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アルフォンソ13世 (スペイン王)

アルフォンソ13世(、1886年5月17日 - 1941年2月28日)は、スペインの国王(在位:1886年5月17日 - 1931年4月14日)。1886年5月17日11時30分、父王アルフォンソ12世の唯一の男子として生まれた。父王はすでに死去していたため、出生と同時に国王となった。時の首相は国王誕生の報を聞いて一人号泣したという。祝砲の数は男子なら21発、女子なら15発と前もってマドリード市民にお触れが出されており、16発目の祝砲を聞いた瞬間にマドリード市民は歓喜して国王の誕生を祝った。幼君だったため母マリア・クリスティーナ王太后が摂政を務めた。生まれた瞬間から王座にあるアルフォンソ13世は、国外で帝王学を学んだ父アルフォンソ12世のように国外で学ぶわけにはいかず、国内で高級軍人や貴族、高位聖職者からなる教授陣から帝王学を学んだ。教育の結果アルフォンソ13世はドイツ語、フランス語、英語、イタリア語を習得した。16歳となった1902年から親政を開始した。王宮の閉鎖的で伝統主義的な環境で教育を受けたにもかかわらず、アルフォンソ13世は自由主義的な精神を持つに至った。アルフォンソ13世は外国を頻繁に訪れており、1905年にイギリス旅行に出かけた際にイギリス女王ヴィクトリアの孫娘であるバッテンバーグ家のヴィクトリア・ユージェニーと出逢う。1906年、ヴィクトリア・ユージェニー(スペイン名ビクトリア・エウヘニア)と結婚し、5月31日に婚儀を挙げた。ビクトリア・エウヘニアはバッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツの娘で、イギリス国王ジョージ5世の従妹でもあった。この婚儀が公表されると、イギリスとスペインの両国で議論が沸騰した。公表と同時にビクトリア・エウヘニアはプロテスタントからカトリックへ改宗したが、これをイギリス国内の強硬派は「カトリック教会何するものぞ」と批判した。ビクトリア・エウヘニアの実家には「プリンス」(Prinz)の称号があり、そこで議論は政府レベルに持ち上げられたが、称号は形だけで、彼女は公金の受領者ではなかったため、この議論は収拾した。一方、スペインではカトリック教徒の多くがビクトリア・エウヘニアを攻撃した。改宗とは結婚のための方便であり、カトリックを本当に信仰しての行為か怪しいもの、というのが主たる理由であった。婚儀が終了し、ロイヤル・カップルが無蓋の馬車で大聖堂からパレードに移ったときも、マドリードにはこの空気が張り詰めていた。厳重な警備にもかかわらず、沿道の人垣から1人の男が飛び出し、易々とロイヤル・カップルの馬車に近づいて1発の爆弾を投じた。それは馬車には命中せず路上で爆発し、現場はパニックに陥った。警護の兵士と観衆31人が命を落としたが、新婚のアルフォンソ13世とビクトリア・エウヘニアは無事だった。犯人は逮捕される前に自殺して果てた。当初宗教問題が犯行の動機と考えられたが、調査の結果、犯人はマテオ・モラレス(通称モラール)という無政府主義者とわかった。翌日、ビクトリア・エウヘニアは当初の日程の通りに闘牛見物を続行することで自らの勇気を証明し、スペイン民衆の中での立場を強化した。観客は総立ちでこれを歓呼した。第一次世界大戦が勃発すると、母后がオーストリア人、王妃がイギリス人であるアルフォンソ13世は中立の立場を維持した。「絶対中立」を宣言したスペインは、軍需産業が繁栄して「16世紀以来の大型景気」となり、経済は大いに潤った。異例の貿易黒字を記録したが、この恩恵を受けたのはブルジョワジーであり、インフレや日用品の物価高騰によって一般市民の暮らしは悪化の一途を辿った。アルフォンソ13世はしばしば社会改革の努力を行うものの、途絶えることのないテロの中で政府高官は次々に暗殺され、統治の形態はますます旧来の抑圧へ傾斜を深めた。また、社会不安に混沌とする国内を鎮めるため、イタリアに倣い、1923年にはプリモ・デ・リベーラ将軍を登用し、権威主義体制による王権維持を目指した。プリモ・デ・リベーラ失脚後の1931年4月12日に行われたの結果、アルフォンソ13世は国外亡命に追い込まれた。後に亡命先のローマで死の直前に退位し、名目上の王位を四男のフアンに譲ったが、スペインが王政復古したのはアルフォンソ13世の亡命から44年後の1975年であり、フアンの息子フアン・カルロスが王位に就いた。アルフォンソ13世とビクトリア・エウヘニアは5男2女を儲けたが、長男アルフォンソと末息子ゴンサーロが血友病に冒された。

出典:wikipedia

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