどスキャンダルを巻き起こした絵はない」と、展覧会初日の会場で、哄笑や非難の声が聞こえてきたことを振り返っている。この頃、クリスチャニア・ボヘミアンのリーダー格であるアナーキスト作家ハンス・イェーゲルと知り合った。伝統的なキリスト教的道徳に公然と異を唱え、自由恋愛主義を訴えるイェーゲルに、当時のクリスチャニアの若者たちが熱狂したのと同様、ムンクもその信奉者となった。ムンクにとって、ボヘミアン時代は、霊感と活気を与えてくれる時代であったが、同時に、独断主義的なボヘミアンのメンバーに対して「反吐の出そうな馬鹿者」と嫌悪感を表してもいる。また、ムンクは、1885年から数年間、人妻ミリー・タウロウ () との禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをした。1888年秋、クリスチャニア南西の海辺の村オースゴールストランを訪れ、『郵便船の到着』などの写生的な油絵を描いた。1889年初頭、重病を患い、回復途中に『春』を描いた。これは、この時期の最高傑作とされる。同年5月9日から、カール・ヨハン通りの学生協会の小ホールに、『ハンス・イェーゲル像』、『春』など自作110点を並べる個展を開催した。当時のノルウェーでは、個展というものが開催されること自体が、初めての試みであった。同年(1889年)10月、1500クローネの政府奨学金が与えられた。それと同時に、パリで1年間デッサンを学ぶことが命じられ、彼はパリに赴いた。ところが、その年の12月に、突然、父クリスティアンが亡くなったことが叔母カーレンから伝えられ、衝撃を受けた。彼は、その直後、パリ郊外のサン=クルーに移って、デンマークの詩人エマヌエル・ゴルスタイン () と同居した。1890年にゴルスタインをモデルにして描いた『サン=クルーの夜』には、孤独と不安が表れている。この頃、エドヴァルドは手帳に次のような走り書きを残しており、後の「生命のフリーズ」の構想の端緒となったものとして、「サン=クルー宣言」と呼ばれている。1890年、2回目の政府奨学金が認められ、フランスのル・アーヴルを訪れたが、その際、リューマチ熱を発して入院した。1891年、ル・アーヴルを去ってパリやニースを訪れ、アントウェルペンに逗留した後、夏の間、オースゴールストランやクリスチャニアに戻った。3回目の奨学金が認められたため、コペンハーゲンを経由して再びパリに赴いた。12月には、ニースを再訪している。この年、国立美術館が初めてムンクの作品『ニースの夜』を購入した。ムンクは、こうしてフランスに滞在している間に、印象派の画家たち、特にクロード・モネとカミーユ・ピサロから大きな影響を受けた。それに加え、エミール・ベルナール、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなどの作品から技法を学んだ。『カール・ヨハンの春の日』(1890年)、『ラファイエット街』(1891年)など、印象派の影響を受けた点描風の油絵作品も多い。一方、当初デッサンを学ぶために師事したレオン・ボナとは、色彩の使い方について相容れず、対立した。ムンクは、1892年3月、パリ留学からノルウェーに帰国した頃から、「生命のフリーズ」という構想を固め始めた。これは、フリーズの装飾のように、自分の作品をいくつかのテーマによって結び合わせていこうというものである。また、この頃から、彼の画風は大きく変わり、ナビ派のような形態の単純化・平面的色彩に加え、強いデフォルメを行うようになった。『メランコリー/黄色いボート』、『幻想』、『絶望』、大作『妹インゲルの肖像』といった作品を制作していった。同年(1892年)10月4日からは、カール・ヨハン通りで再び個展を開いた。このときは、それほどの悪評にはさらされなかった。同年(1892年)11月5日から、の委員であったノルウェー人画家アデルスティーン・ノーマンの招きにより、ベルリンでムンクの個展が開かれた。ムンクは、この個展に、『朝』、『接吻』、『不安』、『メランコリー』、『春』、『病める子』、『その翌朝』、『カール・ヨハンの春の日』、『雨のカール・ヨハン街』といった重要な作品を含む55点を送った。「生命のフリーズ」の最初の展示といえるものであった。しかし、これがベルリンの各新聞で激しく攻撃され、わずか1週間で打ち切りとなってしまった。それでも、個展はその後デュッセルドルフ、ケルン、再びベルリンと巡回し、次いで1893年にはコペンハーゲン、ヴロツワフ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンと開催され、賛否両論の中にも愛好者を増やしていった。1892年12月から、彼はベルリンに落ち着くことにし、カフェ「黒仔豚亭」に集まって、スウェーデン人作家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリや、ポーランド人学生スタニスワフ・プシビシェフスキなど、北欧の芸術家らと親交を深めた。彼らは、ショーペンハウエルやニーチェについて熱く論じ合った、ムンクは、ベルリン市内外の安宿を転々としながら、『(愛と痛み)』、『マドンナ』シリーズ、『』、『死んだ母親』、『病室での死』シリーズといった多くの代表作を制作していった。『叫び』や『』を制作したのもこの時期である。1893年3月には、デンマークの画家に、次のような手紙を送っている。1894年頃にはエッチングやリトグラフ、木版の技法を身につけ、表現の可能性を広げることになった。1894年、スタニスワフ・プシビシェフスキが、ムンクに関する最初の本を出版した。ユリウス・マイヤー=グラーフェ、、との共著である。4人の友人によるムンクの評論として、信頼性を持った資料となっている。1895年3月、ムンクは、ベルリンのウンター・デン・リンデン通りの画廊で、アクセリ・ガッレン=カッレラとの共同展覧会を開いた。6月、美術評論家ユリウス・マイヤー=グラーフェがベルリンでムンクのエッチング作品集を出版し、これがムンクの最初の画集となった。また、同年10月、クリスチャニアのカール・ヨハン通りので大規模な作品展が開催され、『マドンナ』、『手』、『灰』、『』など、ベルリン時代に制作した「生命のフリーズ」の重要な作品が展示された。劇作家ヘンリック・イプセンは、この展覧会を訪れている。イプセンは、後輩ムンクに、「僕を信じたまえ。敵が多ければ多いほど、味方も多いものだ。」と言って激励した。他方、家族の中では、医者になっていた弟ペーテル・アンドレアースが1895年12月半ばに肺炎で亡くなり、また妹ラウラ・カトリーネが1894年から精神分裂病で入院した。こうした不幸は、改めてムンクに死と生の不安を呼び起こした。ムンクは、1895年6月と9月にそれぞれ短期間パリを訪れた後、1896年2月にベルリンを離れてパリに移り住んだ。そして、同年春のアンデパンダン展に出品したほか、サミュエル・ビング画廊のアール・ヌーヴォー展にも出展した。ここでも否定的反応が多かったが、『』紙のエドワール・ジェラールは、次のような好意的評価を書いている。ムンクは、この時期、版画の技術をますます完成させ、シャルル・ボードレールの詩集『悪の華』のために挿絵を描いたりした。他方、版画のテーマの多くは旧作の油絵に基づくものであり、新たな油絵の創作はされなかった。ムンクは、1897年7月、オースゴールストランにサマー・ハウスを買い、油絵の制作を再開した。同年9月、カール・ヨハン通りのディオラマ館 () で個展を開き、油絵85点、リトグラフ30点、木版9点、エッチング25点、亜鉛板5点、デッサンとスケッチ30点という大規模な展示を行った。この頃にはクリスチャニアの新聞でも好意的な批評が現れるようになってきた。1898年、トゥラ・ラーセン () という女性と出会い、交際を始めた。1899年4月、トゥラとともに北イタリアからローマに旅をし、ラファエロの作品に感銘を受けた。この旅に触発されて、生涯唯一の宗教画『ゴルゴタ』を描いている。それ以降、イタリア、ドイツ、フランスと、オースゴールストランとを行き来しながら、『赤い蔦』、『メランコリー/ラウラ』、『生命の踊り』といった作品を制作し、「生命のフリーズ」の終結に向かった。1900年には、ドレスデンやクリスチャニアのディオラマ館で展覧会を開いた。1901年の夏はオースゴールストランで過ごし、9月にクリスチャニアで72点の展覧会を開き、11月にはベルリンに移り住んだ。1902年には、ベルリン分離派展で、22点の作品で構成される「生命のフリーズ」を展示した。この頃、トゥラが結婚を迫るのに対し、ムンクは、次第に彼女を避けるようになっていった。ムンクにとって、尊大なトゥラは、自由を奪う存在であった。1902年6月、友人たちの計らいで、2人が久しぶりにオースゴールストランで会う機会が設けられたが、自殺すると言ってピストルを持ち出したトゥラと、ムンクがもみ合ううちに、ピストルが暴発し、ムンクは左手中指の第2関節を撃ち砕くけがを負うという事件が起こった。この事件で2人の関係は破局し、ムンクは、1909年になっても、友人ヤッペ・ニルソンに手の痛みを訴えつつ、「彼女の卑劣な行為が僕の人生を滅茶苦茶にしたんだ。」と罵っている。1903年1月、ベルリンで個展を開き、同年4月には、パリのアンデパンダン展に何点かの新作を出品し、好評を得た。この年、イギリスの女流ヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチ () を知り、彼女を愛するようになった。彼女をモデルに『ブローチをつけた婦人』といった優れたリトグラフ作品を残している。1904年にはベルリン分離派の正会員となった。同年9月にはコペンハーゲンのデンマーク分離派展で全作品の回顧展示を行い、成功を収めた。同じ年、ハンブルクのが油彩画の独占販売契約を結び、ベルリンのブルーノ・カッシーラー画廊が版画の独占販売契約を結んだ。この頃、ムンクは、リューベックの眼科医で美術愛好家のと交友するようになり、1902年末頃から、リンデの子供部屋に飾るための絵の依頼を受けて制作に取りかかった。1903年にエッチング集『リンデ博士の家庭から』を完成させ、同じ年に次いで油絵『リンデ博士の4人の息子』を制作した。これらの一連の作品は「リンデ・フリーズ」と呼ばれ、1904年末に全作品が完成した。もっとも、リンデは、子供部屋にはふさわしくないと考えたためか、その引取りを拒否したが、2人の交友関係はその後も続いた。1905年2月から3月にかけて、プラハので、油彩画75点、版画50点の個展が開かれ、若い芸術家たちに熱狂的に支持された。ムンクは、1900年代以降の個展の成功の中でも、この個展について「まるで王侯のようなもてなしを受けた」と、美しい想い出として何度も回想している。1906年には、ベルリンの演出家マックス・ラインハルトの依頼で、ヘンリック・イプセンの『』と『』の舞台装置の下絵を描いた。1907年には、室内劇場の休憩所の装飾を依頼され、「ラインハルト・フリーズ」を完成させていった。この1907年と翌1908年の夏には避暑先をオースゴールストランからドイツ北部の保養地ヴァーネミュンデに変えつつ、「水浴トリプティーク」と「マラーの死」の油絵シリーズを手がけた。1902年以降、画業の成功とは裏腹に、精神的危機が深まっていった。若い時から生への不安は続いていたが、トゥラとの恋愛事件で受けた打撃などを機に、妄想を伴う不安が高まり続けた。その結果、アルコールにのめり込んでいった。1905年には、画家仲間とのつかみ合いのけんかを起こすなど、暴力性も現れた。ベルリンで「街に出られない」という対人恐怖症の発作に度々襲われたりもした。1908年には、その症状が頂点に達した。ムンクは、同年(1908年)10月、アルコール依存症を治すため、コペンハーゲンのダニエル・ヤーコブソン教授の精神病院に自発的に入院した。同年秋には、ノルウェー王国政府からを与えられた。1909年春には、(現オスロ国立美術館)の館長であり旧友でもあると、が協力して、ブロムクヴィスト画廊で油絵100点、版画200点の大ムンク展を開いた。ノルウェー国立美術館が油絵5点を買い上げ、ベルゲンの著名なコレクターであるラスムス・メイエルがムンクの作品を多量に購入したことで、ムンクに対するノルウェーでの評価は決定的になった。同じ1909年には、精神療法も兼ねて、詩文集『アルファとオメガ』を執筆した。これは、妻オメガに籠絡される夫アルファの寓話であり、女性たちに傷つけられた自らを浄化する意味があったと言われる。同年、ムンクは健康と精神的落ち着きを取り戻して退院した。もっとも、それと引換えのように、彼の作品は初期の緊張感を失い、生気のないものに変わっていったとも指摘されている。1909年に退院すると、コペンハーゲンからノルウェーに戻り、クラーゲリョーの小さな町に住み始めた。1910年11月には、オスロ・フィヨルドの東岸に土地を買って、ここも制作の拠点に加えた。1913年には、更にその南、近郊の建物を借りてアトリエとした。親類から勧められて、クリスチャニア大学講堂壁画コンテストに応募するための下絵を描き始めた。正面の大壁に『太陽』、その向かい側に『人間の山』、左右の横長の壁に『歴史』と『アルマ・マーテル(母校)』を配する構想を提出し、1911年のコンテストでは第1位を得たが、大学当局に拒絶された。しかし、その後、ムンク支持の運動が起き、1914年、大学学部長会がムンク案の採用を決議し、1916年除幕式が行われた。この時期、ムンクは『労働者とその子』(1907年-08年)、『左官屋と機械工』(1908年)、『木こり』(1913年)、『雪かき人夫(雪の中の労働者)』(1913年-14年)、『家路につく労働者』(1913年-15年)などの200点にのぼる「労働者シリーズ」に取り組んだ。また、『クラーゲリョーの冬』(1912年)のような風景画も制作した。1912年ケルンの分離派()展の招待作家となり、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンと並んで特別展示室を与えられた。1916年から没年まではオスロ郊外のに邸宅を買って定住した。1920年頃からはアトリエでの人体習作に比重を置き始めたほか、風景画『星月夜』(1923年-24年)も制作している。また、・チョコレート工場の食堂の壁画(1922年)や、1925年にクリスチャニアから改名したオスロの新庁舎大ホール正面壁画(1928年)も手がけた。1926年、ヴェネツィア、ミュンヘン、コペンハーゲン、パリ、マンハイムなどで中規模の展覧会が開かれた後、1927年、ベルリンのナショナル・ギャラリーで、油彩画223点、素描21点という史上最大の回顧展が開かれ、更に同年秋にはオスロ国立美術館に巡回した。1930年から数年間は眼病で仕事が進まなかったが、やがて回復した。70歳となる1933年、聖オラヴ大十字章を授けられた。フランス政府からはレジオンドヌール勲章を与えられた。ドイツでナチスが台頭すると、ムンクの作品は1937年、退廃芸術としてドイツ国内の美術館から一斉に外された。1940年4月9日、ドイツがノルウェーに侵攻すると、ノルウェーの元陸軍大臣ヴィドクン・クヴィスリングが内応して親ドイツのクヴィスリング政権を立ち上げたが、ムンクは政権の懐柔に応じずアトリエに引きこもった。この時期には、『窓側の自画像』(1940年)、『自画像/深夜2時15分』(1940年-44年)、最後の自画像『自画像/時計とベッドの間』(1940年-44年)などを制作した。1943年12月12日、エーケリーで80歳の誕生日を祝ったが、その1週間後、自宅の近くでレジスタンスによる破壊工作があり、自宅の窓ガラスが爆発で吹き飛ばされた。凍える夜気に彼は気管支炎を起こし、翌1944年1月23日に亡くなった。ナチス・ドイツの降伏で戦争が終結したのは、その後の1945年5月7日であった。ムンクが代表作の多くを制作した1890年代は、フランスではアール・ヌーヴォー、ドイツ、オーストリアではユーゲント・シュティールと呼ばれる芸術運動が起こった時代であり、世紀末芸術と総称される。クールベの写実主義からモネらの印象派に至るヨーロッパ美術の流れは、自然をキャンバスの上に再現しようとするものであった。これに対し、ゴッホ、ゴーギャン、ルドンらポスト印象派の画家たちは、絵画の役割を、眼に見えない心の内部を表現することに大きく変えていった。その次の世代に当たる世紀末芸術の芸術家たちも、人間の心の神秘の追求に向かった。ムンク自身、芸術について、次のように述べている。こうしてムンクや他の世紀末芸術の芸術家たちが追求した「内部の世界」は、印象派の明るい世界ではなく、不安に満ちた夜の闇の世界であった。病的なまでに鋭敏な感受性に恵まれたムンクは、生命の内部に潜む説明し難い不安を表現することに才能を発揮した。幼い時から家族に次々襲いかかってきた病気と死は、彼の芸術に影響を与えたと考えられる。また、ムンクは、クリスチャニアで、既成道徳に対する徹底的な反抗、反俗的芸術至上主義をモットーとするボヘミアン・グループに属していた。印象派の画家たちには見られないこうした市民社会への反抗精神や、パリ留学で最新の絵画活動に触れたことも、ムンクの芸術に大きな影響を与えた。ムンクは、内面の表現の可能性を探求して、ゴッホよりはるかに先まで進んだ画家の一人だと評されている。実際、1890年代の『叫び』や『思春期』といった一連の作品では、死と隣り合わせの生命、愛とその裏切り、男と女、生命の神秘など、生命の本質の問題が扱われており、その全てに、説明し難い不安が通底している。表現手法は、リアリズムよりも、平坦な画面構成、装飾性に向かっているが、これは、ナビ派や、フェルディナント・ホドラー、グスタフ・クリムトなど、同時代の他のヨーロッパの画家たちと共通する傾向である。また、ムンクが好んで描いた、女性のうねるような長い髪の毛が、男性を絡めとる魔性を暗示するように、線描それ自体の中に、生の神秘が象徴的に表現されていて、見る者に訴えかける力を持っている。ムンクの作品は、初期から激しい非難を浴び、1892年にベルリン芸術家協会の招きで開いた個展は、理事の過半数の反対表決で、1週間で打ち切りを強いられた。しかし、この事件がきっかけで、ドイツの詩人、画家、批評家の中でムンクの支持者も現れるようになった。また、この「ムンク事件」は、ベルリン芸術家協会の中の対立を顕在化させ、1898年にベルリン分離派が誕生するきっかけとなった。1896年のパリのアンデパンダン展、アール・ヌーヴォー展では、好意的評価も増えてきた。ムンクは、後に、「〈生命のフリーズ〉に属するこれらの作品が最もよく理解されたのは、フランスにおいてであった。」と回想している。ようやく分離派が印象派に追いついたベルリンよりも、既に印象派とポスト印象派を経験しているフランスの方が、ムンク受容の土壌が育っていたと考えられる。20世紀初頭になると、ムンクは、ドイツで、表現主義の若い画家たちから、ゴッホやゴーギャンと並んで熱狂的に支持された。ドイツでのムンクの影響は、フランスでのセザンヌに匹敵するほど大きく、ムンクはドイツ表現主義の先駆者とみなされている。1922年にはチューリッヒなどで版画を中心とした大回顧展が開かれ、1927年にはオスロやベルリンの国立美術館で回顧展が開かれるなど、ムンクの評価は確立した。1924年3月には、ベルゲン美術館でラスムス・メイエル・コレクションが一般公開された。1933年にはノルウェー政府から聖オラヴ大十字章、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されるなど、最高の栄誉を受けた。しかし、晩年は、ナチスの台頭とノルウェーでの親ドイツ政権の成立で、不遇の時を過ごした。2001年から、1000ノルウェー・クローネの紙幣に採用され、表面は彼の若い時の肖像と背景に作品『メランコリー』、裏面は作品『太陽』が描かれている。ムンクが日本に最初に紹介されたのは、1911年(明治44年)6月号の『白樺』に銅版画『コラ (Cora)』の図版が掲載された時であった。その後、1912年(明治45年)4月号の『白樺』に、武者小路実篤が特集記事を書き、この号には図版も8点掲載された。有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており、「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品があり、没したのは第二次世界大戦中の1944年である。気に入った作品は売らずに手元に残しており、死後は遺言によって、手元に残していた全作品がオスロ市に寄贈された。このため代表作の多くは1963年にオープンしたオスロ市立ムンク美術館に収蔵されている。オスロ市に残された作品は、油絵約1150点、版画約1万7800点、水彩画と素描約4500点、彫刻13点などであった。良質な作品の7割近くがムンク美術館を中心に収蔵されているとされ、美術市場に現れる作品は少ない。2005年、ドイツので、X線調査の結果、ムンクの『死と子供』のキャンバスの下に、裸婦と男たちの顔が描かれたもう1枚のキャンバスが隠れていることが分かり、新たな作品の発見となった。『叫び』は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品で、最もよく知られ、ムンクの代名詞となっている。絵葉書に始まり、様々な商品に意匠として採用されており、世界中で、『モナ・リザ』と並び、美術愛好家以外にも抜群の知名度を誇る作品である。ムンクは、この作品の制作について、次のように、自らの経験に基づくものであると説明している。映画『ホーム・アローン』で少年が叫ぶシーンにイメージが転用されるなど、パロディ化の影響もあって、橋の上の男が、自ら叫んでいるように誤解されることも多いが、実際には、自然から発せられる幻聴に耐えかねて、耳を押さえている様子が描かれている。『叫び』は、1893年以降、4点制作され(リトグラフ作品を除く)、ムンク美術館に2点所蔵されているほか、オスロ国立美術館所蔵と、個人所蔵のものが1点ずつある。このうち、オスロ国立美術館蔵のものは、1994年2月12日、強盗団に盗み出される被害に遭ったが、その後容疑者が逮捕され、作品も取り戻された。2004年8月22日には、今度はムンク美術館所蔵のテンペラ画が、同じく展示されていた『マドンナ』とともに、白昼、銃を持った強盗団に盗み出される被害に遭った。容疑者が逮捕され、有罪判決を受けた後、『叫び』と『マドンナ』は、2006年8月31日に警察によって発見された。個人所蔵のパステル画は、長年ノルウェーの実業家オルセン・ファミリーが所有していたが、ペッター・オルセンがニューヨークのサザビーズに出品し、2012年5月2日、オークションにかけられた。その結果、1億0700万ドル(手数料込みで1億1990万ドル)という史上最高額で落札された。買主は公表されていない。ここまでの高額の落札になったのは、作家の評価と作品の知名度が高いことに加え、唯一の個人所蔵作品で市場における希少性があることや、来歴が確かでコンディションも良いといった条件がそろっていたことによる。ムンクは、主に1890年代に制作した『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などの一連の作品を、「生命のフリーズ」と称し、連作と位置付けている。「フリーズ」とは、西洋の古典様式建築の柱列の上方にある横長の帯状装飾部分のことで、ここでは「シリーズ」に近い意味で使われている。これらの作品に共通するテーマは「愛」、「死」、そして愛と死がもたらす「不安」である。ムンクは、1918年に、ブロムクヴィスト画廊で「生命のフリーズ」の展示会を開くに際し、その成立について、次のように振り返っている。1902年の第5回ベルリン分離派展では、22店の作品が「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」という4つのセクションに分けられていた。「愛の芽生え」のセクションには『接吻』『マドンナ』など、「愛の開花と移ろい」には『吸血鬼』『生命の踊り』など、「生の不安」には『不安』『叫び』など、「死」には『病室での死』『新陳代謝(メタボリズム)』などの作品が展示された。その時の展示状況は写真に残されていないが、翌1903年3月、ライプツィヒで開催した展覧会の展示状況は、写真が現存している。それによると、展示室の壁の高い位置に白い水平の帯状の区画が設けられ、その区画内に作品が連続して展示されている。1904年にはクリスチャニア、1905年にはプラハで連作展示が行われた。前述の1918年のブロムクヴィスト画廊での展示会にムンクが寄せた文章によって、初めて「生命のフリーズ」という名称が与えられた。ムンクは、優れた肖像画を残している。初期には、自画像や家族の肖像画が多い。また、ハンス・イェーゲルなど、クリスチャニア・ボヘミアンの詩人や芸術家たちを描いた。1890年代には、ベルリンやパリの友人たちを描いている。もっとも、肖像画のモデルとなった友人たちは、自分たちの肖像画に驚いたり、不満を漏らしたりすることが少なくなかった。1900年代には、多くの等身大の肖像画を描いた。ムンクは、晩年、友人たちの肖像画をエーケリーの邸宅に集め、「私の芸術の護衛兵」と呼んで、求められても手放そうとしなかった。版画、特にリトグラフやエッチングは、1890年頃のフランスで隆盛を迎えていた。1891年にトゥールーズ=ロートレックがムーラン・ルージュのカラー・リトグラフを制作したのと同じ頃から、ムンクも多数の版画の制作を始めた。1894年までにドライポイントの技術を身に付け、間もなくアクアチント、さらに1895年にはエッチングも習得した。これらの凹版画に加え、1894年終わりにはリトグラフも習得した。1895年から1896年のパリ滞在時、『病める子』のカラー・リトグラフを制作して実験を重ねた。最後に、木版画も用いるようになった。初期版画のほとんどは、油彩画の主題をコピーしたものである。多くの場合、彼は、銅版、石版、木版の上に直接描したため、刷り上がりは左右が逆になった。アクアチントとドライポイント、リトグラフと木版画、といったように、複数の版画技法を併用している点がムンクの特徴であり、版木をいくつかの部分に分解して刷るといった、新しい試みも行っている。1920年以降は新しい版画制作は減り、1930年頃までにほぼ終了した。ムンクは、一つの版画から多くの刷りを重ねており、全部で700以上の版画から、約2万5000の刷りがある。そのうち約1万5000点がムンク美術館に収蔵されている。ムンクと交友を持った美術愛好家が、1907年と1928年に、2巻から成る版画の作品目録を出版し、ムンクの版画研究の基礎資料となっている。ムンクは、1916年に完成したオスロ大学講堂壁画をはじめ、1906年から翌年にかけて制作した、ベルリンの小劇場のための「ラインハルト・フリーズ」、オスロ郊外のフレイア・チョコレート工場の社員食堂のために制作した「フレイア・フリーズ」(1922年完成)など、建築内部装飾のための大作をたびたび手がけている。彼は、大学講堂壁画と生命のフリーズとの関係について、次のように語っている。
出典:wikipedia
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