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藤田平

藤田 平(ふじた たいら、1947年10月19日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。阪神タイガースの生え抜き打者で名球会入りした唯一の選手。市和歌山商では第37回選抜高等学校野球大会で準優勝。決勝で平松政次擁する岡山東商に延長13回でサヨナラ負けした。卒業後は明治大学に進学する予定だったが、1965年の第1回ドラフト2位で阪神タイガースへ入団。この一件から阪神と明大は十数年後に和解するまでずっと不仲であり、阪神ファンであった星野仙一の指名も出来なかった程である。1年目から一軍に出場し、2年目には吉田義男を二塁に追いやり遊撃手のレギュラーに定着し、リーグトップの154安打を放った。主に1番・3番を打ち、「貧打・阪神」といわれた阪神打線を主軸打者として支えた。中距離打者だが、田淵幸一等の長距離打者を軒並み欠いた1971年には28本塁打を放っている。流れるような美しいフォームでしばしば巧打を放ったが、チャンスに初球をポップフライすることが多かったり、第1打席でヒットが出れば猛打賞というジンクスを持つなど、職人肌特有のムラッ気もあった。1970年代には、江夏豊、池田純一、谷村智啓と共に『若虎四天王』と呼ばれた。1978年には208打席連続無三振の日本記録を樹立する(1997年にオリックスのイチローが216打席で更新)が、同年の後半から守備の負担を減らすために一塁手での起用が多くなった。1979年4月17日の対ヤクルト戦(神宮球場)での一塁守備時に左足太ももの肉離れを起こした。経過が思わしくなく当時のドン・ブレイザー監督は「日本の医者は何をしているんだ? アメリカなら簡単に治る!」と激怒。同年7月に渡米し、ロサンゼルスの外科手術専門治療所で筋肉強化のリハビリを受けシーズンを棒に振った。以後は足に不安を抱えながらも1980年に復帰。1981年に打率.358で見事首位打者に輝き、カムバック賞を受賞した。また、同年からコーチを兼任し始める。1982年8月31日の対大洋戦で三塁線上にサードフライを放つがこれを石橋貢が落球し、若手審判の鷲谷亘・三塁塁審がファウルと判定したことから鷲谷審判が島野育夫守備・走塁コーチと柴田猛バッテリーコーチに暴行されるきっかけとなった(横浜スタジアム審判集団暴行事件参照)。なお、その試合では9回に決勝アーチを放ちチームに勝利をもたらしている。1983年には通算2000本安打を達成。阪神の生え抜き打者としては初の2000安打と名球会入りとなった(安打数では球団最多記録保持者)。チーム新記録となる2010試合出場を置き土産に1984年に現役を引退した。現役時代は無口でおとなしく、遠井吾郎・藤井栄治とともに「阪神三奇人」と呼ばれた。在籍当時頻発した球団やスタッフと選手の内紛にも、遠井と共にほとんど関与していなかった。阪神が優勝した翌々年に入団し、19年間阪神の主力として活躍したが現役選手としては優勝を経験せずに引退した。日本国内での2000本安打達成者の中でリーグ優勝・日本一経験無しは藤田と土井正博の2人だけである。その後は朝日放送解説者・デイリースポーツ評論家(1985年 - 1994年)を務めた。就任初年、バックスクリーン3連発の時にはテレビの解説者として、21年ぶりの優勝の場面はラジオの解説者としてそれぞれ立ち会った。監督の中村勝広の要請で1995年、阪神の二軍監督に就任。中村監督の途中休養に伴い、同年のオールスター後は代理監督を務めた。1996年に監督に昇格し、参謀役には柴田猛、一塁ベースコーチには小林正之を招聘。ぬるま湯体質に浸かった阪神の再建に取り組んだが、長谷川平蔵をもじった「鬼平監督」と呼ばれるほどの熱血指導が主力選手(1995年オフには新庄剛志がトレード志願発言をしている)やフロントの反感を買った。正式監督となった1996年シーズンも成績不振に陥り、巨人との開幕戦では斎藤雅樹の前に手も足も出ずに1安打の完封負け。田村勤の復活や郭李建夫のストッパー転向成功など投手陣は奮闘したが、例年と同じで野手陣の貧打が解消されなかった。平尾博嗣の台頭もあったが、石嶺和彦が前年以上に不調だった。外国人も5月にはグレン・デービス、スコット・クールボーを解雇。後釜として入団したケビン・マース、クレイグ・ワーシントンは全く使い物にならなかった。同年9月12日に藤田は急遽球団事務所に呼び出され、三好一彦球団社長から監督解任を通告された。しかし藤田はこれを不服として久万俊二郎オーナーとの面会を求めるものの応じられず、話し合いは夕方5時から延々続き翌13日の深夜2時半になって一度水入り。同日午後2時から話し合いを再開したが約30分で終了して解任を受諾した。フロントは藤田がすぐに解任を承諾するものとして夕方から「辞任に関する記者会見」を行うと報道陣に通知していたが、話し合いが延びたために「本日(12日)中の会見ができなくなった」と異例の発表が行われた。報道陣は球団事務所前で深夜まで待ちぼうけを喰らい、近所の喫茶店は彼らの為に軽食の出前販売を行なったという。後日、この時のやりとりについて藤田は「三好社長はこちらの言い分を電話で久万オーナーに伝えて、いちいち確認するだけ。あれじゃ自分の意思がない伝書鳩以下だ」と評している。藤田によると求心力の欠如を理由に解任されたという。事実を歪曲して伝えられる事も多く、練習に遅刻した新庄を正座させたとした報道も実は当時平気で遅刻する選手があまりにも多いため「選手同士で何か規定を作りなさい」と提案したところ、選手の方から「遅刻した時間だけ正座する」と言ってきて、新庄はそれを実行しただけであった。一方、新庄は著書でこの一件について、規定の存在には触れておらず「当時の故障状態の悪さから判断して練習開始時間に合わせグラウンドへではなくトレーナー室へ行った行動について、藤田から遅刻であると咎められた際に正座の罰を受けた件をきっかけに、藤田とは野球観が合わないと考えるようになっていった」と綴っている(前述のトレード志願発言についても含め「新庄剛志#阪神時代」を参照)。在任中は病人食と化していた寮の食事を改善し、ジュース・果物や簡単な食事をベンチ裏に配置。桧山進次郎を初めて4番に抜擢したほか、「先発失格」の烙印を押された葛西稔をリリーフに転向させるなど後のチームの基礎を作った。監督退任後はサンテレビ解説者・デイリースポーツ評論家の傍ら、2005年に村田兆治が設立した「対馬まさかりドリームス」に参加。村田と一緒に日本全国の野球少年への指導のため全国を飛び回りながら、1年間だけ佐川急便野球部で監督も務めた。2008年、妻の勧めと「野球界に恩返ししたい」という想いからBCリーグ・福井ミラクルエレファンツ初代監督に就任。野手コーチに野田征稔、投手コーチ(選手兼任)に天野浩一を招聘。選手寮と目と鼻の先のアパートに住み込み、毎晩のように選手の素振りを見るなどの熱血指導ぶりだったが、前後期ともに北陸地区(3チーム)の最下位に終わり、シーズン終了後の9月30日に退任。在任中の給与の一部が支払われていないとして、支払いを求め2010年8月19日付で神戸地方裁判所尼崎支部に提訴している。2009年、郷里・和歌山に本拠地を置く関西独立リーグ・紀州レンジャーズ初代監督に就任。前期は3位と健闘したが、後期は最下位に転落。同年限りで退任。

出典:wikipedia

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