イスラエル諜報特務庁(イスラエルちょうほうとくむちょう、, HaMossad leModiʿin uleTafkidim Meyuḥadim, ハ-モサッド・レ-モディイン・ウ-レ-タフキディム・メユハディム)はイスラエルの情報機関。「モサド」と通称される。首相府管下にあり、対外諜報活動と特務工作を担当。長官は政治任命で決定され、基本的には2期8年まで務める事が出来る。活動の根拠となる法律が存在しないため、法的には存在しない組織ともいえる。イスラエル情報コミュニティーのメンバーである。モットーは「議士多ければ平安あり」(ヘブライ聖書『箴言集11:14』)。このほか、公式サイト上に「モサド憲章」を掲げている。情報収集、秘密工作(準軍事的な活動および暗殺を含む)および対テロリズム活動、逃亡している元ドイツ戦犯やテロリストの捜索などをおこない、その焦点はおもにアラブ国家などの敵対国にむけられ、組織の拠点は世界のいたるところに存在する。モサドは、「民間のサービス」という名目でスタッフはすべてイスラエルの徴兵システムの一部としてイスラエル国防軍に採用されるが、軍隊の階級を使用しない。また、それらのうちの多数は士官である。世界各国に在住するユダヤ人の人脈もある。局員の採用に非常に神経を使っていることで知られ、採用の対象となった人物がスパイとして適格か否かを判断するまで平均3-4年という時間をかける。採用の対象となった人物は知能・知性を中心に、品性、社交性、思想、体力などありとあらゆるデータを徹底的に精査されるという。「モサド」という言葉はヘブライ語で組織・施設・機関を意味する「モサッド」(מוסד ; Mossad)からきたもので、イスラエルでも「ハ-モサッド(המוסד)」と呼ぶことが一般的である。ちなみに、英語では「ISIS」(Israel secret intelligence service)と称される。イスラエル諜報特務庁の組織的源流はおもに2つ。1つはイギリス委任統治領パレスチナのイシューブ(ユダヤ人社会)の政府的機構であったユダヤ機関外交及び諜報部の政治局。ハイム・アルロゾロフ(1931年 - 1933年)やモシェ・シャレット(1933年 - 1948年)が歴代局長を務めた。モサド初代長官ルーヴェン・シロアッフも政治局員であった。2つ目は1940年に創設されたハガナー情報局の英国課である。1948年5月14日にイスラエル国家独立。軍事組織ハガナーをもとにイスラエル国防軍創設。モサド公式サイトは1948年6月7日にダヴィド・ベン=グリオン首相がハガナー情報局を解体を命令したとしている。高級紙『ハ-アレッツ』の諜報問題担当記者のヨッシー・メルマンによると、国防軍創設直後の1948年6月30日にイサル・ベーリーらによりハガナーの情報部門のシャイは解体されて、下記の3つの組織に再編された。メルマンはこの日をイスラエル情報コミュニティーの誕生した日としている。モシェ・シャレット外務大臣(及びベン=グリオン首相)の特務問題顧問であったルーヴェン・シロアッフ監督下の外務省政治局が対外諜報活動を担当。モサドの前身となる。政治局・局長にはボリス・グリエルが就任。シモン・ペレスの弟ギギー・ペレスも政治局に所属していた。外務省政治局の諜報活動における浪費は耐久生活がつづくイスラエル建国期の質実剛健の気風にあわず、他の情報機関から反感を買い、政治局員の中傷がながされた。さらに政治局の情報の質が低かったので、当時の安全保障問題専門家達は危機感をもち、イスラエル参謀本部作戦局情報課とイスラエル保安庁は独自に対外諜報活動を始めて混乱が生じたので、それを一本化する強力な中央情報機関がのぞまれた。シロアッフに報告をうけていたダヴィド・ベン=グリオンは事情をよく理解していた。シロアッフのすすめもあってベン=グリオンは、1949年12月13日に上記3組織の諜報活動の監督と調整の為に首相府と外務省両属の諜報保安集中調整庁(モサッド・レ-リクーズ・ウ-レ-テウーム・シェルテイ・ハ-モディイン・ヴェ-ハ-ビタホン)創設をシロアッフに命令した。モサド公式サイトではこの日を正式な創設日と指定している。一方メルマンは外務省政治局が廃止された1951年3月をモサド創設日と考えている。ベン=グリオンの命によりモサド初代長官にはルーヴェン・シロアッフが就任。この移行期に対外情報機関として外務省政治局とそれを監督する諜報保安集中調整庁は並存。1950年、ルーヴェン・シロアッフは外務省政治局解散を決定。段階的に諜報保安集中調整庁への吸収を進めた。それに対して政治局員は猛反発。その際にスパイ達は秘密報告書を燃やして抵抗。さらに集団辞職へ発展。1951年3月、最終的に外務省政治局は廃止された。外務省政治局の資産を収めた諜報保安集中調整庁は諜報特務庁(ハ-モサッド・レ-モディイン・ウ-レ-タフキディム・メユハディム)と名を改める。同時に外務省傘下から首相府直轄へと移る。メルマンによると、この時期にイスラエルの情報機関は手本であった英国型から元首直属の米国型となる。ルーヴェン・シロアッフが健康の為に辞任すると、イサル・ハルエルは1952年から1963年まで諜報特務庁長官に就任。1952年にはイスラエル総保安庁長官を兼任して安全保障担当というポジションについた。情報機関員数は、一般的にその秘密性から正確な数字は不明である。日本政府によると1500~2000人と推測されている。正職員の外、世界中に存在するユダヤ人を協力者、サイアニム()として利用することができる。長官の下に行政管理を管掌する副長官と作戦関係を管掌する副長官が存在し、2人の副長官の下には以下の部門が存在する。また、モサドは世界中から収集した情報を集約した「PROMIS」と呼ばれる世界有数の電子データベースを保有しており、必要に応じて他国の情報機関にも有料で情報提供を行うという。
出典:wikipedia
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