五島列島(ごとうれっとう)は、九州の最西端、長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて140あまりの島々が連なる列島。五島列島は全島が長崎県に属し、人口は約7万人となっている。自然海浜や海蝕崖、火山景観など複雑で変化に富んだ地形で、ほぼ全域が西海国立公園に指定されるなど豊かな自然景観を有している。島々には多くのカトリック教会が点在し、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す取組みが進められていて、五島観光のひとつとして注目されている。昭和時代には、東シナ海で操業する漁船団の先端基地として栄えた。近年漁獲高は減少しているものの、現在も漁業が重要な産業であり、海産物が名物である。なお「五島列島」とは学問的な呼び名であり、現地の会話の中ではあまり使われない。地元や九州地方では単に「五島」と呼ぶことが多い。長崎県に属する五島列島は九州本土の西に位置している。全域が西海国立公園に指定されており、北東側から中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島の五つの大きな島およびその周辺の小さな島々からなる。中通島の北にある宇久島、小値賀島と周辺の島々は現在の行政区域としては五島市・新上五島町とは違う佐世保市、北松浦郡小値賀町に属するが、歴史的つながりや地理的まとまりの他、フェリー・貨物船航路、警察の管轄区域などが上五島と共通していることから五島列島の一部とみなされることが多い。国際水路機関による定義では、最も南西の福江島西端が日本海と東シナ海の境界とされている。ただし、一般的には五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことはほぼ皆無で、「五島列島は東シナ海に浮かぶ島々」と紹介されることがほとんどである。長崎県には非常に多くの島があるが、五島列島は多くの島々が本土や他の島とは少し離れた位置に密集しており、「五島」と総称されるまとまりを形作っている。島々は連なった山々が海に沈み高い部分だけが残って溺れ谷となった複雑なリアス式海岸線をもつ地形である。五島列島は北東から南西に長く伸びているため、全体を大きく二つに分けて、五島最大の福江島を中心とする南西の島々を「下五島(しもごとう)」、2番目に大きな中通島を中心とする北東部を「上五島(かみごとう)」と呼ぶこともある。現在の行政区域では下五島が五島市、上五島が南松浦郡新上五島町に属する。近世から五島藩(福江藩)の中心であった福江島には「下五島」の呼び名はあまり使われないが、「上五島」は「中通島」以上によく使われる呼び名である。それぞれの島の面積・人口は、2005年(平成17年)10月1日現在である。なお、佐世保市(旧北松浦郡宇久町)・北松浦郡小値賀町の範囲についても記述する。五島列島に人が住み着いたのは早く、一部には旧石器時代にすでに人が住みついていたという。島では旧石器時代以降、縄文時代や弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。日本人の先祖の大部分がどこから来たのかについては多くの説があるが、五島列島は最近でも中国やベトナムからの難民を乗せた船が何度も流れ着き、また台風の時は中国漁船の避難場所にもなっており、大陸南部から海流にまかせて流されれば五島に着く可能性も充分にある。肥前国風土記にも、五島の海士は「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」と記されている。五島では島々が密集していながら地続きではなく、全体としてはかなり大きいといえる。五島列島のどこにいてもたいてい海が見える。このような自然環境は漁労民には大きな利点であった。遺跡などから考えると、縄文時代の生活は同じ時代の本土と変わらないものであったが、その後弥生時代になると本土発祥の生活様式などがやや遅れて五島に伝わってくるようになったと思われる。ただし、時代が下っても平安時代には後期遣唐使が最後の寄港地とするなど、本土から距離があるとはいえ大陸に近いということもあり、中央の文化と長く隔絶された状況ではなかった。古事記の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残とされる。『日本書紀』天武天皇4年夏4月18日(675年5月17日)の条に「三位麻続王に罪があって因幡に流罪とした際、その子らを伊豆大島とともに「血鹿嶋」に流した」とある。「両児島(ふたごのしま)」についても、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。その後中世に至るまで五島列島の政治勢力に大きな変化はみられなかったが、中世に至ると松浦水軍の松浦党に属した宇久氏が鎌倉時代以降に勢力を伸ばし、宇久島から五島列島のほぼ全域を支配下に収める。宇久氏は14世紀後半に宇久島から拠点を五島列島の南端で最大の島である福江島に移し、玉之浦納の反乱による衰退などを経ながらも、松浦党の中心勢力を統合した近接する平戸島の平戸松浦氏とも良好な関係を維持しつつ戦国大名となった。また、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動の一拠点としている。このように、中世以降の歴史においてもは大陸や朝鮮半島に近いことが五島の運命を決定している。種子島への鉄砲伝来にも主導的な役割を果たしたといわれる王直は「五峰王直」の名でも知られるが、この五峰とは五島の別称である。五という数字を尊ぶ中国の発想から、ヤマトにおける「ちかのしま」は中国からは「五峰」または「五島」と呼ばれるようになり、それが日本にも伝わって五島の呼び名が定着したといわれる。その後、豊臣秀吉が九州を征服すると宇久氏当主純玄はこれに臣従して1万5千石の領地支配を認められ、前後して五島氏と姓を改めた。五島氏は朝鮮出兵においても小西行長軍の一部として戦っている。江戸時代の五島列島は大半が福江藩(五島藩)五島氏の領地となり、小値賀島とその属島および中通島の最北端部は平戸藩の領地となっていた。このほか、福江藩の分家として福江島富江に富江陣屋を置いた富江領(交代寄合)があり、中通島の一部などにも富江領が存在したが、福江領と富江領の領民間で漁業権などをめぐる衝突がしばしば起こった。五島氏の領地は明治維新に至るまで続き、異国船の往来が増えた幕末に石田城が築城されて今日も福江の中心部に美しい石垣が残っている。明治に入り、富江領は本藩(福江藩)へ合併されたがほどなく廃藩置県となり、福江県・平戸県を経て現在のように長崎県の一部になった。その後、鎖国政策の江戸時代には辺境の離島であった五島にも文明開化の波が押し寄せ、地勢学上の重要性から大瀬埼灯台や女島灯台などが建設されている。昭和の時代においては海産物の水揚げや新しい加工技術の導入や養殖の増加に加え、戦禍をほとんど受けなかったことやサンゴ等の特産物がブームになるなどの幸運もあり、五島の人口は増加していき、最盛期には15万人を数えた。この間、1962年(昭和37年)には五島の中心地福江市の中心市街地が全焼する福江大火による大規模な被害を受けたが、経済成長の時代の勢いもあって見事に復興してむしろ市街地の近代化に成功し、五島藩の城下町とはいえ「離島の小集落」という印象が強かったそれまでの福江市街地を生まれ変わらせている。近年では五島全域で人口が減少に転じ住民の高齢化も進んでいる。平成の大合併によって五島の行政区画が大きく五島市と南松浦郡新上五島町に集約されたものの、過疎・高齢化が著しく進んでいる。若年層が島外へ出て就職するケースが多いため、若者の就労機会を増やすための取り組みがなされている。1566年にイエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダらが五島にも来島してキリスト教(カトリック)の布教を行っている。これを受けて翌年に領主宇久純定の子の宇久純尭が洗礼を受け、1571年に家督を継いでキリシタン大名となっているが、五島のキリスト教はその直後から豊臣秀吉や江戸幕府によるキリスト教禁止政策(禁教令)よって一度はほぼ完全に衰退している。秀吉の時代には九州各地にかなりキリスト教が浸透していたが、キリシタンへの迫害が始まると多くは棄教するか潜伏キリシタンとなった。1597年に長崎で殉教した日本二十六聖人に中には五島出身の聖ヨハネ五島もおり、現在では福江島の堂崎天主堂 に彼の殉教を祈念する像が建立されている。その後江戸時代中期に、五島藩は大村藩領からの開拓民を移住させる働きかけをし、1797年(寛政9年)、外海地方から108名が五島へ移住した。そのほとんどが潜伏キリシタンであったようだが、ここに五島におけるキリシタン信仰が秘密裏に復活した。彼らが藩から土地を与えられたことを知ると外海地方からの移住者が続々と増え、その数は3000名以上にも上ったといわれる。しかし、五島藩ではキリシタンに対する厳しい取り締まりはあまり行われなかったものの、今日のように信仰の自由が制度として保障されていたわけではなく、また、移民という立場から、五島の主だった港や平野部ではなく、山間部の僻地や、陸路での往来が困難な奥まった小さな入り江などに移り住んで小規模な集落を作った例が多い。五島の潜伏キリシタンは迫害の時期にあってはこのような集落に隠れ住むようにして密かに信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害を耐えた。幕末の1865年、長崎の大浦天主堂で浦上の潜伏キリシタンが信仰を表明し、これ以降続々と長崎各地で多くのキリシタンがその信仰を明らかにし始めたが、神道の国教化目的のため江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、明治最初期に「浦上四番崩れ」と呼ばれる悲惨な宗教弾圧を引き起こした。この頃には五島各地のキリシタンにも、長崎で指導を受けた信徒によってカトリックの教義が伝えられて、多くのキリシタンが信仰を明らかにしていったが、これに対して五島藩はキリシタンを捕え、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を繰り返した。久賀島では、200名の信徒がわずか6坪の牢に8ヶ月間も押し込められ40名以上が死亡するという悲惨な「牢屋の窄(ろうやのさこ)」事件が起こっている。このような迫害を耐え隠れて信仰を守り抜いた五島のキリシタン達は、その後明治政府の方針転換によってキリスト教の信仰が認められると五島各地に次々と聖堂(教会堂)を建てた。これらの教会は小規模のものが多いが、長崎にある日本最古のカトリック教会の国宝大浦天主堂建立直後といえる時期に建てられ既に100年以上の年月を経ている建物もあり、その後建てられた比較的新しい教会群とともに今も五島のカトリック信者の心のよりどころとなっている。また、明治期にカトリック教会に復帰することなく、先祖代々からのキリシタンの信仰を受け継いでいるカクレキリシタンの人たちもいて、近年は過疎化や生活習慣の変化のためその信仰伝承は途絶えてしまった所も多いが、いまもカクレの信仰を守る人も僅かながら存在する。五島は現在でもキリスト教徒(カトリック信徒)が比較的多い地域で、人口の10%以上がカトリックである。五島の人にとっては小学校からカトリック信者のクラスメートがいるのはごく当たり前のことであり、いまはカトリックと仏教など他宗教との間に宗教上の争いなども特にない。五島列島であわせて51ヶ所のカトリック教会があり、教会のある風景は長く五島の日常となっているため、郷土五島のシンボルとして皆に愛されている。2007年1月23日には、文化庁が長崎の教会群とキリスト教関連遺産のユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リスト入りを決めた。長崎県内に12ある構成資産のうち、五島列島では4箇所の教会が構成資産に選ばれている。五島は九州本土と離れており、大きな工場などもないため、大瀬埼灯台などの雄大な景観や美しい砂浜など手付かずの自然が残っている。素朴な風土やキリシタンの歴史を物語る多くの古いカトリック教会など、五島の観光は他では味わいがたい風情がある。遣唐使の停泊地であったことから遣唐使に関する文物も残されており、福江島には道の駅:五島ふるさと館がある。五島へは弘法大師空海も唐への往復の際に立ち寄っている。世界遺産登録が視野に入り、地元でもキリスト教会群の保存や観光活用の動きが活発になっている。五島の玄関口といえる五島市の港近くには日本で最も新しく完成した日本式の城である石田城(福江城)の城跡があり五島市のシンボルとなっている。元は幕末の国防上の必要性から高松城に次いで我が国で僅か2例目となる海城として完成したものであるが、五島市(旧福江市)の港湾埋め立てにより現在は港よりやや内陸に位置している。石田城には天守閣がなく幕末の同時期に完成した松前城や五稜郭のように実戦に使われた逸話等も残っていないが、城の構えとなる石垣は比較的よく保存されており周囲を走る道路からも確認できる。また、城の本丸跡には1900年設立の長崎県立五島高等学校の校舎が建て替えを経ながらも設立当初より一貫して建っている。明治維新後に旧福江藩(五島藩)の当主であった五島盛光公により本丸の敷地が五島の教育のため県に寄贈されたことによるものであり、全国的に城跡を利用した学校は少なくないが本丸跡に建っている校舎は非常にめずらしい。堀や石垣の中の天守閣があるべき位置に歩いて「登城」するように通学する高校生は100年以上続く五島市街地の日常風景となっている。石田城の石垣の中には、五島高校の他にも二の丸跡に五島市庭園、北の丸跡に五島観光歴史資料館や五島市図書館、五島市福江文化会館などがある。五島市街地から望める鬼岳(おにだけ、おんだけ)は山頂がなだらかな曲線をなしており、全面が芝生の公園となっているため冬季以外は家族連れの姿が多い。五島福江空港もこの鬼岳の北側山腹を拓いて作られている。五島は本土と離れた位置にあるため工場等がほとんど無く、空気が澄んでいるため市街地を一歩でれば正に「降るような星空」が見える。この条件を生かして鬼岳の山頂付近には鬼岳天文台も設置されており、夏休みなどには特に子供連れやカップルに人気が高い。鬼岳周辺には、この他ゴルフ場やリゾート施設、温泉施設などもある。外海に囲まれた五島列島は海産物の恵みが豊富であり、九州本土からの個人・ツアーの釣り客が多く訪れている。五島全域に釣りのポイントが多いだけでなく、福江島の高浜海水浴場をはじめ多くの海水浴場があり海のレジャーに訪れる観光客が多い。夏休みの間は無人島での地引網体験の実施や、海底が見える観光用グラスボートの運航などもあり、家族で楽しむことができる。福江島の五島自動車学校では合宿免許の受け入れにも力を入れており、以前より福岡方面の若者に夏場の観光を兼ねたプランとして人気が高い。観光の土産物には、良質な海産物やその加工品の他、TVなどで取り上げられる事が増え全国的にも有名となってきた五島うどん、かんころもち、上質なことで知られる椿油などが評価が高い。多くが市街地の土産物屋や空港や港の販売店で購入できる。五島うどんはその名のとおり五島の名産品であり、椿油を練りこむ手延べ製法とそれによる細麺ながらの強いコシとゆでた後の伸びにくさが特徴。独特の製法の起源は不明であるが、一説では遣唐使が唐から伝えたものであり日本全国のうどんの元祖であるという。五島観光を計画する際には、五島市観光協会や五島市観光ポータルサイトなどで名所やおすすめコースなどの情報収集をするとよい。福江島には五島福江空港があり、島外から五島列島までのアクセスは飛行機が便利である。長崎県内の離島便として長崎空港から福江空港に1日3往復の便があるだけでなく、福岡空港からも1日3往復または4往復の航空便があるため東京や関西方面からの乗換えにも利便性が高い。福岡便は観光客や都会に就職した五島出身者の帰省の足となっている。以前は8月の2週間程度、関西国際空港から福江空港までの直行便が運航されていたが、利用客の減少に伴い現在は廃止されている。なお、上五島には上五島空港があるが、90年代からの中通島へのジェットフォイル寄港に伴う利用客減少により2006年度から定期便がなくなっている。県外からの上五島訪問には長崎からのジェットフォイルの利用がよい。県外からは福岡からの飛行機が便利であるが、海の多い長崎県らしく県内の交通は船が便利である。福江島への船便は長崎港から福江港のフェリー・ジェットフォイルがあり、特にジェットフォイルは長崎港から85分で長崎市の市街地と五島市中心部を直接結んでおり、1日4便以上、繁忙期は6~7便の運行となることもあって島外からのアクセスとして人気が高い。また、長崎港と福江港の間にはフェリーも通常1日3便運航しており、こちらは時間がかかる反面料金が安く、フェリーであるため車での来島にも利用できる。この他には博多港(福岡市)から福江港へのフェリーがあるが、距離が長いため1日1往復の運航である。長崎市、五島市はどちらも港町として発展し市街地が港から広がった経緯があるため、現在でもフェリー・ジェットフォイルが発着する港のターミナルは市街地に直接接しており市街中心部から徒歩で行ける。長崎港のターミナルビルは平成7年、福江港のターミナルは平成17年に完成し、地元民以外にも分りやすく使いやすい構造になっている。上五島(中通島・小値賀島・宇久島)へは、長崎港から福江港へのジェットフォイルの一部が寄港するほか、佐世保港からのフェリー・高速船もある。充実した島外とのアクセスに比べて島内のアクセス網は弱い。五島列島は、島同士はお互いに隣り合っているがほとんどが架橋されておらず、しかも鉄道はなく、人口の多い福江島でさえ路線バスも本数が少ないなど、五島の中での公共交通は不便である。島民の日常生活は車社会となっており、福江島や中通島はある程度の大きさもあるため、辺境の小さな島というイメージで徒歩旅行のつもりで来島すると交通に困ることになる。五島列島を観光するならば一度に五島全部を見ようとせず、観光する島を絞って、事前にレンタカーや貸切タクシーの予約をしておくのも有効である。五島藩の城下町であった福江では当時から商工業が見られたものの、元来五島では大多数が半農半漁の生活であった。現在ではこれに加えて観光も五島の主要産業となっている。五島列島の周囲は日本屈指の好漁場であり、外海の中の複雑な海岸線に育まれた上質な鮮魚や貝、海老など魚介類の宝庫といえる。このため、五島列島のどの島でも漁師が多く、小型漁船による比較的近海の漁だけでなく、以前は東シナ海方面の遠洋漁業で非常に潤った時期もある。上五島では古くから捕鯨も盛んに行われていた。五島の海産物は古くからよく知られている。現代においても五島の水産物は味がよく、例えば五島の鮑(アワビ)は現代でも中国で最高級品とされるほど評価が高いといわれる。また、するめの産地としても古くから知られており、五島の特産品である大型の水イカ(みずいか、アオリイカの五島での呼び名)のするめは古くから五島の一番するめとも呼ばれ最高級品として珍重されている。みやげ物にもなる鮑やスルメだけでなく、五島ではどこでも新鮮な海産物が手に入り、寿司屋や海鮮料理店も多い。近年ではインターネットによる通信販売なども盛んになり、都会でも手軽に味わえるようになっている。五島列島では複雑な海岸線を生かした養殖漁業も盛んに行われている。高級魚のブリやマグロのほか、アコヤ貝・真珠の養殖も盛んである。2015年には近畿大学と豊田通商が五島列島の福江島で近大マグロの一貫養殖拠点となる「ツナドリーム五島」という施設を開設している。比較的平地の多い福江島などでは稲作も盛んである。夏場を過ぎると台風の被害を受けることが多いため、近年では温暖な気候を利用して早稲の栽培が一般化しており、多くの田では8月のお盆休みぐらいには稲刈りを終えてしまう。しかし、豊富な水産資源に比べると土地にはあまり恵まれておらず、山がちで平野が少ないため、稲作よりもむしろ畑作が比較的多い。火山灰質の土地も耕作向きではないためか、近世の甘藷(かんしょ、さつまいも)伝来以降五島には甘藷が根付いており、甘藷を薄く切って天日で干した「かんころ」と呼ばれる干し芋や、これを餅にまぜてついた「かんころもち」という緑色の餅菓子は五島のシンボルである。サツマイモ以外にもタバコや桑などの作物が五島の農家の主な収入となっており、温暖な気候を利用した果物や花の栽培、五島牛などの畜産も盛んである。上五島の中通島では洋上のメガフロートを利用して国策の石油備蓄基地の一つとして上五島国家石油備蓄基地が建設されている。島陰を利用した洋上備蓄は我が国唯一のものであり、本土から離れた五島では大きな国の施設はめずらしく異色の存在となっている。原則として希望日の5日前までに申し出ればいつでも見学可能。2006年、五島列島近海での石油埋蔵の可能性が高いとの政府発表があった。詳細な調査はまだこれからだが、将来技術的・経済的に採掘可能となれば、五島列島近海に海上油田ができ、五島列島にも更に石油関連産業の施設が作られるかも知れないという期待もでている。この他、五島列島の最北端にあり佐世保市に属する宇久島では、ドイツのフォトヴォルト・デヴェロップメント・パートナーズ・ゲーエムベーハー(PVDP)社などの企業連合による「宇久島メガソーラーパーク」事業が進行中である。1995年公開の怪獣映画「ガメラ 大怪獣空中決戦」では五島列島内に「姫神島」という島が登場するが、実際には存在しない。2015年公開のアニメ「ばらかもん」は五島列島を舞台とした作品である。原作漫画の作者ヨシノサツキは長崎県五島市出身で現在も在住。2015年公開の新垣結衣主演の青春映画「くちびるに歌を」では長崎県五島列島のとある中学校を舞台としている。ファッションモデルで女優の川口春奈は五島市出身。五島市立福江中学校在学中に芸能界でブレークししばらく五島と東京の往復生活をした後に中学3年生から東京に移住した。五島列島には「奈留島(なるしま)」があり島民には「奈」の字は昔から身近な字である。日露戦争の日本海海戦の端緒となった「敵艦見ゆ」の報は五島列島福江島西端の大瀬崎灯台近くの無線電信所が受信した。太平洋戦争の終盤に沖縄に向けて出撃した当時世界最大の戦艦大和が現在水深345mの海底に沈んでいる鹿児島県西方の枕崎坊ノ岬沖[北緯30度43分 東経128度04分]は五島列島南方沖であり、五島列島に属する男女群島の真南である。また、NHKのハワイ沖の船体取材で注目された旧日本海軍のこれも当時世界最大の潜水艦であった伊四百型潜水艦も、同系艦3隻(伊400、401、402)の内、伊402(伊号第四百二潜水艦)が五島列島沖に沈んでいる。平成27年7月、海上保安庁により五島列島南西沖に伊402号を含む24隻もの多数の潜水艦が沈んでいる現状が確認された。これらの潜水艦は、旧日本海軍の潜水艦技術のソ連軍への情報漏洩を恐れた米国により終戦直後に沈められたものであるが、特に米軍が驚嘆した伊400型の伊400、401はハワイ沖に沈められ平成25年に米国の調査船により現状が確認されており、伊402は日本領海内の唯一事例である。五島列島最大の福江島は鷹の一種である渡り鳥ハチクマが大陸に渡る日本における最終経由地。9月後半から10月初めにかけて福江島西端の大瀬崎付近に集まった後群れをなして飛んでいくのが観察できる。
出典:wikipedia
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