静岡県立掛川西高等学校(しずおかけんりつ かけがわにしこうとうがっこう)は、静岡県掛川市城西一丁目に所在する県立高等学校。1877年(明治10年)7月に岡田良一郎が倉真村(現在の掛川市倉真)に私塾「冀北(きほく)学舎」(後述)を設立したことを起源とされる。1901年(明治34年)6月1日に静岡県立掛川中学校として開校した。尚、創立記念日は、掛中開校日の1901年(明治34年)6月1日である。校風は質実剛健、文武両道を旨とし、創立から100年以上の歴史を有する伝統校であり、静岡県内では屈指の高校野球の名門校である。通称は「西高(にしこう)」、「掛西(かけにし)」。正式な校訓は存在せず、「鍛えよう若き日を」が長年、当校のスローガンとして採用されている。校地 37,423.79㎡ 校舎延面積 14,319.60㎡ である。普通科、理数科ともに1時限50分授業である。普通科は月,水,木曜日は7時間目まで、火,金曜日は6時間目までだが、理数科は毎週火曜に7時間目の授業がある。英語は原則2週間木曜日に1度のweekly test、数学は原則毎週火曜日の確認テストが実施されており、国数英では週末課題が有る。理数科は数学の授業進度が普通科と比べて速く(普通科は理系クラスでも3年生で教科書の内容を1通り終えるのに対し、理数科は2年生で終える)、物理・化学・生物の3科目が全て必修となっている(普通科は文系クラスで理科総合Aと生物Iの2科目)。また、12月から3月にかけて『理数科課題研究』を行っている。掛川市の中心市街地にあり、校地に隣接して東に掛川城、北に静岡県道415号日坂沢田線(旧国道1号)、南に逆川がある。この中でも特に掛川城の麓に存在することは校歌1番に「岩根こごしき天守台 その麓にぞわが校は…」と歌われており、この学校の大きな特徴のひとつであるが、中心市街地に3.7haの土地を占めていることから、移転論が出る事もある。以下4サークルは、平成19年度にメンバー募集を停止することが決定している。野球部は開学と同時1901年(明治34年)創部で100年以上の歴史を有する。 全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)出場5回、選抜高等学校野球大会(春の甲子園)出場4回(2015年春現在)。野球の名門校であり、その応援にも力を入れている。全校生徒が一丸となって応援団を結成するという考えから、例年、應援團指導部(通称エンダン)による熱血的な応援指導が行われている。創部は定かではないが、2015年(平成27年)現在で應援團長が67代目ということから少なくとも戦後直後からの應援團の存在が窺える。特に一学期においては新入生に対する応援指導は厳しいが、この応援指導により結束感を高める狙いがあり、異なる中学校から進学した新入生たちのコミュニケーション形成にも役立っている。応援の際には校名を「掛高」と称するが、同校の歴史上、「掛川高校」という名称を称したことは一度もない。対戦相手が「掛工」(静岡県立掛川工業高等学校)の場合は、例外的に「西高」と称している。守備の際、本校のピッチャーがボールを投げた後「ストライク」(「アウト」)と叫ぶ応援パターンがあり、これが「ヤジ行為」との指摘を受けたため近年では公式試合において一部応援パターンの変更が見られる。下記すべての曲は公式ホームページで聴くことができる。 一.岩根こごしき天守台 その麓にぞわが校は 基定めて逆川の 栄え行くこそ楽しけれ 群馬県立沼田高等学校と、校歌が歌詞、曲ともに酷似している。掛川西高で国漢教師をしていた岩崎莞爾教諭がその後沼田高で校歌の制定に携わったためと伝えられている。4月 5月 6月 7月 8月9月10月11月12月 1月2月 3月 当校の前身である冀北学舎の名を冠した講演会。年に一回、社会で活躍するOB、OGを招いて開かれる。演目は講演者に委ねられているため、年によって異なる。肩書きは講演時のもの。前述にもあるように当校の起源は「冀北学舎」に遡る。既に郷党の子弟の教育に情熱を注いでいた岡田良一郎は、英・国・数の三科を揃えた私塾開設を思い立ち、1877年(明治10年)7月に遠江国佐野郡倉真村(現掛川市)の自宅を開放して、「冀北学舎」と命名した。この先駆的な私塾の開設は天下に知られ、遠く関東、九州からも教えを請うて集う者が多く、その数は200人に達したとされる。岡田が私塾に「冀北」の名を冠した直接の典拠は、かの著名な中唐の文人、韓退之の書いた『送温処土赴河陽郡序』にあると考えられている。「冀北」とは中国の古の冀州の北部(現河北省)を意味し、古来良馬を多く産することで有名である。伯楽が冀北の野に俊馬を得た故事に倣い、岡田は自らを伯楽に比し、冀北学舎から俊秀の人物を輩出しようと深く心中に期しての命名であったと推察される。塾生の中からは、文部大臣岡田良平、内務大臣・宮内大臣一木喜徳郎、東京帝国大学教授山崎覚次郎らを始め、後年の日本を背負う有数の人材が育っていった。塾生の教育の傍ら、岡田は県立普通中学校設立にも奔走し、1880年(明治13年)4月の県会で可決された。掛川中学校沿革の記すところによれば「明治13年8月、静岡県立掛川中学校設置サレ、佐野城東郡長岡良一郎学校長ヲ兼務ス。」とあり、岡田は私塾「冀北学舎」の斎主と静岡県立掛川中学校の初代校長を兼ねたことになり、また私塾の果たす役割はこれを機に掛川中学校へ移っていくことになる。やがて、その使命を終えた「冀北学舎」は1884年(明治17年)に閉鎖された。1969年、全国の安保闘争のあおりを受け、西高でも学園紛争が勃発した。生徒から逮捕者4名を出した「掛西紛争」である。発端は、アジア太平洋閣僚会議(略称 伊東市川奈で開催)の開催を阻止すべく1969年6月8日に行われた「ASPAC闘争」と呼ばれるデモ。学校側は、このデモに参加した3年生8人に対する無期限の謹慎処分を決定。これに反発した生徒会長をはじめとする十余名の生徒らが「掛西反戦会議」を名乗り処分撤回を求め抗議行動を展開した。そしてこの抗議行動に外部の政治団体が加わるなどし、紛争の規模が急速に拡大。8月31日には若者ら300名と機動隊300名が衝突する騒ぎとなった。ただしこの騒ぎに参加した生徒はごく一部であり、ほとんどの生徒はこの動きを冷視していたと伝えられている。掛西紛争は、高校生の活動が発端となって起こった学園紛争の希な例であり、大学生を中心に行われていた安保闘争が高校生に飛び火し拡大するのではと、当時全国から注目された。掛川市・菊川市出身の漫画家が当校を舞台に作品を描いている。ただし、いずれも架空の物語である。冀北学舎及び旧制静岡県立掛川中学校の卒業生についてもここで記述する。__インデックス__
出典:wikipedia
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