當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。本項では寺号と行政地名については現地における表記を尊重して「當麻」とし、人名、作品名等については「当麻」の表記を用いる。中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で知られる當麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。當麻寺がある奈良県葛城市當麻地区(旧・北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にあり、古代においては交通上・軍事上の要地であった。二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山(桜井市)と相対する位置にある。二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。二上山はまた、古墳の石室や寺院の基壇の材料になる凝灰岩(松香石)や、研磨剤となる柘榴石の産地でもあった。古代の大和国の東西の幹線路であった横大路は、現在の葛城市長尾付近が西端となり、そこから河内方面へ向かう道は二上山の南を通る竹内(たけのうち)峠越え(竹内街道)と岩屋峠越え、二上山の北を通る穴虫峠越え(大坂道)に分かれる。この分岐点付近を古代には当麻衢(たいまのちまた)と呼び、672年の壬申の乱の際には戦場となった。これらの峠越えは、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。平安時代の浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。また、当麻の地は折口信夫(釈迢空)の幻想的な小説『死者の書』の舞台としても知られる。当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に當麻寺の草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期に成立した『建久御巡礼記』という書物である。これは、建久2年(1191年)、興福寺の僧・実叡がさる高貴の女性(鳥羽天皇の皇女八条院と推定される)を案内して大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。同書に載せる縁起によれば、この寺は法号を「禅林寺」と称し、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇9年(680年)に「遷造」(遷し造る)したものだという。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたという。建長5年(1253年)の『大和国當麻寺縁起』によれば、麻呂子王による草創は推古天皇20年(612年)のことで、救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建されたものであるという。その後、天武天皇2年(673年)に役行者から寺地の寄進を受けるが、天武天皇14年(685年)に至ってようやく造営にとりかかり、同16年(687年)に供養されたとする。『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年・1237年)所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年(692年か)に現在地に移築されたとする。なお、前身寺院の所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある(弘長2年・1262年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』など)。河内国山田郷の所在地については、交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と、大阪府太子町山田とする説がある。以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。福山敏男は、縁起諸本を検討したうえで、麻呂子王による前身寺院の建立については、寺史を古く見せるための潤色であるとして、これを否定している。前述のように、寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、當麻寺は壬申の乱に功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立された氏寺であるとみられる。奈良時代から平安時代にかけての寺史は、史料が乏しく、詳しいことはわかっていない。現存する本堂(曼荼羅堂)は棟木墨書から永暦2年(1161年)の建立と判明するが、解体修理時の調査の結果、この堂は奈良時代に建てられた前身建物の部材を再用していることがわかっている。寺に伝わる当麻曼荼羅は、前出の『建久御巡礼記』によれば、天平宝字7年(763年)に作られたとされている。『弘法大師年譜』には弘仁14年(823年)、空海が當麻寺を訪れて曼荼羅を拝し、それ以降、當麻寺は真言宗寺院となったという伝えがある。治承4年(1180年)、平重衡の南都焼き討ちにより、東大寺、興福寺などの伽藍の大部分が焼失したが、興福寺と関係の深かった當麻寺も焼き討ちの被害に遭い、東西両塔などは残ったが、金堂、講堂など、一部の堂宇を焼失した。平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から當麻寺は阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖・証空は、貞応2年(1223年)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。当麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅の寺として知られるようになる。「当麻曼荼羅」は、学術的には「阿弥陀浄土変相図」または「観経変相図」と称するもので(「変相」とは浄土のありさまを絵画や彫刻として視覚化したもの)、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のありさまを描いたものであり、唐の高僧・善導による『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』(『観無量寿経疏』)に基づいて作画されたものとされている。なお、当麻曼荼羅の内容については別項「当麻曼荼羅」を参照。当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。當麻寺本堂(曼荼羅堂)に現存する、曼荼羅を掛けるための厨子は奈良時代末期から平安時代初期の制作で、当麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられる。しかしながら、曼荼羅の伝来や由緒にかかわる資料は平安時代の記録には見当たらず、曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代に入ってからである。先述の『建久御巡礼記』によれば、当麻曼荼羅はヨコハギ(横佩)大納言という人物の娘の願により化人(けにん、観音菩薩の化身か)が一夜で織り上げたものであり、それは天平宝字7年(763年)のことであったという。12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。13世紀半ばの『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降、父の名は右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく。中将姫の伝承は中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、能、浄瑠璃、歌舞伎などにも取り上げられるようになり、しだいに「継子いじめ」の話に変質していく。話の筋は要約すると次のようなものである。今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。この話はよほど人気があったようで、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなった。当麻曼荼羅の原本(「根本曼荼羅」)は、損傷甚大ながら現在も當麻寺に所蔵されており、1961年に「綴織当麻曼荼羅図」の名称で工芸品部門の国宝に指定されている。現状は掛幅装で、画面寸法は394.8x396.8センチである。図様は前述のとおり、『観無量寿経』の所説を図示したもので、善導の『観経四帖疏』に基づいて構成されている。『観経四帖疏』は「玄義分」「序分義」「定善義」「散善義」の4帖からなるが、当麻曼荼羅では画面の主要部が「玄義分」、左辺、右辺、下辺の小画面がそれぞれ「序分義」「定善義」「散善義」にあたる。「玄義分」にあたる主画面には、転法輪印を結ぶ阿弥陀如来を中心とする阿弥陀三尊と左右各17体の菩薩からなる三十七尊を表し、その上下に宝池や楼閣などを表す。左辺の「序分義」は『観無量寿経』の序にあたる部分で、浄土往生の機縁となるマガダ国の王妃韋提希(いだいけ)夫人の説話(「王舎城の悲劇」)を主題とする。右辺の「定善義」は、『観無量寿経』に説く十六観のうちの13の観法(阿弥陀浄土をイメージし認識する方法)を主題とする。下辺の「散善義」は九品往生図で、十六観のうちの残りの3つにあたるものである。根本曼荼羅は画面下方の損傷が激しく、九品往生図の部分のオリジナルの綴織は失われているが、後世の模本や『建久御巡礼記』の記述によると、この部分には「織付縁起」と呼ばれる、曼荼羅の由来を記した銘文があり、その中に「天平宝字七年」(763年)の年号があったという。根本曼荼羅は損傷が激しいため、かつては絵画か染織品かはっきりせず、絵画説、織物説、刺繍説などが存在したが、1939年からの大賀一郎らによる学術的調査により、織物であることが判明した。ただし、伝説に言うような蓮糸の織物ではなく、絹糸に平金糸、撚金糸を交えた綴織である。縦横とも4メートル近い大作である本曼荼羅を織り上げるには十数年を要するという。製作地については日本説と中国(唐時代)説があり、前述の「天平宝字七年」という年記を製作の年とみるか、當麻寺に施入された時期とみるかによって変わってくるが、中国製とする見方が有力である。染織史研究者の太田英蔵は、日本には綴織の作例が少なく、特に本作のような絵画的な図柄を表した大作は他に例がないことなど、技法・図様の両面から本作は中国製であるとしている。宮内庁正倉院事務所の尾形充彦は、2013年の特別展「當麻寺」(奈良国立博物館)に際し、小型顕微鏡を用いて、あらためて本品を精査した。その結果、本品は絹布に彩色したものではなく、先染めした絹糸を用いたものであり、総合的に見て錦や刺繍ではなく、綴織と見られるとあらためて結論した。尾形はまた、本品のような複雑な図様で広幅の綴織を製作する技術が上代の日本にあったとは考えがたく、本品は大陸製であろうとしている。曼荼羅は元は本堂の厨子内に掛けてあったが、傷みの激しくなった中世に板貼りに改装され、江戸時代には板から剥がされて再度掛軸に改装されている。京都・大雲院の僧・性愚(しょうぐ)という人物が、江戸時代の延宝5年(1677年)に行われた曼荼羅修理の状況を記録に残している。それによると、曼荼羅を板から剥がすために表面に楮紙を貼り、水を注いだところ、大きな音とともに剥がれ落ちた。剥離した織物の残片を板と紙の双方から集めて、別に用意していた絹地の上に貼り付け、織物が劣化損耗している部分は絵で補った。織物が張ってあった板にも図様が残り、剥離に用いた楮紙にも図様が転写された。このようにして、オリジナルの綴織曼荼羅は、残片を貼り集めた掛幅本と、板、紙の3者に分離した。残片を貼り集めた掛幅本が現存の国宝曼荼羅で、全体に劣化、損傷、退色が著しく、オリジナルの綴織の残存している部分は図柄全体の4割程度である。特に図の下部は全く失われて絵画で補われているが、阿弥陀三尊の右脇侍(向かって左)の部分などにはオリジナルの織物が比較的良好に残っている。板貼りの曼荼羅を剥がした後、板の表面に剥がれた曼荼羅の跡が残ったものは「裏板曼荼羅」と称し、曼荼羅厨子の背面に安置された。一方、剥離の際、紙に転写されたもの(印紙曼荼羅)は一部が表装されて残り、西光寺(京都市東山区清水坂)に所蔵されている。根本曼荼羅は、製作から4世紀以上経った鎌倉時代にはすでにかなり傷んでいたようで、建保5年(1217年)には第1回の転写本である「建保曼荼羅」が制作された。この第1回転写本は京都の蓮華王院(三十三間堂)に収められ、後に當麻寺に戻ったというが、現存していない。2回目の転写本は法橋慶舜の筆で、文亀2年(1502年)に図柄が完成し、永正2年(1505年)に供養された「文亀曼荼羅」(重要文化財)、3回目の転写本は、貞享2年(1685年)の裏書がある「貞享曼荼羅」で、これらはいずれも織物ではなく絵画である。現在、當麻寺本堂(曼荼羅堂)の厨子に掛けられているのは文亀曼荼羅または貞享曼荼羅である。根本曼荼羅は損傷が激しく、基本的には非公開である。ただし、ごく稀に博物館の特別展で公開されることがある。2013年4月から奈良国立博物館で行われた「當麻寺 -極楽浄土へのあこがれ-」展では30年ぶりに根本曼荼羅が公開され話題となった。現在の當麻寺には、南を正面とする金堂と講堂が南北に並んで建ち、これらの西側には東を正面とする本堂(曼荼羅堂)が建つ。日本の古代寺院は南を正面とするのが通例だが、當麻寺の境内は南と西に山が迫っていて、南側に正門があった形跡はなく、境内東端の東門が正門となっている。中心伽藍の南方には東西2つの三重塔が建つが、これら両塔の建つ位置は台地の先端にあたり、金堂、講堂などの建つ地盤よりは6〜7メートル高い場所である。また、東塔と西塔は金堂・講堂を結ぶ伽藍の南北中心軸からみて、正確に左右対称の位置には建っていない。このような平地と台地の境を選んで伽藍を建立した理由はわかっていないが、本堂の地下からは墳墓が検出されており、当麻氏の祖先が眠る由諸ある土地に氏寺を建立したものと推定されている。當麻寺自体の本坊はなく、中心伽藍は浄土宗と高野山真言宗に属する子院によって維持管理されている。境内には真言宗5院、浄土宗8院の子院(下記)がある。・兼帯管理 本堂(曼荼羅堂)・真言宗の管理 仁王門 金堂 講堂 三重塔 鐘楼・浄土宗の管理 奥院真言宗の子院。中将姫剃髪の地と伝承され、中将姫の仏法の師である実雅の開基というが、開創の詳しい事情は不明である。書院(重要文化財)と庭園(史跡・名勝)で知られる。浄土宗の子院。応安3年(1370年)、知恩院12世の誓阿普観が創建したもので、当初は往生院と称した。当院は知恩院の奥の院とされ、近世以降は「当麻奥院」と称された。宗教法人としての名称も「奥院」である。誓阿が知恩院から移したとされる円光大師(法然)像(重要文化財)を本尊とし、知恩院所蔵の四十八巻伝の副本とされる『法然上人絵伝』48巻(重要文化財)を所蔵する。慶長9年(1604年)建立の本堂、慶長17年(1612年)建立の方丈、正保4年(1647年)建立の鐘楼門は重要文化財に指定されている。国宝。金堂本尊。像高219.7センチメートル。如来形の弥勒像で、様式から當麻寺創建時の7世紀末頃の作と推定され、仏壇上に残る痕跡から、元は両脇侍像をしたがえた三尊形式であったと推定される。像は箱型の裳懸座(宣字座)上に結跏趺坐し、台座の前面に裳裾を広げる。印相は如来像に通有の施無畏与願印(右手は掌を正面にして挙げ、左手は掌を上にして膝上に置く)だが、右腕の前腕部の半ばから先と左手首から先は木製の後補で、当初からこの印相であったかどうかは定かでない。また、金堂本尊の名称を弥勒とするのも、文献上は鎌倉時代の『建久御巡礼記』が初見で、当初から弥勒像として造像されたという確証はない。両膝部、胴部、頭部の3つのブロックを積み重ねたような造形は中国・隋代やその影響を受けた新羅の仏像彫刻、中でも新羅の軍威石窟三尊仏の中尊との様式的類似が指摘されている。球形を呈する頭部の造形には天武天皇14年(685年)完成の興福寺仏頭(旧山田寺講堂本尊)との類似も指摘されている。本像は塑像(粘土製の彫像)であるが、表面には布貼りをし、錆漆を塗った上に金箔を張っている。金堂は治承4年(1180年)の兵火で被害を受けており、像表面の金箔は治承の兵火以降のものとみられる。像本体と台座は密着しており、本体、台座ともに内部構造の詳細は明らかでない。1959年、台座の修理に伴って西川新次が調査を行っているが、その際の報告書によると、台座の内部構造は日乾煉瓦を積んだものであり、治承4年(1180年)の兵火によるものとみられる焼痕が台座内に残っているという。現状は台座の四隅に木製の隅柱があり、台座上下の框(かまち)、反花(かえりばな)なども木製のものが貼り付けられているが、これらは治承の兵火以後のもので、当初の台座表面はすべて塑土で仕上げていたとみられる。像本体は、前述のように両手部分が木製の後補であるほか、左腕、両膝などの衣文に漆喰状のもので修理した部分があり、明治期の修理でも胸部などの損傷箇所に大幅な修理が行われている。螺髪は当初は塑造であったが、木製の後補のものに代わり、それも大部分脱落している。光背は平安時代後期か鎌倉時代初期頃の木製である。以上のように、本像は後世の補修部分が多いが、日本に現存する最古の塑像として貴重である。重要文化財。金堂須弥壇の四隅を護る。日本における四天王像の作例としては、法隆寺金堂像に次いで2番目に古い。また、日本における乾漆造の作例としても最古に属する貴重な作品である。後世の四天王像が一般に激しい動きを表し、威嚇的ポーズを取るのに対し、當麻寺の四天王像は写実的ながらも静かな表情で直立しており、その顔貌には髭が加えられ、中国成都万仏寺跡出土の天王像に求められるなど、異国風が感じられる。各像とも補修や後補部分が多く、多聞天像は全体が鎌倉時代後期頃の木造に代わっている。他の像も後補部分が多く、増長天像は下半身のすべてと両襟、両袖などが木造の後補であり、広目天像は頭部、両襟、両手の前腕部などに当初のものを残すほか、体部の大部分が木造の後補である。比較的当初の乾漆層を残すとされる持国天像も下半身や両袖などには大幅に修理の手が入っている。国宝。8世紀末〜9世紀初頭の作。本堂(曼荼羅堂)内陣には高欄付の須弥壇を構え、その上に高さ501センチメートルの大型厨子を置く。厨子は仏像ではなく当麻曼荼羅を安置するためのものであるため、高さの割に奥行が浅く、平面形は扁平な六角形をなす。須弥壇は螺鈿や木目塗で仕上げられ、上框に寛元元年(1243年)の銘がある。また、厨子正面の扉は、仁治3年(1242年)の銘がある。このため、かつては厨子本体も鎌倉時代の作と考えられていた。しかし、本堂の解体修理に合わせ厨子の解体修理も行われ(1957〜1961年)、表面からは見えない天井板等の部材から金銀泥絵(きんぎんでいえ)や金平文(きんひょうもん)の装飾が発見され、その技法や意匠から、厨子本体は平安時代初期にさかのぼる作品であることが明らかになった。軒裏には金平文で含綬鳥(がんじゅちょう)、孔雀、天人、宝相華などを表した痕跡があり、柱、台輪、桁、支輪、天井板などには金銀泥絵で宝相華、飛雲、花喰鳥、山岳、蝶、日輪などの文様を表している。柱の根巻金具、台輪と桁の間にある木心乾漆製の獅子形(10箇)なども古様を示すものである。厨子正面の扉(左右各3枚ずつの折戸)は、仁治3年(1242年)に厨子の大修理を行った際に新調したもので、内面側は黒漆地に金蒔絵で蓮池を表し、その下には2,000名を超える結縁者の氏名がやはり蒔絵で表されている。なお、この扉は取り外されて奈良国立博物館に寄託されている。前述のとおり、本品の製作年代は8世紀末〜9世紀初頭とされているが、奈良国立博物館の内藤栄は、本厨子に見られる金銀泥絵の草花文や柱の地付部の金銅金具の線刻山形文を正倉院宝物の同種の文様と比較検討した結果、本厨子の製作年代は奈良時代後期の760年代と推定している。国宝。無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない(一方が10弁でもう一方が11弁)等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。鐘楼の上層に懸けられており、間近で見学することはできない。(奥院所有)(中之坊所有)(奥院所有)(西南院所有)典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。