禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。空海(弘法大師)の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の律師・永観(1033年 - 1111年)の頃から浄土教色を強めていく。永観は文章博士の源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三論宗、法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に入るのは延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観は今日の社会福祉活動の先駆者といえるであろう。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は普通「えいかんどう」と読むが、「永観」という僧の名は「ようかん」と読むのが正しいとされている。禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。禅林寺12世の僧都・静遍(1166年 - 1224年)は、当初真言宗の僧であったが、後に法然に帰依し、念仏門に入った。法然の高弟の証空(西山上人)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。証空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は真言宗から浄土宗西山派(小坂流)の有力寺院となり、浄音が興した西谷(せいこく)流の拠点の一つとして光明寺とともに栄えた。明治9年(1876年)には禅林寺は浄土宗西山派の東本山となる。だが、大正8年(1919年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の三つに分裂してしまった。しかし、禅林寺は現在も揺るぎのない念仏道場となっている。境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれている。禅林寺本尊の阿弥陀如来立像は「みかえり阿弥陀」の通称で知られる、頭部を左(向かって右)に向けた特異な姿の像である。像高77.6センチと、三尺像形式の中では小さい方である。かつては鎌倉時代の作とされたこともあったが、作風、構造等の特色から、平安時代末期、12世紀後半の作と見るのが妥当である。左方を向くという特殊な姿勢によって、像体の正面から見るとほとんど真横を向いてしまうため、頭部右側をやや大きく、左側を小さくする事で頭部の印象が損なわれないよう工夫を払っている。この種の「みかえり阿弥陀」の作例は、日本では本像が最も古いが、中国には北宋時代に遡る例があり(四川省安岳円覚洞16号窟)、鎌倉時代以降には山形県善光寺像など若干の作例が知られている。また本像は予め知らないと気づかないほど僅かだが、左足膝を軽く曲げ足先も少し前へ踏み出した歩行の所作をしており、初期の阿弥陀行像としても重要である。これらの「見返り」と「歩行」の動作は、来迎時に浄土へ戻る際、往生者を見守るために振り返るのだと考えられる。1999年、重要文化財に指定。 典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。