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宮中三殿

宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居にある、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。吹上御苑の東南にある。宮中三殿は、皇居内にある三つの連結された建造物の総称である。それぞれ、神道の神を祀っており、宮中祭祀(皇室祭祀)の中心となる。宮中三殿の構内には、附属するいくつかの建造物が配置されている。四方拝、新嘗祭が行われる神嘉殿(しんかでん)、鎮魂祭や天皇皇后の装束への着替えが行われる綾綺殿(りょうきでん)、神楽が行われる神楽舎(かぐらしゃ)、楽師が雅楽を演奏する奏楽舎(そうがくしゃ)、列席者が待機する左幄舎(ひだりあくしゃ)と右幄舎(みぎあくしゃ)、賢所に正対する賢所正門、新嘉殿に正対する新嘉門などである。宮中三殿では、皇室祭祀のことをつかさどるため、国家行政機関たる宮内庁の組織とは別の内廷の組織として、掌典職が置かれる。掌典職は、掌典長の統括の下に、掌典次長・掌典・内掌典などが置かれている。毎朝、午前8時から、賢所、皇霊殿では内掌典(女性、巫女)が、神殿では掌典が、清酒、赤飯などを供える「日供の儀」(にっくのぎ)をそれぞれ行う。続いて、午前8時30分には、宮内庁侍従職の当直侍従が、賢所、皇霊殿、神殿を天皇に代わって拝礼する「毎朝御代拝」(まいちょうごだいはい)を行う。日供の儀及び毎朝御代拝の各儀式は、廃朝(天皇が執務しないこと)や宮中喪が発せられていても、欠かさず行われる。宮中三殿の祭祀は、明治維新から宮中祭祀の変遷と漸次的集約を経て、教部省が成立した直後の明治5年4月2日(1872年5月8日)に整ったと解されている。このとき鎮座された皇居内の砂拝殿は、翌1873年(明治6年)に皇居西之丸から出火の際に類焼したため、赤坂仮御所へ動座された。現在の宮中三殿の建物は、1888年(明治21年)10月に竣工し、翌1889年(明治22年)1月9日に遷座された。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)には空襲を避けるため皇居内の防空壕へ動座され(翌1945年(昭和20年)の終戦により戻る)、2004年(平成16年)6月18日には建物の耐震劣化調査のため数十メートル離れた場所に設置した仮殿(かりどの)へ一時的に動座された(同月27日に戻る)。皇祖神天照大神を祀る。その御霊代である神鏡(八咫鏡の複製)が奉斎されている。また「かしこどころ」と読んで神鏡そのものを指すこともある。古代より宮中で祭祀された。掌典及び内掌典が御用を奉り、「忌火」(「神聖な火」の意味)を護り続けるとされる。平安時代は温明殿(うんめいでん)、鎌倉時代以後は春興殿にあった。古代から続くという宮中祭祀が行われ、現在の皇后、皇太子妃など皇族の妃らを宮中に迎える結婚の儀もここで行われた。その際、后妃が賢所を退出した際に婚姻成立とみなされる。神聖な場所のため穢れを嫌い、「次清」の別などの厳格な規律があるという。歴代天皇および皇族の霊を祀る。明治に再興された神祇官が附属の神殿を創建し、併せて歴代天皇の霊を祀った。このため、平安時代より宮中の歴代天皇を仏式で祀る「黒戸」は廃止された。神祇官の神祇省への降格に伴い、明治4年(1871年)9月に宮中に遷座し、賢所と共に「皇廟」と呼ばれた。明治11年には皇妃や皇族の霊も合祀。天皇・皇族の霊は、死後1年をもって皇霊殿に合祀される。毎年春分の日と秋分の日には春季、秋季の皇霊祭が行われる。天神地祇を祀る。明治に再興された神祇官(のち神祇省)が附属の神殿を創建し、天神地祇および律令制での神祇官の八神殿の八神を祀った。明治5年、神祇省の祭祀は宮中に移され、八神殿は宮中に遷座し、八神を天神地祇に合祀して神殿と改称。

出典:wikipedia

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