競輪(けいりん)とは、自転車競技法という特別法に基き指定された自治体が自転車競走を開催、この結果を賭けの対象としてパリミュチュエル方式により勝者投票券(車券)を販売する公営競技の一つであり、日本(北九州市)を発祥の地とするギャンブルである。主催者は地方自治体である。監督官庁は経済産業省(製造産業局車両室)で、運営統括は財団法人JKA。運営を補佐する団体として全国競輪施行者協議会、日本競輪選手会がある。地方自治体は所管省庁の経済産業省へ競走の開催を届け出、競輪選手と呼ばれるプロの選手達と「競輪場」と呼ばれる自転車競技場における競走出場に関する契約を交わす。番組編成、選手管理、審判など、実際の自転車競走の運営については競輪場の存在する各地域のJKA競輪競技実施事業本部(旧・日本自転車競技会)の支部へ委託している。審判の方法など、受け持つ支部によって運営手法に違いがある。競輪選手の登録・斡旋、育成については中央団体である公益財団法人JKAが行ない、2014年4月からは審判および番組編成・選手管理・検車の4つの業務もJKAが管掌している(経済産業省はJKAを通して競輪選手、競技会、施行者などの監督指導を行う) 。投票券(車券)の売り上げ金のうち75%は払戻金に充て、残り25%から一定額を選手賞金などの経費やJKAへの交付金(約3.3%)、公営企業金融公庫への納付金(約1.1%)を差し引いた額が純益として地方自治体の歳費となる。競輪の収益金は、監督するJKAに納付される売上を元に各種の補助事業が行われ社会に還元されただけでなく、主催者として運営する自治体に多額の収入をもたらしたことで自治体財政を健全化し、戦災復興や公共施設の建設などに貢献することになった。収益金の使途として最も多かったのは主として土木事業費であるが、競輪のイメージ向上への期待も込めて、教育、福祉関連事業にも多くの費用が投入された。通産官僚の佐橋滋らによる発案で、当時資金調達が困難だった国産トランジスタ計算機の研究開発に競輪収益をあてたエピソードもある。日本のプロスポーツでは選手数が最も多い競技とされ、およそ3,300人(2011年10月16日現在で3,284人)より構成される。また初期に女性選手による「女子競輪」が1964年(昭和39年)まで開催されており、2012年(平成24年)7月1日から「ガールズケイリン」として復活した。創設以来、日本独自のものであったが、現在は日本側による技術指導の下、韓国で独自の施行者が国内3つの競輪場で開催している。競輪選手は、日本競輪学校において1年間研修を受けて競輪に関する知識と技能を習得し、競輪選手資格検定に合格して同校を卒業し、選手登録された者である。選手の権利を守る団体として日本競輪選手会があり、各選手は各都道府県にある日本競輪選手会の支部に所属している。競輪学校の入学試験には一般試験と特別選抜試験があり、後者は各種スポーツ競技における成績優秀者を対象としている。特別選抜試験の受験資格は非常に厳しく、ほとんどの受験生は一般試験を受験する。一般試験には「自転車の競技経験者が対象で自転車の走力を測る」技能試験と「自転車の競技経験がない者が対象で運動能力を測る」適性試験があり、いずれについても1次試験と2次試験が課される。合格率は一般試験の技能試験が7ないし10倍、一般試験の適性試験が10ないし20倍である。受験1回目での合格率は約3割で、合格者の多くは複数回の受験を経験している。入学希望者は自転車競技愛好会や高校・大学の自転車部に所属して練習を積むケースが多い。デビュー直後はA級3班に所属し、その後はS級戦(S級S・1・ 2班戦)・A級1・2班戦・A級チャレンジ戦(A級3班戦)に分けられた3クラス戦制の中で、2級6班制による半年毎の格付け入れ替えを経て、最上位のS級S班(2012年より9名)を目指す体系となっている。南関東公営競馬の予想屋で競輪ファンでもある佐々木洋祐は、最上位クラスの選手と最下級クラスの選手との実力差は、一緒に走ればほぼ100%最上位クラスの選手が勝つといえるほど絶対的なものであると述べている。成績の振るわない選手は選手登録を抹消されることもある。選手の所属する級および班は、競走得点および評価点に基づいて決められる。まず競走成績に応じて競走得点が算出される。競走得点は着順が良いほど、また格の高いレースほど高く設定されている。さらに競走得点をもとに評価点が計算され、それをもとに選手の所属する級および班が決められる。ちなみに、選手のランクはレーサーパンツの下地とラインの色から判断することができ、A級は黒地に緑のライン、S級は黒地に赤のライン、S級S班は赤地に黒のラインとなっている。選手は月に2つないし3つの開催に出場する。出場レース数に換算すると、平均して月に6ないし9レースである。出場は、JKAのあっせんに対し選手が意思表示を行うことによって決められる。出場が決まった選手は開催前日、指定時間までに競輪場へ入らなければならず。競輪場に到着した選手は参加登録および健康診断を受け、さらに分解してバッグに入れて持ち込んだ自転車を組み立てて検査を受ける。検査に合格した選手は3日ないし4日間宿舎(主に4人部屋)に滞在し、外部との連絡を絶つ。開催当日は午前中に再度自転車の検査を受けた後で練習を行い、レースに備える。レースへの出場がないとき、多くの競輪選手は練習漬けの日々を過ごすといわれている。競輪選手にはシーズンオフがない。そのためレースへの出場が続き、したがって練習のできない期間が長くなった選手は脚力に衰えが出る(「貯金がなくなる」と表現する)ようになる。各選手の過去の出場履歴は車券予想におけるファクターの一つである。選手の収入源は賞金や出走手当で、実力下位であっても一般的なサラリーマンよりも高額の収入を得ているといわれている。中野浩一『競輪選手になるには』(ぺりかん社、2004年)によると、成績に関係なく支給される出走手当は1開催3ないし4つのレースに出場するだけで20万円近くになり、年間30開催に出場するだけで500万ないし600万円を手にすることができる。また、賞金はAクラスの一般戦の優勝賞金が6ないし8万円、GII以上のレースになると優勝賞金は1000万円を超え、最もランクの低いA級3班でも平均して800万円弱の年収を手にすることができる。2016年時点では6つあるGI競走(グレード制が制定される以前は特別競輪)を全て制覇すれば、「グランドスラム(グランドスラマー)」と称される。現時点では、日本選手権、高松宮記念杯、寛仁親王牌、全日本選抜、オールスター、競輪祭の6つ全てを優勝することが条件である(KEIRINグランプリはGI競走ではないため含まれない)。かの中野浩一は特別競輪(現在のGI競走)タイトルを11個も獲得したが、高松宮記念(現在の高松宮記念杯)だけは優勝できずグランドスラムは達成できなかった。過去に達成したのは僅か3人。但し、井上と滝澤は共に寛仁親王牌がGI競走となる前の出来事であるため、現在でもそのままグランドスラムとして扱われている。ちなみに滝澤はGII競走であった時代に寛仁親王牌を制覇したことがある。また、2016年時点で現役選手の中で最もグランドスラムに近いのは山崎芳仁で、日本選手権を除いて全て制覇している。山崎に次ぐのは武田豊樹で、残り2つ(全日本選抜、寛仁親王牌)である。なお、昭和期の女子競輪では、田中和子が1955年にグランドスラムを達成しており、また女子では唯一の全冠制覇選手であった。ガールズケイリンの名称で行われている平成期の女子競輪では、小林優香が2015年に特別レース(ガールズグランプリ、ガールズケイリンコレクションの3レース、ガールズケイリンフェスティバル)完全制覇を達成した。競輪で用いられる自転車は「ピスト(レーサー)」と通称される、規格に基づいた専用仕様の一人乗りの競技用自転車であり、競輪の関係法令においては『競走車』(単式競走車)と呼称される。この自転車はNJS規格(Nihon Jitensha Shinkoukaiの略。現在のJKAに改称後もこの呼称が継続している)に適合する部品により製作されることが義務づけられており、なおかつ組み立て後の車体検査に合格しなければレースに使用することができない。競輪用の自転車は、ここ十数年ほど、ほとんど規格や素材が変更される事のないまま現在まで用いられている。おおむね半世紀前のピストレーサーも同然といって良く、現在他のトラックレースで用いられるピスト競技用車とは大きな性能差がある。これは公営競技としての公正さが念頭にあることが大きいが、他にも規格緩和による部品代高騰の抑制、横方向への移動における操縦安定性の維持、落車事故時における衝撃吸収性、車両性能の向上に伴う過度の高速化による重大事故発生の防止など様々な要因が絡んでいる。なお部品によってはタイヤ(SOYO=ダイワボウプログレス)やリム(新家工業)など製造数や品質などの観点から事実上のワンメイクとなっているものもある。フレームだけで10数万円以上の製作費が必要となるが、その他の部品は規則上の自転車における制限が存在するため、車体総額で50万円を超える事は稀である。なお2012年7月から開催されているガールズケイリン(女子競輪)および2014年1月から開催されている KEIRIN EVOLUTION においてはカーボンフレームにスポーク以外のホイールが使用されており、他のトラック競技で使われている車両の仕様に近いものとなっている。ちなみに競輪草創期には実用車や軽快車、タンデム式(複式競走車)の自転車でも競走が行われていた。ハンドル・サドル・クランク・ペダル・ギア・チェーンなどの部品は、規格に基づいて製作されたもの中から選択して使用する。サドルは、一般の自転車と比べ細くて堅い。サドルを支える心棒(シートポスト)は、設定する高さが1,2mm違うだけでペダルを踏み込む際のバランスが変わるとされる。サドルを高くすると加速しやすくなる半面、横から力がかかった際にバランスを崩しやすくなり、落車の危険が増す。ハンドルは、乗る選手の体型や脚質によって幅や湾曲、材質が異なる。フレームとハンドルの固定部分(ハンドルポスト)は、身長や腕が長い選手ほど長く設定する傾向にある。ペダルはクリップ・アンド・ストラップモデル。選手が履く専用シューズの底には「サン」(桟)と呼ばれる溝の入った金属プレートが釘で打ちつけられており、このサンにペダルプレートを噛み合わせ、さらに靴の爪先をトウクリップで固定、足(脚ではない)をストラップベルトでペダルに縛り付ける。これにより、ペダルを踏み込む力だけでなく引き上げる力も加速に利用することができる。1980年代に登場しロードレースやトラックレースでお馴染みのビンディングペダルにNJS基準適合品はない。“位置につく”と足を着くことは出来なくなるので、スタートラインには号砲で飛び出すとロックが外れそのまま走り出せる専用のスタンドがあり、これに自転車をセットしてから乗る。車輪は直径が27インチと決められており、金属スポークおよびリムにより構成され、タイヤは外径675mmのチューブラー(チューブ一体型)タイヤを使用するが、コースコンディションや脚質による選択は出来ない。車体となるフレームはクロムモリブデン鋼のパイプ(鋼管)を素材とした「クロモリフレーム」と呼ばれるもので、使用者の体格に合わせて完全オーダーメイドで製作されたものである。フレームのうち、サドルを支える心棒(タテパイプ)の角度は乗る選手の脚質によって異なり、具体的には先行選手は後ろに重心をかけて乗る傾向にあるためタテパイプの角度も後ろに寝ている。捲りの選手はチェーンの長さを短くし、踏み込む力が伝わりやすいようタテパイプの角度を立たせている。競輪選手は、前輪軸と後輪軸を結んだ線よりもクランク軸がどの程度下げるか(ハンガー下がり)に気を神経をとがらせる。ハンガー下がりが大きいと安定感が増す反面、力の伝わりが悪くなるためペダルの踏み込みが重く感じられるようになり、小さいと踏み込みを軽く感じるようになる。ギアは空回りのない固定ギアで、クランク側と後輪ハブ側のスプロケットの歯数を選手が自分で判断し交換する(下記に詳細)。ブレーキは装着しておらず、減速したい時にはギアが空回りしないことを利用して後ろへペダルを踏む(「バックを踏む」という)。ファンの車券作戦においてポイントとして結びつく重要なルールの一つに「ギヤ倍数」がある。ギヤ倍数とは、自転車についている前後2枚のギア(スプロケット)のうち、ペダルについているギヤ(大ギヤ)の歯車の数と後輪のギヤ(小ギヤ)の比率をいい、「大ギヤの歯車の数を小ギヤの歯車の数で割ること」で求めることができる。各選手はレース前にギヤ倍数を申告し、数値は出走表に記載される。出走表掲載後に急遽変更する場合もあり、その際は場内で告知される。大ギヤの歯車の数は44から55、小ギヤの歯車の数は12から16と決められており、かつては最大倍数の4.58まで使用できていたが、2015年の開催からは男子は4.00未満(実質最大3.93)・女子は3.80未満(実質最大3.79)という規制も加えられ、その制限のもとでギヤ倍数が決められる。従来の競輪における一般的なギヤ倍数は3.5ないし3.6で。ギヤ倍数が低いほど漕ぐ力が軽くなりダッシュ力に優れる。その逆では当然重くなることからダッシュ力は弱いがスピードに乗れば速くなり、高速を維持しやすくもなる。一般の自転車のギヤ倍数は2倍強であるが、競輪で使用する自転車の場合は3倍強から4倍弱である。ギヤ倍数が大きいとペダル1回転で進む距離が長い反面加速にしにくく、小さいと加速はしやすいがペダル1回転で進む距離が短い。「先行選手がギヤ倍数を普段より落とせば先行・逃げ切り狙い」「先行選手がギヤ倍数を上げれば捲り狙い」などが読み取れる。なお近年は周回中における先頭誘導員(後述)の誘導スピードが速くなったっことによる体力の消耗防止や、勝負どころにおいてトップスピードで走れる距離を伸ばすため「大ギヤ」を選択する選手が近年は増えており、かつて脚力が衰えたベテラン選手が先行選手についていくためにギヤ倍数を上げるのとは異なる傾向にあるため、個々の選手の「ギヤ倍数」には注意を払う必要がある。なお2015年の開催より使用できるギヤ比の最大比率が制限されたのは、従前から重いギヤ比では、前方の選手の急減速に対応・反応しづらく、バランスを崩して落車に至ることが起きやすいという指摘があり、実際の事故件数そのものは増加していなかったが、「速度の増加による事故の重大化」と「レースの単調化」を理由として実施されている。競輪が行われる競走路(バンク)は、コンクリートまたはアスファルトで舗装され、形状はすり鉢状である。コーナー部分はおよそ30度、直線が2ないし4度内側に傾斜している。この傾斜をカントといい、カントの傾斜はコーナー部分をバンクに対し垂直に立った状態で左右にヨレることなく走るには、時速60キロで走らなければならないように設定されている(時速60キロよりも速いと外側に、遅いと内側にヨレてしまう)。なお、コーナーだけでなく直線部分も内側に傾斜しているのが一般的である。直線部分のうち、ゴール側をホームストレッチ、ゴールと反対側をバックストレッチという。残り半周となった時のバックストレッチを最終バックという。1周の長さは、以下のように3種類ある(多くの競輪場が400mを採用)。競走距離は1,500mから3,000mで、競走格や周長により異なる。距離は2,000mが基本となっており、A級チャレンジ戦は1,600mが基本で、グレードレース開催の決勝やKEIRINグランプリでは2,400m以上走ることもある。競技規則上の25mを端数算入する競輪場もあれば、ゴール線からスタートするために端数が出ないところもある。バンクには様々なラインが引かれており、基本的に幅は3cmだが、判定の基準位置はラインごとに異なる。なおバンク上には表示されていないが、内圏線内側から30cmかつ外帯線内側から40cmの位置が「測定線」となっており、一周の周長はこれが基準となっている。バンクを走る選手を取り巻く環境は、立地条件の影響を受ける。たとえば海沿いにある競輪場(富山、四日市、玉野、別府、佐世保)では海風の影響が大きい。また、ドーム式の前橋と小倉では、観客が増えるに従って場内の温度が上昇し、バンクが乾燥する。競輪場の他にも全ての都道府県には、自転車競技が行われる国体が開催された関係から、競輪場を含め1ヶ所以上の自転車競技用バンクが設営されており、競輪場がない県でも選手の本拠所属地にする事ができる。なお沖縄県を本拠所属地にしている選手もいるが、島根県が本拠所属地の選手は菅井孝治(60期)が2002年10月31日に引退したのを最後に存在しない。また、齋尾大丈夫(69期)が2014年1月14日に引退したことで、鳥取県が本拠所属地の選手もいなくなった。バンクと呼ばれる擂鉢状のコースを周回し、ゴール前半周のタイムは計測されているもののタイムトライアルではなく、いかに早くゴールするかがポイントとなる。ただレース毎に、定められた時間以内にゴールしなければならないという「規定時間」(スタートから1周目のゴール地点までのタイムで計測)があり、これを超過すると「タイムオーバー」となり賞金が減額させられる(基本的に半額)。競技中、自転車の速度は時速60km前後、ゴール前では約70kmに達し、自転車は大きな風圧の抵抗を受けることから、選手は2人 - 4人で連携(ラインと呼ばれる)して戦う方が有利であり、その場合には、各ラインの先頭の選手が風圧を受ける代わりに、その後ろについた選手は、他のラインに追い抜かせないように抵抗するという役割分担を行う。そのため、競技は当然個人戦であるが、団体競技的な側面も併せ持ち、推理に複雑さと面白さを加えている。スタート前には選手紹介が行われる。この時すでにレースは始まっているともいわれ、各選手はラインや戦法について意思表示をし、バンクを軽く2、3周する。スタート紹介は、「地乗り」「脚みせ」とも呼ばれる。レース序盤は先頭誘導員を先頭に、全選手が一列(一列棒状)の隊列を組んで走るのが一般的である。その原因としては、隊列を外れると他の選手よりも外を走り、したがってより長い距離を走らなければならなくなること、他の選手の直後を走る場合よりも大きな風圧を受けることが挙げられる。ただし、位置取りを巡って争いが生じた場合は別である。残りの周回数が3周になると、周回数を示す板が白色から青色の青板(あおばん)に変わり、さらに残り2周で赤色の赤板(あかばん)に変わる。先頭の選手が残り1周半を通過すると半鐘が打ち鳴らされる。これを「ジャン」といい、ゴールラインを通過して残り1周となるまで鳴らされ続ける。ここから誘導員が抜けてラストスパートがかかり、ゴールまで息詰まるデッドヒートが展開される。各車が込み合うような展開の場合には、時として接触・落車事故が発生することがある。レース終了後は、各選手に対して、敢闘門に同県や同地区の(そのレースに出ていない)選手が自転車を取りに来てくれる風習がある。また、どのレースでも、勝利した選手が他の選手にポカリスエット(かつてはリポビタンDも)を配るのが慣わしとなっている。"※以下の記述は男子についてのものであり、女子については男子とは異なる(女子のルールの詳細はこちらを参照のこと)。"通常は最大9名により行なわれるが、ミッドナイト競輪とA級チャレンジ戦は7名で行われ、最小は5名 。なお、かつて後楽園競輪場などでは最大12名でのレースも行われていた。9車立の場合、4番5番・6番7番・8番9番は同一枠として単枠の1番・2番・3番をあわせて6枠を構成するため、慣習的に4番・6番・8番には格下、つまり競走成績の低い者がおかれる(例外もある)。中でも6番車は最も格下の選手があてがわれるが、これら4番・6番・8番の選手が入着した場合は高配当が出ることが多く、競輪ファンはこれをもじって「ヨーロッパ」と呼ぶ。負傷や失格による翌日の欠場者が発生した場合、開催地の近県の選手(FI開催のS級戦では2班選手のみ)を中心に補充が行われる。GIでは事前に選定された補欠選手数名が、ホテルで待機する。レーサージャージと基本的には同じ。違いはバックポケットがなく、長袖のみ、またジャージと同じ色のヘルメットカバーを着用すること。またレーサーパンツの両脇に入る線も、級毎に色が異なる。2002年4月に服色が改められ、全車が「単色」となった(※従来通り先頭誘導員は紺地にオレンジのラインの服で変更なし)。2代前(1964年から1984年)の服は1番から5番までは今の色と同じだが、6番は'と黒を交えたもの7番は'と'を交えたもの8番は'と'を交えたもの9番は'とを交えたものとなっている。1つ前(1984年から2002年)の服が導入される直前の1984年9月・オールスター競輪では、5番が'と'、7番が'と'、つまり差し色として赤を統一したが、その色使いは変更時に採用されなかった(他の番車の色はそのまま採用)。あわせて従来の五分程度の半袖から、長袖に変わった。なお、過去の12車立では10番黒・11番黒・12番黒だった。旧服は枠番の確認を容易にするため4枠4番から6枠9番までは枠番色を基調として奇数車に別の色を交えており、現行服は車番連勝車券が一般化したことから全車別色となっている。2005年1月には武田豊樹がラ・ピスタ新橋と契約し、公営競技初となる個人スポンサー名入りユニフォーム(左肩)を着用。他の選手も追随した。レーサーパンツは、横のライン上に7つの星が描かれている。その年のS級S班は黒いラインの赤いパンツを着用。他のS級選手は赤いライン、A級は緑のラインでどちらも黒いパンツ。また、ガールズケイリンは右が黄色・左が紫のラインで、ピンクを基調としたパンツ。2012年のガールズケイリン開始により、従来のルールが男子向けの「先頭固定競走(オリジナル)」となり、新たに女子向けとして「先頭固定競走(インターナショナル)」のルールも設定された。ここでは従来からのオリジナルルールを中心に記述する。現在行われている競走は先頭固定競走と呼ばれ、スタートから残り1周半付近(ジャンが鳴る地点)までは選手と同じ型の自転車に乗った先頭誘導員が選手の前を走る(33バンクで残り2周半、それ以外のバンクでは残り2周を切るまで選手は先頭誘導員より前に出ることができない)。これは、先頭を走ると風圧の影響を受ける上、後続の選手の動向を把握しにくくなることに配慮した制度である。誘導員はレースに出走する選手と区別するため、紺地に橙色のラインの入ったユニフォームとトランシーバーのスピーカーが付いたヘルメットカバーを着用する。また、誘導員のスタート位置は選手よりも25m前である。この誘導員の誘導ペースは競走形態に大きく影響を与える。90年代はスローペースだったため、イン切り合戦になったり、スプリント競走のように超スローペースになることが多かった。しかし2000年代にルールが改正され、誘導ペースが高速化し、早期に誘導員を追い抜くことができなくなった。すると一本調子の高速レースに強い大ギアが力を発揮するようになったため、トップクラスの選手の多くが大ギアとなった。ただ上述の通り、2015年よりギア倍数は4未満へと規制されている。誘導員となるには、誘導員試験に合格し、誘導員資格を得る必要がある。競輪選手であること、かつ誘導員試験において2,000mタイムトライアルを2分55秒以内で走破すること(選手なら必ず走破できる設定)が条件である。誘導員は大抵、そのレースが開催されている競輪場をホームバンクとし(東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、愛知、福岡といった同都県内に複数の競輪場がある地区の選手の場合、ホームバンク以外の競輪場でも誘導を行う場合がある)、当日競走に出走しない地元の選手(宮城や石川など競輪場のない県の選手が隣接県の競輪場で誘導を行う場合もある)が行う。誘導員にも競走に応じて手当が支給されるので、収入が少ない成績下位の選手が比較的多く務める。特別競輪で優勝歴のある成績上位の選手が誘導員を務める例は極めて少ないが、地元での記念競輪 (GIII)の決勝戦などでファンサービスを兼ねて務める例がある。誘導員は車券の対象とはならないが、その脚質が車券を購入する上で推理の一因となることもある。かつて特別競輪や記念競輪で行われていた3000mを超える長距離戦に値するレースでは、2人の誘導員が誘導していた。その場合、最初の誘導員はジャンが鳴る前の周回でコースを出るが、もう1人の誘導員は、ジャンが鳴り終わる頃まで誘導して、その後コースから去っていた。なお2014年1月より 『KEIRIN EVOLUTION』 として男子による「先頭固定競走インターナショナル」ルールの競走も実施されているが、インターナショナルのルールについてはガールズケイリンを参照のこと。かつては誘導員のない競走(普通競走)もあったが、車番連勝式車券が発売される競走では行われないようになり、事実上の廃止となっている。普通競走では誘導員の役割を選手が行なっており、これを「トップ引き」と呼ぶ。ルール上はどの選手がトップを引いてもかまわないことになっているが、やがてトップ引きを行う選手は、競輪の枠式車券で2人枠となる場合に最下位に当たる位置づけとなる事が最も多い6番車の選手が行うことが慣例となった。車番連勝式車券が発売される直前の頃には「先頭固定競走」として行う予定の競走でもレース番組の確定直前に選手からトップ引きを行う旨の申告があった場合は「普通競走」に変更された。これは何らかの理由で明らかに格上の競走に出走することになった力の劣る選手、あるいは引退間際の選手などが事前に申告するもので、この場合該当選手の車番は最も勝ち目が薄くなるため、申し出た選手の車番は慣例に倣って6番車に変更される。普通競走でトップ引きを行った選手には正規の入着賞金のほかに先頭手当も支給され、雨敢闘手当なども他の選手同様に支給される。なお上述の「タイムオーバー」は、元々トップ引きの選手が極端にペースを落とすことを避けるための規定であったが、この規定は現在の先頭固定競走でもスタート時のスロー牽制を防止するため適用されている。先頭固定競走の誘導員は車券の対象とはならないが、この普通競走では6番車のユニフォームを着た選手が誘導員代わりであるため、車券の対象となることが違いとなる。当日の出走表などで普通競走に変更された旨の告知がされているため混乱はなく、投票者にも暗黙の了解であったが、同じ5枠の7番車との車券である、枠番連勝式(枠連)5-5の車券は発売されていた。これに対し、普通競走において仮に5枠以外の選手全員が落車棄権してしまえば枠連5-5が的中車券となるため、以前から「おかしい」という声はあがっており、実際に1973年4月9日の千葉競輪場第7競走において、9人中、5枠両名以外の全7人が落車したため2,363,180円という配当が出た(これは当時全ての公営競技において最高記録)。これは永らく破られず、現在でも枠番連勝式としては全公営競技史上最高となっている。1995年9月から車番連勝式勝者投票券が発売された後も暫くは普通競走が行われていたものの、トップ引きの6番車が絡んだオッズに混乱をきたしたことから、同年12月に車番連勝式を発売するレースは先頭固定競走とすると明記された。またトップ引きが公正な競走でないという問題については過去に裁判も行なわれており、「トップ引き自体が競輪の観客における公知の事実」という判断がなされている。従来からの普通競走と先頭固定競走(オリジナル)に対するルール違反は、主なものが以下のように定められており、違反により落車および自転車故障の原因となった場合、または違反行為そのものにより、失格となる場合がある。ただし競技規則には違反を問わないケースも明記されている。前述のように競輪はあくまで個人が他人より先着するために競走をするのが基本であるが、その競走をより有利に進めるために関係の深い選手同士で連携をする。連携は各選手の脚質による戦法で決まる。その戦法の主なものを次に述べる。ちなみに、先行・追い込み・捲りの戦法を使いこなせることを「自在」という。競輪は残り1周半程度までは1本のラインを作って進む。その時は関係の深い者同士で並びの前後を決めるのであるが、その際に一番前を走る戦法の選手が先行選手である。決まり手は「逃げ」あるいは「逃」と表される。先行選手は残り1周半程度から後ろの選手を引き連れてダッシュをする。つまり先頭誘導員が下がって選手達のスピードが上がってから一番前を走っているのが先行選手と言ってよい。一番前を走るので誰にも邪魔されずゴールに先着する可能性は一番高いが、反面時速70km程度の速度で走るので猛烈な風圧を受けながら走らねばならない。風圧を受けつつ1周ほどスピードを維持する脚力(地脚)が要求されるため、並びの中で最も若い選手がなることが多い。疲労で速度が鈍った、いわゆるタレたときには追い込み選手がいかに残してくれるかによって良い着順を取ることが出来る。後ろに追込選手を引き連れて走るため先行選手を「機関車」と呼ぶこともある。直線の短いバンクでは、追い込み選手がスパートする距離が短くなることから先行が有利となる。また、コーナーの大きいバンクはカントが緩く、捲りをかけた選手が遠心力で外に振られやすくなるため、先行が有利となる。最終バックに差しかかった時に風向きが追い風だと、先行選手は捲りの選手よりも先に風の影響で加速がついて捲りに対応する余裕が生まれ、有利になりやすい。逆に最終バックが向かい風だと、捲りの選手よりも先に風の影響を受けて減速することになり、その瞬間に加速されると距離を縮められやすくなる。ちなみに、風のないドーム式の競輪場では先行が有利といわれる。これは、捲りの選手が隊列から外れた際に大きな風圧を受ける傾向があるためである。屋根のないバンクに雨が降ると先行有利になるといわれる。これは競輪用の自転車には跳ね除けがなく、水を跳ね上げて走ることになることから、各選手は水が目に入ることを嫌い他の選手の直後に位置しなかったり顔を背けて走ったりするためである。前者は先行以外の選手も先行選手と同様の風圧を受けることを意味し、後者はレース展開を把握しづらくなることに繋がる。さらに一瞬の加速力を要する捲りや追い込みは先行よりもハイドロプレーニング現象による不利に見舞われやすく、その分先行が有利になる傾向にある。競輪では先行する選手がレースを作るといわれ、先行選手の人数がラインの形成に影響を及ぼす。たとえば2車先行の場合はラインが二分し、3車先行の場合はラインが三分する。先行選手の後ろを走る戦法の選手を追い込み選手、あるいはマーク屋、差し屋といい、決まり手は「差」と表される。数十メートルであればトップスピードを維持できるという対応の選手に向いた戦法である。風圧を前の先行選手が受けてくれ、スリップストリームを作ってくれる中で走ることが出来るため楽にゴール前まで進むことが出来るが、先行選手をぎりぎりまで「残す」ために後ろから来る選手をブロックしなければならない。その後先行選手に先着するのが正しい追い込みの仕方で、早々と別のラインに切り替える、直線の手前でまだ脚のある先行選手を抜いていくなどの走法は邪道といわれる。先行選手やまくりの選手は「縦の競走」追い込み選手は「横の競走」をすると言われる。先行選手のすぐ後ろを走っている選手を番手、その後ろは三番手・四番手……と呼ぶ。先行選手は先にダッシュを仕掛けるが、先行するラインを後ろから追いかけて短い距離で一気に抜き去る戦法を捲りという。1周以上スピードを維持するのは無理だが200m程度であればトップスピードで走ることができるタイプの選手向きの戦法である。捲りを主戦法にする選手もいるが、先行選手が後手を踏んで捲りになったり、あえて力関係で捲りを選んだりすることもある。先行選手以上のダッシュ力は必要となり、かつ先行ラインを抜く時にそのラインの選手のブロックには耐えなければならない。もちろん捲り選手の後ろにも追い込み選手が続いている。最終バックに差しかかった時に風向きが向い風だと、先行選手が先に風の影響を受けて減速することになり、その瞬間に加速することで距離を縮めやすくなる。逆に追い風だと、先行選手のほうが先に風の影響で加速がつき、余裕を与えやすくなる。コーナーの大きいバンクはカントが緩く、遠心力で外に振られやすくなるため、捲りにくい。また、直線部分の内側への傾斜が緩いと、向こう正面から捲りをかける選手はコーナーに差し掛かった時に急に上るような感覚に襲われ、捲りづらくなる。周回中に選手が組むチームをラインといい、レース展開を形成するもととなる。スジともいう。かつては強い先行選手の後ろに力のある追い込み選手がつく場合が多かったが、1983年のKPK制度導入や1988年に累積事故点の罰則があっせん停止を含むものになる等強化される等の経緯によって、現在のような地区別のライン形成が定着したとされている。ラインは一般に、各選手が練習場所とする競輪場や所属する選手会といった地区単位で形成されることが多いが、中には競輪学校の同期生同士(同班同室の場合や、地区にラインがない場合に組まれる)、世界選手権・オリンピックに出場した選手同士といったパターンや、同地域の選手がいない者同士がやむを得ず組むパターンなどもある。選手の一般的な並び方は各選手の出身地域が3人ずつ分布している場合、それぞれの出身地域をA,B,Cの3地域だとすると「A先・A追・A追/B先・B追・B追/C先・C追・C追」となり,こういう形を三分戦と呼ぶ。もっと細かくなったものは四分戦、細分戦、コマ切れの競走と呼ばれる。一方で、先行選手が2名しかいないなどラインが2本しか形成されない場合は二分戦と呼ばれる。稀に先行選手が1名しかいないレース(先行1車、逃げイチ)や、先行選手が一人もいないレースが行われることもある。各選手はスタート前の選手紹介でラインや戦法について意思表示をするので、そこからどのようなラインが組まれるか予想することができる。近年の競輪は若手を中心にラインを重視する選手が多く、位置取りについてあえてラインを無視した自己主張をするケースが減ったといわれている。通常の番組編成(レース毎の選手の配分)においては、ラインの形成を考慮して先行・追込・捲りの選手の数がほぼ均等になるように主催者側で選手を割り振るのが普通。ただし開催最終日の順位決定戦など自動的に出場選手が決まってしまうレースなどでは、稀に先行選手が1名しかいないレース(逃げイチと呼ばれる)や、先行選手が一人もいないレースが行われることもあり、その場合は誰か一人が覚悟を決めて先行することになる。上述した戦法をふまえて、競輪競走においてはルールに明記されているわけではないが、選手全体に認知されている競走におけるやらなければならない行為、あるいはやってはいけない行為が存在する。これは選手道または競輪道とファンや選手に言われており、選手達の間で暗黙の内に決められた事と、ファンと選手の間で暗黙の内に決められた事がある。いわゆる不文律・アンリトゥン・ルール ("Unwritten rule") の一つ。元競輪選手の山口健治は、競輪道を「人の道」と表現している。選手達の間で決め事とされているものとしては以下のものがあるまたファンとの間で決め事とされているものとしては以下のものがある上記に上げた行為はどちらもルールブックに明記されているルール違反ではなく、ただちに問題になることは滅多にないものの必ず反響を呼び、施行者側職員から注意を受けたり、選手の間でも仲間はずれにされる。また競輪場から競走の斡旋(競走参加の要請)をされなくなる事実上の制裁を受けることもある。トップスターでも時折こうした行為があり、ファンの記憶に残り語り継がれているものもある。斡旋の仕組みについては競輪選手の項を参照。同様の選手道は競艇においても存在しているし、ロードレースにおいても暗黙の了解が多数存在している(詳しくは「ロードレース (自転車競技)」の「暗黙の了解」の項を参照)。ただ、競輪はこうした選手間の立場による要素が他の競技よりも多いとされており、これが競輪を知らない人から見た場合の予想の難解さを生んでいる側面もある。競輪競走では選手が競走中に「競り」や「張り」として頭突き、肘打ち、体当たりなど行っているが、同じ自転車競技のサイクルスピードウェイ同様にある程度までは許容されている(ただしインターナショナルルールでは事実上規制される)。これは創世記からのルール形成において問題にされなかったことが現在まで続いているもので、時より選手同士による激しい競り合いが起こる場合があり物議を醸すこともあるが、インに詰まらされた場合の脱出策や、後方から迫る選手の速度を落とすためなど戦略的に利用できる側面は大きい。なお明らかなルール違反であり、競輪道(選手道)に反するものとして「金網ブロック」がある。これは文字通り、後方から進んでくる選手をブロックする際に、バンクの外周フェンス(金網)近くまで自分の車体を持ち上げて、相手選手をよりフェンス近くで走らせる威嚇行為である。大変に危険な行為であり、故意に相手をフェンスへ激突させた場合は悪質失格とされ斡旋停止の処分等もありうる。昔はこの行為ですら合法だったが、選手同士に遺恨を残すこともしばしばあり、ブロック行為が寛容であった時代ですらルール違反とされることになった。競輪選手は競走のグレードに対応した競走得点、マイナス計算となる失格点等によって「級班付け」が行われる。規定の点数を獲得できなければ事実上競輪選手としての資格を剥奪される。したがって、「点数がかかっている」選手がいる場合はラインでここぞとばかりに結束し、点数勝負の選手に勝利をもたらそうとするケースがある。その際は要注意であるとともに、ことギャンブルという視点で捉えた場合、チャンスでもある。競輪の競走格付けにはグレード制が採用されており、上位のグレードから以下のように分類される(本来の数字表記はローマ数字)。下位の競走を勝つことが上位の競走への出場に繋がるよう設計されており、各選手はKEIRINグランプリを目標に1年のシーズンを戦う。競輪の開催日数は、競輪場ごとに年間70日である。原則として1開催3日制で、4日の場合もある。開催初日は、選手の成績(平均競走得点)をもとに「特選」、「選抜」、「予選」の3種類のレースに出場し、成績上位者が2日目の「準決勝」に進出、その上位者が3日目の「決勝」に進出する。「準決勝」および「決勝」に進出できなかった選手は、2日目と3日目も「特選」「選抜」「一般」に出場する。なお、初日に「特選」に出場することができると勝ち上がりに有利である。KEIRIN.JPの「データ検索」や「出場予定選手一覧」における順序は、以下の通り。一般的な都道府県コードとは、地区区分や順序が異なる。明治時代の自転車業界紙記者であった真壁仁氏のメモによると、1895年(明治28年)7月4日、横浜クリケットクラブのトラックで行われた自転車競技が、記録に残る上での日本初の自転車競走と言われている。また、日本人が自転車競走に参加したのも同年、との記録がある。1897年(明治30年)春に不忍池において開催された大会では参加者約20名、優勝者は当時圧倒的な強さを誇った鶴田勝三であった。その後、1905年(明治38年)以降、報知新聞など新聞社各社が主催し自転車業界が育てたノンプロ選手が宣伝のために走るという自転車競走が活発に行われるようになる。日本において自転車競技のノンプロ選手第一号は小宮山長造であった。このように、戦前はロードレースを中心に盛んに行われ、中には競走用自転車で全国各地を転戦する者もいた。太平洋戦争終結後、競輪は公営競技として開催されるようになった。元満州国官吏(後に国策会社の社員となる)の海老澤清(海老澤清文)と、久留米連隊に所属し後にGHQで働くことになる元陸軍大尉の倉茂貞助(本名は倉茂武)の2人が、東京の有楽町に「国際スポーツ株式会社」を設立したことで始まる。当初は第二次世界大戦敗戦に伴う大陸や南方からの引揚者に、宝くじの利益をもとに住宅建設構想を練っていた海老澤の思惑と、湘南海岸に一大レジャーランドの建設を構想し、世界屈指の観光地とする構想を描いていた倉茂の思惑がそれぞれあったが、海老澤が構想を描いていた「住宅建設宝くじ」を取り入れる形で、「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分として、戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを競馬に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てることはできないものかと考え出されたのが後の競輪であった。もっとも、後の競輪を国際スポーツ株式会社の運営で行うのは不可能と分かり、立法として取り上げてもらうべく働きかけた。2人は、後に日本自転車振興会連合会会長となる、当時は日本社会党所属の代議士だった林大作と出会うことになる。林は戦前、三井物産の社員であったが、財閥解体と貿易国営を主張したものの受け入れられずに1942年(昭和17年)に退社。その後交易営団に移り、1947年(昭和22年)4月25日に行われた総選挙で当選を果たした。前述の通り、三井物産時代に貿易国営を唱えており、国家事業の重要性を考えていた林は2人の提案を気に入り、その話を当時の日本社会党委員長でもあった、片山哲内閣総理大臣に提言したところ、片山も「それは面白い」と乗り気になり、やがて社会党の中央執行委員会も同意して法案作りへと進むことになった。しかし、この草案に対して、GHQがいったんは許可を下ろしながらも、すぐさま白紙撤回する騒ぎとなった。GHQが説いていた地方分権に相反すると思われたからである。それに対して社会党は、GHQの地方分権案に同意。それにより、GHQも草案を認め、自転車競技法として国会審議へと入った。1948年(昭和23年)6月26日に衆議院本会議で可決し、参議院へと法案が送られたが、同年7月1日、自転車競技法は参議院でも可決し成立。同年8月1日より施行されることになった。敗戦直後の1946年(昭和21年)、気持ちが暗く沈んでいた日本国民を明るくしようと、第1回国民体育大会が近畿各地で開催される。その国民体育大会は1948年(昭和23年)10月に第3回が福岡県で開催されることとなったが、莫大な経費が嵩む自転車競技場の建設には県内のどの自治体も及び腰であり、自転車競技の開催が危ぶまれるという事態に陥った。これを回避すべく、小倉市が「人気種目の野球を小倉市で開催する」ということを条件に、抱き合わせする形で自転車競技場の建設に名乗りを挙げたのだった。その後、自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として自転車競技法が1948年(昭和23年)8月に成立。同年11月20日、地方の財政健全化と経済情勢全般の健全化、自転車産業の振興を掲げ、国体会場でもあった小倉競輪場において第1回の競輪競走が開催され、ここに競輪が誕生した。なお「競輪」の言葉を考え出したのは、当時毎日新聞西部本社・門司支局に勤めていた新聞記者・山本鹿男。当初は「きょうわ」、「きょうりん」と発音していたが、後に鳴尾事件が発生した時に語られた揶揄(「狂輪」や「恐輪」など)を避けるため、今の「けいりん」に改められた、という経緯がある。第1回の小倉競輪競走では、単勝式と複勝式の2種類の車券が発売された(連勝式の発売は、同年12月11日に開催された大阪府営府大競輪場(大阪住之江競輪場)が最初)。車券売り上げの中から25%が控除され、更にその中から必要経費を差し引いた額が自治体等の財源となるわけだが、ノウハウもなく全てが手探りの状態で始められた小倉競輪はいきなり赤字となる可能性もあり、税収が殆どなく職員に支払える給料もままならなかった時代では正に競輪開催そのものが賭けであったという。第1回小倉競輪は予想を上回る成功をおさめ、財政難打開の手段として競輪を開催しようとする動きは他の地方自治体へ波及し、第1回小倉競輪以降の2年間で50以上の競輪場が建設され、1953年開設の静岡まで63の競輪場が開設された。だが主催者が不慣れであった点、選手へのルールや理念の教育の不足、GHQが全国的な運営母体を認めなかった点などから運営の不手際が生じ一時は中止に追い込まれるなど波乱の歴史を持つ。この立法・運営側の曖昧さ、競走自体においても風圧を受けるトップが不利を蒙るという特殊な面が、逆に観客と選手による独自のローカルルールを生んだ。今日の公営競技において「競輪道」と呼ばれる精神性を語らせては競輪の右に出るものはないが、反面「わかりづらい」「情実優先の展開レース」という批判も根強い。しかし、作家の阿佐田哲也(色川武大)はこの競輪の特殊性故に「競輪こそギャンブルの王様」と呼んでいる。競輪が誕生した1948年(昭和23年)当時、国営競馬(現在のJRA)の控除率(寺銭)が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられた。そうした背景も手伝って、国営競馬が不振をかこつ状態だったのに対し、競輪は爆発的な人気を博すようになった。しかし、その一方で、客が自転車競技の特性を理解しきれていなかったという背景も手伝い、1949年(昭和24年)に発生した大阪住之江競輪場での事件を端緒に、しばしば暴動事件が発生する事態となったことで、新聞を中心としたマスメディアの批判も強くなっていった。とりわけ1950年(昭和25年)に鳴尾・川崎両競輪場において起こった騒擾事件は激しい非難を浴び、競輪廃止論議が世論を賑わせることになる。鳴尾での騒擾事件が原因で競輪は2ヶ月間の開催を全面的に自粛せざるを得なくなり、さらに吉田茂内閣が競輪廃止が閣議了承した。もっとも競輪廃止論議は閣議段階で踏みとどまり、翌1951年(昭和26年)の国会において日本共産党が提出した競輪廃止法案が否決されるに至ったことで、競輪は以後も開催が続けられていくことになる。だが、その後も断続的に暴動事件は発生した。中でも1959年(昭和34年)6月23日、松戸競輪場第5レースの着順判定を巡って「八百長騒動」が発生したことにより、施設破壊などの事態を招いたばかりか、主催者側が騒いだ一部の客に対し、「車代」と称して1人あたり1000円を渡していたことが発覚(松戸事件)した事件をきっかけに、断然人気の白鳥伸雄の競走中止に対する件が発端となった1960年(昭和35年)9月13日における西武園競輪場での事件や、人気の中心となった笹田伸二のトップ引きにかかる1968年(昭和43年)4月11日における川崎競輪場での事件など、鳴尾事件に匹敵するほどの大規模事件も発生した。近年でも、2000年(平成12年)2月11日に立川競輪場で開催された「アシアナカップ」決勝で、係員が残り周回を間違えて誤打鐘をした事に対しファンが立て篭もる事件が発生。競技規則73条(3)には「打鐘を誤って鳴らした場合は競走不成立」とあるが、主催者側はレースを続行した。誤打鐘直後から場内は騒然となり、観客から怒号も起きていた。レース終了後は怒号が飛び交う中で優勝選手への表彰式も行われたが、優勝選手がスタンドへ投げ入れたボールも投げ返されるなどした。表彰式終了後も観客の怒りは収まらず、一部のファンが競輪場内に立て篭もり、主催者側は機動隊を動員して21時ごろにようやく沈静化したが、競技規則を順守せず競走不成立にするなどの措置をとらなかった主催者サイドへ怒りをあらわにしていた。鳴尾事件以後も、断続的に発生する暴動事件を起因とする、マスメディアを中心とする競輪への強い風当たりが続いた。そんな折、1955年(昭和30年)1月にときの農林大臣河野一郎が群馬県前橋市で行った記者会見の席上「競馬は、土曜、日曜、祭日以外は開催しないことを閣議で提案する」という発言を行ったことが波紋を広げ、翌日の定例閣議で申し合わせがなされたが、当時の通産大臣石橋湛山が「河野発言」を了承することにより、競輪も競馬と同調することになった。河野のこの発言を受け、当時大阪府知事だった赤間文三は、原則土日に開催が限定されることによる売り上げ減少を懸念し、1956年度以降の大阪府主催の競馬、競輪の開催を中止する旨を表明。これに伴い、府営豊中競輪場は1955年6月限りで廃止されることになった。競輪場の廃止例は、当時既に松本競輪場(1951年)・松江競輪場(1953年)で見られたが、いずれも経営不振によるものであり、政治的な理由による廃止は豊中が最初であった。その後、近畿地区で競輪場の廃止が相次いだ。まず1958年(昭和33年)、京都市営競輪場が市議会の賛成多数により廃止を決定。さらに当時の兵庫県知事・阪本勝も兵庫県営ギャンブルの廃止を表明したことから、1960年(昭和35年)12月に神戸競輪場が、1961年(昭和36年)3月に明石競輪場がそれぞれ廃止された。また、大阪市営中央競輪場も、1959年(昭和34年)に大阪競馬場が廃止されたことを踏まえ都市公園として整備する方針を打ち出したことから、ときの大阪市長中井光次は1962年(昭和37年)3月をもって廃止を決定した。このほか大阪住之江競輪場も1964年(昭和39年)に休止(事実上の廃止)となり、大阪市内に存在した2つの競輪場が消滅した。近畿地区以外にも政治的な理由による廃止が相次ぎ、札幌競輪場(1960年開催廃止)・福岡競輪場(1962年廃止)・会津競輪場(1963年休止)・長崎競輪場(1966年開催廃止)がそれぞれ姿を消した。そして、この一連の流れは、当時「競輪のメッカ」を標榜していた後楽園競輪場にも飛び火する。1967年(昭和42年)4月15日に行われた東京都知事選挙で、日本社会党・日本共産党が推薦した美濃部亮吉が当選し、史上初の革新系都知事が誕生した。美濃部は東京都が主催していた各公営ギャンブル(後楽園競輪場・京王閣競輪場・大井競馬場・大井オートレース場・江戸川競艇場)の廃止を公約に掲げていた。後楽園競輪場は東京ドームの前身で、1949年(昭和24年)11月に誕生。東京の都心部に位置する文京区という抜群の立地条件も手伝い、開催すれば常時スタンドは満員、とりわけ日本選手権競輪(前身名は全国争覇競輪)が開催されればスタンドに入りきれない観客で溢れ返り、車券も満足に買えない状態が恒常化していた。そして、1960年(昭和35年)11月3日に行われた全国争覇競輪決勝戦の開催日は推定約8万人の観客で溢れかえり、スタンド内でもすし詰めとなった約1500名の観客が走路内へなだれこみ、決勝戦は走路内に観客を入れてレースを行うという異例の事態となった。このため警備不能を理由に、1961年(昭和36年)の同大会の開催が決定していたにもかかわらず、東京都が開催を返上したばかりか代替地も決定せず、1963年(昭和38年)3月に一宮競輪場で再開されるまで、全国争覇競輪の開催が行われなくなってしまった。つまり、後楽園以外に全国争覇競輪の開催はできない、ということが、当時の競輪界の「常識」となっていたのである。実際のところ、一宮で行われた後、再び後楽園で1968年(昭和43年)まで毎年、日本選手権競輪が開催された。一方で後楽園競輪の売上は1960年代に競輪総売上の10%近くを占めるほど大きなものだったため、後楽園は「競輪のメッカ」と標榜された。だが美濃部は「競輪などの公営ギャンブルの売り上げで学校などが建設されるということについて、果たして子供たちは望んでいることなのだろうか」と訴え、当時毎年のように売上を増加させていた背景があったにもかかわらず、都営ギャンブル廃止を公約に掲げた。また上述の通り、大阪府などの自治体が既に公営ギャンブル廃止を実現させていたことも追い風となっていた。1969年(昭和44年)1月、美濃部は正式に都営ギャンブル廃止を表明し、同年11月に開催が予定されていた日本選手権競輪の開催を返上した。さらに美濃部は、1972年度限りで後楽園における都営開催を終了することを表明。これにより後楽園競輪場は1972年(昭和47年)10月に開催を休止、翌1973年(昭和48年)3月をもって全面休止された。その後同地ではバンク内に水が注入され、スイミングプールとしての役割を果たした後に解体され、1988年に日本初の屋根つき野球場「東京ドーム」として再建された。その他の旧都営公営競技場は、まず大井オートレース場が後楽園競輪場と同様に1973年3月で閉場したが、代替場として伊勢崎オートレース場が引き継ぎ、1976年(昭和51年)10月6日に開場した。また京王閣競輪・大井競馬・江戸川競艇はその後、主催者を変更させて現在も存続している。結局、後楽園競輪場だけは代替地も用意されず消滅した。後楽園競輪の廃止は当時の競輪界に大きな打撃を与えたが、昭和40年代に入ると競艇の総売上が次第に競輪に迫る勢いを見せるようになった。1965年(昭和40年)度を見ると、競輪は競艇を含めた他の各公営競技団体の倍ほどの総売り上げを計上していたが、その後、競輪自身も売り上げを伸ばしていくものの、伸び率は鈍化していく。対して競艇は昭和40年代前半以降毎年度10%以上の伸び率を見せ、1973年(昭和48年)度頃には競輪と肩を並べた。同時期に発生した第一次オイルショックの影響により1972年度以降は伸び率も鈍化したが、1975年(昭和50年)度の年間総売上で競艇が競輪を逆転した。その後2009年度まで、競艇が競輪の総売上を下回った年度は一度もない。また総入場人員においても、昭和40年度は競輪が約2800万人を記録し競艇に倍以上の差をつけていたが、その後競艇が差を詰めてゆき、1975年(昭和50年)度に競輪を逆転した。競艇に逆転された原因として、競艇が施設改善や投票券の機械化を急ピッチで進めたのに対し
出典:wikipedia
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