『大日本帝国』(だいにっぽんていこく) は、1982年(昭和57年)8月7日に公開された東映配給の戦争映画である。「シンガポールへの道」と「愛は波濤をこえて」との二部構成の長編。『二百三高地』の大ヒットを受けて製作された。1980年代前半に東映が8月に公開していた一連の舛田利雄監督、笠原和夫脚本の戦争映画の1本で、さらに続いて製作された『日本海大海戦 海ゆかば』を加えて、東映の、同監督・同脚本による、戦史映画三部作となる。『二百三高地』が大ヒットし銀座に笠原和夫が岡田茂東映社長(当時)と天尾完次企画部長(当時)と繰り出したおり、岡田から「もう一一遍、戦争映画つくろうや」と指示を受けた。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。太平洋戦争、大東亜戦争を」「あれ、負け戦ですよ、日露戦争と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と太平洋戦争の脚本執筆を指示し企画がスタートした。題名も岡田社長の命名。『二百三高地』の翌年に公開の予定で企画されたが、東宝が「8.15シリーズ」と称する戦記映画の一環として『連合艦隊』を公開したため、競合を避けて翌々年の公開となった。題名が反動的であるとして話題を呼んだが、笠原のライフテーマであった昭和天皇の戦争責任問題が明確に盛り込まれた映画である。また、軽快なマーチ(アメリカン・パトロール)に乗せて米兵が日本兵の頭蓋骨でサッカーに興じる場面など、反米色もきわめて濃厚である。当時ABCD包囲網によって窮地に立たされた日本政府は、対立するアメリカとの和解を模索していたが、対米開戦を強力に主張する陸軍を中心とした勢力に屈し、近衛内閣は総辞職した。そこで強硬派の急先鋒である陸軍大臣東條英機をあえて首相に任命した昭和天皇は、そのうえで対米開戦を回避するよう指示した。これに最初は応えていた東條首相だったが、いずれ国内の強硬派を抑えきれなくなると読んでいたアメリカは、先制攻撃をさせるため日本を挑発する。そしてついに、海軍による真珠湾攻撃を天皇は了承してしまい、太平洋戦争の開戦となる。その当時、東京の陸軍士官学校では職業軍人の小田島剛一が少尉の任命式を受けていた。同じ頃、京都ではクリスチャンである京都大学の学生・江上孝が、恋人の目前で特高警察に連行された。このあと江上は、不本意ながら処世術として軍隊に志願する。多くの庶民も戦争にかり出された。その一人である床屋の小林幸吉は、見合いによる結婚初夜の直後に東南アジア戦線へ出征した。小田島の指揮する中隊の所属となった小林らは、自転車などを駆使してマレー作戦に従軍する。シンガポール攻略戦で、イギリス軍が地元住民に防衛を任せており、激しく日本軍に抵抗する地元民に衝撃を受け、自分らが考えていたアングロサクソンからの解放の戦争という単純な図式ではなく、今後戦争が長引くことを予感する。シンガポール攻略戦中にイギリス軍のブキテマ高地における最後の猛反撃の中におけるだまし討ちで、小林の所属する分隊の桐山軍曹らが戦死し小林も負傷したが、そのことにより小林らはイギリス軍に対する憎しみを募らせていった。その頃小林の新妻となった美代は妊娠しており、戦地の夫を心配していた。彼女はラジオで大本営発表が「大元帥陛下」と言うのを聞き、どうして天皇は戦場で直接指揮を執らずに宮城にいるのかと疑問に思う。その後、シンガポールから帰還して陸軍病院で静養してた小林に面会に行くと、戦友の死や敵兵に対する憎しみにより、第一線で闘う軍人の思考に変わっていた夫を強く窘めた。東南アジアでは順調な進撃を続けていた日本軍であったが、ミッドウェー海戦やガダルカナルの戦いで米軍に致命的な敗戦を喫すると、攻守が逆転し日本軍の戦況は不利となっていった。この事態打開に藁をもつかむ思いの東條は、当時対立していた石原莞爾に助言を求めるが、石原莞爾からは、撤退すべきと現実を突き付けられ厳しい言葉を浴びせられただけであった。東條は石原に対して別れ際に「ただ私は総理だ。私への反逆はお上への反逆になるということを、忘れんでくれ給え」と言い放ち、結局孤立を深めてしまう。米軍はついに絶対国防圏の一角サイパン島に攻めてきた。サイパン島には小田島とシンガポール戦での負傷後一旦は除隊した小林が再召集され配置されていたが、「100匹の猫が1匹の鼠を食い殺す」ような戦力差と言われたサイパンの戦いの中で日本軍は組織的な抵抗力を失い、小田島ら日本軍の敗残兵は、サイパン島に居住していた日本の一般市民と共にジャングルを彷徨い歩くこととなる。進退窮まった多くの残存日本兵と一般市民は海ゆかばを合唱しながらバンザイ突撃を敢行するが、アメリカ軍の十字砲火で次々と倒れていった。残った一般市民もバンザイクリフで次々と自決する中、小田島と小林とガラパンで小料理屋を営んでいた小田島の恋人国吉靖子らは懸命に生き抜こうとするが、飲み水を汲みに行った際に康子はアメリカ軍に発見され、手榴弾で自決してしまう。ここに及んで大日本帝国軍人としての忠節を貫く事に疑問を感じた小田島は自ら階級章をはぎ取り、アメリカ軍に投降の話し合いに行くが、砂浜で日本兵の頭蓋骨を弄ぶアメリカ軍兵士のカップルを見て逆上し、カップルに対し発砲したが、絶命寸前の女性兵士に反撃されて死んでしまう。この後サイパン島はアメリカ軍の手に落ち、この責任を問われた東條は、首相を辞すことになる。一方、江上は予備学生として海軍航空隊に入り、フィリピンで神風特別攻撃隊に志願し出撃するが、悪天候で引き返してしまう。それを不満に思った戦闘機パイロット大門勲に詰め寄られ、二人は対立を深めていった。その後アメリカ軍の進撃で飛行場を追われ、ジャングルに逃げ込んだ江上らは、秘密保持の為に連れてきた現地民を虐殺する。その中には江上の恋人柏木京子に瓜二つのマリアがいたが、大門よりの部隊を守る為という強硬な申し出に対して、江上は虐殺を容認してしまう。フィリピンを失った日本はその後硫黄島や沖縄も失った。本土への空襲も激化し、東京大空襲で美代は焼きだされてしまう。その後、広島と長崎へ原爆も投下された。こうした事態をうけて、御前会議が開かれた。ここで天皇は、これ以上の犠牲を出したくないと言って泣く。これにより、徹底抗戦を叫ぶ者たちも戦争続行を諦めざるを得なかった。この結果、日本は無条件降伏したが、連合国内で天皇の責任を問う声が高まっていた。このような流れの中で、下村定陸軍大臣が、開廷が予想される軍事裁判で、日本側の立場を主張できるのは東條のみと敢えて恥を忍んで法廷に立つことを説得していた。その後、GHQのMPが戦争犯罪人として逮捕に押し掛ける非礼に憤慨した東條は拳銃で自決を図る。重症を負った東條を、なんとしても戦犯として裁判にかけたいアメリカ占領軍は、当時最高の医療を施して救命する。こうして囚われの身となった東條は、東京裁判の法廷で、天皇は大戦前に詠った和歌から判るように開戦は望んでいなかったこと、東條ら当時の軍の開戦の決定を不承不承認めた事を説明し、「全ての戦争責任は自分にあり、陛下や他の者に責任を問うのは間違っている」「戦争は相手のあるものだから、連合国の指導者も法廷に立たないと真実の究明にならない」といい放つが、絞首刑の判決を受ける。その後、面会に来た妻子に、自分が仏教に帰依したことを伝え、「仏様の偉大さに比べたら、この世の帝王なんて実に小さい」と全てを達観した表情で説き、お経を念じながら死刑台の階段を上がっていった。天皇の戦争責任については、アメリカの日本の占領統治には天皇の存在が不可欠という政治判断もあり不問とされた。同じころ、東南アジアで捕虜となった日本の兵士たちが、無抵抗の現地人を殺害したとして戦争犯罪に問われていた。江上と大門もマリアらを虐殺した罪に問われていたが、大門は軍事法廷を「インチキ裁判」と詰り、江上だけは生き残るようにと説得する。その後、フィリピン軍の看守らの虐待に黙々と耐える江上を見て大門はその強い意志に感心し、江上に脱獄を提案する。ジャングルに隠れて、天皇が援軍を率いて助けに来るのを待とうと言うのだ。日本が降伏したというのは、不利になったからと寝返った者たちがいただけのこと。大元帥陛下のために命懸けで戦った我々を、大元帥陛下が見捨てるはずがないと言う。しかし脱走を試みるも失敗に終わり、大門は看守に殺害され、江上は戦犯として銃殺刑に処せられる。恋人の京子が助命の為に支援活動をしていたがそれを拒否し、江上は死刑台で「天皇陛下、お先に参ります。天皇陛下万歳」と叫びながら絶命した。一方、戦火の中を生き延びた美代だったが、幸吉が戦地から戻って来ないことを悲観し子供とともに海に入り心中しようとするものの、子供が泣いたために思いとどまる。そして戦後の混乱の中で死物狂いで生きて行き、わずかな期待を胸に幸吉の帰りを待つ。そして遂に復員した幸吉と海岸で再会し、涙を流しながら抱き合うのだった。東映の岡田茂社長は、本作を製作する気になったのは「東条英機が、戦前戦時の日本が生んだ悲劇の人物だと思ったから。大東亜戦争は東條が一人で計画したのでもなんでもない、開戦の僅か一ヶ月前、満州から呼び戻され総理大臣に据えられた、開戦総理大臣なんです。当時の日本は既に戦わざるをえない状況に追い込まれていた。なぜ、彼が総理に据えられたかというと性格が生真面目で、軍部が操り易いということだったに過ぎない。操り人形にされた―そういう悲劇の人物なんです。敗戦の責めを一人背負って処刑されたんだが、それで本当に日本としてけじめが付いたのか。開戦から敗戦までの日本の歴史を東条英機という悲劇の人を軸にして描く、当時の日本の有様に、今こそ目を向ける必要がある」などと話している。脚本の笠原和夫によると、右派の作曲家黛敏郎は「非常に巧みに作られた左翼映画」と評し、左派の映画監督山本薩夫は「非常にうまく作られた右翼映画」と評したとのことである。その原因の一つは、戦犯として処刑される兵士(篠田三郎)の吐く「天皇陛下、お先に参ります」という台詞だった。山本薩夫はこれを天皇への忠節と解釈し、一方では「天皇も戦争の責任を取ってあの世へ来い」という天皇批判という解釈もあり、どちらか判断しづらいと公開当時問題になった。脚本の笠原自身は天皇批判の意図であり、直接天皇批判を盛り込むのは東映が難色を示すため、間接的な表現で巧妙に仕込んだものだったという。監督の舛田利雄も、新井美代(関根恵子)の「天皇陛下も戦争に行くのかしら」という台詞と合わせ、笠原には一貫した天皇制批判の意図があったことを証言している。舛田自身も終戦当時、天皇は戦犯になるものと思っており、「兵士がそのような形で死んでいったのに、マッカーサーの政策的意図で生かされた昭和天皇は気の毒な方」「天皇陛下の名の下に、みんな戦争にかり出されて、死んだら白木の箱に入って靖国神社に祀られる。そのシステムの中で庶民はどう生きたか、どういう思いで亡くなったのか、ということが僕や笠原としてはある」と述べている。「二百三高地」同様、日本共産党の機関紙「赤旗(現・しんぶん赤旗)」からは、山田和夫らによって「戦争賛美映画」「軍国主義賛美映画」「右翼映画である」と批判されている。映画評論家の佐藤忠男は、戦争指導者に同情的なことや、日本の戦争責任の描き方に批判的な論調であるが、太平洋戦争を全面的には美化せず、戦死者を無駄死にと描いており、日本人の自己憐憫の映画だと指摘している。四方田犬彦はスタジオシステムが崩壊しつつあった中で観客を大量動員するための企画の1本で、内容的には軍事強国だった日本へのノスタルジーをかきたてるものだと、日本映画史の中で位置付けている。中国国営新華社通信は、ちょうど公開当時に、日本の歴史教科書の記述が外交問題に発展した「教科書問題」が起きていたため、東條英機を主人公にした映画が製作されるほど、日本の風潮は右傾化していると報じた。
出典:wikipedia
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