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イギリス連邦

イギリス連邦(イギリスれんぽう、、旧名 )は、かつてのイギリス帝国(大英帝国)がその前身となって発足し、イギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、緩やかな国家連合(集合体)である。英連邦(えいれんぽう)、コモンウェルス()ともいう。実態は、民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった(一国の国家形態としての連邦国家ではなく、また構成国各国は必ずしも同君連合の関係にあるとも限らない)。もともとの名称は「ブリティッシュ・コモンウェルス・オブ・ネーションズ()」であった。これは日本語で「イギリス連邦」と訳し得るため、現在でもこのように呼ぶことが多いが、1949年以降は「コモンウェルス・オブ・ネーションズ()」が正式名称となっており、直訳するならば「諸国連邦」となる。イギリスなどにおいて定冠詞付きで「コモンウェルス()」というと、一般的にはこのイギリス連邦を指すことが多い。「連邦」というが、連邦国家ないし連合国家ではなく、中央政府を有しない国家連合である。類似する国際組織としては、フランコフォニー国際機関、ポルトガル語諸国共同体、オランダ語連合、独立国家共同体がある。イギリス国王を自国の国王に擁く人的同君連合である英連邦王国も加盟国に含まれるが、独自の君主や大統領を元首にいだく国家も多数存在し(後述)、旧イギリス帝国に由来する連合としては最も広範かつ緩やかなものである。しかし、1971年に締結されたUK、オーストラリア、ニュージーランド、マレーシア、シンガポール5ヶ国間の英連邦5ヶ国条約にみられるように、英連邦構成国間で緊密な防衛協力が行われているのも現実であり、その生命力には無視できないものがある。イエメン、パレスチナ自治政府(イスラエル自治領ヨルダン河西岸及びガザ地帯)、南スーダンなどの国や地域が、加盟を要望している。また、2000年代初頭の時点ではルワンダ(旧ベルギー領)も加盟を要望していた(2009年に正式加盟)。19世紀には世界最大の帝国として覇を唱えていたイギリス帝国は、20世紀に入るとアメリカやドイツの追い上げによって国力の優位は次第に小さなものとなっていった。こうしたなか、19世紀後半以降イギリス本国は世界各地の入植型植民地の権限を強化していき、特に白人が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、自治領(ドミニオン)とするようになっていった。1867年、英領北アメリカ法によって3つのイギリス北米植民地が連邦を組み、カナダとしてドミニオン化したのを皮切りに、1901年にはオーストラリア大陸の6植民地が連邦化してオーストラリア連邦が成立し、1907年にはニュージーランドとニューファンドランドが、1910年には南アフリカの4植民地が合同して連邦化し南アフリカ連邦が成立した。これらの自治領とイギリスとの間には1887年から協議機関として植民地会議が開催されていたが、1907年にはこれは帝国会議と改称され、帝国会議に出席できる自治領は「植民地」(Colony)ではなく「ドミニオン」(Dominion)と呼称するようになった。この動きの中で、1911年にはオーストラリアとカナダが独自の海軍創設を認められるなど、自治領諸国は自立の動きを強めていった。こうした動きは第一次世界大戦においてより強まった。この大戦にはすべてのドミニオン・植民地が参戦したが、オーストラリアで1916年に徴兵制導入が拒否されたり、ボーア戦争以来反英感情のくすぶる南アフリカにおいては1914年にボーア人によるマリッツ反乱が起きるなど、各ドミニオンにおいてイギリスからの自立を目指す動きが活発化した。この動きが最も激しかったのはイギリス本国に組み込まれていたアイルランドであり、1919年にはついにアイルランド独立戦争が勃発し、1921年にはアイルランド自由国としてドミニオンの地位を獲得した。こうしたなか、各植民地の協力を得るためにイギリス本国はさらに融和的な姿勢を取るようになり、1917年には各ドミニオンの代表が参加した帝国戦時内閣が開催された。第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約が1919年に締結された際には各ドミニオンの代表は出席を許され、国際連盟の委任統治領としてオーストラリアがニューギニアを、南アフリカが南西アフリカを、ニュージーランドが西サモアをそれぞれ本国とは別に獲得し、連盟にもそれぞれ加盟を許された。こうして、各ドミニオンはすでに実質的には独立国と変わりないものとなっていった。第一次世界大戦後、イギリスの国力退潮が鮮明となると帝国の支配体制は揺らぎはじめ、それにともない各ドミニオンはさらに独立傾向を強めていき、1926年の帝国会議では特に反英感情に強かったアイルランド自由国とアフリカーナー主体の南アフリカ連邦がついに帝国離脱を要求。これをうけて、イギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成され、これを土台とした新しい帝国の在り方を規定する憲章が制定されることとなった。こうして制定されたのがウェストミンスター憲章である。1931年、イギリス議会におけるウェストミンスター憲章()において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国家の自由な連合体と定義され、イギリス、アイルランド自由国(のちに脱退)、カナダ、ニューファンドランド(のちにカナダの1州となる)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦をメンバーとして発足した。この時点では旧来のドミニオンの連合に過ぎず、白人自治領の連合体としての性格を持っていた。また、この時点においては旧来のイギリス帝国はいまだ存続しており、帝国と連邦が併存する体制を取っていた。成立期のイギリス連邦は、ブロック経済としての側面を強める傾向にあった。1929年に始まった世界恐慌はイギリス連邦にも甚大な被害をもたらしており、こうした中でイギリスは従来取っていた自由貿易主義を放棄し、他国からの輸入に関税をかけた一方で、イギリス連邦内においては1932年のオタワ協定において相互に関税率を引き下げ、連邦内の貿易を促進する政策を取った。この関税は帝国特恵関税と呼ばれ、これによってポンド圏(スターリング・ブロック)が成立した。ただし、経済的にアメリカと非常に強い関係にあったカナダはこのブロックには加入していなかった。逆にイギリスと非常に強い経済関係にあったアルゼンチンはこのブロックに加入するなど、イギリス連邦とスターリング・ブロックの範囲は完全に一致していたわけではない。この帝国特恵関税およびスターリング・ブロックは第二次世界大戦中に崩壊し、以後イギリス連邦が経済ブロック化することはなかった。第二次世界大戦後、1947年にインドおよびパキスタンが独立したことで白人連合としての性格が消滅した。さらにこの独立の際にインドは近日中に制定される予定の憲法において共和制を取ることを表明し、なおかつその後もイギリス連邦にとどまることを希望した。この要望は受け入れられ、1950年にインドが共和制をとった際、連邦へのインドの残留を認めたために、以後「イギリス国王に対する共通の忠誠」は連合体の必要条件から除外されることとなり、同君連合以外の国家も連邦参加が可能となった。こうして、同君連合である英連邦王国とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、政治体制にかかわらずイギリスから新たに独立した国家がイギリス連邦にとどまることが可能になり、以後の拡大をもたらすこととなった。また1949年には、従来の加盟国の中で最も反英的だったアイルランドが完全に連邦から脱退した。イギリスの国力の衰退は続き、1940年代から1950年代にはアジア諸国が次々とイギリスから独立した。1956年に起きたスエズ動乱において、エジプトに軍事介入したイギリスの行動は連邦内においてもほとんど支持を得ることができず、さらに世界各国の包囲網によって軍事介入自体が失敗に終わった。これによりイギリスの軍事的威信は失墜し、脱植民地化の流れはとどめようのないものとなっていった。イギリスも植民地を独立させたうえで連邦内にとどめて影響力を維持する戦略へと転換し、1960年代にはアフリカ諸国が次々とイギリスから独立した。こうした新独立国のほとんどはイギリス連邦にとどまった。一方で、1961年には創設時からの加盟国であった南アフリカ共和国が脱退した。南アフリカは1961年に国民投票を行って英連邦王国から共和制を取ることとなったが、共和制でも加盟はできるため、南アフリカ政府は当初は脱退する意向は持っていなかった。しかしいまや有色人種国家が多数を占める連邦内において南アフリカのアパルトヘイト政策への批判が噴出し、これで態度を硬化させた南アフリカが脱退を通告した。こうした流れは、1964年に起きたローデシア問題においてよりいっそう明確なものとなった。1923年以降広範な自治権をもっていた南ローデシアはイギリス連邦の準加盟国に近い立場にあったが、その後身であるローデシア・ニヤサランド連邦が1963年に解体し、そこから独立したマラウイとザンビアが連邦に加盟すると、いまだ人種差別主義を取る南ローデシアの完全独立および加盟が焦点となった。連邦加盟国のほとんどは南ローデシアに対し強硬な姿勢を取り、人種差別が撤廃されない限り独立および連邦加盟を認めない立場を取ったため、宗主国であるイギリスもこれを考慮せざるを得なくなった。これに南ローデシア政府は反発し、1965年にはローデシア共和国として一方的に独立を宣言した。この対立は、1980年にローデシアが崩壊し黒人国家であるジンバブエ共和国が連邦に加盟するまで続いた。こうした流れの中で、イギリス本国もイギリス連邦よりも、統一化の進むヨーロッパ大陸を志向するようになり、1961年には保守党のハロルド・マクミラン政権のもとで欧州経済共同体(EEC)加盟を申請した。この申請はフランスのシャルル・ド・ゴールに拒否されて実現しなかったものの、結局1973年にエドワード・ヒース政権のもとでEEC加盟は実現し、イギリスは完全にイギリス連邦からヨーロッパへと重心を移すこととなった。イギリス連邦成立時、連邦に関する事務は1926年に植民地省から分離独立したイギリス政府内の自治領省が担っていた。自治領省は1947年にコモンウェルス省に改名され、その後も連邦の事務を担っていたが、英領植民地の急速な独立とそれによる加盟国の急増によって連邦内のイギリスの地位は低下し、ガーナのクワメ・エンクルマなどによってイギリス政府からの連邦事務の独立が要求されることになった。こうして1965年にはイギリス連邦の独立事務局が創設され、イギリス連邦はイギリス政府から独立した機構となった。さらにそれまでロンドンにおいて行われていた英連邦首脳会議が1966年にはナイジェリアのラゴスにおいて開催された。1971年には英連邦首相会議はシンガポールで行われ、これ以降会議はイギリス本国での開催から加盟国間における持ち回りでの開催となった。1971年に発せられたシンガポール宣言において、イギリス連邦は「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)」と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった(連邦国家ではない)。1970年代から1980年代には残されたイギリス植民地のほとんどが独立し、かつての帝国のほとんどは連邦化が完了した。1994年にはアパルトヘイトを撤廃した南アフリカが再加盟を認められた。また、この時期までイギリス連邦の加盟国はすべて旧イギリス領または旧ドミニオン諸国領に限られていたが、1995年には旧英領以外のはじめての加盟国としてモザンビーク(旧ポルトガル領)の加盟が承認され、イギリス連邦は旧英領以外にも加盟国の範囲を広げることとなった。イギリス連邦は独立した事務局および各種機関を備えており、それらの多くはロンドンのマールボロ・ハウスにおかれている。加盟国同士では、通常の国対国のように特命全権大使を交換せず、「高等弁務官」を外交使節長として、大使館のかわりに高等弁務官事務所を置いている。これは、大使が国家元首の代理、およびその大使の駐在先を大使館として呼ぶことが、各国の国家元首が同一人物たる同君連合にあたる諸国間では不適当であったためだが、加盟国の中でイギリス国王を必ずしも君主・元首としなくなった国においても、伝統的にこの名称が使われている。イギリスは加盟国国民に国政および地方選挙における選挙権および被選挙権を認めている。また加盟国国民には査証発給(免除)やワーキング・ホリデーに関する優遇措置がある。さらに自国の在外公館が置かれていない英連邦外の国において、イギリスの在外公館による援護を受けることができる。これらの特典は()と称される。ただし連邦市民権は互恵的なものではなく、加盟国国民に対する待遇は加盟国によってまちまちである。加盟国の政府の長(首相または大統領)は2年に1度、西暦の奇数年に会議を行う。開催地は1971年以降、加盟各国による持ち回りとなっている。前身は以下のとおり。加盟国には、国家元首として独自の大統領や君主を置く国と、イギリス国王(現在は女王エリザベス2世)を元首たる国王とする国(英連邦王国)とがある。後者では、国王から任命された総督が国王の役割を代行しているが、現代では総督は実質的には首相による指名制する場合が多い。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどがこの事例に含まれる(詳細は現在の英連邦王国を参照)。モザンビーク(旧ポルトガル領、公用語はポルトガル語)を除くほとんどの国では、英語を公用語かそれに準じる言語としている。ルワンダはベルギー統治時代以降、ベルギーの主要公用語であったフランス語を第二公用語としてきたが、親仏(および旧フランス植民地)的な政府が打倒されたルワンダ紛争後は、英語が公用語に追加された。イギリスの旧植民地や英連邦加盟国は、統治時代に英語教育と共に導入されたイングランド式の教育制度を独立後もそのまま引き継いだり、一部を変更して継続する国が多い。資格制度においてもイギリスの制度設計が導入されていることが多い。このためイギリスへの留学時に優遇される措置や、本国での資格を有してればイギリスで同じ資格を取得する際に試験の一部が免除されるなどの共通化制度がある。イングランドに倣いコモン・ロー(英米法)を導入した国が多い。ただし、コモン・ローは土着の慣行を柱とする法体系でもあるため、それ以前から大陸法が根付いていた地域(南アフリカ共和国など)では大陸法ないし大陸法的な要素が取り入れられている。ウェストミンスター・システムを採用する国も多いが、これにもナイジェリアのような例外もある。人権尊重と法の支配が求めれ、これらに対して重大な侵害があるという理由で資格停止とされる国もある。世界的には右側通行が多くを占めているが、英連邦やイギリスの影響が強い国では左側通行が大半を占める(それ以外では日本やタイ、インドネシアなど)。加盟国や旧加盟国ではイギリス本国の影響で、食文化では紅茶を飲む習慣、スポーツではラグビーやクリケットなど、元々現地には無かった文化が導入され定着している。1930年以降、4年に1回コモンウェルスゲームズと呼ばれる、加盟国によるスポーツ大会も行われている。国名の表記は、国の一覧と同じ。括弧内は、特記なき限り、加盟年。現在の加盟国数は、イギリスを含め53ヶ国。太字は英連邦王国。

出典:wikipedia

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