藤原 公任(ふじわら の きんとう)は、平安時代中期の公卿・歌人。関白太政大臣藤原頼忠の長男。小倉百人一首では大納言公任。祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務め、母(醍醐天皇の孫)・妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王。また、いとこに具平親王、右大臣藤原実資、書家藤原佐理がおり、政治的にも芸術的にも名門の出である。関白の子として天元3年2月15日に内裏にて円融天皇自らの加冠により元服して異例の正五位下が授けられる(『日本紀略』・『扶桑略記』、ただし後者には同3年条に誤って入れられている)など、将来が期待されていた。政治的には、当時藤原北家の嫡流は皇室の外戚の座を失った小野宮流から九条流に移っていたことから、官位は正二位権大納言に止まったが、九条流の藤原道長の意を進んで迎え、優れた学才により一条天皇の治世を支え、藤原斉信、源俊賢、藤原行成とともに「一条朝の四納言」と称された。道長が対抗意識を燃やしたという逸話もあるが、実際には寛和2年6月10日の内裏歌合で若手貴族の代表として道長・斉信ともに選ばれるなど、青年時代から共に行動することが多かった。また、実際に四納言の中で唯一、道長が政権の座に就く以前に参議に昇進している(正暦3年(992年)8月)。和歌の他、漢詩、管弦にもすぐれた才能を見せ、道長に対して自らの才能を誇示した「三舟の才」の逸話は、小野宮流の嫡男として芸術面での意地を見せたともいえる。また、道長には迎合していたものの、自らの門地に対する誇りは高く、四納言の一人斉信に位階を越された際は半年間出仕を止めた上に、当時文人として有名であった大江匡衡に作らせた辞表を提出したこともあった。家集『大納言公任集』、私撰集『金玉和歌集』、歌論書『新撰髄脳』『和歌九品』などがあり、『和漢朗詠集』や三十六歌仙の元となった『三十六人撰』は公任の撰による。勅撰歌人として『拾遺和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に88首が入首している。また引退後著したと見られる有職故実書『北山抄』は摂関政治期における朝廷の儀式・年中行事の詳細が分かる貴重な史料である。『大鏡』に見える。三船の才ともいう。道長が大堰川に漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せた際、乗る舟を尋ねられた公任は和歌の舟を選び、「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」と詠んで賞賛された。ところが公任は、漢詩の舟を選んでおけば、もっと名声が上がったはずだと悔やみ、道長に舟を選べと言われたときに、すべての分野で認められているとうぬぼれてしまったと述懐した。この時代、強盗・窃盗・私鋳銭の3つの罪については検非違使が裁判を行うことになっていたが、長徳2年(996年)11月に検非違使の最高責任者であった検非違使庁別当である公任の別当宣によって、初めて着鈦勘文(判決文)に徒(懲役)年数が書かれることになった。それまでは、被害額の総額に応じて徒の年数は定められていたものの、その年数が罪人に示されることは無く、罪人は釈放されて初めて自分がどんな刑罰を受けたのかを知ったという。公任はその矛盾を指摘してこれを改めさせた。この時、左衛門志であった明法家(法律家)の惟宗允亮は、公任の意向に沿って素晴らしい着鈦勘文を書き上げ、法律家としての名声を高めたという。寛弘5年(1008年)11月1日、土御門殿で催された敦成親王(後一条天皇)の誕生祝いの宴で、酔った公任が紫式部に対して「この辺りに若紫は居られませんか」と声をかけた、という。式部は(光源氏似の人も居ないのに、どうして紫の上が居るものかしら)と思い、その言を聞き流した、と『紫式部日記』に見える。なお、この逸話の条が、本文以外で『源氏物語』に触れられた記録の初見とされる。※日付は旧暦
出典:wikipedia
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