エリザベス朝(エリザベスちょう、Elizabethan era)は、イングランド王国のテューダー朝のうち、特にエリザベス1世の治世期間(1558年 - 1603年)を指す時代区分である。しばしばイングランドの黄金期と呼ばれる。対外的にはスペインの無敵艦隊を破るなど国威を示し、内政的にはプロテスタントとカトリックの対立を終息させ、国力を充実させた。これにより、芸術、文芸も栄え、イギリス・ルネサンスの最盛期となった。また、イギリス・ルネサンス演劇も賑わいを見せ、とりわけウィリアム・シェイクスピアによる従来の様式を打ち破った演劇は話題となった。文学の分野で「エリザベス朝」という言葉が使用される場合、その後のジェームズ1世(1603年 - 1625年)およびチャールズ1世(1625年 - 1649年)の在位期間を含めることが多い。エリザベス1世の頃にはウィリアム・シェイクスピアが現れ、現在に残る戯曲の多くを残した。シェイクスピアはソネットなどにも大きな足跡を残した。クリストファー・マーロウなどによっても多くの詩文が残され、英文学の大きな財産となっている。なお、テューダー朝の頃の建造物などは「テューダー様式」と呼ばれる。エリザベス朝の素晴らしさは、その前後の時期と比べると際立って見える。17世紀はイギリス革命(清教徒革命など)やプロテスタントとカトリックとの争い、議会と国王の争いに明け暮れていたが、その中でエリザベス朝はつかの間の平和な期間だった。この時期は、プロテスタント・カトリックの分裂は収まり(エリザベスの宗教的解決)、議会には未だ絶対王政を揺るがす程の力がなかった。イングランドは、他のヨーロッパ諸国に比べても順調だった。イタリア・ルネサンスは、外国に半島を支配されて終わった。フランスではユグノー戦争が起こった(この戦争は1598年にナントの勅令によって終わる)。何世紀も続いてきたフランス対イギリスの闘争は、エリザベス1世の治世の間は収まっていた。これは、フランスが宗教戦争に巻き込まれたことの他に、イングランドがヨーロッパ大陸の領土のほとんどを失っていたことも一因となっている。この時期に大きなライバルとなったのはスペインだった。スペインとイングランドはヨーロッパとアメリカ大陸で小競り合いを繰り返してきたが、1585年についに戦争となった(1604年まで続く)。スペイン王フェリペ2世が1588年に無敵艦隊を送ったが、イングランドは有名なアルマダの海戦で無敵艦隊に大勝した。しかし、この後にイングランド艦隊がスペインに侵攻した海戦では大敗し、争いの風向きはイングランドに不利に変わった。その後、スペインはアイルランドのカトリック教徒のイングランドに対するゲリラ活動を支援した。また、イングランド軍はスペインの陸海軍に続けて敗北し、イングランドの国庫と経済がかなり悪化した。エリザベス1世は、財政を緊縮して慎重に立て直しを図った。イングランドの植民地政策や貿易が復興するのは、エリザベス1世が死去した翌1604年、ロンドン条約に批准した後である。この期間のイングランドは、過去のヘンリー7世とヘンリー8世の改革の結果、うまく中央集権化され、政府が効率的に機能していた。経済的には、大西洋貿易によって儲ける新時代の幕開けを迎えていた。後のヴィクトリア時代や20世紀初頭には、エリザベス朝は理想として美化されて伝えられた。ブリタニカ百科事典には、今日でも「1558年から1603年までのエリザベス1世の長い治世は、イングランドの黄金期であった。人々は生活を楽しみ、音楽や文学、建築、船乗りの冒険にも『愉快なイングランド』が現れている」と記載されている。エリザベス朝を理想化する傾向は、イギリスや北アメリカに共通してみられる(例えば、エリザベス朝の船乗りを主人公にした映画など)。一方、美化された歴史観の反動により、ヨーロッパ民主化後の歴史家や伝記作者はエリザベス朝について、物語風の脚色を無くして冷静に見る傾向がある。彼らによるとエリザベス朝のイングランドは、軍事面では特に成功はしていない。また、人口の90%を占める地方の労働者階級はそれまでの世代よりも貧困に苦しんだ。エリザベス朝で行われた奴隷貿易やアイルランド・カトリック弾圧(特にデスモンドの反乱や9年戦争)も、歴史家の注目を集める。イングランドはこの時代に絶頂に達したとはいえ、エリザベス1世の死後40年もたたないうちに、内戦に至るまで急落することになる。すべてを考慮すると、エリザベス1世の統治はイングランドに長期間の(完璧ではないにせよ)平和をもたらし、繁栄を増したといえる。彼女は、過去の統治者から事実上の財政破綻状態を受け継いだが、倹約方針に従って財政を立て直した。緊縮財政によって1574年までには負債を解消し、その10年後には30万ポンドにおよぶ余剰金を蓄えた。経済面では、トーマス・グレシャムが為替取引所を設立した(1565年)。ここで、イングランドでは初の、またヨーロッパでもまだ少なかった株式交換が行われ、やがてイングランドはもとより世界の経済にも重要なものに発展した。エリザベス朝当時の税金は他のヨーロッパ諸国より低かった。経済は発展し、所得の配分は明らかに偏っていたものの、エリザベス朝が終わる頃には、初めに比べる明らかに多い富が蓄積されていた。このように概ね平和で繁栄していたため、この時期を「黄金期」とよぶ人達が強調する魅力的な発展が可能となった。人道主義の観点でも、この時期のイングランドには良いところがあった。同時期のヨーロッパ大陸の社会とは違い、拷問がほとんどなかった。厳しい身体刑もあったが、イングランドの法律制度ではそのような拷問は、反逆罪のようにきわめて重大な犯罪にしか認めてられていなかった。魔女裁判も比較的まれだった。魔女として弾劾された事件もあったが、同時期のヨーロッパ社会で発生したような極端にヒステリックな動きはならなかった。社会における女性の役割は、この時代にしては比較的自由だった。当時のイングランドを訪れたスペイン人やイタリア人たちは、母国と正反対に自由を享受する女性について必ず何かしら(あるときは詭弁的に)論評した。それまでのテューダー朝の治世で、ヘンリー8世とエドワード6世はカトリックを弾圧し、メアリー1世はプロテスタントを弾圧するなど、宗教の弾圧が行われていた。しかしエリザベス1世は「心までは統治しない」と決めて宗教弾圧を弱め、これによってイングランドの社会をやわらげる効果を生んだようである。その一方で、エリザベス1世の統治は無神論者による「冷厳な独裁制」としても記述される。後世のニュートンや王立協会のような傑出した天才や研究機関がなかったにもかからず、エリザベス朝において科学に著しい発展があった。天文学者のトーマス・ディッグス(1546年 - 1595年)やトーマス・ハリオット(1560年頃 - 1621年)は大きな業績を挙げ、ウィリアム・ギルバート(1544年 - 1603年)は磁石を研究し、1600年に独創的な著書 "De Magnete" を出版した。この著書は後世の発展を促すことになった。地図作成や測量の分野でも大きな発展があった。錬金術師ジョン・ディー(1527年 - 1608年)も風変わりではあるが影響力が多く、名を挙げるに値する。このような科学的・技術的進歩の多くは、実務的な航法の技法に関連していた。特にエリザベス朝において、イングランド人は探検で多くの成果をあげた。フランシス・ドレーク(1540年頃 - 1596年)は世界一周を果たし(1577年 - 1581年)、マーティン・フロビシャー(1535年頃 - 1594年)は大西洋を探求した。イギリスが初めて北アメリカの東海岸に植民地を開拓したのもこの時期で、ロアノーク島に植民地を築いたが失敗した(1587年)。エリザベス朝では重要な技術革新もあった。1564年、オランダから来たギリアム・ボーネン(Guilliam Boonen)は、エリザベス1世の初めての四輪馬車を作った。こうして、ヨーロッパで発明されたバネのサスペンションを持つ四輪馬車が、それまでの駕籠や二輪馬車に代わる輸送手段としてイングランドにも導入された。後世のスポーツカーの流行のように、四輪馬車は瞬く間に当時の流行となった。清教徒などの批評家達は、「様々な偉大な淑女達」が新しい四輪馬車に乗って「地方を行き来している」と批判的に述べている。イングランドにルネサンスが到来したのは、イタリアを初めとするヨーロッパ大陸諸国に比べると遅かったといわれる。テューダー朝とステュアート朝における絵画芸術は、ヘンリー8世の宮廷画家ハンス・ホルバインからチャールズ1世の宮廷画家ヴァン・ダイクに至るまで、外国から招いた才能ある芸術家の手によるものだった。このように総括されるとはいえ、国内にも優れた絵画が育ち始めていた。エリザベス1世の時代、国内の画家として最も広く認知されているのが、女王の宮廷画家兼金細工師だったニコラス・ヒリアード(1547年頃 - 1619年)である。また、ジョージ・ガワー(1540年 - 1596年)も作品やその生涯が判明するにつれ、評価と注目を集めるようになってきた。エリザベス朝には多種多様なスポーツや娯楽があった。エリザベス朝の頃は、仕事の無い日曜日でも、教会から帰るまで自由時間が取れなかった。だから人々は祝日を心待ちしていた。当時の祭りのほとんどは教会の聖祭日に関連していた。毎月それぞれの祝日があり、そのいくつかを下記に示す:
出典:wikipedia
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