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カロン・ド・ボーマルシェ

ボーマルシェ(Beaumarchais)こと本名ピエール=オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron, 1732年1月24日 - 1799年5月18日)は、18世紀フランスの実業家、劇作家。現在は『セビリアの理髪師』、『フィガロの結婚』、『』からなる「フィガロ3部作」で名高いが、劇作を専門としていたわけではなく、始めは時計師、次いで音楽師、宮廷人、官吏、実業家、劇作家など様々な経歴を持つため、フランス文学者の進藤誠一はボーマルシェを「彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しい」と評している。1732年1月24日、パリのサン=ドニ街にて、アンドレ=シャルル・カロンとマリー=ルイーズの間に、ピエール=オーギュスタン・カロンは生まれた。ピエールは10人兄妹の7番目であるが、そのうち4人は夭折しており、無事に育った男児は彼のみであった。父親のアンドレは先祖代々プロテスタントであったが、結婚前年の1697年にカトリックに改宗している。若い頃は騎兵でもあったが、ピエールが生まれたころには時計職人として生計を立てていた。単なる平民に過ぎなかったが、文学を愛好し、この時代の平民としてはかなり正確なフランス語運用能力があったことが遺されている手紙からうかがえる。母親であるマリー=ルイーズに関しては、ほとんどわからない。パリの町民階級出身であることが分かっているのみであるから、彼らは身分の釣り合った普通の夫婦であったといえるだろう。この家族について特筆すべきなのは、ピエールを取り巻く5人の姉妹たちである。長姉マリー=ジョセフ、次姉マリー=ルイーズ、三姉マドレーヌ=フランソワーズ、それに2人の妹、マリー=ジュリーと、ジャンヌ=マルグリートである。とくに妹たちは、ピエールと芸術の趣味が合ったらしく、ともに音楽を奏でて楽しんだという。この時に培われた音楽的素養は、彼が成人してからフランス社会で一歩ずつ社会的地位を高めていくのに、大きな役割を果たしたのであった。家族の暖かな愛情に包まれて育ったピエールは、3年間の普通教育(おそらく獣医学校か)を修了したのち、13歳で時計職人である父の跡を継ぐべく工房に入って修業を始めた。ところが遊びたい盛りのピエールにとって、信心の篤い父親のもとでの修業は息苦しいものであったらしい。18歳のころ、放蕩の限りを尽くした挙句、工房の商品である時計を無断で持ち出して売却するという事案を起こし、父親の激しい怒りを買って勘当されてしまった。幸い父親の友人や母親のとりなしがあり、数か月後には父親の赦しを得たが、その代わりとして父親の出した厳しい条件を呑まねばならなかった。この条件によって以前のように遊べなくなったピエールは、真面目に時計職人として邁進するのであった。こうした真面目な修業が実を結んで、1753年、21歳の時に時計の速度調節装置の開発に成功した。ピエールがこの装置を開発するまでは時刻を正確に刻む技術は発見されておらず、各々の時計が指し示す時刻がばらばらであったから、この発明は画期的であった。若くして素晴らしい発明を成し遂げたことを知らせようと、同年7月23日、父親の友人であった王室御用時計職人ルポートにこの装置を見せたという。ところが、ルポートはこの装置を自らの発明と偽ってメルキュール・ド・フランス誌に発表してしまった。ルポートは、王室御用時計職人という肩書からもわかるように、当代随一の時計職人であり、様々な宮殿で使用されている時計の制作者であった。まさに時計業界の重鎮であったわけで、それほどの権威を持つ自分に無名の職人が歯向かってくるはずもないと考えてのことであったのかもしれない。ピエールはメルキュール誌に載った記事を直接見なかったようだが、幸いなことに彼が装置の開発に取り組んでいたことを知っていた人物(同業の時計職人と思われる)が知らせてくれたおかげで、ルポートの裏切りを知るところとなった。この人物への返信が遺されているが、そこには、相手がたとえ業界の重鎮であろうと怖気づかず、自身の発明に確固たる自信を持ち、権威である科学アカデミーに裁定を委ねようとする冷静沈着な態度が現れている。この内容通りに、ピエールは科学アカデミーに自身の発明した装置の下絵を提出して裁定を願い出るとともに、メルキュール誌にも抗議文を送付して掲載させた。この抗議文が掲載されるとルポートもさすがに焦ったようで、自身の業績や抱える顧客を例に挙げて社会的な信用の高さを示そうとしたが、このような卑劣な行為にピエールはますます激昂し、自身の正しさを証明しようと躍起になった。1754年2月23日、この一件に科学アカデミーからの裁定が下った。ピエール=オーギュスタン・カロンの主張を全面的に支持し、ルポートは単なる模倣者に過ぎないことを認める内容であった。ピエールは、この一件で世に広く知られるようになった。国王ルイ15世への謁見を許され、高貴な人々からたくさんの注文を受けたことで、ルポートを追い落として正式に王室御用の時計職人となったのである。国王の注文に応じて製作した極薄の時計や、王姫のために制作した両面に文字盤のある時計も評判をとったが、何より宮中で話題となったのは国王の寵姫ポンパドゥール夫人のための指輪時計であった。この時計は直径1センチにも満たない極小の時計であったために龍頭を削ぎ落とさねばならなかった。まるで時計として使えないのではないか、と不審がる国王に向かって、若き時計職人は文字盤を取り囲んでいる枠を回転させれば、時計として機能を果たすことを示した。その卓越した技術に、宮中は大いに唸ったという。こうして、時計職人として専らヴェルサイユ宮殿に出入りし、高貴な人々の注文に応じて時計の製作に励んでいたピエールであったが、それを切っ掛けとして彼に一人の女性との出会いが訪れた。ヴェルサイユ宮殿で彼を見かけ、その評判と若さに惹かれた人妻、フランケ夫人が彼の工房に時計の修理を目的として訪れたのである。彼女の夫であるピエール=オーギュスタン・フランケは、パリ郊外に土地を所有しており、王室大膳部吟味官(簡潔に言えば、料理の配膳係)という役職を務める貴族であった。初めは単なる時計職人とその顧客という関係でしかなかったが、フランケ夫人の希望もあって急速に夫妻とピエール(カロン)の関係は深まっていった。フランケはすでに齢50歳を超えて体力的にもかなり衰えていたため、夫人の助言を聞き入れて「王室大膳部吟味官」の役職をカロンに売り渡すことにした。1755年11月9日、ルイ15世直筆の允許状を手に入れ、ピエールは正式に宮廷勤務の役人となった。宮廷に出入りする単なる時計職人から、佩刀を許された役人として社会的な地位を一つ高めたのであった。フランケ夫人との出会いは出世の役に立ったが、そのピエールとフランケ夫妻の三角関係は世間で広く噂されるようになった。フランケは病気に苦しんでおり、その夫人とピエールは若くて魅力的である。間違いが起こらないほうが不思議な状況であって、実際に夫人とピエールがいつごろから恋仲となったのかはわからないが、遺されている往復書簡から察するに1755年末にはすでに関係があったと思われる。この書簡からは、少なくともフランケ夫人は不倫に悩み苦しんでいることがうかがわれるが、ピエールは悩みや謝罪の色などつゆも見せておらず、ただ恋にのぼせた者にありがちな身勝手な考えが示されているのみである。1756年1月3日、フランケは脳卒中でこの世を去った。ピエールが役職を得てからまだ2か月しか経っておらず、その代金支払いに着手もしていないころであった。ピエールは運よく、夫人も役職も、ただ同然で手中に収めたのである。1756年11月22日、正式にフランケの未亡人とピエールは結婚した。身分の釣り合わないこの結婚に父親は許可を与えてはいるが、結婚式に出席していないため、こころから祝福していたかどうか疑問である。だがともかく、ピエールはこうして父親のもとから完全に独立したのである。妻の所有地の土地(Bos Marchais)の名前を借用してカロン・ド・ボーマルシェと貴族を気取った名前を使用し始めたのもこの頃であるが、これは単に彼の自称に過ぎず、正式に貴族に列せられた訳ではない。実態は単なる宮廷勤務の役人であったわけだが、こうした貴族風の名前を使い始めたところから察するに、すでにこの頃には強烈な出世願望が彼のこころで燃え上がっていたと考えられる。さて、初めての結婚生活はどうだったか。結婚後2か月してからの彼の手紙からは、妻の変貌にうんざりした様子が窺える:上記のように新婚早々、結婚生活に幻滅したボーマルシェであったが、この結婚生活は長く続かなかった。結婚から1年も経たないうちに妻は腸チフスに倒れ、そのまま亡くなったのである。1757年9月29日のことであった。ところが、ボーマルシェを直撃した災難はこれだけではなかった。結婚契約書の登録を怠っていたために、妻の遺産は妻の実家に転がっていってしまうし、新婚生活での借金は自身に降りかかってきたのである。ボーマルシェはこの一件で、数年間窮乏に苦しむこととなる。最初の妻を失った翌年、母をも失った。結婚生活で生じた借金のおかげで財政的には極めて苦しかったため、仕事に励む一方で、相次いで大切な人を失った寂しさを紛らわせるために文学と音楽に打ち込んだ。16世紀から18世紀まで幅広く、しかも外国の作家にまで傾倒していたという。幼い頃から音楽に親しんで来たことは先述したが、ボーマルシェ自身もハープの名手であり、当時は新しい楽器であったハープに改良ペダルをつけ、より音色が美しくなるように工夫するなどして宮廷で評判をとっていた。ルイ15世の4人の王姫はボーマルシェの楽才に魅せられ、たちまちとりことなり、彼に自身の音楽教師となるように要請した。この要請に、ボーマルシェ自身の男性的な魅力が影響していたかどうかはわからない。ボーマルシェは音楽を専門としているわけでもなく、単なる小役人に過ぎなかったため、金銭をもらってレッスンすることはできなかった。無料での労働であったわけだが、王姫の機嫌を損ねでもしたらすぐに国王の知るところとなって、単なる小役人の首などすぐに吹っ飛ぶため(職と命、ともに簡単に飛ぶ)、細心の注意を払ってレッスンに臨んだに違いない。神経をすり減らしつつ、才気と魅力を最大限に活用して王姫たちに仕えた結果、彼女たちから絶大な信頼を獲得するに至ったのである。4人の王姫たちから絶大な信頼を獲得していたことは、当時のボーマルシェが起こした決闘事件の顛末からも明白である。ある貴族に侮辱、挑発されたボーマルシェは、当時禁止されていた決闘に応じて、相手に重傷を負わせた。決闘を行うことだけでも重罪であったが、もし相手の口から自身の名前が出た場合、復讐や処罰の対象となってしまうので、それを恐れて王姫たちに庇護を求めたのである。王姫たちは事情を父である国王に打ち明け、決闘事件に関する口止め工作を了承した。幸いなことに相手の貴族が「原因は自分自身にある」としてそのまま死んでいったため、工作を行う必要はなくなったが、この一件は国王家からの篤い信頼を獲得していたことの裏付けとなっている。王姫たちへのレッスンは国王家の信頼を獲得するのに役だっただけでなく、ボーマルシェの財政状況の改善へも間接的に影響を与えた。直接的な影響としては、王姫たちの気ままな買い物やコンサートの費用を立て替えたり、王家に仕える者としての身なりを整える費用やらで、むしろ悪影響を与えたともいえるが、彼女たちを通じて国王家の信頼を勝ち取ったことで、18世紀における最大の金満家であるパーリ=デュヴェルネーと出会い、一気に財政状況が改善されたのである。ルイ15世治下のフランス経済は、4人のパーリ兄弟によって動かされていた。パーリ=デュヴェルネーはその3番目であったが、兄弟の中でも特に商才に長けていたという。ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人などの貴族たちと結びついて急速にのし上がっていき、オーストリア継承戦争や七年戦争の折にはフランス王国軍の御用商人となり、巨万の富を築いた。1751年にポンパドゥール夫人と組んで士官学校の建設に乗り出し、1750年代末にはほとんど完成していたが、ちょうど運悪くフランスが七年戦争でイギリスに敗北を喫したころであり、ポンパドゥール夫人との不仲もあって、ルイ15世はこの士官学校に極めて冷たい態度を示した。すでに75歳と、当時としてはかなりの老齢であったパーリ=デュヴェルネーにすれば、後世に遺す自らの記念碑が王に冷たくあしらわれるなど心中穏やかでなく、どうにかしようとあれこれ動いて万策尽きた結果、国王家の信頼の篤いボーマルシェに目を留めたのであった。野心みなぎるボーマルシェのことだから、この大金持ちの老人に恩を売っておけばどれほどの見返りがあるか、瞬時に理解したことだろう。ボーマルシェはこの富豪に恩を売るべく、まず4人の王姫たちに目を付けた。日ごろから彼女たちの願いにきちんと確実に答えてきた彼にとって、退屈しきった彼女を口車に乗せて、若い男の大勢いる士官学校に連れていくことなどたやすいことであった。士官学校を訪れた彼女たちはデュヴェルネーによって盛大に迎えられ、彼に向ってボーマルシェを褒めちぎるなど、大満足して帰っていったという。士官学校を訪れた娘たちが喜んでいるのを知って、国王ルイ15世は大いに心を動かされ、1760年8月12日、ついに士官学校を訪問したのだった。悲願を果たしたデュヴェルネーは、ボーマルシェにそのお礼として、様々な経済的な援助を惜しみなく与えた。6000リーヴルの年金、得意の金融業での助言、指導、融資など、窮乏に苦しんでいるボーマルシェにとってはどれも有り難いものばかりであった。こうして一気に財政状況は改善され、以後鰻登りのごとく、豊かになっていったのである。1761年12月、ボーマルシェはデュヴェルネーに用立ててもらった55000リーヴルに、手持ち金30000リーヴルを加えて、「国王秘書官」という肩書を購入した。この肩書は「平民の化粧石鹸」などと呼ばれて蔑視されていたが、間違いなく金になる肩書であり、その上購入者の身分がどうであれ正式に貴族として認められる職業であった。さらに1762年に入ると、当時フランスを18の区に分けて管轄していた「森林水資源保護長官」のひとつに空きが出た。巨額の収入をもたらすポストであり、それだけに値段も高かったが(現在の日本円で5000万前後)、デュヴェルネーは惜しげもなくこれに必要な資金を提供した。この時は他の長官たちの猛反対に遭って、王姫たちの後押しも虚しく手に入れることはできなかったが、その代わりに翌年になって「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」なる肩書を手に入れた。王室の料地を管理し、密猟者がいれば捕縛して裁くのが任務である。「代官」とあるように本来は「管理長官」たるラ・ヴァリエール公爵が任務にあたるべきなのだが、ほとんどの仕事をボーマルシェがこなしたという。彼は1785年まで、22年間に亘ってこの仕事を続けた。この肩書を手に入れたのと同じころ、4階建ての家を建て、父親と2人の妹を引き取ったり、ポリーヌ・ルブルトンという西インド諸島出身の女性と恋仲になったりしている。ポリーヌは大変な美女であったらしいが、所有地に関連して負債を抱えていたために、再婚には慎重になっていたようだ。フランケ夫人との結婚の後始末で、ずいぶん辛酸を舐めたことが影響しているのだろう。1764年2月、ボーマルシェとその一家にとって大問題が発生した。スペインに居住する次姉が「結婚の約束を同じ男に2度も破談にされ、ひどい侮辱に苦しみ、泣きはらしている」との知らせが舞い込んできたのである。ボーマルシェはこの一件を、後年になって『1764年、スペイン旅行記断章』として記しているが、事実に即して書かれておらず、多分にフィクションを含んでいる。次姉マリー=ルイーズは、長姉マリー=ジョセフが1748年に石大工の棟梁ルイ・ギルベールと結婚してスペインのマドリードに移住した際に、彼らにくっついていった。彼女は同地で、軍需省に努めていたクラビーホという男と親しくなって結婚の約束までしたが、姉であるマリー=ルイーズに慎重になるように忠告されたため、結婚を引き延ばしていたのであった。クラビーホは才能のある男で、スペイン陸軍に関する著作を発表するなどして頭角を現し、文芸誌を創刊したり、スペイン王室古文書管理官に任命されるなど、順調に出世していった。結婚の約束から6年が経ったある日、妹を任せるのに問題なしと判断したマリー=ジョセフは、彼に結婚の約束を履行するように迫ったが、クラビーホはなかなか首を縦に振らなかった。出会いからあまりに時間が経ちすぎていたし、マリー=ルイーズも33歳になっており、決して若いとは言えなかった。その美しさに陰りが見えていたし、出世を果たしたクラビーホはその辺の女など相手にしなくとも、もっと有利な結婚相手を見つけることができたのである。何より、クラビーホは優柔不断な男であった。マリー=ジョセフの求めに応じて、素直に従っているようなふりをして結婚の準備を進めておきながら、いざ結婚式当日に失踪したのである。フランス大使に訴えられたらどうなるかわからないとの思いからか、自身の行為が情けなくなったのか、どういう考えからかはわからないが、この時は自ら姿を現して姉妹に謝罪し、結婚の履行を承諾したが、再び式の3日前に失踪したのであった。『1764年、スペイン旅行記断章』では、「悲嘆に暮れ、世間から後ろ指を指されて泣きはらしている次姉マリー=ルイーズの名誉回復のために、知らせを受けてすぐに馬に乗ってスペインに駆け付けた」ことになっているが、これは事実ではない。マリー=ルイーズはクラビーホのほかに、フランス商人のデュランという男をすでに婚約者として見つけていたし、ボーマルシェもその父親も、彼らの間柄を手紙で祝福している。さらに、ボーマルシェがパリを発つ許可を国王からもらったのは、4月7日のことだった。出発はそれよりさらに後のことだろうから、この事実からも急いで駆けつけようとしていないことは明らかである。この出発許可を獲得するために提出した手紙では、スペインへ行く目的として家庭の事情を挙げている。確かにそれも目的の一つには違いないのだが、それはあくまで名目で、本当の目的はフランスースペイン間の重要な通商問題(簡潔に言えば、新大陸の植民地の利権を寄越せ、というもの)を解決することにあった。同じ手紙で、スペイン駐在フランス大使への推薦状を依頼しているのはそのためである。こうしてフランスを発ったボーマルシェが、マドリードに到着したのは5月18日のことであった。急げば2週間足らずで到着する距離だが、途中でボルドーやバイヨンヌなどの都市に立ち寄っているところを見るに、自身に託された重要な使命について思案を巡らせていたのかもしれない。彼に託されたフランスースペイン間の通商問題とは、七年戦争の手痛い敗戦に起因するものである。1763年2月10日に締結されたパリ条約によって戦争は終結したが、敗戦国フランスは大量の領土を失い、同じく領土を失った同盟国スペインに西ルイジアナ地方を割譲したのであった。政治的にも経済的にも、とにかく大打撃を被ったフランスは、一刻も早く立ち直ろうと、フランス経済界の重鎮であったパーリ=デュヴェルネーを中心に据えて計画を立て、スペイン王家に対していくつかの提案を行ったのだった。その使者として選ばれたのが、ボーマルシェである。まず、あくまで名目でしかない次姉の結婚問題についてマドリードでどのように活動したか。『断章』によれば、マドリードに到着したボーマルシェは、姉や友人たちに囲まれて次姉と再会し、事の顛末を仔細に亘って聞き出し、名前を明かさずにクラビーホと会う約束を取り付け、証人を連れ添って文芸誌の編集長たるクラビーホの事務所へ乗り込んだという。旅の目的を問われたボーマルシェは、例え話を装って、2人の娘をマドリードに居住させるフランス人商人の話をし始め、彼女たちの結婚について問題が起こったためにやってきたのだと告げた。確信が持てないままに、しかし妙に目の前で語られる話が自分の体験している事情と似ていることにクラビーホは首をひねりつつ聞いていたようだが、ボーマルシェの種明かしによってとどめを刺され、しばらく茫然自失の状態であったという。さらなる追求を受けて、逃れられなくなったクラビーホは、マリー=ルイーズへ向けて謝罪文書を認めた。さらに踏み込んで徹底的に破滅へ追い込むこともできたが、フランス大使から穏便に済ませるように忠告されていたし、クラビーホはスペイン王室に強力な後ろ盾を持っており、本来の目的である通商問題の解決に使えると踏んだのか、3度目の約束となる婚約書を作成させるにとどめたのであった。ところが、相変わらずクラビーホは優柔不断で卑劣な男であった。どう考えても割に合わない話だと思い直したのか、あちこちを逃げ回った挙句「ピストルで脅されて結婚を強制された」とスペインの宰相に訴え出たのである。窮地に陥ったボーマルシェであったが、訴えから逃げ出すことなく、自ら宰相のもとへ赴いて自身の潔白を主張し、クラビーホの公職追放(1年間で解除されたが)という逆転勝利を収めたという。この件に関して伝わっている話はここまでで、結局その後マリー=ルイーズはどうなったのか正確にはわからない。どうやらクラビーホともデュランとも結婚せず、独身のまま過ごしたらしい。本来の目的である通商問題に関してはどうだったか。まずボーマルシェは、問題解決のために有力な貴族を探し始めた。手始めにスペイン社交界の有力者であったフエン=クララ侯爵夫人に近づき、彼女のサロンに出入りするうちに、スペインの将軍と結婚したフランス人、ラクロワ夫人と出会った。ボーマルシェを見て望郷の念に駆られたか、それとも彼の魅力に取りつかれたのか、理由は定かではないが、夫人は彼を連れ歩くようになり、スペイン社交界での彼の売り込みに大いに協力してくれたのであった。おかげで、在スペインのイギリス大使やスペイン宰相の知遇を得ることに成功した。ところが、結果的にラクロワ夫人の存在が邪魔となった。通商問題の解決のためにもうひと押し必要と考えたボーマルシェは、ラクロワ夫人をけしかけて、彼女に国王カルロス3世の愛人となるよう依頼した。夫人は見事にそれを果たしたのだが、国王の愛人となった夫人は、自分の立場を危うくするようなことはしたがらなくなった。夫人を通じて国王から譲歩を引き出そうとしたボーマルシェの試みはこうして失敗に終わり、そのまま状況を変えられることなく、帰国の日を迎えたのであった。スペイン宰相グリマルディは、ボーマルシェに持たせた手紙の中で彼への好意を率直に示しているが、とにかく使命の遂行には失敗した。1年間のスペイン滞在は、外交的な成果は何一つないものであった。スペイン文化の吸収という点で、個人的な収穫はあったかもしれないが、祖国フランスへは貢献できなかったし、恋人をも失った。彼がフランスに帰国すると、婚約関係にあったポリーヌ・ルブルトンとは関係がすっかり冷え込んでしまっていた。そうなった原因はわからないが、おそらく不在期間が長すぎたのであろう。この頃彼らの間に交わされた手紙ではお互いを非難しあっており、まるで噛み合っていない。結局ポリーヌは別の男性と結婚し、こうしてボーマルシェは人生で(おそらく)初めて失恋の悲しみを味わった。その悲しみを癒そうとしてか、1766年、事業家としてシノンの森林開発に乗り出した。シノンはパリから遠く離れたトゥーレーヌ地方の要衝で、この郊外に広がる広大な森林は国王の所有地であった。1766年の末、この森の一部が売りに出されることを知ったボーマルシェは、パーリ=デュヴェルネーから融資を受け、この森の開発事業に乗り出すことにした。ところが、彼が就いていた公職「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」が森林を取得するのに障害となった。この長ったらしい職名を見ればわかるように、この職の任務は「国王所有地を守り、管理する」ことであった。そのような職業に就いている男が、国王所有地の売却に際して真っ先にそれに飛びつき、開発して利益を得ようとしているというのは極めて具合が悪い。これは現在で言えばインサイダー取引と同じようなものであるから違法であるし、当時の法律でも森林に関する公職に就く者が森林の競売に参加することは固く禁じられていたので、やはり違法なのであった。困ったボーマルシェが思いついたのは、召使セザール・ルシュユールを名義人に仕立てあげることであった。これ自体法律の抜け穴をくぐった脱法行為であるが、当時としてはそれほど珍しいことでもなかったらしい。1767年2月、ボーマルシェは私的な証書を作成し、ルシュユールに単なる名義だけの存在であることを確認させたが、この召使は中々狡猾な男であった。ルシュユールは、主人であるボーマルシェがなぜ競売に参加せずに自分を名義人に立てたか、その理由を知った途端に主人を脅し、口止め料として2000リーヴルを要求した。ボーマルシェはこの要求を一蹴し、ピストルを突き付け、2度とこの類の脅迫をしないことを誓わせた。だが、ルシュユールは主人が知らない間にシノンへ足を延ばし、仕事でミスを犯して首になっていた森林開発の小役人であるグルーと結託して共同で会社を設立し、勝手に森林の開発に乗り出した。この行為を知って、ボーマルシェが激昂したのは当然であった。彼は憲兵とともにすぐさまシノンへ馬を飛ばし、ルシュユールを捕縛したのち、公証人立ち合いのもとで裏切りを白状させた。ところが、懲りないルシュユールは、解放されて再び自由を手に入れると、グルーと共謀して森林監督代官にボーマルシェの不法行為を訴え出た。代官はルシュユールの主張を支持し、名義人である彼の権利を認めた上、ボーマルシェに召喚状を発して、彼に対する暴行及び脅迫の罪で出頭を命じた。ボーマルシェからすれば、森林に関する公職に就いている以上は、自身の行為を暴露されたくはないし、かといって召使ごときに頭を垂れるなど耐え難いことであった。彼は、パリの森林監督庁に提訴して自身の権利を守ろうとする一方で、親しくしていた公爵を通じて大法官への謁見を願い出て、庇護を求めた。さらにルシュユールの身元を拘束するために、王の封印状(" Lettre de cachet "、これさえあれば好き勝手に人を逮捕出来た)を手に入れ、シャトレ牢獄にぶち込もうと画策したのであった。ルシュユールも負けておらず、逆にボーマルシェを横領犯として告訴しようと、請願書を提出した。当時のパリの警察長官サルティーヌはボーマルシェと知り合いであり、彼には好意的であったが、この泥仕合を快く思っていなかったようで、どちらの主張にも与することなく、中立的な立場を取り続けた。絶対に勝たねばならん、牢獄にぶち込まねばならぬ、と息巻くボーマルシェは、いくら請願を行っても無駄であることを察知し、ルシュユールの身内を懐柔して攻撃に利用することにした。ルシュユールの妻に働きかけて「夫が家財道具の一切を持ち出したために、生命の危機に晒された」との内容で訴訟を起こさせたのである。この仕打ちにはルシュユールも打つ手がなくなったのか、ついに降参し、法廷でボーマルシェが森林の本当の落札者であることを認めた。1768年3月21日、ようやくボーマルシェはルシュユールを牢獄にぶち込むことに成功したが、わずか4か月足らずで釈放されてしまった。この後も無益な裁判が2年に亘って延々続いたが、結局白黒を付けることなく、お互いの痛み分けということで決着がつけられた。パーリ=デュヴェルネーと出会い、事業家として着実に階段を上っていたボーマルシェにとって、シノンの森林開発事業は魅力的であったに違いないが、遺されている手紙から察するに、この森に相当な愛着を持っていたことが窺える。都会を離れて、素朴で親切な田舎人たちと交際し、大自然と調和した暮らしを送るよろこびが手紙には現れている。こうした愛着があったからこそ、徹底的に闘い抜いたのだと考えられるが、それにしてもボーマルシェとルシュユールの繰り広げたこの一連の騒動は、18世紀初頭から流行していた風俗喜劇をまさに地で行く、傍から見れば笑い話でしかない滑稽なものであったことも、指摘しておかねばならない。森林開発を巡って召使との滑稽な闘争を繰り広げていたボーマルシェであったが、何もその期間中ずっとそれにのめり込んでいたわけではなかった。この頃の彼の生活は、充実したものであった。劇作家として活動を始めたのもこの頃である。まず、デビュー作『ユージェニー』が1767年1月29日に、コメディー・フランセーズで初演された。この作品はまずまずの成功を収めたので、それに続いて第2作目『2人の友、またはリヨンの商人』を制作し、17770年1月13日に初演させたが、こちらは大失敗してしまった。この2作品のジャンルは町民劇と呼ばれるものであるが、状況設定に無理がある筋立てで、特にそれは2作目の『2人の友』において顕著である。上演はたった10回で打ち切られ、批評家からは「宮廷で職を購ったり、空威張りしたり、下手くそな芝居を書くよりも、よい時計を製作しているほうがずっとましだった」と、辛辣な批判を投げつけられる始末であった。これまでに見てきたボーマルシェの行動からいって、この件でも何らかの行動を起こすかと思いきや、この件に関しては沈黙を貫いた。おそらくかなり痛いところを突かれてすっかり意気消沈したのであろう。今後純然たる町民劇を書くことはなくなったが、その美学を放棄したわけではないことはフィガロの3部作によって示されるのである。1768年4月、36歳のときにジュヌヴィエーヴ=マドレーヌ・ワットブレドと再婚した。彼女は王室典礼監督官(1767年12月に死亡)の未亡人であったが、いつごろから交際を始めたのかはわからない。通常10か月間とされる服喪期間を無視してまで結婚していることから察するに、夫婦仲は相当に良かったようだ。同年の12月には長男が誕生しているところを考えると、未亡人となる前から関係があったのは確実であろう。夫妻の間には2人の子供が生まれたが、いずれも夭折した。夫人には亡き夫からの多額の年金が入るため、生活は豊かであったが、最初の結婚と同様にこの結婚も長くは続かなかった。1770年3月に娘を出産したころから夫人の健康は悪化し、肺結核に罹患して11月に死去してしまった。ボーマルシェは夫人を手厚く看護したと伝わる。夜中に肺結核の症状、激しい席の発作に苦しむ夫人を哀れに思って、病気がうつると家族に忠告されても聞き入れず、ベッドを共にして彼女を労わり続けた。それを医者に強制的に止めさせられた際には、別のベッドを夫人の部屋に入れて、最期を看取ったという。1770年は色々な意味でボーマルシェの生涯にとって重要な年となった。先述した夫人との死別もあったし、パーリ=デュヴェルネーが亡くなった年でもあったからだ。デュヴェルネーはボーマルシェと知り合った1670年以来、経済的にも、精神的にも彼に惜しみない援助を与えた大恩人であった。しかし彼も齢86となり、死は確実に近づいていた。ボーマルシェは、その莫大な遺産を巡る問題の発生を未然に防ごうとして、金銭的な問題をきちんと生前に処理しておこうと考えた。この年に入ってからすぐ手紙でやり取りした結果、4月1日付で2通の証書を取り交わした。証書ではボーマルシェとデュヴェルネーの金銭の貸し借りが詳細に列挙され、デュヴェルネーにおよそ14万リーヴルの借金があったボーマルシェは、一度この借金を相殺して、小切手で16万リーヴルをデュヴェルネーに渡して、シノンの森開発計画からの撤退を認めることにした。一方でデュヴェルネーは、ボーマルシェが借金を全額返済したことを認めたうえで、逆に98000リーヴルをボーマルシェに借りているので、そのうちの15000リーヴルは請求があり次第返済し、今後8年に亘って750000リーヴルを無利子で貸し付けることを約束したのであった。デュヴェルネーには子供がおらず、血縁関係としても甥パーリ・ド・メズィユーと姪の娘ミシェル・ド・ロワシーがいるのみであった。とくにミシェルをかわいがっていたデュヴェルネーは、その夫であるラ・ブラシュ伯爵を相続人に指定した。ボーマルシェがこの措置に不満を抱くのも、当然といえば当然であろう。血縁関係があり、かつ事業の功労者でもあるメズィユーが遺産相続の対象とならず、なぜ血縁関係も何もない赤の他人のラ・ブラシュ伯爵が相続の対象となっているのか常人には理解しがたい。ボーマルシェはメズィユーにも遺産を与えるべきだと手紙で伝えているが、効果はなかったようだ。一方、棚から牡丹餅とはまさにこのことで、血縁関係もないのに莫大な遺産が転がり込んできたラ・ブラシュ伯爵からすれば、その遺産の持主たるデュヴェルネーと特別な関係にあるボーマルシェが目ざわりになるのも無理のないことであった。ボーマルシェは貴族の肩書を有しているとはいえ、もともとはただの平民、時計職人からの成り上がりであり、自分と対等の人間ではないし、デュヴェルネーの甥であるメズィユーと友人であるから何を仕掛けてくるかわからない、などと考えていたのかもしれない。彼が何を考えていたかは分からないが、彼とボーマルシェのそりが合わなかったのは確実で、ボーマルシェには憎悪ともいえる感情を抱いていたという。ボーマルシェは伯爵のこのような感情を察知していたからこそ、遺産相続に関して手紙で安心して付き合っていけるメズィユーにも遺産を分け与えるように伝えたのである。1770年7月7日、デュヴェルネーがこの世を去った。それとともに、遺産を巡る闘争が始まった。ラ・ブラシュ伯爵は、ボーマルシェが心配していた通りに、彼とデュヴェルネーが生前に交わした契約を反故にし始めた。契約では「請求あり次第15000リーヴルを返却する」はずであった。そのためボーマルシェは契約に則って、伯爵に15000リーヴルを請求したが、伯爵からの返答は「契約自体の存在と有効性を疑う」という信じがたいものであった。この頃、両者は短期間のうちに何通もの手紙をやり取りしているが、全く噛み合わなかった。埒が明かないので。ボーマルシェは公証人の家に自身の正当性を主張する根拠となる証書を預け、伯爵に検討させた。その検討の結果、伯爵は「証書に書かれているデュヴェルネーの署名は、彼の自筆であるとは認め難いため、証書は本物ではない」と主張し、辣腕弁護士カイヤールを雇って「証書自体に不正が含まれている以上、無効であり、この契約は破棄されるべきである」と裁判所に訴え出たのであった。伯爵陣営の主張は、極めて悪質で巧妙であった。この訴えにおいてボーマルシェを間接的にペテン師であると攻撃し、証書自体が虚偽であるのだから、ボーマルシェがデュヴェルネーに借金を完済し終えた事実もまた虚偽なのであって、即ち依然として14万リーヴルの借金は残っており、相続人の伯爵にはその請求権があるという主張を堂々と行ったのである。デュヴェルネーとボーマルシェの間に存在した金銭の貸し借りは否定しないなど、都合よく曲解した末に生み出された主張であった。この件の裁判は1771年10月に、ルーヴル宮殿内の法廷において始まった。この法廷ではデュヴェルネーとボーマルシェとの間に交わされた証書の真偽が精査され、その結果、翌年になって証書は本物であると結論付けられた。ボーマルシェに有利な裁定が下ったわけだが、伯爵とカイヤールは単に主張を微修正しただけであった。「証書は正しいのかもしれないが、記載されている借金14万リーヴルは実際には返済されておらず、従って15000リーヴルの返済義務など存在せず、逆に14万リーヴルの請求権が発生している」と主張し、同時に根も葉もない不品行のうわさをボーマルシェのこれまでの恥ずべき行いとしてまき散らすことで彼の信用を貶めて、有利に主張を展開できるように試みた。ここでも伯爵たちが巧妙であったのは、まき散らした噂の中に少年時代の勘当という事実を一つだけ混ぜたことにある。「嘘八百かと思っていたら、ひとつだけ真実が混じっていた」なんてことがあったなら、その他の嘘とされていることも実は本当なのではないかと考えてしまうのは、無理もないことであるからだ。ボーマルシェも、事あるごとに相手方の誹謗中傷に反撃しているが、その中でも特に効果的であったのは「王妃たちから謁見を禁じられた」との中傷に対する反撃である。ボーマルシェはこの中傷に対応するために、早速王姫に付き従う女官であるペリゴール伯爵夫人に手紙を宛て、王姫から「そのような事実はない」との言質を引き出した。それどころか、「いかなる場合においても、ボーマルシェの不利益となるようなことは発言しないつもりである」とのお言葉まで頂戴したのであった。ボーマルシェは快哉を叫んだに違いない。中傷への反撃として、国王家の一員たる王姫の保証以上に心強いものなど存在しないし、裁判官の心証にも大きな影響を与える力があるからである。だが、ボーマルシェは調子に乗りすぎた。誹謗中傷へ反撃する際に、伯爵夫人からの手紙を許可なく引用し、自分にはあたかも王姫が後ろについているかのようなふるまいをしたのである。王姫たちもこの行動を看過出来なかったと見え、即座に連署入りで「自分たちは裁判に無関係であるし、庇護を与えてもいない」との内容の手紙を送付している。1772年2月22日、第一審の判決が下された。ボーマルシェの勝訴である。この判決ではデュヴェルネーとの間に交わした証書の有効性を認めたが、15000リーヴルの支払い命令は出されなかったため、再度手続きを取って、同年3月14日にこちらでも正式に命令を引き出した。だが、ラ・ブラシュ伯爵も負けてはいなかった。彼はこの法廷を欠席したうえで、高等法院に提訴し、審理中である事実を作って判決を実行できないように企てたのだ。こうして、場所を高等法院へと移した裁判の審理は続いていった。完全な決着がついたのは1778年のことである。この裁判の影響が、『セビリアの理髪師』の第2幕第8景の台詞に見られる。1773年1月3日、『セビリアの理髪師』がコメディー・フランセーズに上演候補作品として受理された。当時のパリでは、あるひとりの女優があらゆる階級の男たちを惹きつけていた。名前をメナール嬢といい、宮廷貴族から町民まで誰もが先を競って彼女に近づきたがり、彼女のために大金をはたいていた。彼女が一通りの男から贈り物を受け取ったところへ、フランス十二大貴族のショーヌ公爵がその競争へ加わり、たちまちほかの男たちを蹴散らして彼女を自分の愛人とし、娘まで産ませるに至った。ショーヌ公爵は確かに血筋は抜群に良かったものの、異常な性格の持ち主であった。才気のある男ではあったが、判断力に乏しく、高慢であり、粗暴な男であった。なぜかはわからないが、この公爵はボーマルシェを気に入り、交際を結んでいたという。普通にしていればそのまま幸福に過ごせただろうものを、判断力に乏しい公爵は、自ら余計なことをしでかした。ある日、公爵は愛人であるメナール嬢の家に親しい友人たちを招こうと考えた。その招かれた友人のうちの1人が、ボーマルシェであった。伝わっている資料から察するに、血筋以外に魅力のない公爵のどこを好きになったのかはわからないが、メナール嬢も彼の嫉妬と乱暴には辟易していたらしい。ボーマルシェの王侯貴族さながらの優雅な物腰にメナール嬢は惹かれたらしく、すぐに関係が始まったようだ。ところが、ボーマルシェも相変わらず軽率であった。彼はメナール嬢と自分の関係を言い訳しようと公爵に宛てて手紙を認めたが、その内容たるや、ひどいものであった。相手の嫉妬心を刺激する記述から始まり、延々と公爵を怒らせるような皮肉、言葉を並べ立て、最期に虫のいい提案で手紙を締めくくる。異常な性格の持ち主に、もっとも拙い内容の手紙を送ったのだ。1773年2月11日、ついに問題が起きた。この当日の一件に関しては、ボーマルシェとその友人ギュダンが詳細に記録を遺している。この日の午前11時頃、メナール嬢の部屋に公爵がやってきた時、その傍にはギュダンとメナール嬢の女友達がいた。ギュダンと女友達は、公爵の暴力に怯えて、ボーマルシェの身を案じる彼女を慰めているところであった。この際、メナール嬢がボーマルシェを立派な紳士だと弁護したがために、公爵はとうとう激昂し、ボーマルシェと決闘を行うと断言して部屋を飛び出ていった。ギュダンはボーマルシェの家に事情を知らせに急行するが、その途中で馬車に乗るボーマルシェに出くわした。決闘に巻き込まれるから避難するように言うギュダンであったが、ボーマルシェは仕事(王室料地管理代官としての審理)があるから、それが終わったら伺うと答えて去っていった。ギュダンは、帰宅途中に運悪くポンヌフのそばで、ボーマルシェの家に向かう公爵に捕まった。大柄な公爵に抵抗するすべもなく馬車の中に引きずり込まれ、その馬車の中でボーマルシェに対する恐ろしい脅迫を聞かされた。暴れまわって抵抗するギュダンを強引に抑え込もうとする公爵であったが、彼が大声で警察に助けを求めたために、公爵はそれ以上手出しできなくなった。ボーマルシェの家の前に到着すると、公爵は乗り込んでいった。ギュダンはこの時にすきを見て逃げ出したらしい。家にいた召使から主人の居場所を聞き出した公爵は、ルーヴル宮殿内の法廷に飛んで行き、そこで審理中のボーマルシェのもとへ現れ、法廷外へ今すぐ出るように要求した。公爵があまりにやかましいので、ボーマルシェは審理を一時中断して、小部屋へ彼を移動させた。その小部屋でおよそ大貴族にはふさわしくない言葉遣いでボーマルシェを罵る公爵であったが、しばらく待つように伝え、再び仕事に取り掛かるボーマルシェであった。いざ審理が終わると、公爵が即刻決闘を迫ってきた。家に剣を取りに帰りたいとボーマルシェが告げても、ある伯爵を立会人に考えているから彼に借りればよい、と取り合わなかった。自身の馬車ではなく、公爵はボーマルシェの馬車に飛び乗ってある伯爵邸に出向いたが、ちょうど伯爵は出かけようとしているところであった。宮廷へ出向かなければならない、と立会を断られたので、公爵はボーマルシェを自邸に拉致しようとしたが、ボーマルシェはこれを断固として拒否し、自宅へ帰ることにした。相変わらず馬車に飛び乗ってきた公爵は、馬車内でもボーマルシェを徹底して罵倒したが、彼は余裕を見せて公爵を食事に招いたという。自宅に着くと、公爵の激越な態度に脅える父親を落ち着かせて、ボーマルシェは2人分の食事を運ぶように召使に指示を出して2階の書斎に向かった。後を付いてきた召使に、剣を持ってくるように伝えたが、剣は研磨に預けていて手元にないという。取ってくるように言うボーマルシェであったが、公爵はそれを遮って「誰も外出してはならない。さもなければ殺す」と興奮気味に語る。なんとかして公爵を落ち着かせようと努力するボーマルシェであったが、その努力も虚しく、とうとう公爵は武力行使に打って出た。ボーマルシェの机の上に置いてあった葬儀用の剣に飛びつくと、自身の剣は腰につけたままでおきながら、剣を引き抜いて斬りかかってきたのである。ボーマルシェは剣が届かないように公爵に組みかかり、召使を呼ぶために呼び鈴をならそうとした。公爵が空いている片方の手で爪をボーマルシェの目に立てて顔を引き裂いたので、彼の顔は血まみれになった。なんとか呼び鈴を鳴らして、やってきた召使に向かって、公爵を抑えている間に剣を取り上げるように叫んだ。ここで乱暴な真似をすれば、後々になって「殺されかけた」などとうそをつくかもしれないと考えたようで、手荒な真似はさせなかったらしい。剣を取り上げられた公爵は、今度はボーマルシェの髪に飛びついて、額の毛をそっくりむしり取った。あまりの痛みに公爵を抑えていた手を放してしまったボーマルシェであったが、そのお返しに公爵の顔面に拳をぶち込んだ。この際、公爵は「十二大貴族の一人を殴るとは何たる無礼か!」と口走ったらしい。すでに当時からこのような考えは時代錯誤であり、ボーマルシェ自身も「他の時であったなら、このような台詞には笑ったと思う」としているが、何しろお互いに節度を失って壮絶な殴り合いを繰り広げている真っ最中であった。そこへ、ボーマルシェの身を案じたギュダンが飛び込んできた。血まみれの顔をしているボーマルシェを見て驚いたギュダンは、彼を伴って2階へあがろうとしたが、怒り狂った公爵は自身の佩刀を抜き、突きかかろうとしてきた。召使たちが公爵に飛びついてなんとか剣をはぎ取ったが、頭や鼻や手に傷を負う者が出た。剣をはぎ取られた公爵は台所へ駆け込み、包丁を探しだしたので、召使たちはその後を追って殺傷能力のあるあらゆる道具を隠した。武器が見つからないことを悟った公爵は一人食卓に腰を下ろし、台所に準備されていたスープと牛の骨付き肉を平らげたという。ここでようやく警察が到着し、公爵とボーマルシェの乱痴気騒ぎは終わりを迎えた。この晩、ボーマルシェは包帯を体に巻き付けて、サロンに出向き、『セビリアの理髪師』の朗読やハープ演奏を行ったという。当然、この騒ぎを裁く法廷が開かれた。貴族間の争いを裁く軍司令官法廷は、公爵とボーマルシェの邸宅に警備兵を置いて監視させ、両者を尋問した。この法廷とは別に、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵はボーマルシェに数日間パリを離れるように命令を出したが、ショーヌ公爵の怒りを恐れて逃げ出したと受け取られることを心外であると考え、この命令に従わなかった。結局、ショーヌ公爵の非を認め、ボーマルシェの行為を正当防衛と認める裁定が下され、公爵は王の封印状によって2月19日、ヴァンセンヌ牢獄にぶち込まれた。ところが、宮内大臣はこの裁定に不満があったらしい。ショーヌ公爵は先述したように、血筋の抜群に良い大貴族であった。その大貴族が牢獄に放り込まれているのに、貴族とはいえ平民出身の成り上がりが自由の身に置かれていることを問題視したのかもしれない。大臣は職務上、王の封印状を手に入れるのは容易であったから、それを手に入れて、2月24日にボーマルシェを牢獄にぶち込んだのであった。この2人は、5月上旬に揃って出獄を許された。たとえ3か月程度とはいえ牢獄に放り込まれて充分懲りたのか、メナール嬢への恋心がずいぶん薄まったのか、いずれにせよ出獄後に楽しく食卓を囲み、和解したという。乱痴気騒ぎの原因となったメナール嬢は、公爵の暴力から逃げ出すために、聖職者や警察長官の助けを得て修道院へ駆けこんだが、その厳しい生活に2週間と耐えられなかったようだ。ちょうど公爵が牢獄にぶち込まれたことをこの頃に知ったようで、もう暴力に脅える必要なしと判断したのかもしれない。ボーマルシェはメナール嬢が修道院から抜け出したことを牢獄内で知り、手紙で修道院へ戻るように勧めているが、彼女はこれに従わなかった。2月24日に牢獄に入れられてから、彼の関心はラ・ブラシュ伯爵との裁判にあった。伯爵がこれを絶好の機会ととらえ、高等法院の判事たちに自分の味方となるように働きかけを強めるに決まっていると考えたのであろう。早速、警察長官のサルティーヌに「進行中の裁判があるから、一刻も早く牢獄から出してくれるよう」手紙を書き、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵へ執り成しを頼んだが、無碍に断られてしまった。彼はこのような仕打ちに怒りを見せたようだが、宮内大臣が首を縦に振らない以上どうしようもなかった。3月20日、ある匿名の手紙が彼のもとへ届けられた。内容から察するに、ボーマルシェに好意的な人物の手によるものであろう。その手紙には「あなたがいくら権利を奪われたとして正義の裁きを求めても、宮内大臣の姿勢は変わらない。絶対王政下にあっては、権力者に赦しを請い、卑下した態度を示すことこそ肝要である」と認められていた。この手紙の意見を素直に聞き入れたようで、翌日の21日に宮内大臣へ彼が送った手紙には、匿名の手紙に書かれていた通りの態度が示されている。大臣はこの手紙を受け取り、ボーマルシェは充分懲りていると判断したのか、厳しい条件付きではあるが外出許可を与えた。早速判事たちに面会を求めてパリを歩き回ったボーマルシェであったが、思い通りの成果を挙げることはできなかった。デュヴェルネーと証書を交わした、ちょうど3年後の1773年4月1日、高等法院の報告判事としてルイ=ヴァランタン・グズマン(ゴズマン、ゴエズマンとも)が任命された。当時の高等法院においては、この報告判事の下した結論に基づいて判決が決定されるのが一般的であったから、賄賂は厳禁であったが、事前に判事にあって懐柔しておくのが一般的であった。ボーマルシェも早速グズマンに会って自身の正当性を主張しようとしたが、会うことすらできなかった。ラ・ブラシュ伯爵の判事への工作が相当に浸透していたのかもしれないが、これにはグズマンという男自体の考えも絡んでいた可能性がある。この男は、遺されている資料から判断するに、融通の利かない性格で、容姿も醜い男であったという。顔面神経痛という持病がそれに拍車をかけており、その対照的な存在であるボーマルシェに個人的な恨みを抱いていたのかもしれない。ボーマルシェは何度もグズマンに会いに行ったが、一度も面会を果たせないままであった。彼は途方に暮れ、妹の家での会合において不安を口にした。その際、そこに居合わせた知人ベルトラン・デロールから「本屋のルジェに頼んではどうか」との提案を受けた。ルジェはグズマンの著書の販売を手掛けており、グズマン夫妻と親しい間柄であったからだ。実際、ルジェを通してのグズマン夫人への面会申し込みは有効であった。厚かましくも彼女は、面会の条件として100ルイ(現在の日本円にしておよそ45000~110000円程度)を要求してきたが、必死になっていたボーマルシェはその要求を呑むことにした。こうしてボーマルシェはグズマン判事への面会を果たした。判事は「一通りの書類を検討した」と彼に述べたが、やはりこの男はボーマルシェに好意的でなく、筋の通らない論法や、傲岸不遜な態度、軽蔑的な口調を隠そうともしなかった。ボーマルシェは彼を論破するべく、判事への反論を文書化して再度面会を求めたが、またも夫人は贈り物を要求してきた。この際にはダイヤモンドを散りばめた時計と15ルイが贈られたが、この時にこれらの贈り物を要求したという事実が、グズマン判事夫妻の身を破滅させることになるのであった。要求の品物を与え、面会の約束を取り付けたにもかかわらず、ボーマルシェはグズマン判事邸で門前払いを食らってしまった。約束の不履行を抗議するなどして、なんとか面会しようとしたが、結局果たせないままに判決を迎えた。1773年4月6日、高等法院での判決が下った。ボーマルシェの敗訴がこれで決定し、グズマン夫人は約束不履行のために、15ルイ以外の贈り物をすべて返却した。この敗訴は、ボーマルシェを相当に追い詰めた。彼は恩人を裏切って証書を偽造したペテン師ということになり、裁判所からは法定費用を含めておよそ6万リーヴルの罰金を科せられた。勝訴した伯爵によって財産と収入は差し押さえられ、そのあおりを受けて家族は家を追い出されて路頭に迷っていた。しかも、ボーマルシェは外出許可があったとはいえ、いまだ牢獄につながれている囚人のままであった。判決直後は絶望に打ちひしがれていたボーマルシェであったが、やがて立ち直り、四面楚歌の状況を打開しようともがき始めた。なぜグズマン夫人が15ルイだけ返還しなかったのか、ボーマルシェはその点が気になっていた。15ルイは書記に与えるためとして要求された金であったが、自身でも以前、友人を介して書記に10ルイを渡そうとしており、中々彼が受け取ろうとしなかったことを知っていたからだ。10ルイでさえ受け取るのに渋るような男が、それに追加して15ルイを受け取ることなどあるだろうか?このように考えたボーマルシェは、早速手紙を認めて返還要請を行うが、夫人からは「書記に与えるために要求した金額であるから、返還の必要はない」との返答があった。この返答を受けて書記に確認した結果、15ルイは書記に渡っていないことが発覚した。こうしてグズマン夫人の私利私欲から出た行為が明らかとなったわけだが、初めからこの点を利用して反撃しようと考えていたわけではなかったらしい。15ルイといえば精々現在の日本円にしてもおよそ5、6000円程度の少額であり、夫人はそれよりはるかに高額なダイヤモンドを散りばめた時計などをしっかり返還しているのも事実なのであって、この程度の金額に執着するはずもないと考えていたようだ。この件に関して、どのように対処すべきか本屋のルジェに手紙を宛てているが、彼は無礼なことに返事をよこさなかった。それまでボーマルシェは「15ルイ程度の額なら諦めても良いし、ルジェの顔を立てた対応をしても良い」と考えていたようだが、この一件で態度を一変させ、徹底的にこの件を利用することにした。1773年5月8日、ボーマルシェはついに釈放された。いざ自由を手に入れると、彼はパリのサロンを巡り歩いて、自身が体験したグズ

出典:wikipedia

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