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石勒

石 勒(せき ろく)は、五胡十六国時代の後趙の創建者。初名は㔨。羯族()の部落小帥・石周曷朱の子として上党郡武郷(現山西省楡社の西北)に生まれる。父の代理を務め、部人から信頼されていた。当時の羯族は経済的に困窮し、太安年間には并州の飢饉戦乱に遭って部落離散していた。石㔨も流浪の旅に出ざるを得ず、その途中で晋の東嬴公司馬騰に捕らえられ、山東の師懽に売られて奴隷とされた。師懽に認められ、自由の身とされた後、汲桑の馬牧場で働いた。八王の乱が起こると、その混乱に乗じて群盗となった。永興2年(305年)、汲桑とともに成都王司馬穎配下の公師藩に合流し、この頃から名を勒と改める。光熙元年(306年)、公師藩が苟晞に討たれると汲桑とともに逃亡する。司馬穎が東海王司馬越・司馬騰らによって処刑されると、汲桑は大将軍を自称して司馬穎の復仇を名目に反乱を起こし、石勒は彼のもとで掃虜将軍・忠明亭侯となった。永嘉元年(307年)、鄴に進軍して司馬騰を敗死させるが、苟晞に大敗し再び逃亡した。石勒は上党の胡人の部族長を伴い、匈奴の劉淵が興した漢に帰順すると、輔漢将軍・平晋王とされた。劉淵の招致に応じなかった烏丸を帰順させると、督山東征討諸軍事を加えられた。永鳳元年(308年)、劉聡の先鋒となって壺関を陥落させた。劉淵が皇帝(光文帝)を名乗ると平東大将軍となった。この頃に漢人の張賓が陣営に加わった。河瑞元年(309年)、光文帝から安東大将軍とされて開府した。鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、張賓を謀主とし、十八騎の多くが軍の指揮官となった。光興元年(310年)に光文帝が崩御して劉聡(昭武帝)が即位すると并州刺史となり、汲郡公に封じられた。嘉平元年(311年)、東海王司馬越の葬列を襲い、司馬越の子で鎮軍将軍・司馬毗ら西晋軍の主力を壊滅させ、孔萇の進言に従い、司馬毗を捕獲し太尉王衍など軍高官や王侯100人以上を含む10万人近くを殺害した。同年、大将軍の苟晞を殺害し、さらに王弥を殺してその部下を併せたが、江南地方への侵攻は失敗した。江南の攻略中には、劉琨(王編に昆)が生き別れの母および、石勒の族子石虎を送り届けて晋への帰順を促したが、石勒は丁重に応対したものの帰順は拒否した。嘉平2年(312年)、襄国に拠点を移した。嘉平4年(314年)、幽州の王浚を殺害するが、段匹磾が薊に入り以降は対立した。昭武帝から驃騎大将軍・東単于とされた。麟嘉元年(316年)、拓跋部の協力を受けた劉琨を撃破し、晋の并州を降した。昭武帝は停戦を言い渡したが、石勒は無視し、三国鼎立を念頭に露骨に自立を図った。光初元年(318年)、靳準の乱で隠帝が殺され、劉曜が即位すると、大司馬・大将軍に上り、趙公になった。光初2年(319年)、靳準の乱を平定後に、劉曜と対立するようになった。孔萇が幽州を平定した。11月、24郡・戸数29万で趙王を称し、後趙を建国して、即位の年を趙王元年とした。張賓を大執法として朝政を総覧させ、石虎を単于元輔とした。趙王2年(320年)、祖逖によって黄河以南は東晋の支配下に入った、石勒は祖逖との融和に努めて、黄河以南を攻撃せず祖逖とは休戦状態になった。趙王3年(321年)、石虎が段匹磾と段文鴦を降服させた。石勒は法律の施行・九品の決定・度量衡の統一・戸籍の作成・農業の奨励を行い、混乱した河北の秩序を回復させていった。趙王4年(322年)、石弘を世子にして、黄河以南へ攻撃を再開した。張賓が死去し、代えて程遐に朝政を総覧させた。趙王5年(323年)、曹嶷を滅ぼし青州を平定した。趙王7年(325年)、東晋と前趙の勢力を駆逐し洛陽を領有し、淮河北岸まで支配下に入れた。趙王8年(326年)、石虎に代えて石弘に鄴を任せ、王陽に補佐させた。趙王10年(328年)、師懽が黒兎を献上し、瑞兆として太和と建元した。7月、淮河を超え寿春を陥落させた。8月、劉曜の前趙に洛陽を占領されたが、12月に奪回して劉曜を捕虜にした。太和2年(329年)、劉曜を殺し、さらに長安を攻略して前趙を滅ぼした。張駿が使者を送って称藩し、華北の大半を平定した。建平元年(330年)には天王と称し、後趙を晋の金徳に続く水徳の王朝とした。8月、帝位に即き、建平と改元した。以降は江南の東晋と対峙した。建平4年(333年)7月に崩御。帝位には石弘が即いた。石勒自らは字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞くのを好み、漢人士大夫を登用して律令・官制を整えた。『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。また、過去の群雄について、「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と評した。石勒が群盗をしていた頃から付き従ってきた者たち。石勒はこれを十八騎と号した。石勒が群盗になった際に最初に付き従ったのが、王陽、夔安、支雄、冀保、呉予、劉膺、桃豹、逯明の8人であり、後に郭敖、劉徴、劉宝、張曀僕、呼延莫、郭黒略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六の10人が合流して十八騎となった。石勒十八騎は石勒の覇業を支えて、後趙の華北制覇に大いに貢献した。

出典:wikipedia

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