LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

金剛峯寺

金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部。「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。本項では「金剛峯寺」を中心に、高野山全体の歴史、信仰、文化財について触れる。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。空海は、最澄(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。空海は宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といった。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡航。長安・青龍寺の恵果に密教の奥義を学び、大同元年(806年)帰国している。空海が時の嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)と見なし、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。既述のように、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであり、空海が若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている。なお、平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇している。丹生明神と狩場明神は丹生都比売神社に祀られている。金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海は、翌年から弟子達に命じて伽藍の建立に取りかかったが、交通不便な山中のことで、工事ははかどらなかった。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。空海の他界後、弟子であり実の甥でもあった真然が約20年をかけて根本大塔などの伽藍を整備した。承和2年(835年)には定額寺に列し官寺に准ずる寺格を得たが(『続日本後紀』承和八年二月七日条)、その後は京都の東寺との確執もあり、正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、僧はみな山を下りるという、衰亡の時期を迎えた。荒廃した高野山は、長和5年(1016年)頃から、定誉によって再興された。治安3年(1023年)には藤原道長が参詣。平安末期には白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、寺領も増加した。源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになった。彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。また、北条政子が亡夫源頼朝のために建てた金剛三昧院のように、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に2,000もの堂舎が立ち並んだという。戦国時代、武力を蓄えていた高野山は、比叡山焼き討ちや石山合戦を行った織田信長と対立するようになった。天正9年(1581年)、信長に謀反した荒木村重の家臣のうち数名が高野山に逃げ込み、信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めたが、高野山側は信長の使者を殺し要求にも応じなかったため、信長は日本各地にいた高野山の僧を数百名殺害し(1000人強とする説も)、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変に倒れたため、高野山は取り敢えず難を免れた。続く豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに秀吉は応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、また亡母の菩提のため、山内に青巌寺(現在の総本山金剛峯寺の前身)を建てた。青巌寺は秀吉の甥・豊臣秀次が自刃した場所としても知られている。また、この頃は武士の間で高野山信仰が広まり、戦国大名が出資した子院が数多く作られた。例えば子院で宿坊の高室院は鎌倉時代の創建であるが、小田原北条氏が壇越(スポンサー)となり、北条氏の菩提寺となった。同寺院は北条氏の領国である武蔵・相模・伊豆三国を布教地域としていた。のち北条氏が滅ぶと、当主の北条氏直は高室院に隠棲して生涯を終えている。近世に入ると、徳川家が子院の大徳院を菩提所・宿坊と定めたこともあり、諸大名を始め多くの有力者が高野山に子院(宿坊)、霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった。全長2kmにわたる高野山の奥の院の参道沿いには今も無数の石塔が立ち並び、その中には著名人の墓碑や供養塔も多い。高野山は山中に開かれた宗教都市である。山内は西院谷、南谷、谷上、本中院谷、小田原谷、千手院谷、五の室谷、蓮花谷の各地区に分かれ、それぞれに多くの寺院が存在する。これらの地区全体の西端には高野山の正門にあたる大門(重文)があり、地区東端には奥の院への入口である一の橋がある。信仰の中心になるのは、山内の西寄りに位置する「壇場伽藍」(壇上伽藍)と呼ばれる境内地で、ここには金堂、根本大塔を中心とする堂塔が立ち並ぶ。その東北方に総本山金剛峯寺及び高野山真言宗の宗務所がある。この他に、「子院」(塔頭)と呼ばれる多くの寺院が立ち並び、高野山大学、霊宝館(各寺院の文化財を収蔵展示する)などもある。弘法大師信仰の中心地である奥の院は、上述の一の橋からさらに2キロほど歩いた山中にある。壇場とは曼荼羅の道場の意。伽藍地が一段高い土地にあるため、一般には「壇上伽藍」と表記される場合が多い。高野山内の西寄り、金堂、根本大塔、西塔、御影堂などの立ち並ぶ一画で、高野山の聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、真言密教の道場としての高野山の中核となる部分である。壇場伽藍の東北方にある。1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である青巖寺と興山寺 (廃寺)を合併し、金剛峯寺と改称した。青巖寺(剃髪寺)は秀吉が亡母の菩提のために建立した。金剛峯寺の主殿は江戸末期文久3年(1863年)に再建された、東西 54 m 南北 63 m の書院造建築である。「金剛峯寺」の寺号は空海が名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ2015年4月2日~5月21日に16年ぶりに開帳された。そのほか、奥殿(1934年建立)、別殿(1934年建立)、新別殿(1984年建立)、阿字観道場(1967年建立)、蟠龍庭(石庭)などがある。和歌山県指定文化財となっているのは、大主殿一棟、奥書院一棟、経蔵一棟、鐘楼一棟、真然堂(廟)一棟、護摩堂一棟、山門一棟、会下門一棟の9棟と、それを取り巻くかご塀。表記は「奥院」とされる場合もある。寺院群の東端にある一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥の院である。一番奥には空海が今も瞑想しているとされる御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。奥の院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬとその人の頭髪を奥の院に納める「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わって、この石塔群が形成されたものと思われる。奥の院には上杉謙信・景勝霊屋(たまや)、松平秀康及び同母霊屋、佐竹義重霊屋など、建造物として重要文化財に指定されているものを始め、平敦盛、熊谷蓮生房、織田信長、明智光秀、曾我兄弟、赤穂四十七士、法然、親鸞、初代 市川團十郎、俳優の鶴田浩二など古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、太平洋戦争の戦没者らを慰霊する為の供養碑・供養塔がある。また芭蕉や高浜虚子の句碑もある。高野山内の寺院数は総本山金剛峯寺と大本山宝寿院を除いて117か寺とされている。ただし、この中には独立した堂宇としては現存せず、寺名だけが引き継がれているものも含まれる。山内寺院のうち52か寺は「宿坊寺院」となっており、塔頭寺院と参拝者の宿泊施設を兼ねている。これらの寺院は平安時代には単なる僧の住居である草庵に過ぎなかったが、鎌倉・室町期以降に諸国の大名の帰依により現在のようなある程度の規模がある寺院に発展したものである。国宝の多宝塔を有する金剛三昧院も宿坊の一つである。典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)は以下13件の文化財を含む。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。