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グレゴリオ暦

グレゴリオ暦(グレゴリオれき、)は、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して制定した暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。単に新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。平年には1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + 97/400 = 365.2425日、とすることがグレゴリオ暦の本質である。この平均日数365.2425日は、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の365.242 189 572日(2013年年央値)に比べて26.821秒だけ長い。日本では明治5年(ほぼ1872年に当たる)に採用され、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を明治6年1月1日(新暦)(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。キリスト教では、重要な祭日である復活祭の日付は毎年の春分日を起点として定義されるが、第1ニカイア公会議(325年)にて春分日はユリウス暦上で毎年3月21日とすることが決められていた。ユリウス・カエサルによって紀元前45年に制定されて以降、キリスト教文化圏を中心に使用されてきたユリウス暦は、暦年の平均日数を365.25日とする近似法である。しかし、実際の太陽年は、約365.2422日であるので、毎年少しずつ暦が、そして春分日がずれていくことになる。このことは13世紀には認識されており、たびたび改暦の提案がなされるようになった。16世紀後半には、ユリウス暦上の春分日である3月21日に対して、実際の春分日(天文現象としての太陽の春分点通過日)は平均してユリウス暦上の3月11日となり、10日ものずれが生じていた。このため、ローマ・カトリック教会は、改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであり、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争が巻き起こった。委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、1582年10月4日(木曜日)の翌日を、曜日を連続させながら、10日間を省いて、1582年10月15日(金曜日)とすることを定め、その通りに実施された。なおグレゴリオ暦を1582年以前に遡って適用すると、200年3月1日から300年2月28日までは、ユリウス暦と同じ日付となる(ユリウス通日も参照)。1582年まで用いられていたユリウス暦では、通常の年(平年)は1年を365日とし、4年ごとに置く閏年を366日とし、これによって平均年を365.25日としていた。しかし、平均太陽年(実際に地球が太陽の周りを1周する平均日数)は、365日5時間48分45.179秒 = 31 556 925.179秒 = 約365.242 189 572日(2013年年央)である。したがって、ユリウス暦の1年は、実際の1太陽年に比べて、365.25日 − 約365.2422日 = 約0.0078日(約11分15秒)長い。黄道上で太陽が特定の点(春分点、秋分点、夏至点、冬至点など)を通過するという天文現象の発生日時は、暦上は4年毎に約0.0312日(0.0078日 × 4)ずつ早まって行き、約128年で1日分だけ早まることになる。ユリウス暦は、その制定当時の天文観測水準を考えればかなりの精度だったと言えるが、千数百年も暦の運用が続くと天文現象の発生日時の暦上の変動は無視できないものとなった。16世紀末に10日ものずれが生じていたのは、このためである。なお、上記の計算は、2013年時点での計算であり、グレゴリオ改暦が議論されていた16世紀中頃の計算とは少しずれがある。グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年頃には、平均太陽年は、約365.2422日であることが知られていた。(365.25日 − 365.2422日)× 400年 = 3.12日/400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。このため、グレゴリオ暦では、400年間に、97回 (= 100 − 3) の閏年を設けることにより、1年の平均日数を365.2425日 = 365日5時間49分12秒 = 正確に31 556 952秒 とした。なお、400年間の日数は、365.2425 × 400 = 146 097日であり、これは7で割り切れる(146 097 ÷ 7 = 20 871週)ので、グレゴリオ暦は、曜日も含めて400年周期の暦である。400年間に3回の閏年を省くには様々な方法があり得る。3回分の平年がなるべく均等に分布すること、分かりやすく記憶しやすいことを考慮して、「西暦紀元(西暦)の年数が100で割り切れ、かつ400では割り切れない年は平年とする。これ以外の年では西暦年数が4で割り切れる年は閏年とする。」というルールが採用された。100で割り切れる年は400年間につき4回あるが、400で割り切れる年は400年間につき1回だけである。以上のルールによって、ユリウス暦では閏年になる3回分の年をグレゴリオ暦では平年とすることができる。例えば100で割り切れる年のうち、西暦1700年、1800年、1900年、2100年、2200年、2300年、2500年、2600年、2700年は400で割り切れないので、これらの年は平年である。これに対して、西暦1600年、2000年、2400年は400で割り切れるので、これらの年は閏年である。平年および閏年のそれぞれにおける各月の日数は、グレゴリオ暦でもユリウス暦と同じである。すなわち、1月、3月、5月、7月、8月、10月、12月は31日、4月、6月、9月、11月は30日、2月は平年が28日、閏年は29日である。通日数の計算はユリウス通日を参照のこと。ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日に戻すため、トリエント公会議(1545年 - 1563年)において教皇に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のの弟であるアントニウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。委員会が1577年に刊行したCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し、改暦案を考案した。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウスである。なお、この365.2425日という値を算出したのはコペルニクスであるとの説があるが、コペルニクスは改暦案の提案には関わっていないので、この説は成立しない。本来は400年間で3.12日の閏年の省略とすべきところを、整数値である3日間の省略としたため、1年間では、(3.12日 − 3.00日)/400年 × 86 400秒/日 = 約26秒/年の誤差が生じることは、当時から計算されていた。これを最近値で計算し直すと、下記のようにグレゴリオ暦での平均の1年は、実際に観測される平均太陽年(2013年年央)に比べて26.821秒(= 約0.000 310 428日)だけ長い。このずれは約3221年で1日に達する。以上のように、ユリウス暦では1日のずれが生じるまでに約128年しかかからなかったのに対して、グレゴリオ暦では同じく1日のずれが生じるまでに約3221年を要するまでに精度が高まった。ただし、上記の年数は平均太陽年が不変としたときの計算であり、実際には平均太陽年は100年(正確には1ユリウス世紀)ごとに0.532秒ずつ短くなっている(太陽年の項を参照)。このため、3221年後には、約17秒ほど平均太陽年が短くなっていることを考慮すると、グレゴリオ暦との1日のずれはもっと早い時点で起こることになる(太陽年#太陽年の変化、)。なお、春分日時の間隔に着目した誤差は歳差などの影響により上記の計算とは異なり、西暦2000年時点で7700年に1日、明治改暦(1873年)時点で7200年に1日となる。ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、13世紀の哲学者ロジャー・ベーコンが指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったため、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。ヨーロッパ圏内であっても、カトリックの国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では導入までに少なくとも100年以上かかった。制定後、実施日である1582年10月15日に即座にこの暦を導入したのはカトリックを奉じるイタリア諸国、スペイン(併合されていたポルトガルを含む)、ポーランドである。フランスは2カ月ほど遅れたものの、1582年中に導入を果たした。1583年には神聖ローマ帝国のカトリック諸邦で、1584年にはスイスのカトリック諸州で導入され、カトリック諸国の改暦は数年を経ずして完了した。プロテスタント諸国については、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった理由の一つとして、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったためである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を基に祭日を決めることに問題があることは、プロテスタントの宗教家も認識はしていた。このためグレゴリオ暦は非カトリック国にも徐々にだが浸透した。プロテスタント諸国で最も早くグレゴリオ暦を導入したのは、ドイツのプロテスタント諸国である。ドイツのプロテスタント諸国は、1699年のレーゲンスブルク帝国議会において日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーが作成したルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良帝国暦と呼ばれた。しかしケプラーはグレゴリオ暦の方が優れていることを知っていたため、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実質的には改良暦はグレゴリオ暦で計算するのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、1700年に実施された際には隣国デンマークもこれに倣った。周辺プロテスタント諸国も徐々にこれに追随していった。1752年にはイギリスが帝国全域においてグレゴリオ暦を導入し、1753年にはスウェーデンが独自暦だったスウェーデン暦を排してグレゴリオ暦を導入することを決定し、これでプロテスタント諸国もすべてグレゴリオ暦を導入することとなった。また、非キリスト教国においても1873年の日本(後述)を皮切りに、徐々にグレゴリオ暦を導入する国家が増加していった。正教会が優勢な東欧では、より長い時間がかかった。16世紀、コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認し、他の正教会でもグレゴリオ暦を承認する教会はなかった。このことはブレスト合同が不完全なものに終わる結果にも影響があった。現在でも正教会は、フィンランド正教会を除いてグレゴリオ暦を使用していない。ロシアで最も強い影響力をもつロシア正教会は正教会に属しており、同国で1917年グレゴリオ暦3月に起きた革命を「2月革命」、同11月に起きた革命を「10月革命」と呼称するのは、当時のロシアで採用されていた暦に従ったためである。コンスタンディヌーポリ教会が1923年に採用した暦は修正ユリウス暦()と呼ばれるものであり、厳密にはグレゴリオ暦ではないが、グレゴリオ暦とユリウス暦の月日の修正が行われ、2800年までは二つの暦の間にずれが出ないようになっている。なお、2800年以降は再びずれが生じる。今でもエルサレム総主教庁、グルジア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、日本正教会はユリウス暦を使用している。ただし、ロシアでも教会以外の一般社会ではグレゴリオ暦を採用している。従って、ユリウス暦12月25日の降誕祭はロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。他方、復活大祭の算出には全正教会がユリウス暦を使用するため、復活祭およびそれに伴う祭日・斎日は全正教会(フィンランド正教会を除く)が一致して祝っている。ただしこれは、ユダヤ教の祭日が決まった後でキリスト教の祭日を決定するという初期のキリスト教の祭日決定法に従うためで、グレゴリオ暦を導入していないことによるものではない。ユダヤ教では1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するため、正教会では完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである。日本では、明治5年(ほぼ1872年に当たる。)に、従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。この「」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため明治5年12月2日まで使用されていた天保暦は旧暦となった(明治改暦、明治の改暦)。この布告は年も押し詰まった明治5年11月9日 (旧暦)(新暦の1872年12月9日に当たる。)に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。一方、福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している。これほど急な新暦導入は、当時参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、政府の財政状況が逼迫していたことによる。すなわち、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13か月となる。すると、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12か月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算である。新暦導入を機に週休制にあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができる。しかし、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、この布告には置閏法に不備があった。その不備とは、グレゴリオ暦の重要な要素である、「西暦の年数が100で割り切れ、400で割り切れない年を閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。このままでは解釈次第では、導入された新しい太陽暦はグレゴリオ暦ではなく、また日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ閏年の置き方を採用した日本独自の暦」ともされてしまう。また、同布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。そこで1898年(明治31年)5月11日に、改めて勅令「」(明治31年勅令第90号)を出して、グレゴリオ暦に合わせた閏年に関する調整を定めた。この勅令では、神武天皇即位紀元(皇紀)を用いて閏年と平年とを求めているが、西暦を用いたグレゴリオ暦の採用と事実上違いはない(260を減算すればよいところを660としている点で、グレゴリオ暦そのものを参照していると解釈できる)。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布されたときには、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年すなわち1900年(明治33年)は、1年半後に迫っていた。国立天文台暦計算室の暦Wikiの「明治以降の編暦」の記事も参照のこと。※ただし国立天文台は、毎年2月に「暦要項」を官報に告示し、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」(朔=朔、望=15日など)を計算・提示している。すなわち、毎年、旧暦の「30日の大月、29日の小月」の設定、置閏の基準である「中気」の提示は「公的」に行われていることになる。グレゴリオ暦はユリウス暦に比べはるかに精度が高くなっているが、それでも上記のとおり誤差は完全に解消されたわけではなく、また年初が冬至などに関連付けられていない何の意味もない日付であることや、各月の日数が2月の28日(うるう年のみ29日)、その他の月は30日と31日であってきわめて不規則であること、一年の日数が週の倍数になっていないため暦日と曜日が一致しないことなどの問題点が指摘され、しばしば改暦運動が盛り上がった。こうした改暦運動で実施されたものは1793年にフランスで施行されたフランス革命暦のみであるが、合理に徹するあまりそれまでの週や七曜の廃止を行うなどして大混乱を招き、1806年にはグレゴリオ暦に復帰した。しかしその後も、世界暦への改暦提案などがしばしばなされている。

出典:wikipedia

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