オデッサ( 、 )は、ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市である。オデッサ州の州庁所在地で、2015年現在の人口は約101万人、ウクライナで3番目に大きな都市となっている。面積は約160km。ドニエストル河口から北に約30km、キエフから約443km南に位置する。オデッサはウクライナ最大の港湾を備え、ウクライナを代表する工業都市、リゾート地としても知られている。ロシア帝国時代には黒海に面する港湾都市であるオデッサはロシア帝国と外国の経済・文化の交流の拠点となっていた。20世紀のオデッサ出身の作家スラーヴィンはオデッサの人間の気質について「何かを理解するためにはどんなものでも手でじかに触り、歯で噛んでみなければ気のすまない人だった」と説明している。オデッサの名称は、この地に古代ギリシアの植民都市オデソスが存在するという誤認に由来すると考えられている。実際のオデソスは、オデッサから離れたブルガリアのヴァルナ周辺に存在していた。ギリシア風の名前が付けられた背景には、皇帝エカチェリーナ2世の治世に流行していた古典主義、町の発展に不可欠であるギリシア系商人と植民者の誘致を意図したことが挙げられている。オデッサ、およびその周辺にはキンメリア人、サルマタイ人、スキタイ人、ギリシア人、スラヴ人が居住していた。オデッサが位置する場所にはタタール人によってという集落が形成され、15世紀にオスマン帝国によってカチベイの跡地に建設されたハジベイという集落がオデッサの直接の起源にあたる。1764年にハジベイにエニ・ドゥニア要塞が建設された。露土戦争の過程で1789年にロシア帝国はハジベイを占領し、1792年に締結されたヤシ条約によって正式にロシア領に編入された。露土戦争に従軍した海軍中将、オランダ人技師デ・ヴォランらは皇帝エカチェリーナ2世にハジベイに港を建設することを進言し、1794年から港の建設が開始される。1795年にハジベイは「オデッサ」に改称される。エカチェリーナ2世の死後に帝位に就いたパーヴェル1世はリバスを首都ペテルブルクに召還し、オデッサに与えられていた補助金と特権が廃止される。パーヴェル1世の跡を継いだアレクサンドル1世はオデッサの経営に関心を示し、1803年にフランス人アルマン・エマニュエル・リシュリューをオデッサの長官に任命した。また、移民の誘致と並行して、貿易の振興に必要な港湾施設の整備、税制の優遇政策が実施された。リシュリューの下でオデッサは劇的に発展し、1803年当時9,000人だった人口は1813年の時点で35,000人に増加し、1804年に2,340,000ルーブルだった輸出総額は1813年には8,860,000ルーブルに増加する。1812年8月から1814年2月にかけてオデッサでペストが流行し、人口の2割程度が死亡したと推定されている。1814年9月にリシュリューはオデッサ長官の職を辞し、フランスに帰国した。1819年にオデッサは自由貿易港に定められ、1823年にノヴォロシア総督に就任したミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフの下で自由貿易港となったオデッサは飛躍的な発展を遂げる。ヴォロンツォフは経済の振興以外に文化事業、慈善事業にも力を注ぎ、彼の在任中に考古学博物館、救貧院、孤児院、聾盲学校が設立され、有力紙となる『オデッサ報知』が創刊される。雨後の筍に例えられる急速な発展を遂げたオデッサは「幼年期を持たない都市」とも呼ばれ、19世紀後半に入った後にも成長は続く。また、ペテルブルクからの追放処分を受けていた詩人アレクサンドル・プーシキンは、オデッサ滞在中の一時期ヴォロンツォフに仕えていた。プーシキンとヴォロンツォフの妻は恋仲になり、ヴォロンツォヴァ夫人がプーシキンに贈ったヘブライ文字が刻まれた指輪はオデッサに伝説を残した。プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている。1853年から1856年にかけてのクリミア戦争においてオデッサも戦渦に巻き込まれ、1854年に4月10日にイギリス・フランス合同艦隊の砲撃によって死傷者が出、ヴォロンツォフ宮殿などの建築物も被害を被った。砲撃を受けてもオデッサは抵抗を続け、防御を突破できなかった合同艦隊はやむなく退却する。クリミア戦争時にイギリスのフリゲート艦から奪取した大砲は海並木通りに置かれ、当時の記憶をとどめている。19世紀末にオデッサはペテルブルク、モスクワ、ワルシャワに次ぐロシア帝国第四の都市に発展し、ペテルブルクに次ぐ貿易港となる。1865年に鉄道が開通し、オデッサ大学の前身であるノヴォロシア大学が開校した。生活用水の需要を満たすために1873年にドニエストル川の水を汲み上げる設備が建設され、翌1874年に大規模な下水道が完成する。上下水道の整備、市当局による環境・衛生状態の調査によりオデッサはロシアを代表する衛生的な都市として知られるようになる。1875年にロシア初の労働者の政治組織とされる南ロシア労働者同盟がオデッサで結成され、1900年にはロシア社会民主労働党オデッサ委員会が設立された。1905年から1907年にかけてのロシア第一革命ではオデッサは革命運動の一拠点となり、1905年6月には水兵による反乱が起きたポチョムキン号が入港する。革命後に町は落ち着きを取り戻し、穀物輸出と工業生産が上向きを見せ始めた。1914年に第一次世界大戦が勃発した後、オスマン帝国によってダーダネルス海峡が封鎖されたためにオデッサの対外貿易は停止し、町は爆撃を受ける。1917年の二月革命後のオデッサには臨時政府、ソビエト権力、ラーダなどのウクライナ民族派が並立し、それらの勢力に外国の干渉軍も加わって支配権を争った。1918年1月にソビエト政権が支配権を握るが、3月から11月にかけてドイツ・オーストリア軍がオデッサを占領した。ウクライナ民族派のディレクトーリヤの支配を経て、1919年4月までイギリス・フランス連合軍の占領下に置かれる。1919年8月から1920年2月まで反革命勢力のアントーン・デニーキンがオデッサを制圧するが、デニーキンはソビエト軍に破れ、1920年2月7日にオデッサにソビエト政権が樹立された。二月革命からソビエト政権の樹立に至るまでの騒乱はオデッサの経済に大きな痛手を与え、町の建築物の4分の1が破壊されたと言われている。1914年当時のオデッサは630,000人の人口を擁していたがボリシェヴィキ政権を避けて多くの人間がロシア国外に脱出し、さらに1921年から1922年にかけての大飢饉が町の衰退をより進め、1924年に人口は324,000人に減少していた。ソビエト連邦時代にオデッサはウクライナ共和国オデッサ州の州都に定められる。第二次世界大戦期においては、1941年8月5日にドイツ・ルーマニア軍がオデッサを攻撃し、2か月以上の戦闘の末にソ連軍はセヴァストポリに撤退した(オデッサの戦い (1941年))。に置かれ、複雑に入り組んだ地下の石灰岩の採掘跡を拠点としてパルチザン活動が行われた。第二次世界大戦中にオデッサの多くの建物が破壊され、280,000に及ぶ人間が虐殺・連行されたが、犠牲者の多くはユダヤ人だった。ドイツ軍に対するオデッサ市民の抵抗を顕彰され、戦後町は英雄都市の称号を与えられた。オデッサの工業は第二次世界大戦後も成長し、1970年代には新しい港湾施設が建設された。1970年代後半に人口は1,000,000人に達し、ソ連時代末期の1989年には1,115,000の人口を擁していた。ソビエト連邦崩壊後のオデッサには一時的に経済的に困窮した時期が訪れる。2000年3月にオデッサの商業活動を振興するため、約140年ぶりに自由貿易港に指定された。オデッサは温暖で日照時間も多く、古くから保養地として利用されていた。太陽の光に恵まれているオデッサは映画の撮影にも適し、映画スタジオで多くの作品が生み出された。7月の平均気温は22度、1月の平均気温は-3度。オデッサの民族の中で最大の割合を占めているのはウクライナ人(69%)で、それに次いでロシア人(29%)が多い。ロシア帝国時代のオデッサは帝国内部から移住したロシア人やウクライナ人と、国外からの移住者が混在するオデッサは多民族都市の性質を持っていた。1803年にオデッサの長官に就任したリシュリューの元で外国人の商人や職人の誘致が行われ、彼らには軍役の免除などの特権が与えられた。ユダヤ人、ドイツ人、フランス人、ギリシア人、ポーランド人、セルビア人、アルメニア人、ハンガリー人、モルドバ人、ブルガリア人、アルバニア人、トルコ人、ロマなどの民族がオデッサに移住している。また、メノー派、古儀式派、ドゥホボール派などの宗教的少数派に属する人間もオデッサとその周辺に移住した。ギリシア人はオデッサの発展に多大な貢献をし、経済の中心となっていた穀物輸出、ホテルとレストランの経営、文化・公共事業で活躍した。1879年からおよそ4半世紀の間オデッサの市長を勤めたはギリシア系移民の子孫の一人で、教育施設、公共図書館の建設を行い、ロシア初の細菌学研究所の設立を支援した。穀物輸出ではギリシア人だけではなくイタリア人も重要な役割を担い、イタリア人はオデッサの文化面においても大きな影響を与えている。貿易の世界にユダヤ人が進出し、貿易活動が停滞するとギリシア人とイタリア人の多くはオデッサを離れ、19世紀後半に入るとギリシア・イタリア系住民の数は減少に転じた。ロシア帝国の他の都市と異なり、オデッサではユダヤ人の生活に課せられる制限が少なく、抑圧に苦しむ多くのユダヤ人がこの町に移り住んだ。18世紀後半のポーランド分割後、オデッサにポーランド出身のユダヤ人が多く移住し、19世紀後半には町の人口の35%近くをユダヤ人が占めるようになっていた。オデッサのユダヤ人は商業以外に法曹、医療といった専門分野で活躍し、病院、学校、孤児院などの社会的な施設を設立した。オデッサはロシア帝国最大のユダヤ人都市となり、19世紀と20世紀の変わり目には人口の約3分の1がユダヤ人で占められていた。1870年代以降オデッサでは二度の大規模なポグロムが発生し、1905年に起きた最大のポグロムでは1,000人の死者が出、50,000人のユダヤ人が退去したと言われている。19世紀末からのポグロムに加えて第二次世界大戦によってユダヤ人人口は激減し、1959年当時のオデッサの人口はウクライナ人の273,000人、ロシア人の254,000人に対してユダヤ人の人口は107,000人で、割合は16%となっていた。それでもオデッサはウクライナ、ひいてはソ連最大のユダヤ人コミュニティを有していたが、1970年代からのユダヤ人の大量出国によって人口の減少に拍車がかかった。ソビエト連邦時代のオデッサではウクライナ化、ロシア化が進められたために国際都市の特徴が失われ、ウクライナ南部地方の中心都市に変化していった。1930年代にソビエト政府はウクライナ化政策をロシア化政策に転換し、オデッサでも文化的・言語的にロシア化が進展した。オデッサは民族解放運動が盛んな町としても知られ、ロシア帝国やオスマン帝国からの独立を志向する運動家、シオニスト、革命家の活動拠点となった。ウクライナ人が多数派であるにもかかわらず、町ではロシア語が支配的な地位を有している。2015年では、家庭で話される言語の割合はロシア語が78%、ウクライナ語が6%、ロシア語とウクライナ語の両方が15%だった。ウクライナ東部・南部の地域と同様に、オデッサではウクライナ語よりもロシア語の方が多く話されていると言われており、オデッサのロシア語には独特の語彙や言い回しが使われている。多民族都市として誕生したオデッサでは多くの言語が話され、19世紀末には50以上の言語が使われていたという。多民族都市の様相を示していた19世紀後半のオデッサでは人口の50.78%を占めるロシア語話者と32.5%を占めるイディッシュ語の話者が二大勢力となっていた。ウクライナ語の話者は3番目に多いものの、ロシア帝国ではウクライナ語の使用・教育が禁止されていたため、5.66%にとどまっている。初期のオデッサで活躍したイタリア人が話すイタリア語は長い間オデッサの主要な言語となり、公正証書、勘定表、価格表だけでなく劇場の広告がイタリア語で表記されていた。ソ連時代のオデッサでは言語のロシア化が進められ、1990年にオデッサで実施された調査において市の人口の65%、ウクライナ人の3分の1以上、ユダヤ人の大部分がロシア語が母語だと回答した。デ・リバス、リシュリューらによって統治された初期のオデッサは貿易・商業の発展に重点が置かれ、オデッサの背後に広がる穀倉地帯から集まる穀物の輸出を基盤としてロシア有数の国際貿易港に成長した。19世紀半ばの自由貿易港時代に交易はより活発になり、オデッサの穀物輸出で主要な役割を果たしていたギリシア人とイタリア人によってウクライナの小麦がヨーロッパ中に輸出され、ウクライナは「ヨーロッパのパンかご」と呼ばれるようになった。1847年の時点では、ロシア帝国全土から輸出される穀物のうち、半分以上がオデッサから積み出されていた。小麦以外には鉄、麻、ロープ類、皮革、獣脂が輸出されたほか、輸入量も大きく増加し、ワイン、果物、タバコ、絹などの輸入品の一大集積地となった。また、貿易・商業の振興に伴って金融機関が整備され、1804年に商業銀行、1806年にロシア初とされる海上保険会社が設立された。1880年代から港湾施設の老朽化やウクライナの対外的な小麦の供給地としての地位の低下のため、オデッサの貿易に陰りが見え始め、輸出総額と輸入総額が減少する。オデッサ最初の工場は、1799年にフランス人によって建てられた化粧品の工場である。後背地から豊富な原料を調達できるオデッサには、マカロニ、ビール、ウオッカ、ロープ類、獣脂、石鹸、ロウソクなどの加工製品の工場が多く建てられた。19世紀末からは加工工業に代わり、金属工業が成長を見せ始める。ソビエト政権下のオデッサでは外国との自由取引が制限されていたために貿易の役割が低下し、金属工業、機械製造業が主要な産業となった。オデッサに30以上の企業が新設され、古いものは再建された。1940年の工業生産は1913年の水準の8倍に達した。第二次世界大戦後にオデッサの重要性は低下するが、工業の一中心地としての地位を保ち続けた。主として工作機械、鉱山用・農業用機械、クレーン、ウィンチ、ガス発生炉、冷凍機、印刷機、映写機、計量器などの機械が生産されていた。ウクライナ独立後のオデッサの主要工業は機械製造、金属加工、造船、食品加工、石油化学などで、ソ連時代と比べて大きな変化は無い。2002年5月にはオデッサとブロディを結ぶ石油パイプラインが完成した。ソビエト連邦時代に保養地としての開発が進められ、サナトリウムや休息の家が建設され、泥や鉱泉を利用した治療が行われた。オデッサの近郊にはアルカーディヤなどのビーチが点在する。19世紀初頭のオデッサの町並みは「海賊の集落」と呼ばれるように建設が進んでいなかったが、1803年に長官としてオデッサに赴任したリシュリューによって町作りが進められていった。デ・リバスの都市計画を生かした上で左右対称の町並みが形作られ、新古典主義様式の建物が建てられていった。建物の建設以外に並木道の整備、街灯の設置が進められ、植林が推奨された。リシュリュー時代を代表する建築物として1809年に完成した市立劇場があり、800の座席と立見席を有していたが、1873年に劇場は火災で焼失した。19世紀後半には1884年に完成したオデッサ駅、1887年に再建された市立劇場、1898年に完成した新しい証券取引所などのオデッサを代表する建築物のいくつかが建てられた。オデッサの開発にあたって必要な石材は現地で調達され、石材の採掘跡として1,000kmにわたる地下道が残された。第二次世界大戦期に地下道はパルチザンの拠点となり、一部はパルチザン記念博物館として一般に公開されている。歩行者道のデリバスィフスカ通りはオデッサの中心で、商店や安宿が集まっている。もう一つの表通りである高台を通るプリモールスキー並木通りは、デリバスィフスカ通りとは対照的に閑静な雰囲気がある。町の各所にはデ・リバス、リシュリュー、ヴォロンツォフら町の建設に貢献した人物や、オデッサに滞在したプーシキンの像が建てられている。市の中心部にはポチョムキン号の水兵を記念するモニュメントが置かれているが、帝政ロシア時代にはエカチェリーナ2世の像が建てられていた。アレクサンドル2世によって建設されたアレクサンドル公園はソ連時代にシェフチェンコ公園に改称され、公園に建てられていたアレクサンドル2世を追悼するモニュメントはシェフチェンコの像に代えられている。19世紀末に市長を務めていたマラズリによって市に寄贈され、1899年に美術館として開設された。収蔵品は10,000を超え、オデッサをモチーフとした作品を描いたコスタンジ、イヴァン・アイヴァゾフスキーの作品も展示されている。19世紀半ばまでにオデッサに歴史・考古学博物館、大学が設置された。オデッサはウクライナ南部の教育の中心地であり、をはじめとする14の大学や様々な研究機関が置かれている。角膜移植で知られるフィラトフ研究所はオデッサに置かれている。1805年にオデッサにはじめて貴族学校が開設され、その後全ての人間に入学が認められたギムナジヤが開設される。1817年に二つの学校は統合され、両方の学校の創立者であるリシュリューの名前に由来する「リシュリュー貴族学校」と命名された。1860年代にノヴォロシア地域に大学を設置する計画が持ち上がり、1865年にリシュリュー貴族学校はノヴォロシア大学に改組された。ロシア革命後にノヴォロシア大学はいくつかの大学に分割されるが、1933年に統合されてオデッサ大学に改称し、1945年からは大学で教育・研究に従事した医学者イリヤ・メチニコフの名前を冠するようになる。は貿易港、漁港、軍港の機能を併せ持ち、世界100か国、600以上の港から出航する船舶がオデッサに入港している。オデッサ港の全長は約8kmで全長250m、吃水12.5mまでの船舶を収容できる。イスタンブール、ハイファ、ヴァルナなどのウクライナ国外の都市との間にフェリーや客船が定期的に運航されており、夏季には地中海などからのクルーズ船が寄港する。オデッサは鉄道の重要な拠点でもあり、ウクライナ国内の各都市やモスクワやサンクトペテルブルクなどの旧ソ連の都市と接続され、ワルシャワ、プラハ、ウィーン、ベルリンとの間に定期的に旅客列車が運行されている。1865年にオデッサとバルタを結ぶ鉄道が開通し、1872年に線路がハルキウ(ハリコフ)まで延伸されたことでモスクワ、ペテルブルクと接続された。1880年にはベルギーの企業によって馬車鉄道が開業し、19世紀末の鉄道馬車の総延長は80kmに達していた。1884年に新古典様式の駅舎が完成する。1944年にドイツ軍によって駅舎は破壊されるが、1952年に原形を生かした建物が再建された。ロシア国内の他の都市よりも早く自転車が流行し、1880年代に新しいもの好きの市民の間で自転車が流行した。1891年のオデッサではロシア国内で初めて自動車が走り、ベンツ、フォード、オペルなどの店舗が進出した。長距離バスはウクライナ内の都市だけでなく、ブルガリア、ギリシアに向かう便も存在する。市街地の南西12kmの地点にはオデッサ国際空港が置かれている。1908年にオデッサ飛行クラブが設立され、1910年3月にはミハイル・エフィーモフの乗る飛行機がオデッサの競馬場から離陸し、ロシア人によるロシア国内での初飛行を成功させた。アレクサンドル・プーシキン、ニコライ・ゴーゴリ、マクシム・ゴーリキーらのロシア文壇の作家はオデッサに滞在し、町を創作のモチーフとした。ロシア革命の直後にはアレクセイ・トルストイ、イヴァン・ブーニンらソビエト政権の樹立を受け入れない作家が一時期オデッサに亡命した。しかし、20世紀初頭までロシア文学史上に名前を残すオデッサ生まれの作家は現れなかった。ソビエト時代初期の1920年代にイサーク・バーベリ、ワレンチン・カターエフ、ユーリイ・オレーシャらの作家がオデッサに現れ、1920年代後半にモスクワに移って本格的な文学活動を開始し、ソビエト文学界から注目を集めた。オデッサ出身の作家には、社会性・思想性を重視する伝統的なロシア文学とは異なる幻想的な作風、あらすじの重視、オデッサ独特のロシア語文体といった共通性が見られ、評論家のヴィクトル・シクロフスキーは彼らを「南西派」と呼んだ。ユダヤ人が多いオデッサはメンデレ・スフォリムやショーレム・アレイヘムといったイディッシュの作家とも繋がりがあり、ポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィチ、ブルガリアの作家イヴァン・ヴァゾフはオデッサ滞在中に作品を書き上げている。ウクライナ文学に対するオデッサの影響は薄いと言われ、タラス・シェフチェンコ、イヴァン・フランコ、レーシャ・ウクラインカらの作家は文学活動よりも民族解放運動に従事する形でオデッサと関わりを持った。オデッサの貿易において重要な役割を果たしたイタリア人によって、19世紀のオデッサにイタリアの音楽文化が広められた。中でもオペラは上流階級から庶民に至るまで人気を集め、19世紀のロシア帝国におけるイタリア・オペラの中心地はペテルブルク、モスクワではなくオデッサだったとも言われる。オペラ以外の芸術音楽も徐々に根付いていき、1842年にオデッサ音楽協会が設立され、1860年には交響楽団が結成された。庶民や暗黒街の人間は居酒屋で音楽に親しみ、居酒屋ではヴァイオリニストが活躍していた。1887年に再建されたオペラ・バレエ劇場では、ピョートル・チャイコフスキー、フョードル・シャリアピンなどの国内外の音楽家が上演を行った。1897年に開設された音楽学校は1913年にオデッサ音楽院に改編され、音楽院から多くの演奏家が巣立っていった。オデッサでは世界的な名演奏家が多く生まれ、特にダヴィッド・オイストラフなどのヴァイオリニストが多い。オデッサにはルーマニア、ギリシャ、ポーランド、トルコ、ロシア、ジョージア(グルジア)の総領事館が置かれ、イタリア、南アフリカ共和国、カザフスタン、ラトビアの領事機関、イスラエルの文化機関が設置されている。また、1902年から1934年までの間には日本の領事館が開設されていた。オデッサ市沿海地区には、ウクライナ人を父に持つ横綱大鵬の銅像が建てられている。オデッサは世界各地の都市と姉妹都市協定を結んでおり、その多くが国際的な港湾都市である。
出典:wikipedia
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