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仙塩

仙塩(せんえん)とは、仙台市と塩竈市から1字ずつ採って名付けられた地域名。「仙塩」が示す範囲には塩竈市が必ず入るが、仙台市が含まれない場合もある。これは、宮城県で用いられる地域名の「仙北(県北)」や「仙南」と同様である。宮城県には、日中戦争開戦前に市制を施行した自治体が2つある。1つは仙台市であり、江戸時代からの仙台城下町を基礎に発展した仙台区が1889年(明治22年)4月1日に施行した。もう1つは石巻市であり、北上川の内陸水運と東北太平洋岸海運の拠点港である石巻港を中心として発展した牡鹿郡石巻町が1933年(昭和8年)4月1日に施行した。1940年(昭和15年)、仙台市および宮城郡塩竈町を中心とした工業地帯開発計画である「仙塩工業地帯建設計画」が立案され、当時の仙台市長・渋谷徳三郎は、その実現に熱意を燃やした。塩竈町は陸奥国府・多賀城の外港および鹽竈神社の門前町として発展し、江戸時代以降は仙台城下町の外港として、日本鉄道本線(現JR東北本線)開通後は仙台市の外港や日本三景・松島の玄関口などとして発展したもので、1941年(昭和16年)11月23日には県内3番目に市制施行して塩竈市となり、仙台周辺では仙台市に次ぐ人口を擁する市となった。同計画は後任の仙台市長・今村武志にも引き継がれたものの、1945年(昭和20年)の終戦に伴って立ち消えとなった。高度成長期以降の仙塩地区には、国道45号(仙塩街道)、産業道路(県道仙台塩釜線)、利府街道(県道仙台松島線)、三陸自動車道などの交通インフラが次々整備され、仙台市のベッドタウンとして急速に発展していくことになる。1957年(昭和32年)、宮城県は「仙塩特定地域総合開発計画」を策定、仙塩地区を対象とする工業用水道の整備などを行った。1958年(昭和33年)10月1日には名取郡名取町が県内4番目に市制施行して名取市となった(1957年に名取・岩沼にまたがる仙台空港に初の定期便就航)。1962年(昭和37年)に制定された新産業都市建設促進法に基いて、1964年(昭和39年)3月3日に仙塩地区を含む仙台湾地区が新産業都市に指定された。同地区に指定された16自治体を県による現在の地域区分に従って分けると、であった。すると同法23条に基いて、亘理郡2町村を除く現・広域仙台都市圏内8市町村、すなわち、松島から岩沼までの仙台湾臨海自治体を対象に広域合併議論が始まった。これは「仙塩合併」と呼ばれ、対象8市町村の1965年(昭和40年)国勢調査人口(法定人口)は計66万4152人を数えた。しかし、合併論議に参加する自治体は次々抜け、最終的に塩竈・多賀城・利府・仙台・名取の5市町村による仙塩地区市町村合併協議会での議論になり、対象5市町村の1965年(昭和40年)国勢調査人口は計60万8769人となった。1967年(昭和42年)に多賀城が協議会を脱会すると協議会は解散することになり、「仙塩合併」議論は終わった。1968年(昭和43年)に(新)都市計画法が施行されると、1970年(昭和45年)7月7日に「仙塩広域都市計画区域」が指定された。これは、それまで5つの都市計画区域に分かれていた仙台・塩竈および周辺自治体を、1つの都市計画区域に統合して1つの都市圏とみなして都市計画をしていくものである。対象地域には、「仙塩合併」議論の対象になった沿岸自治体である多賀城市・七ヶ浜町・利府町・塩竈市・仙台市・名取市・岩沼市の他に、内陸自治体である宮城郡域の泉市・宮城町、名取郡域の秋保町および黒川郡域の富谷町(現・富谷市)も加えられ、その後も内陸自治体である黒川郡域の大衡村・大和町が加えられた(多賀城・岩沼・泉は1971年(昭和46年)11月1日市制施行)。1977年(昭和52年)9月29日、国の「大都市周辺地域振興整備措置要綱」に基いて「仙台大都市周辺地域広域行政圏」が設定され、10月には仙台市を中心とする17市町村によって「仙台都市圏広域行政推進協議会」が設立された。この頃までに、仙台市に北接する泉市(現・仙台市泉区)がベッドタウンとして急速に発達し、塩竈市を抜いて仙台市に次ぐ宮城県第2の自治体となり、仙塩地区における塩竈市の地位は相対的に低下した。すると、「仙塩」よりも「仙台都市圏」の方が当地の都市圏の実情を示す言葉になった。泉市・宮城町・秋保町を編入合併して政令指定都市に移行した仙台市では、市域の発展が泉中央副都心(北)・長町副都心(南)・愛子副都心(西)など各方面に分散し、仙台市青葉区の一部となった旧宮城町域の人口も増加。また、塩釜港から1971年(昭和46年)開港の仙台港に物流の中心が移り、塩釜港の外港としての地位も低下した。2010年(平成22年)国勢調査人口では、(旧泉市=仙台市泉区21.1万人)、名取市7.3万人、(旧宮城町=仙台市青葉区宮城総合支所管轄域6.9万人)、多賀城市6.3万人、塩竈市5.6万人、富谷町4.7万人、岩沼市4.4万人、利府町3.4万人というように、仙台都市圏において既に塩竈市が仙台市に次ぐ自治体ではなくなっている。このような環境変化に伴って、仙台~塩竈間の都市軸の重要性は相対的に低下し、「仙塩」が仙台都市圏の別称として用いられることもなくなった。宮城県を東西に横切る松島丘陵が、この地域の地理的特徴の1つである。東北地方・太平洋側にはいくつかの軍事的境界線と成り得る地形があったが、南からは福島県浜通りと中通りが合流し、北からは岩手県北上盆地と三陸海岸地方が合流する仙台平野において、南北に分断する松島丘陵は、北東北の蝦夷勢力に対する軍事的要衝となり、その南の「仙塩地区」に多賀城は設置された。また、「長町-利府線」と呼ばれる活断層が、もう1つのこの地域の地理的特徴である。「長町-利府線」は、利府駅と長町駅を結ぶ線と似た走行をしており、断層の東側が低く、地下水の水位が高い。そのため、この断層の東側低地には、多賀城設置前の陸奥国府と推定される郡山遺跡が長町駅の東にあり、陸奥国分寺や陸奥国分尼寺も若林区木ノ下の低地に置かれた。多賀城はこの断層から離れた松島丘陵の南斜面に置かれたが、後に断層東側低地にあたる宮城野区の岩切駅辺りに移ったと推測されている。「長町-利府線」東側低地以外の平地は水利の悪い荒地で、「宮城野」という名の歌枕であった。現在も残る広大な水田のほとんどは、江戸時代の灌漑整備に伴う新田開発による。「長町-利府線」東側低地は、江戸時代以来の下町地区として住宅用地ともなっているが、南北軸の国道4号・仙台バイパスと東西軸の国道45号が交差する苦竹ICより南は流通・工業に用途指定された地区(卸町・扇町・六丁の目)、苦竹ICより北は農地保全地区となっている。これらは条例によって土地の用途が指定されており、住宅の建設は出来ない。そのため、仙台駅の東側には、広大な非居住地区が南北に連なっており、仙塩地区を分断している。七北田川沿いの自然堤防より東で住宅建設が出来るため、居住地は仙台市都心部から見て「飛地」の様相を呈している。現在、「仙塩地区」という場合は、この「飛地」を指す。仙台~塩竈~松島間には産業用・観光用に道路が密集・並走しているため、ロードサイド店舗が多い地域ともなっている。なお、「長町-利府線」東側低地にあるバイパス沿いの流通・工業地区は、地下水の水位の高さを利用して地下水の工業利用がされたが、地盤沈下が発生した。そのため、現在では取水制限が行われている。また、宮城県沖地震では帯水層であることを反映して液状化現象が発生した。

出典:wikipedia

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