ビビアン・スー("Vivian Hsu"、徐 若瑄(シュー・ルオシュエン)、1975年3月19日 - )は、台湾出身のマルチタレント。現在は台湾、日本、中国を拠点に活動をしており、歌手、女優だけではなく作詞活動など幅広く活動している。1975年(昭和50年)3月19日、タイヤル族の母と外省人の父との下に台湾の台中県豊原市で生まれる。国立台北商業専科学校附設高商補校中退。1990年(平成2年)、台湾のCTSテレビ主催「台湾美少女芸能コンテスト」でグランプリを獲得。台湾の男性アイドルグループ「小虎隊」の妹分として「少女隊」という3人組の女性アイドルグループの一員として、シングル『Merry Christmas(P.S.I Love You)』でデビュー。1991年、少女隊としての初のアルバム『我的心要去旅行』をリリース、さらに2枚目の『偏愛你的心』もリリースした。1994年(平成6年)4月、映画『ビビアン・スーの恋しくて…』に、主人公が憧れるヒロイン役で出演し、香港デビュー。11月、『ビビアン・スーの天使の戯れ』に出演しラブシーンを演じる。『ビビアン・スーの天使の戯れ』の撮影終了後、フルヌード写真集『天使心』を発売。ヘアーヌードを披露した。1995年(平成7年)1月、台湾で出版した写真集『天使心』の日本版『Angel』の発売、アイドル雑誌『BOMB』への掲載によって、日本のメディアへ登場。キャッチコピーは「台湾の宮沢りえ」「台湾の裕木奈江」だった。5月、アダルト向け映画『ビビアン・スーの桃色天使』にて主演。9月15日、大阪ギャラクシーホールでにて、日本では初のイベント。10月、『くちびるの神話』(テレビアニメ「バーチャファイター」のエンディングテーマ)リリース。11月、香港で『ビビアン・スーの天使と悪魔』に助演。1996年(平成8年)、ゴールデンタイムのバラエティ番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系)のレギュラー。このウリナリで日本でのほぼ全世代の知名度を確実のものにする。1997年、ウッチャンナンチャンの南原清隆、キャイ〜ンの天野ひろゆきと「ブラックビスケッツ」を結成。8月30日に、松竹シネマジャパネスク系の映画館にて『殺し屋&嘘つき娘』で日本映画初出演。1998年(平成10年)4月、ブラックビスケッツから『タイミング〜Timing〜時機』を発売する。『オリコン』『COUNT DOWN TV』で初登場2位、出荷枚数は約200万枚の大ヒット。この年のCOUNT DOWN TV年間チャートでは第3位にランクイン。12月、第49回NHK紅白歌合戦に「ポケットビスケッツ&ブラックビスケッツスペシャルバンド」として初出場。日本レコードセールス大賞、新人ゴールド賞を受賞。1999年(平成11年)、ブラックビスケッツの活動を停止(解散ではない)。11月、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』を降板(10月22日がレギュラー最後の出演)。表向きではブラビの試練をクリアできなかったための降板とされているが、注目されるにつれて日本に限らず各国の仕事が多忙を極めるようになり(ウリナリ収録日だった日曜日・月曜日についても飛行機の移動が増すと日本へ戻るのが困難となったため)同年春頃よりブラビ以外のウリナリ他コーナー出演が極端に減るようになり(1998年までは顕著に出ていた単発コーナーやランキングキャラクターライブのコーナー等。週によっては他の企画やポケビに重点を当てていたため全く出ない週もでていた)出番を減らしていた矢先に「ブラビとして(ウリナリレギュラーとしても)最後のレギュラー出演の収録」をしていた頃、台湾時間の同年9月21日に故郷・台湾で台湾大地震が発生する。当時のブラビシングル・「Bye-Bye」の売れ行き不調(先述の通りノルマ達成ならず)やそれが原因によるブラビ急な活動停止・先述の故郷での大災害がトリプルで重なって起こってしまったことが日本での露出激減をした最大の理由とされている。その後、ウリナリに関しては後述の通り、2回ゲスト扱いで出演しただけだった。それらの事情もあり以降、ウリナリ以外の日本のレギュラー出演番組も引き続き持ちながら(ゲスト出演含む)も主要な活動拠点を台湾に移す。2000年、ウリナリ発のインド映画・ナトゥゲスト出演のため、1年ぶりに一時的にウリナリへ復帰する(ただしゲスト扱いなのでナトゥ関連コーナーのみ出演)。2001年、佐久間正英を中心に土屋昌巳、ミック・カーン、屋敷豪太と「The d.e.p」を結成、ヴォーカルを担当する。5月9日、「The d.e.p」からアルバム『地球的病気』を発売。2002年3月、最終回のウリナリ祭りで、ブラックビスケッツが特別復活し、ビビアンもゲスト出演として復帰(ただし、ゲスト扱いなのでブラビライブ終了後の他コーナー出演なし)。ブラビの楽曲4曲すべてを熱唱した。8 - 10月、PCオンラインゲーム『エターナルカオス』のイメージガール。2003年(平成15年)、元SIAM SHADEの遠藤一馬とVivian or Kazumaとして毎日放送・TBS系TVアニメ『機動戦士ガンダムSEED』のオープニング曲を歌う。作中では、声優としてアイシャの声を当てたが、後に放送された特別編では同キャラクターの声は平野文に差し替えられている。2004年、日本での所属事務所をスカイコーポレーションの子会社であるスカイプランニングから吉本興業へ移籍。韓国のマネジメントはAGCが担当。2006年(平成18年)2月、持病の外反母趾が悪化し、主演映画『靴に恋する人魚』の台湾上映PR直後に台湾の病院に入院、5時間の手術を済ませ、療養しながら仕事復帰。7月、『靴に恋する人魚』公開前プロモーションのため来日。また、療養中に作詞活動を行う。9月、新アルバム『Vivi and...』を台湾で発売。香港、シンガポール、マレーシアの各国をプロモーションで廻った。2007年(平成19年)1月下旬、主演ドラマ『天使の約束』が日本で放送される。2月から約2か月間アメリカに留学し、英語、歌やダンスなどを学ぶ。3月15日、台湾の台北市で開かれた下着メーカーのモードマリエのファッションショーに出演し「前はBカップだったけど、今はCカップに成長した」と述べる。8月、華誼兄弟とワーナーミュージックに移籍する。9月13日、台北でのイベントに出席した際、顔面麻痺であることを認める。10月、第20回東京国際映画祭協賛企画・2007東京・中国映画週間オープニング映画として上映された『雲水謡』に出演。2008年(平成20年)2月、旧正月(2月7日)前あたりから父親の看病に専念するために一時的に休業するが、3月に復帰する。4月、中国各地を代表する100人の1人として、オリンピック100日記念イベントの主題歌『北京歓迎你』を歌う。5月、張惠妹の応援で林志玲(リン・チーリン)と共に来日。2009年(平成21年)3月20日、沖縄国際映画祭にて中国映画『狙った恋の落とし方。』(映画祭邦題:If You Are The One)の舞台あいさつをするために来日、秋以降に日本語のCDを発売すると発表。2010年(平成22年)、テレビアニメ『くるねこ』のテーマソングをきっかけに日本で本格的に再始動する事が決定。また、ピーター・ホーと共に上海万博のテーマソング『微笑说你好』を歌う。同年10月、第23回東京国際映画祭で、中国代表団が台湾代表団に対し「中国台湾」の名称を使用せよと要求し、台湾側がこれを拒んだ台湾表記問題が起きたために開幕式に出る事が出来ず、「私達がどんなに頑張ってもどうにもならない」と悔し涙を流した。2015年(平成27年)8月13日、シンガポールで第1子男児を出産。妊娠3ヶ月ころにウィルス性腸炎を発症緊急入院し143日間寝たきりとなっていたが、胎児の体重が2kgまで育つのを待ち帝王切開で出産した。特技はスポーツ全般、ボウリングの最高得点は256点。好物は、抹茶アイスクリームとしゃぶしゃぶ。好きな言葉は「努力」。目標は、誰からも愛される歌手、女優になること、台湾の家族に家を買ってあげること。北京語、台湾語、広東語、英語、韓国語、日本語を話す。ビビアンにとって、大好きだった祖母との会話は日本語だった。祖母は北京語があまり得意ではなく、話せる言葉はタイヤル語と日本語だけと語っている。また、香港出身のタレントチューヤンと遭遇した際もお互い北京語が苦手で日本語で会話していた。来日後は、歌手活動や日本語の未熟さからキワモノ系の外国人タレント扱いでバラエティ番組に引っ張りだことなる。日本在住当時は東京都・神田に住んでいたとコメントしている(ウリナリにおいてビビアン本人が発言していたが、ネタの可能性もあり、真偽は不明である)。そのキャラクターゆえに南原清隆からは「お前のボケはウドを超えてるな」と評された。1999年から2002年頃まで、LUNA SEAのギタリスト・SUGIZOとの交際が報じられたことがあった。日本での活動期間中も何度か台湾での仕事のためにレギュラー番組を休むことがあったが、1999年以降は主な活動拠点を台湾に移行(ただし、前述のとおり、ウリナリ以外のレギュラー番組とゲスト出演は継続)。その後も、千秋などとは連絡をとっていた。2010年より本格的に再開。過去多くの男性との交際が報道されたが、いずれも年下ばかりであるため台湾自由時報3月21日版で「年下好き(姉姉愛弟弟)」と報道された。スキューバダイビング関連会社PADIジャパンのイメージキャラクターとして、プロフェッショナルのモデルダイバーを勤めたこともある。母・姉・弟共に日本への留学経験が有り、弟は2007年まで留学していた。元モーニング娘。の保田圭は親友で、度々お互いのブログに登場する。2014年2月、シンガポールの実業家男性と入籍したことを発表。同年6月にバリ島で結婚式を挙げ、林心如や保田圭ら、招待客に祝福された。その後、台湾でも式を挙げたという。2015年8月、シンガポールの病院で男児を出生。病気のため妊娠32週で帝王切開をして子どもの出生体重は約2Kgであった。人物
出典:wikipedia
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