大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、"Osaka Kintetsu Buffaloes" )は、からまで存在した日本のプロ野球球団の一つで、パシフィック・リーグに加盟していた。一軍は大阪府を保護地域とし、大阪市西区にある大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)を、二軍(ウエスタン・リーグ所属)はかつて一軍の本拠地だった藤井寺球場を本拠地にしていた。球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。1999年3月末までの球団名は近鉄バファローズで、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)だった。2004年、球団と近鉄グループの経営難からオリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、大阪バファローズは2005年3月末をもって解散。職員の大半はオリックス野球クラブに、一部は楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトによりオリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と同時に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。オリックスの球団史において大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれない。このような、球団史が引き継がれずに終焉する形でのチーム消滅は1958年の大映ユニオンズ以来の出来事となる。合併までの経緯・詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照。1944年6月から1947年5月まで南海鉄道と関西急行鉄道の戦時統合によって設立された近畿日本鉄道が運営していた近畿日本軍→近畿グレートリングとの球団の系譜としてのつながりはなく、これは現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。球団が消滅した2004年時点で現存していた12球団の中では、4回出場した日本シリーズで優勝していない唯一の球団であった。設立当初より低迷が続き、万年Bクラス、最下位の近鉄は「地下鉄球団」とも揶揄(やゆ)された。、近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社の近鉄野球株式会社(初代、のちの近鉄興業株式会社)が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。「パール(真珠)」は近鉄沿線の伊勢志摩地方で真珠養殖が盛んなことから命名された。近鉄にとっては、南海鉄道合併当時の1944年 - 1947年(近畿日本軍 → グレートリング、現:福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である。近鉄は大阪電気軌道時代よりラグビー部(現:近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐によれば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を動かしたという。11月26日に発足した太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)に加盟。2リーグ制構想を最初に打ち出した正力松太郎は、大阪地区で4チームが同一のリーグに入ることは好ましくないと考え、片方のリーグに近鉄と阪神、もう一つのリーグに阪急と南海を入れる考えを持っていたといわれる。しかし、毎日新聞側で電鉄系球団が結束した後に阪神が離脱するという経過により、この正力の考えは実現しなかった(経過についてはプロ野球再編問題 (1949年)を参照)。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者(監督藤田省三始め、関根潤三など法政大学勢が多かったため、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、プロ野球経験者は、黒尾重明(東急フライヤーズ)、森下重好、田川豊(いずれも太陽ロビンス)ら数えるほどで、選手層が薄く設立より4年連続最下位となる。、開幕直前に藤田省三が高熱でダウン、藤田は球場には来たが加藤春雄が実質指揮を取る中で3月12日、藤井寺球場での対毎日オリオンズ戦が球団としての初めての公式戦となるが、初回四番森下重好のタイムリーで先制するものの、失策で自滅し2対6で敗戦。翌13日の対南海ホークス戦で沢藤光郎が粘投し、4対3でチーム初勝利を収める。チームは連敗、連勝、連敗を続け、この年は森下が30本塁打、沢藤が18勝を挙げる活躍を見せるが、最終的には首位の毎日から37.5ゲーム離された最下位に終わる。投打共に駒不足を露呈した。球団本社からの強化費用が予想以上に出ず、新人2選手が加入しただけで終わる(その2選手も翌年には退団)。、この年もシーズン終盤まで低迷、9月に14勝8敗1分と追い上げるも6位の東急と0.5ゲーム差で2年連続最下位に終わる。この年のオフ、大下弘の獲得に乗り出すが失敗に終わる。、8月に13連敗を喫し、シーズン通して首位の南海に4勝14敗、2位の毎日には3勝15敗と大きく負け越し、最終的に37勝56敗5分、3割に満たない勝率で3年連続最下位に終わる。シーズン終了後、藤田省三が監督を辞任し、芥田武夫が就任。 小玉明利、鈴木武らのに中心となる新人補強に加え、独特の練習スタイルで結果を出す。、開幕直後には9連勝するなど、5月8日に一時期ながら首位に立つが、夏場以降は失速し、首位南海と22ゲーム差の最下位となる。勝率は初めて4割を超える。、8月7日に新人の山下登が対高橋ユニオンズ戦で球団史上初のノーヒットノーランを達成している。74勝63敗5分で、創立以来初となる最下位脱出の4位、勝率5割を越えてのAクラスとなった。近鉄選手初のタイトルとして田中文雄が最多勝、鈴木武が盗塁王を獲得しており、チーム盗塁数223は当時の日本プロ野球歴代5位であった。、序盤から投手陣が大不振。6月19日には武智文雄(田中から改姓)が対大映スターズ戦(大阪)でパ・リーグ初となる完全試合を達成する。この年連敗することが多く、60勝80敗2分の5位に終わる。、4月から開幕10連勝と勢いをつけたが、終盤に失速し5位。この頃は万年最下位とは呼ばれなくなったが、優勝争いをしている西鉄、南海とは地力の差があった。、この年パリーグは高橋ユニオンズと大映スターズが合併したことで8球団から7球団となり、日程が組みにくくなったことから最下位の球団は消滅させようという動きがあり、関根潤三は「世間はそれは近鉄だろうと思っていた」と述べ、大映オーナーの永田雅一による近鉄潰しだと述べている。6月22日、芥田がシーズン途中で休養。加藤春雄が代行を務めるが8月を終わっても最下位で、消滅の危機となったが、最終的には6位に終わっている。加藤春雄はオフに監督就任。、開幕から不振が続き、6戦目で最下位になると、そのまま浮上することなく、首位の西鉄に3勝22敗1分、2位南海に4勝22敗1分と大きく負け越し、この年の近鉄のシーズン29勝は最多勝投手の稲尾和久の33勝を下回り、球団史上最低記録となる勝率.238でシーズンを終える。シーズン終了後、加藤春雄が監督辞任、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘しチーム名を近鉄バファローに改名。岡本太郎による球団マーク(通称、猛牛マーク)が制作される。、5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。チーム39勝は、最多勝の南海の杉浦忠の38勝より1勝多いだけであった。前年と合わせ8人の選手が読売ジャイアンツから移籍するなど、チームの大幅な入れ替えを図る。なおシーズン途中の6月20日に千葉茂が途中休養、代行監督に林義一が就任するが、オフに千葉が監督復帰する。、43勝87敗1分で首位の大毎と39ゲーム差の最下位。、日本プロ野球シーズン最多記録となる103敗を記録。首位南海とは51.5、5位阪急とも18.5ゲーム差をつけられ、チームの勝ち星は1958年に続き、稲尾和久の42勝に届かぬ36勝に終わった。新人の徳久利明が15勝を挙げ球団初の新人王を獲得する。1958年から4年連続でチームは160失策以上を記録し、チーム38盗塁は2リーグ制以降、当時の最少記録となっている。シーズン終了後、千葉茂が監督を辞任し、別当薫が就任。後年、この当時の事情を千葉茂はなかなか語ろうとしなかったが、ごろに語ったところによれば「巨人で20年やってきたことがすべてひっくり返った」と述べ、「選手もプロ意識は低かったが、親会社の体質にも問題があった」とし、当時三等車だった列車での移動を西鉄並の二等車にしてほしいと頼めば、球団に「15人だけにしてほしい」と言われたとされる。一方の選手は西鉄の稲尾和久や南海の杉浦忠などが登板することが分かると、高熱や腹痛などの仮病を使って試合を欠場したとも述べている。「近鉄バファローズ」という球団名は1998年まで使われたが、ここでは大阪ドーム移転前年の1996年までの事について述べ、大阪ドームに移転した1997年・1998年の両年については#大阪ドーム時代を参照。、チーム名を近鉄バファローズに改名。ジャック・ブルームフィールドが.374の高打率で首位打者を、28勝を挙げた久保征弘が最多勝を獲得するも、チーム全体ではわずか57勝(久保はほぼ半分の勝ち星を1人で稼いだ)で5年連続最下位。土井正博が18歳で四番に抜擢される。、5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差の4位に終わる。この年のオールスターには7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく。翌、この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。1958年よりこの年まで7年連続で失策数はリーグワースト。シーズン終了後、別当薫が監督を辞任。後任には岩本義行が就任。、優勝した南海と42.5ゲーム差で2年連続の最下位。この年第1回プロ野球ドラフト会議が行われ、2位指名で鈴木啓示が入団している。、48勝82敗で2年連続最下位。シーズン終了後、岩本義行が監督を辞任、後任には当時31歳の小玉明利が選手を兼任のまま監督就任。 4月1日、球団運営のための会社法人として近鉄野球株式会社(2代目)を設立し、近鉄興業(同年3月に近鉄野球株式会社=初代を商号変更)から経営を移管。チームは開幕ダッシュもあり5月半ばまで首位だったが、主力選手の相次ぐ故障もあり3年連続の最下位に終わる。シーズン終了後、小玉明利が監督を辞任し選手として阪神に移籍した。後任には三原脩が就任した。、西鉄との開幕戦で3連勝後、4月を14勝4敗として6月まで首位だったが、夏場以降は失速し、首位の阪急と23ゲーム差の4位に終わる。しかし監督の三原によって選手に自信をつけさせたとされる。三原は家族の問題から退任を申し入れるも、慰留され続投。、5月までに9連敗を記録するなど低迷、しかしその後18勝1敗2分けと一気に追い上げ、球団初の首位争いを阪急と展開する。互いに直接対決4試合のみを残した10月17日の時点で2厘差で首位を保ち、阪急よりも優位であった。しかし、10月18日からの対阪急4連戦に初戦から3連敗で阪急の逆転優勝を許し、2位に終わる。球団創立以来シーズンの対戦成績で勝ち越したことがなかった南海に対し17勝9敗と初めて勝ち越し、また15シーズン連続で負け越していた西鉄にも15勝11敗で勝ち越した。ドラフト会議では、高校野球で甲子園のアイドルと呼ばれた太田幸司を獲得。、5月14日に黒い霧事件に関連し球団職員だった山崎晃が外部の人間より八百長(野球協約上の敗退行為)を強要され、監督や選手に敗退行為の依頼を行ったことが報道された。山崎は1967年に当時選手兼監督だった小玉明利を始め、木原義隆、吉沢岳男、高木喬の4名に山崎が八百長を依頼したとされる。捜査の結果、依頼された4人については金銭の授受はなく試合で敗退行為を行った確証も得られなかったため、プロ野球機構からの処分は厳重戒告に留まった。しかし、山崎については八百長工作を行っていたことが確実になったため、6月15日に野球賭博への関与を理由とした永久追放処分が下された。10月6日、対南海戦で佐々木宏一郎が完全試合を達成。シーズン終了後、三原が監督を辞任し、後任に鶴岡一人に一本化するが招聘に失敗し、コーチの岩本尭が監督に昇格した。は3位。、序盤に首位に立った南海相手に7連勝(1分)するなど、4月29日に同率首位にもなったが、総合では首位とは14ゲーム差の2位に終わる。この頃は鈴木啓示が5年連続20勝を挙げ、また太田幸司人気もあってテレビ中継も増えている。、パ・リーグは前後期2シーズン制を導入。投手力のある近鉄が優勝候補にも挙げられたが、その投手陣が相次ぐ故障などから崩壊し防御率3.83はリーグ5位で10勝以上あげたのが鈴木啓示のみ、打線も土井がで唯一打率ベスト10入り(3位)になっただけでチーム打率はリーグ最下位の.237、本塁打113本は南海と同数の5位、盗塁、得点はリーグ最少、失点、失策はリーグ最多で、8月末に岩本は休養し島田光二が代理監督を務めるが、前後期とも最下位の6年ぶりの最下位に終わっている。二軍がウエスタンリーグ初制覇している。シーズン終了後、前阪急監督の西本幸雄が監督就任。西本幸雄の下、リーグ初優勝を遂げ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬の監督就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり、西本退任以降の1982年から仰木彬が指揮した1992年までではBクラスは3度と安定した成績を保った。、監督に就任した西本は羽田耕一、栗橋茂、佐々木恭介、平野光泰、梨田昌崇ら若手選手を鍛えてチーム力の強化を図ったが1年目は5位に終わり、オフにチームの主砲であった土井正博を太平洋クラブライオンズにトレードで放出する。には初めて「優勝」(ペナント2期制度での後期優勝)を果たすが、プレーオフで前期優勝の阪急に1勝3敗で敗れる。4月26日、対ロッテ戦で鈴木啓示が球団初の通算200勝を達成、近鉄入団の生え抜き選手としては唯一の名球会入り選手となった。南海と日本ハムファイターズに勝ち越し、ロッテ、クラウンライターライオンズに10勝以上あげているが、首位の阪急に6勝18敗2分と大きく負け越し前期は3位としたものの、後期は最下位でシーズン通しては4位に終わる。チーム盗塁数120はリーグトップだったが、チーム打率は5位、チーム本塁打92本はリーグ最下位に終わっている。、前期は阪急に次いで2位、後期は8月まで阪急が首位を独走していたものの、9月に近鉄が猛追し一時は首位に立つなど両チームのマッチレースとなり、後期最終戦となる9月23日に阪急との後期優勝をかけた直接対決を迎えた。近鉄は勝てば後期優勝、阪急はこの試合に勝ち、さらに残り2試合中1試合を引き分け以上が優勝の条件だった。近鉄はこの年25勝で最多勝の鈴木啓示を先発に立てたが、山田久志とのエース対決に敗れ、逆転で首位に立った阪急が次の試合にも勝って前期に続き優勝を決め、近鉄は2位に終わっている。この年近鉄は全球団に勝ち越したものの、阪急は近鉄以外の4球団に大きく勝ち越していたのが差となった。、前期は5月までに2位阪急に5ゲーム差をつけ独走していたが、6月9日の対ロッテ戦でチャーリー・マニエルがアゴに死球を受け、戦線離脱、阪急の追い上げもあり、一時は阪急にマジックが点灯するが、最終戦の対南海戦に引き分け前期優勝を決めた。後期は2位となり、後期優勝の阪急とのプレーオフとなるが、この年防御率1位の山口哲治の3連投の活躍で3連勝し、球団創設30年目にして初のリーグ優勝を遂げる。74勝45敗11分、勝率.622は球団記録。広島東洋カープとの日本シリーズでは、第7戦の9回裏1点ビハインドの場面で、無死満塁の一打逆転サヨナラの好機をつかむが、江夏豊の前に阻まれ、3勝4敗で敗退(江夏の21球参照)。、反発力を高めた飛ぶボールの効果もあり、この年本塁打・打点の二冠のマニエルをはじめチームから二桁本塁打10人を出す日本プロ野球新記録のシーズンチーム本塁打239本し、前年5月19日から9月29日まで日本プロ野球記録を更新する215試合連続で得点を記録する。チームは前期2位、後期は残り3節の時点で5位と追い込まれるがそこから巻き返し、10月7日には後楽園球場で、マジック1で引き分けでも優勝決定という日本ハムとの直接対決を6-5で勝利し、続く8日、11日の対西武ライオンズ2連戦にも勝利し逆転で後期優勝、ロッテオリオンズとのプレーオフも3勝0敗で制し2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたしても広島に3勝4敗で敗退。オフにマニエルが契約更改で球団と決裂し退団。、マニエルの抜けた穴はあまりにも大きく、前年4人いた3割打者が1人も出ず、本塁打もビクター・ハリスの22本がチーム最高であるなど打線が低下。前期6位、後期4位の最下位に終わりシーズン終了後、西本幸雄が監督辞任、後任に関口清治が就任。1980年10月7日に行われた後楽園球場における日本ハムと近鉄の後期最終戦。この試合は開始30分前に満員札止めとなった。日本ハムはこの試合で引き分けでも後期優勝が決まるが、近鉄が優勝するにはこの試合に勝ち、対西武戦も連勝する必要があるという日本ハムに非常に有利な試合であった。両チームの先発投手は近鉄は鈴木啓示、日本ハムは高橋一三のベテラン左腕。2回裏に日本ハムが1点を先取。打たれながらも何とか抑えていた高橋が3回表に無死二塁とすると、早くも木田勇がリリーフした。しかし佐々木恭介に打たれて同点とされる。4回表には3本の安打を連ねられて3点を失った。木田はカーブの制球が定まらず、バックの失策も出た。5回裏に日本ハムが1点を返せば、近鉄もクリス・アーノルドがソロ本塁打を放つ。しかし7回裏に日本ハムは代打、富田勝の二塁打を皮切りに4連打を浴びせて2点を返し、1点差にまで迫る。8回表に有田修三がソロ本塁打を放った後に木田はマウンドに座り込んでしまい、ついに降板した。その裏に日本ハムも一死三塁から富田が近鉄2人目の投手の井本隆の頭をワンバウンドで越えるゴロを放ち、これを遊撃手の吹石徳一がギリギリ追い付いて捕球。三塁走者の大宮龍男はこの場面で生還することができなかった。二死から高代延博の安打でようやく生還して1点差に迫った。日本ハムは9回表の近鉄の攻撃を間柴茂有と宇田東植のリレーで凌いだ。9回裏の日本ハムはクリーンナップの好打順。一番手の柏原純一の右翼への痛烈なライナーがフェンス一杯で捕球された。近鉄はこの後に3番手の村田辰美に替えた。トミー・クルーズも右翼正面へのライナーで二死。トニー・ソレイタは三振に終わり、5-6と近鉄の勝利で試合終了。自力優勝の機を逸した日本ハムを尻目に、近鉄は西武にも連勝して逆転優勝を果たした。監督の西本は「あそこまで鍛えに鍛えて、全員が全力を尽くして戦えば、お客さんの期待に応える、あれだけのゲームが出来るのです」とのちに振り返り、当日に新聞紙記者の一人は「かつてプロ野球は巨人一辺倒だったが、時代は変わった」と書いた。は序盤は首位になり前後期とも勝ち越し3位となるが、首位の日本ハムからは大きく離されての結果となった。は4月末に7連敗すると5月まで最下位、持ち直すものの、以降は一度も5割にならないままこの年は4位、シーズン終了後、関口清治が監督が辞任、後任は岡本伊三美。、5月5日には鈴木啓示が通算300勝を達成するが、新外国人選手だったドン・マネーが待遇面をめぐって4月末に退団するなどもあり、4位となるが、3位の対西武戦を9勝17敗と大きく負け越している。 7月10日に鈴木啓示が現役引退を表明、背番号1は球団唯一の永久欠番となる。本塁打はリーグ最多の212本だが、防御率はリーグワーストの5.10で、この年は4位の阪急と勝率1毛差の3位であったが、首位西武とは15ゲーム差をつけられ、二桁投手もストッパーの石本貴昭だけであったが、この時期は1979年、1980年の優勝メンバーと、後の1989年優勝メンバーの世代交代の時期だったとされ、打者では大石大二郎、投手では石本の他に小野和義、吉井理人、佐々木修、山崎慎太郎などの獲得や台頭が見られる。、後半戦は西武との熾烈な優勝争いとなり、互いにマジックが点滅する展開となる。9月30日にはマジック10、127試合目にはマジック3としながら、そこから阪急に3連敗し、残り1試合となる129試合目で優勝を逃し、首位の西武と2.5ゲーム差の2位に終わる。記録の残る1952年以降としては初めて観客動員が100万人を突破している。、新井宏昌が首位打者、ルーキー阿波野秀幸が15勝を挙げ新人王を獲得する活躍をみせるもののチーム内の不協和音もあり5位のロッテとは1.5ゲーム差で、4球団には11勝以上したものの残る西武には5勝19敗3分と大きく負け越したこともあり、最下位となる。シーズン終了後、岡本伊三美が監督を辞任、仰木彬が就任。、終盤に前年までリーグ3連覇中の西武と熾烈な優勝争いを繰り広げることとなった。開幕から西武が独走、6月に入ると貯金20で2位近鉄は8ゲームをつけられ、7日には主砲のリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕され解雇というアクシデントに見舞われ、同月28日に急遽中日ドラゴンズから金銭トレードでラルフ・ブライアントを獲得した。ブライアントはこの後、74試合の出場ながら34本塁打を記録するなど大活躍をした。9月に入っても西武が独走状態は続き、15日の時点では西武に6ゲーム差をつけられるが西武が一時後退して29日の時点では1.5ゲーム差、10月に入り5日にはゲーム差無しで一時近鉄が首位に立つなど、以降シーズン終了まで、首位の西武と近鉄がともに譲らずハイペースで勝ち続けるという展開となり、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄は残り4試合のうち3勝すれば優勝だったが、17日の対阪急戦に敗れ、残り3戦を3勝が優勝の絶対条件となり、川崎球場へ移動しての18日の対ロッテ戦に勝利し、10月19日のロッテとのダブルヘッダーでは第1試合を9回に逆転勝利するが、第2試合延長10回時間切れで4対4の引き分けに終わり、130試合目にして優勝を逃す結果となった(詳細は10.19を参照)。、開幕前は西武と近鉄が優勝争いになると見られたが、ペナントに入ると開幕戦で近鉄に大勝したオリックスブレーブスが開幕から8連勝と抜け出し、近鉄や西武は勝率5割前後と出遅れる。近鉄はエースの阿波野秀幸が開幕から6連勝や、いてまえ打線の復調もあり、7月から8月にかけて2度の4連勝などで8月に一時首位に立つが、9月に入ると連敗を重ねて9月25日の時点で3位に後退していた。近鉄に後がない状況で迎えた10月12日、対西武戦(西武球場)ダブルヘッダーにおいて、ラルフ・ブライアントがこの日4打数連続本塁打が出て西武に連勝。近鉄がマジック2を点灯させる(詳細は10.19#翌年の10.12を参照)。10月14日、藤井寺球場での対福岡ダイエーホークス戦に勝利し、129試合目で9年ぶり3度目の優勝達成となった。初めての本拠地球場での日本シリーズ開催となったが、初戦から巨人に3連勝するものの、加藤哲郎の「巨人はロッテより弱い」発言問題もありその後4連敗を喫し、巨人に敗れる。ドラフトにおいて、8球団競合による抽選の上、新日鉄堺の野茂英雄の交渉権を獲得し入団している。、野茂英雄が最多勝、防御率など主な先発投手タイトルを獲得する活躍で新人王&MVPとなり、沢村賞も獲得。また同じく新人の石井浩郎も6月以降にレギュラーに定着し規定打席不足ながら打率.300、22本塁打と活躍。しかしチームは開幕2戦目から9連敗を喫し大きく出遅れ、阿波野を始め野茂以外の投手陣が軒並み成績を落としたこともあり、西武との大差を縮められず3位に終わる。、西武が開幕から抜けだすが、前半戦最後の西武との直接対決で勝って首位で折り返すものの、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝される。この年の77勝は当時の球団最多勝利記録だった。、前年とは逆に近鉄が序盤の大混戦から抜け出すが西武に追い上げられ2位に終わる。赤堀元之が防御率1.80を記録し最優秀防御率を獲得したが、規定投球回数達成者としては球団唯一の防御率1点台投手となった。シーズン終了後、仰木彬が監督辞任。後任には小玉明利以来26年ぶりとなる生え抜きの鈴木啓示が監督に就任する。、監督の鈴木啓示と野茂英雄や吉井理人といった主力選手との確執が続いた。野茂は4年連続で最多勝を挙げるが四球や自責点もリーグ最多で安定感に欠き、野茂以外に10勝以上投手が出なかったものの、抑えの赤堀元之と、石井浩郎、ブライアントなどのいてまえ打線が好調で、開幕から好スタートの直後に連敗が続き最下位に転落するも、最終的には首位の西武と7ゲーム差の4位に終わる。、開幕の対西武戦で赤堀元之が伊東勤に開幕戦史上初の逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波瀾のスタートとなり、序盤からチームは低迷。6月17日には首位西武に16ゲーム差の最下位に沈む。しかし、いてまえ打線の爆発により夏場から調子を上げ、7月26日から8月10日にかけて球団新記録となる13連勝を記録し一時は首位に立つなど、約1カ月半で32勝6敗、勝率.842の驚異的な成績を残す。しかし、野茂が離脱した8月以降は後退、最終的に首位西武と7.5ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後、野茂が契約のこじれから退団、メジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍。金村義明がFA権を行使し中日に移籍。阿波野が香田勲男との交換トレードで巨人へ移籍。、開幕直前、吉井が西村龍次との1対1の交換トレードによりヤクルトに移籍。開幕から2年目のリー・スティーブンスが13試合で10本塁打と打ちまくるが、ブライアント、石井浩郎の故障離脱があり投手陣も高村が怪我で離脱、ストッパー赤堀が絶不調もあってチームは低迷。鈴木啓示も途中休養する状況で、8年ぶりの最下位になる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督に就任する。ドラフトでは高校生としては史上最多7球団が1位指名したPL学園の福留孝介の交渉権を獲得するが、福留は入団拒否。ダイエーを自由契約となった山本和範が15年ぶりに復帰。、テスト入団の山本が開幕から活躍しオールスターにも選ばれたが、投手陣の調子の波が激しく勝率5割付近を行き来する展開となる。翌年から本拠地が新たに大阪ドームに移転するため、Aクラス入りし開幕カードを新本拠地で迎えたかったが、終盤戦Aクラス入りをかけた対西武二連戦に破れ、4位でシーズンを終える。オフ、大幅減俸提示を拒否した石井が巨人に移籍。本拠地を大阪ドームに移転するも、選手の年俸が高騰、大阪ドームも最寄り駅は近鉄の駅ではなかったため、近鉄沿線からは孤立した存在となる。また、大阪ドームの使用料も近鉄興業が保有していた藤井寺球場よりも大幅に上がった。以降は観客動員数も増えなかったこともあり年間赤字が年々膨れ上がっていく。、開幕カードのグリーンスタジアム神戸での対オリックス2連戦がともに雨で中止となったため、4月8日の大阪ドームでの対千葉ロッテマリーンズ戦が開幕試合となり、大阪ドームでの初試合を4対2で勝利している。借金が最大14になるなど、夏場までロッテと5位を争う状況だったが、10点差逆転勝利を機にチームは浮上。最終的には3位でシーズンを終える。この年の観客動員は186万6千人に達し、球団の年間最多観客動員記録となった。この年限りで大石大二郎が引退。、8月半ばまで日本ハムと優勝争いを繰り広げるが、先発投手陣が安定せず1952年以来となる2桁勝利投手が出ず、ロブ・マットソンの8勝がチーム最高の勝ち星となった。最終的には借金1の5位に終わる。、4月に地元企業との提携と地元密着を目指してチーム名を大阪近鉄バファローズに改称し、9月に従来の近鉄野球株式会社に代わる新会社「株式会社大阪近鉄バファローズ」を設立。4月は首位で折り返すが、前年以上に先発投手陣が安定せず、途中プロ野球新記録となる5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど低迷して最下位に終わる。シーズン終了後に佐々木恭介が監督を辞任、後任は近鉄最後の監督となる梨田昌孝。、就任した梨田に「選手層が薄いが、ケガ人さえいなければ」と言われた状況において、オープン戦で吉岡雄二が骨折こそ免れたものの手首に重傷のけが、シーズンに入って礒部公一が顔面死球で、フィル・クラークが手首骨折で次々に離脱する状況で、中村紀洋が本塁打と打点王の二冠を獲得するが、チームは2年連続最下位に終わる。規定打席到達で3割を超えたのは武藤孝司だけであった。、開幕戦の3月24日の対日本ハム戦は一時は1対6で5点差をつけられるものの、両軍合わせて8本塁打の打ちあいとなり最後は10対9で逆転勝利する。その後も4月に2試合連続サヨナラ勝ちを収めるなど、逆転勝利が多く(78勝のうち41勝が逆転勝ち)、7月17日の対ロッテ戦も9回5点差から8得点を挙げ逆転勝ち、前半戦終了時には、5位のロッテとは5ゲーム、最下位の日本ハム以外が勝率5割以上という状況ながら、10年ぶりに首位で折り返す。シーズン途中に、ピッチャーでショーン・バーグマンとジェレミー・パウエル、けがで故障した武藤孝司の代わりとしてショーン・ギルバートを獲得、この補強も功を奏した。終盤9月3日から5連敗し、9月5日の段階でもダイエーと同率首位、1厘差で西武が追い、5位まで6.5ゲーム差という混戦となるが、9月9日からの11試合を10勝1敗とした。9月24日の対西武戦ではタフィ・ローズが当時の本塁打シーズン日本プロ野球タイ記録となる55号本塁打を達成し、試合も9回裏松坂大輔から中村紀洋のサヨナラ2ラン本塁打で勝利し、優勝マジックを1とした。9月26日、対オリックス戦(大阪ドーム)で5対2とリードされた9回裏、無死満塁として、代打北川博敏が日本プロ野球初となる『代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打』で12年ぶり4度目のパ・リーグ優勝を決めている。同一監督での前年最下位からの優勝は1976年の巨人の長嶋茂雄に次いで2人目で、パ・リーグでは初。ロッテには20勝8敗と大きく勝ち越したが、防御率リーグ最下位(4.98)での優勝。2位チームへの2桁負け越し(ダイエーに9勝19敗)での優勝はともに史上初だった。日本シリーズではヤクルトスワローズに自慢のいてまえ打線を封じ込まれ、1勝4敗で敗退。この年の優勝が近鉄としての最後のリーグ優勝となった。シーズン78勝(60敗2分)は球団記録。オフ、球団初(唯一)のFA移籍で加藤伸一を獲得。、西武と優勝争いを繰り広げ、2位で追う展開となる。途中、8年ぶりの10連勝を遂げるが、同時期に首位西武も9連勝し、差がほとんど縮まらず。8月の直接対決で9点差を逆転負けし、西武にマジック点灯。最終的に大差をつけられての2位に終わる。シーズン終了後に中村がFA宣言するが、メジャーリーグを含めて1カ月余りの交渉の末、近鉄と推定4年20億円プラス出来高払いの契約を結び残留する。大塚晶則はメジャーリーグへのポスティングシステムによる移籍を希望するが、入札球団が現れず、中日に金銭トレードされる。規定打席到達で3割を超えた選手が1人もいなかった。、1月に会社の商号を株式会社大阪バファローズに変更。開幕5連勝するものの、大塚の移籍に伴う抑え投手の不在と4番中村の負傷もあり、3位に終わる。シーズン終了後、長年主砲として活躍し、この年も本塁打王を獲得しているローズを年俸高騰から自由契約とする(巨人が獲得)。 、この年が近鉄球団としての最後の年となった。1月31日、ネーミングライツ問題が発覚するが巨人などの反対もあり、失敗に終わる。6月13日、オリックス・ブルーウェーブと球団合併する方向で準備を進めていることを発表する。6月30日にライブドアが球団を買収する動きを見せたものの、近鉄は買収には応じず(ライブドアの動きについてはこちらも参照)、8月10日、合併に関する基本合意書への調印が行われ、9月8日、オーナー会議でこの合併が正式に認められた。9月18日、19日、この問題に反発するプロ野球選手会による日本プロ野球初となるストライキが行われ、近鉄、オリックス以外も含めて12球団すべての試合が中止となっている。オープン戦で吉岡雄二がアキレス腱断裂で離脱。新外国人選手のラリー・バーンズが開幕3戦目で離脱、同じくヘクター・カラスコも、4月に4連敗で防御率20.00となり登録抹消。4月7日に4位となって以降このシーズンはAクラスになることはなく、4月は最下位で終える。岩隈久志が開幕から球団記録となる12連勝もあり、一時は4位となるが、6月13日の球団合併発表の翌試合から4連敗するなど5位となり、7月は4位で終わるものの、アテネオリンピックで岩隈、中村紀洋が抜けた8月7日から7連敗で、以降は5位となる。梨田は合併発表時の時点では「借金4で手ごたえはあった」としているが、7月7日のオーナー会議の時点では選手は抜けがらになり、最後は立ち上がれなかったとも述べている。9月24日、大阪ドームでの近鉄最終戦となる対西武戦が行われ、この年ここまで出場のなかった吉岡が代打で出場、この試合が引退登板となった赤堀元之や加藤伸一などが登板。試合は延長11回裏、1死二塁で星野おさむの右翼線へのサヨナラ安打で3対2で勝利、これが球団公式戦最後の勝利となった。9月27日のYahoo! BBスタジアムの対オリックス戦が、共に合併する球団同士の公式戦最終戦となったが、2対7で敗れている。チームは61勝70敗で4年ぶりのBクラスとなる5位に終わった。岩隈は15勝を挙げ最多勝を獲得するなど計算できた投手陣に比べ、打撃陣はローズが抜けたことや吉岡などの故障もあり、前年より本塁打、得点が激減となっている。二軍は前期優勝で、9月30日、藤井寺球場で最後の二軍公式戦、ウエスタンリーグ優勝決定戦が行われたが、後期優勝の中日に敗れている。11月8日、オリックスと新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスの間で選手分配ドラフトが行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。大村直之がFAで福岡ソフトバンクホークスに移籍。中村紀洋がメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースにポスティングシステムで移籍している。以上の合併への動きは選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、球団合併反対運動では選手も署名活動に参加するなど、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。そして、11月30日をもってプロ野球チームとしての大阪近鉄バファローズは55年の歴史に幕を降ろした。、1月15日に御堂筋グランドビル7階に置いていた株式会社大阪バファローズ事務所閉鎖。1月17日、同ビル15階に事務所移転し、中村のポスティング申請など残務処理を引き続き行う。3月31日、この日をもって株式会社大阪バファローズ解散となる。同年6月20日付で清算を終え、会社は完全消滅した。なお、この後近鉄は合併後の暫定処置として球団合併後2007年までオリックス球団の株式を20%保有し、ユニフォーム左袖部分に「近鉄」のロゴを入れたが、2007年のシーズン終了と同時に完全撤退した。※太字は優勝達成監督タイトル制定(1994年)以後の該当者無し。タイトル制定以前のリーグ最多安打打者は以下の通り。※ 1981年制定、1989年から廃止タイトル制定(1989年)以後の該当者は以下の通り。タイトル制定以前の該当者は以下の通り。※ 2001年で廃止され、翌年からは最優秀投手となった。※1974年に最多セーブとして制定、1977年よりセーブポイントで表彰する最優秀救援投手に変更。球団消滅後の2005年より最多セーブ投手に。なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。※ 1972年 - 1985年はダイヤモンドグラブ賞近鉄在籍時代に記録したもののみ(他球団在籍時での記録は数字に含まれない)なお、この他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を行った。日生球場・大阪球場藤井寺球場また、近鉄として最後の監督である梨田昌孝によって、以下のような言葉が残されている。1967年8月、近鉄は、これまでの1・2軍とは別に、若手育成の観点から将来3軍を結成することを念頭においた新人オーディション(入団テスト)を実施した。まず面接・書類審査に98人が応募。その中から24人に絞り、実技による2次審査を4日間にわたり藤井寺球場で実施。3軍のチーム化を念頭に、十数名程度の獲得を目指そうとした。しかし、実際に実技テストを合格したのは4人のみで、3軍を結成するとした目標には遠く及ばず、その4名のうち3人は投手で野手は1名だけだった。しかも彼らは全員結果を出せず、2人は2年、もう1人は3年で引退。残り1名についても1972年に南海へ移籍したため、3軍制構想は失敗に終わった。2004年のキャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年以降に球団名称を第3者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム、球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案だったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季 - 1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年 - 1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年 - 1978年)、ロッテオリオンズ(1969年 - 1970年に中村長芳がオーナーだった。1971年大毎からロッテに正式に譲渡)などの例がある。近鉄の場合、命名権の販売対象企業として名前が挙がっていたのが消費者金融のアコムだったため、青少年への影響面から認められなかった理由のひとつに挙げられていた。近鉄の命名権販売が認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。2004年にオリックスとの合併で消滅した近鉄だが、それ以前にも他球団との合併が画策されたことがある。1965年オフには当時のオーナー・佐伯勇が広島カープオーナー・松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では、と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。本拠地の変遷は先述の通りであるが、他に下記のような移転計画があった。また、青木一三は著書で、佐伯オーナーが1979年頃に、愛媛県を本拠とする来島どっくグループ総帥の坪内寿夫に球団売却の申し入れをおこなっていたと記している。
出典:wikipedia
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