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玉乃島新

玉乃島新(たまのしま あらた、1977年9月15日 - )は、片男波部屋に所属した元大相撲力士。得意技は、左四つ、寄り、右おっつけ、突っ張り。最高位は西関脇(2004年1月場所)。現在は年寄・放駒を名乗る。福島県西白河郡泉崎村出身。本名は岡部新(おかべ あらた)、愛称はアラタ。身長187cm、体重164kg。元十両・玉ノ国光国の弟、元大関・清國の甥(清國の実妹の子)、元プロボクサー・タートル岡部(元日本ミドル級王者)の次男。尚、自身の出生地は秋田県雄勝郡雄勝町(現在の湯沢市)、育ちは東京都文京区であるが、日本相撲協会へは父親の故郷を出身地として届け出ている。趣味は音楽鑑賞とトランプで、好物は鶏のから揚げ。干支は巳年、血液型はO型。上述のように、母方の伯父が元大関、父が元プロボクサー、兄も大相撲力士というスポーツ家系に生まれる。小学生から兄と共に相撲クラブで相撲を始めた。中学を卒業した後は、強豪金沢市立工高に相撲留学している。その後、兄も進学していた東洋大学に進学し、中学時代からのライバルである竹内(のちの雅山)とタイトルを争ったが、大学は2年で中退し、片男波部屋に入門した。清國の甥という縁で旧伊勢ヶ濱部屋に入門することも予想されていたが、清國とタートル岡部が不仲であった事からこれは実現に至らなかった。1998年3月場所に幕下付出で初土俵を踏んだ。大学を卒業した兄も同時に同じ部屋から幕下付出で初土俵を踏んでおり、これは史上初の兄弟同時の幕下付出であった。当初は玉ノ洋(たまのなだ)という四股名を名乗った。その後は順調に番付を上げて行き、1999年9月場所に十両に昇進、2000年11月場所に新入幕を果たした。その場所は7勝8敗と負け越し十両に陥落したが、2001年3月場所に再入幕を果たし、それ以降は幕内に定着した。その再入幕に際して、四股名を玉乃島と改めた。これは51代横綱玉の海が大関時代まで名乗った四股名であり、当時の師匠・片男波(元関脇・玉ノ富士)が、有望な力士にこの由緒ある四股名を襲名させようと考えていたためである。その再入幕の場所で11勝4敗の成績を挙げて敢闘賞を受賞し、2場所後の2001年7月場所には12勝3敗の成績を挙げて再び敢闘賞を受賞して、翌9月場所には入幕後5場所目にして小結昇進を果たした。玉乃島は東洋大学出身者として初めて三役力士となった。2004年1月には関脇に昇進した。大関候補として期待もされていたが、通算4場所務めた三役では勝ち越すことができず、結局、平幕で相撲を取ることがほとんどであった。2008年1月場所には兄・玉光国が引退したが、その場所背中を痛めていた玉乃島は平幕下位で3勝12敗と大きく負け越して、42場所連続で守った幕内の地位を失った。その時は1場所のみで幕内復帰を果たした。しかし2009年9月場所から5場所連続で負け越して、2010年7月場所に再び十両に陥落した。十両でも負け越しを続けたが、11月場所に9勝6敗と8場所ぶりに勝ち越した。2011年は1月場所こそ9勝6敗と勝ち越したものの、大相撲八百長問題による3月場所中止以後は力を落とし、5月の技量審査場所から4場所連続で負け越した。9月場所は5勝10敗の不振に終わるも10日目の佐田の富士戦では立合いの当たりを受けて鼻血を出しながら上手投げで勝利するという見せ場を作った。11月場所は初日から8連敗を喫し9日目に現役引退を表明(9日目の琴勇輝戦は不戦敗となった)。年寄・西岩を若の里からの借株で襲名した。その後、2013年5月に年寄名跡・放駒を取得し、名跡変更した。2014年11月24日付で松ヶ根部屋(同年12月1日に二所ノ関部屋に名称変更)に移籍した。腕力が強く、右のおっつけが峻烈で、これを利して前に出るのが理想であった。押し相撲でも強かったが、左を差して出る形も良かった。元は四つ相撲主体であったが1999年9月場所の北桜戦がおっつけや押し相撲の深化のきっかけとなったと本人が引退会見で語っていた。だが、ツラ相撲の傾向があり、調子がよいと大勝ちを収めることも多かったが、大負けを喫することもままあった。また、怪我の多い力士で、魁皇の小手投げによって痛めた左腕をはじめ、右肩・股関節・背中などを痛めた経験があった。朝青龍はまず玉乃島に左ひじをきめられて後退。苦境でうまくいなすと、俵に詰まった玉乃島は後ろ向きになった。朝青龍は両手で押しながら、痛めているはずの右ひざを、玉乃島の左尻にぶつけた(決まり手は送り出し)この「蹴り出し」に対する抗議電話は協会に対して10分以上、約30件続いた。朝青龍は「万全でない右足ではすり足ができず踏み込むためには足を大きく降りあげるしかなかった」という趣旨の説明をした。規則上「胸や腹を蹴ること」は反則だが、尻については明記されていない。武蔵川理事長(役職は当時、元横綱三重ノ海)は「体が一緒にいったんでしょう。蹴りじゃないよ」と流れと解釈し、土俵下の放駒審判長(当時、元大関魁傑)も「確かにひざは当たったけど、動きの中で、蹴りにいったとは見えなかった」と説明した。                                                                                                

出典:wikipedia

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