伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。1883年(明治16年)、贈正四位。延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現在の横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がいて、三治郎は末子だった。6歳の時、母が亡くなり、家は叔父(母の弟)が継ぐことになった。そのため婿養子だった父貞恒は兄と姉を連れ実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残った。小関家での三治郎の生活状況については詳しく分かっていない。当時の小関村は鰯漁がさかんで、三治郎は漁具がしまってある納屋の番人をしていたと伝えられている。一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書き算盤や、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている。10歳の時、三治郎は父の元に引き取られた。神保家は父の兄である宗載(むねのり)が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した。神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない。三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いの元を転々としたといわれている。常陸の寺では半年間算盤を習い、優れた才能を見せた。また17歳くらいのとき、佐忠太と名乗って、土浦の医者に医学を教わった記録がある。ただしここで習った医学の内容は、あまり専門的なものではなく、余興のたぐいだったといわれている。三治郎が流浪した理由について、研究家の大谷亮吉は、父親が新たに迎え入れた継母とそりが合わなかったこともあって、家に居づらくなったからだとしている。このように、三治郎が周囲の環境に恵まれず不幸な少年時代を過ごしたとする説は昔から広く伝えられている。しかしこの見解に対しては、父や周辺の人物が三治郎のことを思って各地で教育を受けさせたのではないかという反論もある。三治郎が生まれる前の寛保2年(1742年)、下総国香取郡佐原村(現在の香取市佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と記す)では、当主の長由(ながよし)が、妻タミと1歳の娘ミチを残して亡くなった。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。ミチが14歳になった時、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。そのためミチは、再び跡取りを見つけなければならなくなった。伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若いながらも良い仕事ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子1人がいた。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交った。このような佐原の土壌は後の忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている。当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった。そしてその村民の中でも特に経済力が大きく、村全体に大きな発言権を持っていたのが永沢家と、忠敬が婿入りした伊能家であった。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていたが、当主不在の時代が長く続いたため、事業規模を縮小していた。他方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった。忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻ミチと前の夫との間に生まれた子は亡くなった。3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた。忠敬は伊能家の主人という立場から、村民からの推薦で名主後見という立場に就いた。しかしそうはいっても忠敬はまだ若かったため、はじめのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった。この時期の忠敬は病気になって長い間寝込んでいたこともあった。新主人として親戚づきあいなど気苦労も絶えなかったと推測されている。明和6年(1769年)、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとっても力量が試される事件となった。佐原の中心部は小野川を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ行われる。伊能家と永沢家のある本宿の祭礼は牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)で、当時は毎年6月に行われていた。祭りの時は各町が所有する趣向を凝らした山車が引きまわされる。ところが明和3年(1766年)以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。そこで佐原村本宿の村役人3人は話し合い、今年は倹約を心がけて、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。しかし通達したにもかかわらず、各町内はいつものように飾りものの準備をしはじめた。そのうえ、山車を引きまわす順番についても、2つの町が、自分が一番に出すと言い出し、収拾のつかない状態で祭りの当日を迎えることになった。このまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、今年は山車を出さないと決定した。このときに各町を説得しに回ったのが、名主後見という立場にいた、永沢家の永沢次郎右衛門と、伊能家の忠敬であった。佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取り付けた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引きまわされるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家におもむき責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が出したのだからこちらも山車を出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した。義絶とはどのような状態なのかはよく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いを無くすという意味だと推定される。これにより、各町は山車を出すことをようやく取りやめた。とはいえ佐原で「両家」と言われ富と名声を持っていた2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった。祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女シノ(篠)が生まれた。さらに同じ年、忠敬は江戸に薪問屋を出したが、翌年に火事にあい、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった。この頃、幕府では田沼意次が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設けて、そこから運上金を徴収する政策を実行した。そして明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された。河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。そのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。そこで名主4人が江戸の勘定奉公所へ行き、「佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もないから、運上は免除願いたい」と申し出た。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられず、それならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった。これを受けて佐原村ではふたたび話し合いを行い、その結果、今まで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、そして忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。ところがその数日後、永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため、結局、引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった。翌1772年、2人は願書を作って勘定奉公所に提出した。そしてこの願書は奉公所の怒りを買った。というのも去年の願書では、佐原は利根川から十四、五町離れていると言っていたのに今年の願書では利根川から二、三町だとしていて、しかも、以前は河岸問屋が無いと言っていたのに、今度は、2人は前から問屋を営んでいたなどと書かれていたからである。矛盾を追及された佐原側は、昨年申し上げたことは間違いであったなどと色々言い訳をしたが、最終的に奉公所から、「前から問屋をしていたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた。これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いの上、2人で一貫五百文と決まった。ところが同年5月、佐原村内の権三郎という者が自分も問屋をしたいと奉公所へ願い出たため、その関係で忠敬は再び江戸へ出向くことになった。忠敬は、権三郎も問屋を始めたのでは自分たちの商いも減ってしまうし、村方も了承していないと反対意見を述べた。それに対して奉公所の役人は、「権三郎は、自分ひとりに問屋を任せれば、忠敬・茂左衛門の運上金に加えてさらに毎年十貫文上納すると言っているから、2人も問屋を続けたいなら、運上金を増額せよ」と迫った。忠敬は返答の先送りを願い出て、佐原に帰った。そして同年7月、忠敬は村役人惣代、舟持惣代らと共に出頭し、同じく出頭していた権三郎と対決した。忠敬は、自分たちは村役・村方の推薦のもと問屋を引き受けたのだと主張し、さらに権三郎については、多額の運上金を払えるだけの財産もなく、過去にも問屋のことで問題を起こしていると批判した。村役人惣代や舟持惣代も忠敬を支持した。そのため忠敬の主張が認められ、公認の問屋は元のように2人に決まり、この問題はようやく解決を見た。運上金の金額も、いっとき二貫文に上がったが、2年後には一貫五百文に戻った。この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である伊能景利がまとめあげたものだった。景利は佐原村や伊能家に関わることや、さらに他にも多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居した後になってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという祖先の事例は、後の忠敬の隠居後の行動にもつながることになる。河岸の一件が片付くと、忠敬は比較的安定した生活を送った。安永3年(1774年)、忠敬29歳のときの伊能家の収益は以下のようになっている。この年、義母のタミが死去した。安永7年(1778年)には、妻ミチと奥州旅行へと出かけた。これは忠敬にとって、妻と一緒に行った唯一の旅行となった。同じ年、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となった。忠敬は名主や村の有力者と、江戸にある津田氏の屋敷にあいさつに出向いた。そのとき、名主5人と永沢治郎右衛門は麻の裃を着用していたのに対し、忠敬は裃の着用を許されず、屋敷内で座る場所も差をつけられた。これは永沢が名字帯刀を許された身分だったからであるが、商いが順調なのに相変わらず永沢家と身分に差をつけられていることに悔しさを感じた忠敬は、永沢に対抗心を燃やすようになった。しかしそのうちに忠敬の待遇も上がり、天明元年(1781年)、名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった。天明3年(1783年)、浅間山の噴火などにともなって天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となった。忠敬は他の名主らと共に地頭所に出頭し、年貢についての配慮を願い出た。その結果、この年の年貢は全額免除となり、さらに、「御救金」として100両が下された。また、同じ年の冬になってから行われた利根川の堤防に関する国役普請では、普請掛りを命じられた。忠敬は堤防工事を指揮するとともに、工材を安く買い入れることで、工事費の節約の面でも手腕を発揮した。一方その頃、妻ミチは重い病にかかり、同じ年の暮れに42歳で亡くなった。地頭の津田氏は前述のように佐原村の年貢を免除したりしていたが、一方で伊能家や永沢家にたびたび金の無心をしていた。そのため、両家は地頭に対して多くの貸金を持つようになり、地頭所に対しても、また村民に対しても、よりいっそうの発言力を持つようになった。そして忠敬は、天明3年(1783年)9月には津田氏から名字帯刀を許されるようになり、さらには天明4年(1784年)、名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられた。村方後見は名主を監視する権限を持っており、これは永沢治郎右衛門も就いている役である。こうして忠敬は、永沢とほぼ同格の扱いを受けることができた。浅間山の噴火以降、佐原村では毎年不作が続いていた。天明5年(1785年)、忠敬は米の値上がりを見越して、関西方面から大量の米を買い入れた。しかし米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け、伊能家は多額の損失を抱えた。周囲からは、今のうちに米を売り払って、これ以上の損を防いだ方がよいと忠告されたが、忠敬は、あえて米を全く売らないことにした。忠敬は、もしこのまま米価が下がり続けて大損したら、そのときは本宅は貸地にして、裏の畑に家を建てて10年間質素に暮しながら借金を返していこうと思っていたが、その年の7月、利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害を受け、農民は日々の暮らしにも困るようになった。忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組んだ。各地区で、特に貧困で暮らすにもままならない者を調べ上げてもらい、そのような人には特に重点的に施しを与えた。また、他の村から流れ込んできた浮浪人には、一人につき一日一文を与えた。質屋にも金を融通し、村人が質入れしやすくするようにした。翌年もこうした取り組みを続け、村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続けたりした。このような活動によって、佐原村からは一人の餓死者も出なかったという。天明7年(1787年)5月、江戸で天明の打ちこわしが起こると、この情報を聞いた佐原の商人たちも、打ちこわし対策を考えるようになった。この時、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出された。しかし忠敬は、役人は頼りにならないと反対した。そして、役人に金を与えるならば農民に与えた方がよい、そうすれば、打ちこわしが起きたとしても、その農民たちが守ってくれるから、と主張した。この意見が通り、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防ぐことができた。忠敬が貧民救済に積極的に取り組んだことについては、村方後見という立場からくる使命感、伊能家や永沢家が昔から貧民救済を行っていたという歴史、そして農民による打ちこわしを恐れたという危機感など、いくつかの理由が考えられている。また、伊能家代々の名望家意識とともに商人としての利害得失を見極めた合理的精神がこうした判断を促したと考えられている。佐原が危機を脱したところで、忠敬は持っていた残りの米を江戸で売り払い、これによって多額の利益を得ることができた。妻ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えた。この妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではない。天明6年(1786年)に次男秀蔵、天明8年(1788年)に三男順次、寛政元年(1789年)に三女コト(琴)が生まれ、妻は寛政2年(1790年)に26歳で死去した。一方、最初の妻ミチとの間に生まれた次女シノも、天明8年に19歳で死去した。寛政2年、忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘ノブを新たな妻として迎え入れた。この頃、長女のイネはすでに結婚して江戸に移っており、長男景敬は成年を迎えていた。忠敬は、景敬に家督を譲り、自分は隠居して新たな人生を歩みたいと思うようになっていった。そして寛政2年、地頭所に隠居を願い出た。しかし地頭の津田氏はこの願いを受け入れなかった。これは、当時の津田氏は代替わりしたばかりのころだったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからである。地頭所には断られたが、忠敬の隠居への思いはなお強かった。この時忠敬が興味を持っていたのは、暦学であった。忠敬は江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごし、店の仕事は実質的に景敬に任せるようにした。寛政3年(1791年)には、次のような家訓をしたためて景敬に渡した。寛政4年(1792年)、忠敬は、これまで地頭所に金銭を用立てすることによって財政的に貢献したという理由で、地頭所から三人扶持を与えられた。ただしこれは、忠敬にまだ隠居してほしくないという地頭所の思惑も含まれていたと考えられている。翌寛政5年(1793年)には、久保木清淵らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけた。忠敬はこの旅についての旅行記を残している。そしてそこには、各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心がうかがえる。また、久保木も「西遊日記」と呼ばれる旅行記を残している。寛政6年(1794年)、忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れた。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備にとりかかった。そのさなかの寛政7年(1795年)、妻ノブは難産が原因で亡くなった。なお、寛政6年に佐原の橋本町(現・本橋元町)の惣代より村役人および村方後見である伊能三郎右衛門宛てに町内への便所の設置を求める願書が出されており、ここに登場する三郎右衛門は忠敬から家督を譲られた景敬であるとされている。ちなみに、現在の本橋元町にある公衆便所がこの時設置された便所の後身に当たるという。忠敬が隠居する前年の寛政5年(1793年)、伊能家の商売の利益は以下のようになっていた。安永3年(1774年)の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いたことが分かる。この時の伊能家の資産については正確な数字は明らかでないが、寛政12年に村人が「3万両ぐらいだろう」と答えた記録が残っている。ただし、伊能家の状況は必ずしも順風満帆ではなかったとする説もある。伊能家(三郎右衛門家)が得意としてきた酒造業の実績を示す酒造高は天明の大飢饉後の天明8年(1788年)には1480石を誇ってきたが、享和3年(1803年)には600石に減少しており、忠敬没後の天保10年(1839年)には株仲間の記録に伊能家の名前は存在していない、すなわち廃業状態にあったことを示している。これは伊能家だけではなく競合する永沢家も含めて天明期の仲間35家のうち22家が天保期に姿を消し、代わりに天明期に存在が確認できなかった14家の新興酒造家が名前を連ねている状況から、江戸幕府の度重なる酒株政策の変更に伊能家を含めた旧来の酒造家が対応しきれなかったことが背景にあるとみられている。また、貨幣経済の浸透は旗本などの中小領主達に先納金・御用金・領主貸などの手段による貨幣の確保に向かわせることになった。先納金は年貢米を貨幣で前借することであるが、実際には貨幣による年貢徴収の口実とされて結果的には年貢米の輸送減少をもたらし、御用金や領主貸は伊能家のような地方商人への負担となった。また、農村の疲弊は伊能家から村単位への貸付の増加になって現れており、その中にはこれらの村が御用金や先納金を納めるための貸付もあったとみられている。更に伊能家の土地所持高を見ると、享保5年(1720年)には52石7斗余りだったのが、忠敬の相続後である明和3年(1766年)84石1斗余り、隠居後の享和2年(1802年)には145石1斗余りと、忠敬当主時代に急激に増加しているのである。これは金融業における質流れの増加とともに忠敬が酒造や輸送業に限界を感じて、土地の集積へと軸足を移そうとしていたことの表れと解される。実際に隠居後の忠敬が佐原に送った書状には「店賃と田の収益ばかりになっても仕方がない」「もし、古酒の勘定もよくなく、未回収金が過分になったら酒造も見合わせてやめるように」などと記しており、特に後継者であった景敬が没した文化9年(1812年)以降には、酒造業や運送業、領主貸を縮小する意向を示している。だが、地主としての土地経営も小作人となった農民との衝突を招くなど、困難な状況が続いており、忠敬隠居後の文化年間に入ると土地集積の対象を山林にも広げている。佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身に付けていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい。さらに、前述したように、祖先の伊能景利は隠居してから膨大な記録をまとめるという仕事に取り組み、また、忠敬の家から川を挟んで向かい側に住んでいた楫取魚彦も、隠居後に江戸へ出て国学者・歌人として活動した。忠敬もこの2人の生き方から大きな影響を受けたと考えられている。寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家をかまえた。ちょうどその頃、江戸では今まで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年(1754年)につくられた宝暦暦が使われていたが、この暦は日食や月食の予報をたびたび外していたため、評判が悪かった。そこで幕府は松平信明、堀田正敦を中心として、改暦に取り組んだ。しかし幕府の天文方には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時と間重富に任務にあたらせることにした。至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府した。忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。改暦の動きは秘密裏に行われていたのであるが、この時期の符合から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。その情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。そのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説である。同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気付いた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業の中で入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している。一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で大名貸の升屋小右衛門とのつながりを推測している。弟子入りした忠敬は、19歳年下の師至時に師弟の礼をとり、熱心に勉学に励んだ。忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていた。至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、ケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。しかし忠敬は、すでに『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった。寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導についた。同年11月に重富から至時にあてた手紙の中では、「伊能も後編の推歩がそろそろ出来候。月食も出来候」と記されており、すでに『暦象考成後編』を学んでいたことが分かる。忠敬は天体観測についても教えを受けた。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。さらに後には、江戸職人の大野弥五郎・弥三郎親子にも協力してもらい、こうしてそろえた器具で自宅に天文台を作り観測を行なった。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀等々で、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかった。観測はなかなか難しく、入門から4年たった寛政10年(1798年)の時点でもまだ至時からの信頼は得られていないが、忠敬は毎日観測を続けた。太陽の南中を測るために外出していても昼には必ず家に戻るようにしており、また、星の観測も悪天候の日を除いて毎日行った。至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわし始めて、話の途中で席を立って急いで家に帰っていた。慌てるあまり、懐中物や脇差を忘れて帰ったりもした。忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日蝕、月蝕、惑星蝕、星蝕などである。また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っている。長女イネの夫盛右衛門は伊能家の江戸店を任されていたが、忠敬は盛右衛門に、イネとの離縁を言い渡した。この理由は定かではないが、盛右衛門が商売で何らかの不祥事を起こしたためだと伝えられている。しかしイネは盛右衛門との離縁を受け入れず、夫に従った。そのため忠敬はイネを勘当した。ただし勘当した時期については、忠敬隠居後ということは分かっているが、正確には明らかになっていない。一方忠敬は江戸に出てから、栄(エイ)という女性を妻に持った。至時は重富にあてた手紙の中で、この女性のことを、「才女と相見候。素読を好み、四書五経の白文を、苦もなく読候由。算術も出来申候。絵図様のもの出来申候。象限儀形の目もり抔、見事に出来申候」と褒め称え、勘解由は幸せ者だとつづっている。江戸で忠敬が行った天体観測についても、一人で行える内容ではないため、妻の手助けがあったのではないかと推測されている。この妻については、長年にわたり謎の人物とされていたが、1995年、この人物は女流漢詩人の大崎栄(号は小窓、字は文姫)であることが明らかになった。栄は後の忠敬の第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人として生き、忠敬と同じ文政元年(1818年)にこの世を去っている。至時と重富は、寛政9年(1797年)に新たな暦『寛政暦』を完成させた。しかし至時は、この暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。地球の大きさは、緯度1度に相当する子午線弧長を測ることで計算できるが、当時日本で知られていた子午線1度の相当弧長は25里、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかった。忠敬は、自らおこなった観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1分ということを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば、1度の距離を求められると思い、実際に測量を行なった。そしてその内容を至時に報告すると、至時からは、両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せないと返答された。そして、正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測ればよいのではないかと提案された。忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した。至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。至時の提案は、幕府にはすんなりとは受け入れられなかった。寛政11年(1799年)から寛政12年(1800年)にかけて、佐原の村民たちから、今までの功績をたたえて伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に名字帯刀を許可していただきたいとの箱訴が出されたが、これも、忠敬が立派な人間であることを幕府に印象づけて、測量事業を早く認めさせるという狙いがあったとみられている(この箱訴は第一次測量後の享和元年(1801年)に認められ、忠敬は今までの地頭からの許可に加え、幕府からも名字帯刀を許されることとなった。)。幕府は寛政12年の2月ごろに、測量は認めるが、荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めた。しかし船で移動したのでは、道中に子午線の長さを測るための測量ができない。忠敬と至時は陸路を希望し、地図を作るにあたって船上から測量したのでは距離がうまく測れず、入り江などの地形を正確に描けないなどと訴えた。その結果、希望通り陸路を通って行くこととなったが、測量器具などの荷物の数は減らされた。同年閏4月14日、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下された。ただし目的は測量ではなく「測量試み」とされた。このことから、当時の幕府は忠敬をあまり信用しておらず、結果も期待していなかったことがうかがえる。忠敬は「元百姓・浪人」という身分で、1日あたり銀7匁5分が手当として出された。忠敬は出発直前、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出した。そこでは自らの思いが次のようにつづられている。ここでは蝦夷地だけでなく、奥州から江戸までの海岸線の地図作成についても述べられている。このことから、忠敬は最初から日本全国の測量が念頭にあったのではないかと考えられているが、その見解に対しては異論もある。忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった。富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めた。千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わった。寒くなる前に蝦夷測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動した。出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩に到達した。三厩からは船で箱館(現函館市)へと向かう予定だったが、やませなどの影響で船が出せず、ここに8日間滞在した。9日目に船は出たが、やはり風の影響で箱館には着けず、松前半島南端の吉岡に船をつけ、そこから歩いて箱館へと向かった。箱館には手続きの関係で8泊し、その間に箱館山にのぼり方位の測定をおこなった。また下男の1人が病気を理由に暇を申し出たので、金を与えて三厩行きの船に乗せた。5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷測量が始まった。しかし、蝦夷地では測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかったため、持ってきた大方位盤は箱館に置いてくることにした。また、初日は間縄を使って距離を丁寧に測っていたが、あまりに時間がかかりすぎたため、2日目以降は歩測に切り替えた。一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測を行なった。海岸沿いを通れないときは山越えをおこなった。蝦夷地の道は険しく、歩測すらままならなかったところも多い。また、本州のような宿が無かったため、宿泊は会所や役人の仮家を利用した。難所続きでわらじもことごとく破れて困っているところに目に入った会所からの迎え提灯は、地獄に仏のようだったという。7月2日、忠敬らはシャマニ(様似町)からホロイズミ(えりも町)に向かったが、襟裳岬の先端まで行くことはできず、近くを横断して東へ向かった。その後クスリ(釧路市)を経て、ゼンホウジ(仙鳳趾)から船でアツケシ(厚岸町)に渡り、アンネベツ(姉別)まで歩き、再び船を利用して、8月7日にニシベツ(西別、別海町)に到達した。一行はここから船でネモロ(根室市)まで行き、測量を続ける予定だった。しかしこの時期は鮭漁の最盛期で、船も人も出すことができないと現地の人に言われたので、そのまま引き返すことにした。8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路についた。9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着した。第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷滞在は117日だった。なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷滞在中に間宮林蔵に会って弟子にしたとのことであるが、この時の測量日記には林蔵のことは書かれていない。11月上旬から測量データを元に地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた。地図製作には妻の栄も協力した。完成した地図は12月21日に下勘定所に提出した。12月29日、測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を受け取った。忠敬は測量に出かけるときに100両を持参していて、戻ってきたときは1分しか残らなかったとの記述があるため、差し引きすると70両以上を忠敬個人が負担したことになる。後世の試算によると、この時忠敬が負担した金額は現在の金額に換算して1,200万円程度であった。また忠敬はこの他に測量器具代として70両を支払っている。忠敬の測量について、師の至時は、蝦夷地で大方位盤を使わなかったことについては残念だとしながらも、測量自体は高く評価した。そして、間重富宛ての手紙で、「このように測ることは私が指図はいたしましたが、これほどきちんとやれるとは思いませんでした」とつづった。また、当初の目的であった子午線1度の距離について、忠敬は「27里余」と求めたが、これに対する至時の反応は残されていない。蝦夷測量で作成した地図に対する高い評価は堀田正敦の知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた。寛政12年(1800年)の暮、忠敬は桑原から第二次測量の計画を出すようにすすめられた。忠敬は案を作成し、寛政13年(1801年)の正月に桑原と至時の添削を受けた。この計画は、行徳から本州東海岸を北上して松前へと渡り、松前で船を調達して、船を住めるように改造し、食料も積み込んでから蝦夷地の西海岸を回り、さらにクナシリからエトロフ、ウルップまで行くというものであった。途中で船を買うことにしたのは、蝦夷地は道が悪く宿舎が無いことを見越したもので、用がすんだら船は売り払う計画だった。また測量器具を運ぶため、人足1人、馬1匹、長棹1棹の持ち人足を要求した。しかし桑原がこの計画を堀田正敦に内々で相談したところ、船を買う件と長持の件は書面には書かずに口頭で述べる方がよいとの返答を得た。忠敬は、口頭で伝えたのでは計画の実現は難しく、測量は不十分なものになってしまうと反発した。しかし結局は、忠敬は桑原、至時と話し合ったうえで、船と長持の件はやはり口頭で伝えることとし、これが認められなければ蝦夷地をあきらめて本州東海岸のみを測量するという案を出すことで納得した。最終的に、今回は蝦夷地は測量せず、伊豆以東の本州東海岸を測量することに決められた。手当は前回より少し上がって1日10匁となった。また、道中奉行、勘定奉行から先触れが出るようになり、この結果、現地の村の人々の協力を得ることも可能になった。享和元年(1801年)4月2日、一行は江戸を出て東海道を西に向かった。品川で親類・知人の見送りを受けた。今回の測量から、歩測ではなく間縄を使って距離を測ることにした。一行は三浦半島を一周し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参詣、さらに伊豆半島を南下して、5月13日に下田に到着した。伊豆半島の道は断崖絶壁で測量が難しく、海が荒れる中で船を出して縄を張って距離を求めたり、岩をよじのぼって方角を測ったりするなど、苦労を重ねた。荷物を運ぶのにも労を要したが、聞いた話によると、下田から先の伊豆半島西海岸はこれに輪をかけて大変だということなので、ここまで持ってきた大方位盤は江戸に送り返すことにした。5月17日に下田を発ち、西海岸を廻って5月30日に三島に到着、ここで至時によって江戸から送られてきた測量器具「量程車」を受け取った。三島からは東海道を東進し、箱根の関所を越え、6月6日北品川宿に到着、いったん桑原や至時に報告した。6月19日、一行は再び江戸を発ち、房総半島を測量しながら一周し、7月18日に銚子に着いた。銚子には9泊し、富士山の方角などを確かめた。また、銚子で忠敬は病気にかかったが、すぐに回復した。7月29日に銚子を出発し、太平洋沿いを北上していった。しばらくはおおむね順調に測量できていたが、8月21日に到着した塩釜湾岸は山越えができずに舟を出して引き縄で距離を測った。さらに翌日に測量した松島や、その先の釜石、宮古までの間も、地形が入り組んでいる上に断崖絶壁だったため、たびたび舟の上からの測量となった。10月1日に宮古湾を越えて北上を続け、雪に悩まされながらも10月17日に下北半島の尻屋に到着、そして半島を一周して奥州街道、松前街道を進み、11月3日、三厩に辿り着いた。ここからは第一次測量と同じように奥州街道を南下して、12月7日に江戸に到着した。忠敬は江戸に戻ったが、5月に下田から送った大方位盤はまだ届いていなかった。忠敬は下田の宿主と名主に照会をとり、荷物は翌年の2月にようやく届けられた。忠敬はこれに対して「不届きの者なり」と立腹した。地図は第一次測量のものと合わせて、大図・中図・小図の3種類が作られた。そのうち大図・小図は幕府に上程し、中図は堀田正敦に提出した。また、子午線一度の距離は28.2里と導き出した。忠敬らは、前回計画を立てながらも実行できなかった蝦夷地の測量をやり遂げたい気持ちがあった。だが忠敬の立てた測量計画が幕府に採用される見込みは相変わらず薄かった。そこで、まずは内地の測量に従事した方がよいと判断した。享和2年(1802年)6月3日、忠敬は堀田正敦からの測量命令を、至時を通して聞いた。測量地点は日本海側の陸奥・三厩から越前まで、および太平洋側の尾張から駿河までで、これと第一次・第二次測量を合わせて東日本の地図を完成させる計画である、また、8月に起きる日食も観測するよう指示された。本測量では人足5人、馬3匹、長持人足4人が与えられ、手当は60両支給された。これは過去2回よりもはるかに恵まれた待遇で、費用の収支もようやく均衡するようになった。一行は6月11日に出発、奥州街道を進み6月21日に白河まで辿り着いた。ここから奥州街道を離れ会津若松に向かい、山形、新庄などを経て、7月23日に能代に到着した。ここで、8月1日に起こる日食を観測するための準備を整えた。しかし当日は曇りで、太陽は日食が終わる直前にほんの少し見えただけで、観測は失敗に終わった。8月4日に能代を発ち、羽州街道を油川(現青森市)まで進んだ。途中の弘前では宿の設備や対応が悪く、忠敬は役人に注意した。このように第三次測量からは、忠敬が測量に協力的でない役人を叱りつけることがままあった。これは幕府の事業を請け負っているという自負が強くなってきたためだろうと考えられている。油川からは第一次、第二次と同じ道をたどり、8月15日に三厩に到着した。ここから算用師峠を越えて日本海側の小泊(現中泊町)に行き、そこから南下した。9月2日から6日まで二手に分かれて男鹿半島を測量し、9日からは象潟周辺を測量した。当時の象潟は入り江の中に幾多の島々が浮かぶ景勝地だったが、忠敬測量の2年後に起きた象潟地震によって土地が隆起し、姿を全く変えてしまった。そのため、忠敬によって実測された地震前の象潟の記録は貴重なものとなっている。その後、越後に入ると、海岸沿いでも岩山が多くなり、苦労をしながらの測量となった。9月24日に新潟、10月1日に柏崎、10月4日に今町(現上越市)に到着し、ここで海岸線を離れて南下した。そして追分(現軽井沢町)から中山道を通って、10月23日に江戸に戻った。江戸に帰った忠敬らは地図作成に取り掛かったが、今回の測量だけでは東日本全体の地図は作れないため、下図のみ作成して、享和3年(1803年)1月15日に幕府に提出した。また、今回の測量結果から忠敬は再度子午線一度の距離を計算し、28.2里という、第二次測量の時と同じ値を導き出した。しかし至時は、この値は自分の想定していた値よりも少し大きいとして、忠敬の結果を信用しなかった。忠敬はこの師匠の態度に不満を感じた。そして、この値が信用できないというのであれば、今まで自分がおこなってきた測量をすべて疑っているということではないか、ならば今後測量を続けることはできない、と言った。至時は忠敬を宥め、なんとか次の測量の手はずを整えた。享和3年(1803年)2月18日、忠敬は至時を通じて堀田正敦からの辞令を受け取った。今回の測量地域は駿河、遠江、三河、尾張、越前、加賀、能登、越中、越後などで、また、佐渡にも渡るよう指示された。人足や馬は前回と同様で、旅費としては82両2分が支給された。2月25日に一行は出発し、東海道を沼津まで測量した(第二次測量の再測)。沼津からは海岸沿いを通り、御前崎、渥美半島、知多半島を回って、5月6日に名古屋に着いた。名古屋からは海岸線を離れて北上し、大垣、関ヶ原を経て、5月27日に敦賀に到着した。28日から敦賀周辺を測量し、その後日本海沿いを北上していったが、5月末から6月にかけては隊員が次々と麻疹などの病気にかかり、測量は忠敬と息子の秀蔵の2人だけで行なうこともあった。6月22日には病人は快方に向かい、24日に一行は加賀国へと入った。しかし加賀では、地元の案内人に地名や家数などを尋ねても、回答を拒まれた。これは、加賀藩の情報が他に漏れるのを恐れたためである。そのため忠敬は藩の抵抗にあいながらの測量となった。加賀を出て、7月5日からは能登半島を二手に分かれて測量した。8月2日ごろからしばらく忠敬は病気にかかり体調の悪い日が続いていた。そんななか、8月8日に訪れた糸魚川藩で、糸魚川事件と呼ばれるいざこざを起こした。忠敬はこの日、姫川河口を測ろうとして手配を依頼したところ、町役人は、姫川は大河で舟を出すのは危険だと断った。ところが翌日に忠敬らが行って確認したところ、川幅は10間程度しかなく、簡単に測ることができた。忠敬は、偽った証言で測量に差し障りを生じさせたとして、役人たちを呼び出してとがめ、藩の役人にも伝えておくようにと言った。その後忠敬一行は直江津(現上越市)を通過して、8月25日に尼瀬(現出雲崎町)に到着、ここで船を待って8月26日に佐渡島にわたり、二手に分かれて島を一周し、9月17日に島を離れた。佐渡の測量によって、本州東半分の海岸線はすべて測量し終えたことになる。翌日からは内陸部を測りながら帰路についたが、途中の六日町(現南魚沼市)で、至時からの至急の御用書を2通受け取った。糸魚川での事件が江戸の藩主に伝わり、藩主から勘定所に申し入れがあったためである。至時は1通目の公式な手紙で、忠敬の言い回しはことさら御用を申し立てるようでがさつに聞こえる、もってのほかだ、と非難した。2通目の私的な手紙では、今後測量できなくなるかもしれないから、細かいことにこだわってはいけないと、割合くだけた調子で注意した。忠敬はこれに対して弁明の書を出した。その後一行は三国峠を越え、三国街道から中山道に入り、10月7日に帰府した。帰府後、忠敬は糸魚川事件の詳細な報告書を提出した。至時の力もあって、結果的に忠敬は幕府から咎められることはなく、測量に支障をきたさずに済んだ。忠敬が帰府したとき、至時は西洋の天文書『ラランデ暦書』の解読に努めていた。この本には緯度1度に相当する子午線弧長が記載されており、計算したところ、忠敬が測量した28.2里に非常に近い値になることが分かった。これを知った忠敬と至時は大いに喜び合った。しかし翌文化元年(1804年)正月5日に、至時は死去した。至時の死後、忠敬は毎朝、至時の墓のある源空寺の方角に向かって手を合わせたという。幕府は至時の跡継ぎとして、息子の高橋景保を天文方に登用した。忠敬らは第一次から第四次までの測量結果から東日本の地図を作る作業に取り組み、文化元年(1804年)、大図69枚、中図3枚、小図1枚から成る「日本東半部沿海地図」としてまとめあげた。この地図は同年9月6日、江戸城大広間でつなぎ合わされて、十一代将軍徳川家斉の上覧を受けた。ただし忠敬は身分の違いにより、この場には出席していない。初めて忠敬の地図を見た家斉は、その見事な出来栄えを賞賛したのではないかといわれている。9月10日、忠敬は堀田正敦から小普請組で10人扶持を与えるという通知を受け取った。また、この年、漢学者として佐原にて門人の教育にあたっていた久保木清淵が後漢の鄭玄の『孝経』註釈を復元した『補訂鄭註孝経』を刊行したが、忠敬は同書の序文を執筆している。至時は元々、忠敬には東日本の測量をまかせ、西日本は間重富に担当させる予定でいた。しかし至時の死後に天文方となった景保は当時19歳の若さだったため、重富は景保を補佐する役に当たらなければならなくなった。そのため、西日本の測量も忠敬が受け持つことになった。西日本の測量は幕府直轄事業となった。そのため、測量隊員には幕府の天文方も加わり人数が増えた。また、測量先での藩の受け入れ態勢が強化され、今まで以上の協力が得られるようになった。当初の測量の予定は、本州の西側と四国・九州、さらには対馬、壱岐などの離島も含めて、33か月かけて一気に測量してしまおうという大計画だった。しかし実際は、西日本の海岸線が予想以上に複雑だったこともあって、4回に分けて、期間も11年を要することになる。文化2年(1805年)2月25日、忠敬らは江戸を発ち、高輪大木戸から測量を開始した。隊員は16人、隊長の忠敬は60歳になっていた。東海道を測量しながら進み、3月16日に浜松に到着、浜名湖周辺を測った。さらに伊勢路に入ると2手に分かれて、沿岸と街道筋の測量をおこなった。4月22日、伊勢国の山田(現伊勢市)に到着し、この日の夜、経度を測定するため、木星の衛星食を観測した。木星衛星食の観測は5月6日から8日にかけて、鳥羽でも行なった。6月17日からは紀伊半島の尾鷲付近を測量したが、地形が入り組んでいたため作業は難航した。さらに測量隊から病人も相次いだ。その後紀伊半島を一周し、8月18日に大坂に着いた。大坂では12泊し、間重富の家族とも接触した。また、測量隊のうち市野金助ら3人は病気を理由に帰府した。ただし幕府下役である市野の離脱については、忠敬の内弟子、あるいは忠敬本人の測量方針と見解の相違があったためではないかとも言われている。閏8月5日、一行は京都に入ったが、これまでの測量で予想以上に日数を費やしてしまっていたので、3年で西日本を測量するという計画は成し遂げられそうになかった。忠敬は江戸の景保に手紙を出し、計画の変更と隊員の増員を願い出た。江戸とは何度か書状のやり取りをしながら37日間かけて琵琶湖を測量した。結局測量計画は変更され、中国地方沿岸部を終えたらいったん帰府することになった。また人数も2名増員されたが、瀬戸内海の海岸線は複雑で、家島諸島の測量にも日数を要したため、さらに2名の増員を要請した。一行は岡山で越年することになった。文化3年(1806年)1月18日、岡山を出発し、瀬戸内海沿岸および瀬戸内海の島々を測量した。測量にあたっては地元の協力も得た。瀬戸内海の島々を多くの舟と多くの人数で測量している様子を描いた絵巻『浦島測量之図』が残されている。1月28日に福山、2月5日に尾道、3月29日に広島に到着した。4月30日、秋穂浦(現山口市)まで測量を進めた忠敬は、ここでおこりの症状を訴え、以後、医師の診療を受けながら別行動で移動することになった。一行は下関を経て6月18日に松江に着き、ここで忠敬は留まって治療に専念した。その間に隊員は三保関(現松江市美保関町)から隠岐へ渡り、測量を終えてから三保関に戻り、8月4日に松江で忠敬と合流した。忠敬の病状は回復し、松江から再び山陰海岸を測り始めた。しかし病気の間に隊員の統率は乱れ、隊員は禁止されている酒を飲んだり、地元の人に横柄な態度をとったりしていた。これは幕府の耳にも入っていたため、10月、景保から戒告状が届けられた。一行はその後若狭湾を測量し、大津、桑名を経て11月3日に熱田(現名古屋市熱田区)に着いた。熱田からは測量はおこなわず東海道を江戸へ向かい、11月15日に品川に到着した。測量後、忠敬は景保と相談し、隊規を乱した測量隊の平山郡蔵、小坂寛平の2名を破門にし、3名を謹慎処分にした。また、弟子とともに地図の作製や天体観測をおこない、今回の地図は文化4年12月に完成した。今回の測量の経験から、忠敬は、長期に及ぶ測量は隊員の規律を守る点で好ましくないと感じた。そこで次回の測量は四国のみにとどめることにした。文化5年(1808年)1月25日、忠敬らは四国測量のため江戸を出発した。江戸から浜松までは測量せずに移動し、浜松から御油(現豊川市)までは気賀街道を通って測量した。御油から先はまたほとんど測量をおこなわず、2月24日に大阪に着いた。3月3日、淡路島の岩屋(現淡路市)に着き、ここから島の東岸を鳴門まで測り3月21日に徳島に渡った。そして四国を南下し、4月21日に室戸岬に着き、4月28日、赤岡(現香南市)で隊を分け、坂部貞兵衛らに、伊予と土佐の国境まで縦断測量をおこなわせた。4月29日に高知に着いた。その後も海岸線を測量し、8月11日に松山に着いた。ここからも引き続き海岸線を測りつつ、加えて瀬戸内海の島々も測量し、さらに川之江(現四国中央市)からは再び坂部に四国縦断測量を行なわせた。このように、海岸線だけでなく内陸部も測らせたのは、測量の信頼性を高めるためである。10月1日、塩飽諸島で日食を観測し、高松を経て、鳴門から淡路島に渡り島の西岸を測量、11月21日に大坂に戻った。大坂で、病気の伊能秀蔵を江戸に帰し、ここから法隆寺、唐招提寺、薬師寺、東大寺、長谷寺といった社寺を回りながら奈良・吉野の大和路を測った。その後伊勢を経由して帰路につき、文化6年(1809年)1月18日に江戸に戻った。今回の測量では秀蔵が途中で離脱し、また忠敬自身も病気に罹ったが、それ以外は大きな問題はなく、隊員の統率もとれた。測量作業においては藩の協力も多く得られ、測量のために新たに道を作ったところもあった。第七次測量は文化6年(1809年)8月27日に開始した。今回は中山道経由で移動することとなり、測量は王子(現東京都北区)から行なった。御成街道や岩淵の渡しなどを利用して岩槻まで行き、岩槻から熊谷へ向かい中山道に入った。中山道を武佐(現近江八幡市)まで測り、そこから、東海道へ向かう御代参街道を土山(現甲賀市)まで測った。土山から淀、西宮を経て山陽道を行き、11月には備後国神辺(現福山市)にて儒学者として有名な菅茶山と面会し、その際に忠敬は自身が序文を書いた久保木清淵の『補訂鄭註孝経』を茶山に贈呈している。その後、豊前小倉(現北九州市)で越年、ここから九州測量を始めた。小倉から海岸線を南下し、2月12日に大分、28日に鳩浦(現津久見市)に入った。鳩浦では3月1日に起こる日食を観測したが、天候が悪く失敗した。4月6日に延岡、27日に飫肥(現日南市)に到着。ここで支隊を出して都城方面の街道測量にあたらせた。本隊はそのまま南下して大隅半島をぐるりと回り、再び都城方面に支隊を出して測線をつないだのち、6月23日に鹿児島に着いた。鹿児島で桜島の測量や木星の観測を行なってから、一行は薩摩半島を南下し、7月8日に山川湊に着いた。ここから舟に乗り種子島、屋久島の測量をおこなう予定であったが、天候が悪かったので後回しにして、そのまま薩摩半島の海岸線を測量し、8月1日、串木野(現いちき串木野市)付近から甑島に渡って測量、8月19日に串木野に戻った後、本隊はそのまま海岸線を北上、支隊は鹿児島から街道筋を通って肥後へと向かわせた。両隊はその後合流して天草諸島を測った。しかし甑島や天草の測量には手間がかかり、病人も出たので、今回は種子島、屋久島の測量はあきらめ、いったん江戸に帰ることにした。忠敬らは天草周辺の街道を
出典:wikipedia
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