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雲龍 (空母)

雲龍(うんりゅう/うんりう)は、大日本帝国海軍の航空母艦。雲龍型航空母艦の1番艦。雲竜の表記も使用された。太平洋戦争末期に竣工したため空母として実戦に参加する機会はなかった。1944年12月中旬、フィリピン方面への軍需物資・兵員輸送および特攻機「桜花」輸送任務中にアメリカ潜水艦から雷撃され撃沈された。なお戦後、この名称は海上自衛隊のそうりゅう型潜水艦の2番艦「うんりゅう」に引き継がれた。1940年(昭和15年)7月、アメリカで両洋艦隊法が成立し、アイオワ級戦艦2隻、モンタナ級戦艦5隻、航空母艦18隻、アラスカ級大型巡洋艦6隻、巡洋艦27隻、駆逐艦115隻、潜水艦43隻の建造が決定する。このうちアメリカ海軍のエセックス級航空母艦三隻に対抗するため、翌年に日本海軍は「昭和十六年度戦時急造計画」(マル急計画)として建艦計画をたて、その中で中型空母一隻を緊急建造することとした。これが第302号艦(雲龍)である。第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)で建造予定の空母は1隻(大鳳)のみであり、それも竣工まで時間がかかると予想された為の措置である。昭和16年時点で、11隻の建造が決定していた(最終的に32隻の建造が計画された)エセックス級への対抗とミッドウェイ海戦における空母喪失を補うため、昭和十七年度軍備充実計画を改訂し、昭和十七年度戦時艦船建造補充計画として改大鳳級5隻、先の中型空母15隻の追加建造を決定した。雲龍型航空母艦は工事を急ぐために新規設計や各種試験実験を行う余裕がなく、中型空母としては理想的だった飛龍の図面を基に建造されたが、実艦の不具合や運用経験を元に幾つかの変更点が盛り込まれた。これが雲龍型を飛龍改と呼ぶ理由となっている。変更点は以下の通り。横須賀海軍工廠で、仮称第302号艦として1942年(昭和17年)8月1日起工。当事の横須賀海軍工廠は、潜水母艦大鯨(空母龍鳳)の空母改装、大和型戦艦3番艦110号艦(後日、空母信濃として竣工)の建造を行っていた。1943年(昭和18年)7月31日、命名。9月25日、進水。同日附で佐世保鎮守府所属。1944年(昭和19年)4月15日、日本海軍は小西要人大佐(3月26日まで軽巡阿武隈艦長)を雲龍艤装員長に任命する。小西大佐は、太平洋戦争において第7駆逐(潮、漣、曙)司令、続いて第9駆逐隊(朝雲、白雲、薄雲)司令、阿武隈艦長などを歴任。高い操艦能力を持っていた。阿武隈艦長時代、小西大佐は阿武隈主計長に「陛下から預かった艦が沈む時は、海の底までついて行く。それが海軍兵学校出身者の使命だ」と語っている。同年8月6日、雲龍は竣工し小西大佐(雲龍艤装員長)は制式に雲龍艦長となる。同日附で第一航空戦隊に編入される。起工から竣工まで約2年であり、飛龍型航空母艦の3年に比べて1年短縮されている。しかし日本海軍航空隊はろ号作戦、ブーゲンビル島沖航空戦、トラック島空襲、パラオ大空襲、マリアナ沖海戦等の相次ぐ敗北ですでに壊滅状態であったため、雲龍型2隻(雲龍、天城)で第一航空戦隊を編成したものの、空母機動部隊として運用されることはなかった。8月10日時の第一機動艦隊編成は以下の通り。○第三艦隊 司令長官小沢治三郎中将(第一機動艦隊司令長官 兼務)同時期、アメリカ軍機動部隊が硫黄島や小笠原諸島に空襲を敢行、これに対処するため連合艦隊は雲龍を基幹とする『急襲部隊』(指揮官小西要人雲龍艦長)を編制した。空母「雲龍」、長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」、第41駆逐隊の秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)という戦力である。急襲部隊は7月10日に新編された第三航空艦隊(長官吉良俊一中将)の指揮下に入り、「雲龍」は東京湾に進出。訓練に従事した。「雲龍」が出動する事態は生起せず、9月下旬には機動部隊に復帰命令が出された。9月26日、横須賀を出発、瀬戸内海に回航された。27日、3隻(雲龍、霜月、冬月)は呉に到着。10月1日、雲龍型3番艦葛城が竣工、同日附で第一航空戦隊(司令官古村啓蔵少将)が再編された。10月15日、第一航空戦隊は雲龍型3隻(雲龍、天城、葛城)で編成。だが搭載航空隊のない空母隼鷹・龍鳳と同じく出撃の機会はなかった。一方、日本海軍はレイテ沖海戦直前の10月1日、有人ロケット特攻兵器「桜花」を主力とする第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編成する。同隊出撃準備中にアメリカ軍がフィリピンに襲来してフィリピンの戦い (1944-1945年)がはじまり、10月下旬のレイテ沖海戦で日本海軍は壊滅した。第三艦隊においては10月25日エンガノ岬沖航空戦で空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)を喪失、護衛艦3隻(多摩、秋月、初月)も沈没した。雲龍所属の第601海軍航空隊も第三航空戦隊(瑞鶴)の艦載機や陸上基地に転用され、アメリカ軍との航空戦で戦力を喪失した。小沢中将(第一機動艦隊長官)は日本に帰還したのち雲龍、続いて龍鳳に将旗を掲げたが11月15日附で第一機動艦隊および第三艦隊は解隊。それと共に2隻(龍鳳、隼鷹)も第一航空戦隊に編入され、同隊は空母5隻(龍鳳、隼鷹、天城、雲龍、葛城)となった。同時期には横須賀で本艦と共に建造されていた空母信濃(110号艦)も一航戦に編入されている。空母機動部隊が壊滅するのと並行して、日本海軍は零式艦上戦闘機等による航空特攻を開始していた。フィリピンの戦局が悪化する中、海軍は桜花投入時機について12月23日のレイテ湾を想定していた。しかし桜花の発射母体たる一式陸上攻撃機が、桜花を懸吊したまま内地からフィリピンへ飛行進出する事は不可能であった。そこでフィリピンに整備部隊が先行して駐在し受け入れ体制を整え、しかるのち海上輸送により桜花を進出させる事になる。まず桜花50機が大和型戦艦3番艦改造空母信濃に搭載され、第17駆逐隊(浜風、雪風、磯風)の護衛により横須賀から呉に回航された。だが11月29日にアメリカの潜水艦アーチャーフィッシュ ("USS Archer-fish, SS/AGSS-311")の雷撃で信濃が撃沈され、搭載した桜花50機も喪失した。日本海軍はなおもフィリピンでの桜花投入にこだわり、今度は雲龍が桜花30機をフィリピンへ海上輸送する事になった。桜花以外にも、大発動艇、各種車輌約60台、便乗者多数を搭載。さらに滑空飛行第一戦隊の軍用グライダー「四式特殊輸送機(ク八)」も積み込んだという。龍鳳主計長によれば、日本陸軍落下傘部隊(挺進連隊)約1000名をフィリピンに緊急輸送するため空母2隻(雲龍、龍鳳)に分乗させて出撃することになったが、一刻を争うため速力の出る雲龍に集中させたと回想している。記録では、便乗者合計約1500名、搭載軍需品合計約1500トンに達した。なお大井篤(海上護衛総隊参謀)は、雲龍の輸送物件を水上特攻ボート「震洋」としている。震洋(第七震洋隊、50隻)は隼鷹型航空母艦1番艦隼鷹により、11月11日マニラへ輸送されている(11月13日、アメリカ軍はマニラ空襲を敢行)。隼鷹は11月30日にもマニラへ輸送をおこなったが、帰投中の隼鷹輸送隊(戦艦《榛名》、空母《隼鷹》、駆逐艦3隻《冬月、涼月、槇》)はアメリカ軍潜水艦のウルフパックに襲撃され、アメリカの潜水艦レッドフィッシュ("USS Redfish, SS/AGSS-395")の雷撃で隼鷹が大破、佐世保に帰投できたものの二度と出撃できなかった。1944年(昭和19年)12月10日、第一航空戦隊司令官は古村啓蔵少将から大林末雄少将(第一機動艦隊・第三艦隊解隊時参謀長)に交代する(古村は翌年1月3日より第二水雷戦隊司令官)。12月17日朝、第二水雷戦隊・第21駆逐隊(時雨)、第52駆逐隊(駆逐隊司令岩上次一大佐)の松型駆逐艦2隻(檜、樅)に護衛されて呉を出港し、「緊急重要物資」(特攻兵器桜花)輸送のため、フィリピンのマニラへ向かう。対潜哨戒を受けつつ、関門海峡を通過。東シナ海に出る。同日、フィリピン方面で行動中のアメリカ軍機動部隊第38任務部隊はコブラ台風に翻弄されていた。12月18日の時点で雲龍はアメリカ潜水艦と思われる電波を探知し、警戒を強めていた。12月19日、艦隊は悪天候の中を航行し、小西大佐(雲龍艦長)以下全員が潜水艦を警戒して艦橋につめていた。各艦は雲龍を中心として同艦左斜め前方1.5kmに時雨、雲龍左斜め後方に樅、雲龍右斜め前方1.5kmに檜という配置で航行していた。12月19日16時35分、雲龍は魚雷発射音を探知した。このアメリカ潜水艦は、12月9日に空母隼鷹を大破したバラオ級潜水艦のレッドフィッシュだった。同艦は一式陸上攻撃機(第九〇一海軍航空隊所属)に爆雷攻撃を受け、警戒が厳重な事から重要船団の接近を悟ったという。雲龍船団発見より8分後、レッドフィッシュは距離5400mで艦首より魚雷4本を発射。雲龍は右に舵をとり魚雷3本まで回避したが16時37分、雲龍の右舷中央部(艦橋下部)に魚雷1本が命中した。命中した魚雷によって第一缶室、第二缶室に浸水した。「雲龍」からは潜望鏡らしきものが観察され、高角砲と機銃で応戦したが電源が停止して射撃不能となる。機械室で火災が発生しつつ右旋回を続けたが、前部予備電源も停止し、後部予備電源で非常用ディーゼル消防ポンプを作動させた。火災は鎮火したが速度が次第に低下し、やがて停止した。雲龍が停止したのは魚雷が命中した地点より、さらにレッドフィッシュ寄りの場所であった。乗組員は輸送中のトラックを投棄して傾斜回復につとめた。レッドフィッシュも爆雷攻撃を行う槇に対して魚雷4本を発射したが命中せず、目標を雲龍に変更して艦尾発射管から魚雷1本を発射した。16時45分に2本目の魚雷が雲龍の右舷前部(艦橋のやや後方)に命中した。雲龍は1本目の魚雷で右に傾斜しており、2本目の魚雷の炸裂は沈下していた下部格納庫に及んだ。下部格納庫には輸送物資として搭載された「桜花」20機があり、それらが次々と誘爆する状態となった。爆発は12.7㎝高角砲弾薬庫で起った可能性も指摘される。雲龍は前のめりとなって艦首から沈みはじめ、小西艦長は総員退去を命じた。16時57分、海上に出ていた艦尾が水面下に消え、完全に沈没。レッドフィッシュからは雲龍が黒煙に包まれ沈没は確認できなかったが、黒煙が消えたときに艦影がないことを確認した。アメリカ軍によれば、沈没地点は。第52駆逐隊の報告では。レッドフィッシュは護衛駆逐艦の爆雷攻撃を受けて損傷した。帰投したものの再び実戦配備についたのは1945年7月下旬の事であった。護衛駆逐艦3隻のうち、時雨は12月20日に舵故障を起こして第52駆逐隊(樅、檜)と分離、内地へ帰投した。22日、佐世保に帰投。「軍艦雲龍戦闘詳報」の戦訓は、『空母は発着甲板を有する故 練習機一機なりとも搭載し対潜哨戒に任ぜしめば昼間攻撃を受くる事なきものと認む。各基地よりの哨戒機のみにては極めて不充分なり。』と嘆いている。また便乗した兵士などが、艦内を通行した際に防水扉の閉鎖をしないなど、安全管理上に問題があったことが報告されている。雲龍の沈没による戦死者は推定1241名(乗組員)に達し、乗組員生存者89名、便乗者生存者57名と記録されている。陸軍兵の乗艦者の総計は不明だが、滑空歩兵第1連隊主力のほとんどが戦死した(滑空飛行第一戦隊生存者3名、滑空歩兵第一連隊生存者9名の証言あり)。第一挺身通信隊は宇品港にて分隊135名が乗艦、雲龍の沈没により1名以外全員が行方不明となった。沈没時乗艦者(乗組員約1500名、便乗者約1000名)のうち救助者は150名に届かず、雲龍は日本空母中最大の犠牲者を出した。雲龍がレッドフィッシュの雷撃により撃沈された事で、桜花58機を搭載した空母龍鳳の目的地はフィリピンのルソン島から台湾の基隆市に変更となった。12月30日、ヒ87船団と共に日本本土を出発する。この時の龍鳳の護衛も、時雨及び第17駆逐隊3隻(雪風《出港前日の機関故障で同行せず》、浜風、磯風)に指定されていた。1945年(昭和20年)1月7日、龍鳳隊は台湾高雄市に到着して輸送任務を完了した。2隻(龍鳳、磯風)は本土に帰還したが、時雨は引き続きヒ87船団の護衛を続け、1月24日にアメリカの潜水艦ブラックフィン ("USS Blackfin, SS-322") の雷撃で沈没している。2月20日、雲龍は除籍された。第52駆逐隊司令の戦闘概報では軍艦雲龍戦闘詳報と生存者数および沈没時刻が異なっている。一、雲龍遭難状況十九日一六三七、北緯二十八度一九分、東経一二八度四〇分において、被雷一、右舷艦橋下に命中。浸水。反転。一六四五第二撃一。右舷前部命中。一六五一火薬庫大爆発。一七〇〇全没。二、敵潜攻撃(略)三、救助作業樅は直に救助に従事。檜は敵潜水艦を攻撃後参加。漂流者案外少なからしも、荒天と夜闇に妨げられ、作業意の如くならず。〇二一〇打切れり、救助人員海軍少尉森野広以下一四二名(陸軍一二、軍属二を含む)四、所見雲龍が第一撃により反転後間もなく右舷至近距離に潜望鏡を発見銃撃せると、檜に対する襲撃状況より判断し、敵潜は一隻にして、第一撃発射後目標の大回避に乗じ、浅深度にて反対舷に出て、第二撃艦尾発射をなせしものの如し。遠藤昭によると候補艦名として蛟龍があったという。

出典:wikipedia

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