三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した種族とその地域。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。三韓の「韓」はモンゴル語の「汗」と同じく「王」の意味である。衛氏朝鮮の「辰国」である。遼東郡の公孫氏が独立してからは、三韓諸国は公孫氏に服属した。馬韓は半島西部に位置し、52カ国に分かれていた。ほぼ後の百済、現在の忠清北道・忠清南道に相当する。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。百済が建国してまもない紀元前6年、ほぼ今の錦江が百済と馬韓の国境だったが、9年、百済は馬韓を滅ぼしてその全領土を併合した。313年、帯方郡が滅亡すると百済は強大化し、347年にはじめて百済王余句が中国に朝貢した。辰韓は古の辰国である。「秦韓」とも書かれ、秦からの移民ともいわれる。12カ国に分かれていた。現在の慶尚道及び江原道南部の地域である。言語は馬韓と異なり弁韓と類同し、中国語とも類似していた。辰韓の12カ国は「辰王」に属していたが、辰王は馬韓人であった。12カ国に分かれていてそれぞれ王がいった。大雑把にのちの任那、現在の全羅南道の東部から慶尚南道の西部である。しかし魏志東夷伝には、辰韓と弁韓とは居住地が混在していたとされるので、岡田英弘は辰韓12国と弁韓12国は国々の所在地がモザイク状に入り混じっていて境界線が引けるような状態ではなかったと解釈している。『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていた。南北朝時代から唐にかけての中国では、百済、新羅、高句麗の三国を三韓と呼ぶ例があり、『日本書紀』もそれに倣っている。朝鮮半島でも統一新羅時代から李氏朝鮮時代まで三国を三韓と見て、自国を三韓と呼んだ。ただし、大韓帝国の「韓」は高宗実録によれば馬韓・弁韓・辰韓に由来するとされており(詳細は大韓帝国#国名参照のこと)、現代の大韓民国(韓国)もこれに倣っている。もっとも、現在の韓国の実効支配地域は本来の「三韓」にあたる朝鮮半島(韓半島)南部の地域に江原道の南部を加えた地域とほぼ重なっている。 現在のような三韓論を主張したのはが最初であり、実学者たちによって定立された。
出典:wikipedia
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