富永 仲基(とみなが なかもと、正徳5年(1715年) - 延享3年8月28日(1746年10月12日))は、江戸時代大坂の町人学者、思想史家。懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判した。彼の学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なものといわれている。大坂・北浜の醤油醸造業・漬物商を営む家に、懐徳堂の五同志の一人富永芳春(道明寺屋吉左衞門)の3男として生まれた。通称は道明寺屋三郎兵衞、字は子仲、号は南關、藍關、謙斎。15歳ころまで、懐徳堂で弟の富永定堅とともに初代学主三宅石庵に儒学を学ぶ。若くして『説蔽』(せつへい、現存せず)を著し、独特の大乗非仏説(法華経、般若経など、いわゆる大乗仏教の経典は釈迦の言行ではなく、後世の産物という主張)によって儒教を批判したため破門されたというが、これは富永を批判する仏教僧側からの主張であるので事実としては疑われている。その後田中桐江のもとで詩文を修め、また20歳のころ家を出て宇治の黄檗山萬福寺で一切経の校合に従事し、黄檗宗の仏典の研究に励むなか、仏教に対する批判力を培っていった。元文3年(1738年)、24歳で、『翁の文』(おきなのふみ)を著述、のち延亭2年(1745年)仏教思想の批判的研究書『出定後語』(しゅつじょうごご、しゅつじょうこうご)を刊行。翌年、32歳で死去した。富永の説で、特筆すべき第一は、後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼってより古い時代に起源を求めるという「加上」(かじょう)の考え方にあり、その根底に「善」があること、これが即ち聖と俗とを区別する根本であるとする点にある(『出定後語』参照)。この説は本居宣長、後には内藤湖南や村上専精により評価された。また、思想に現れる民族性を「くせ」とよんでこれに着目。インドは空想的・神秘的、中国は修辞的で誇張する、日本は隠すくせがある、と述べて、それぞれの文化を相対化し比較観察したことは、文化人類学的発想の先取りと指摘されている。さらに、宗教批判と近代批判とを結びつけるような視点をもった先駆的思想家として、デイヴィッド・ヒュームやフリードリヒ・ニーチェに比する見方もある。ほかに、古代中国の音楽から日本の雅楽に至るまでの音律の変遷をたどった、漢文による20歳代の時の著作『楽律考』があることが1937年にわかり、写本の影印本や現代日本語訳が出版されている。
出典:wikipedia
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