沖原 佳典(おきはら よしのり、1972年7月27日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。松山市立城西中学校から愛媛県立西条高等学校へ進学し、高校卒業後は亜細亜大学(入来祐作と同級生)へ進学した。東都大学リーグでは通算74試合出場で246打数70安打、打率.285、4本塁打、27打点。4年生春のリーグでは首位打者・ベストナインを受賞した。卒業後はNTT関東・NTT東日本を経て、シドニーオリンピックにアマチュア選手として出場、後にプロでチームメイトとなる赤星憲広と共にシドニーオリンピック野球日本代表として出場した。グループリーグの韓国戦では鄭珉台から先頭打者本塁打を放った(シドニー五輪では2本の本塁打を放つ)。それを見た野村克也(阪神タイガース)は、沖原を完全に注目していなかったスカウト陣に苦言を呈し、自ら同年秋の社会人野球日本選手権大会を視察、赤星・藤本敦士と同様に獲得を決めた。2000年のプロ野球ドラフト会議において、阪神タイガースから6位で指名され入団。社会人時代に結婚し、沖原のプロ入りに反対する妻を説得して、社会人野球の給料より安い年俸でのプロ入りだったという。入団時の背番号は8だったが、に片岡篤史がFAを行使して入団したため、5に変更された。当初は野村克也が命名したF1セブンの一員として知られていた。には規定打席不足ながら打率.341の成績を残した。同年7月23日の対東京ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)では、11回裏に石井弘寿からサヨナラ適時打を放つなど勝負強さを発揮した。この年は1番を打っていた今岡誠の離脱によって、1番・二塁手で先発出場することがあった。同年9月15日の対広島東洋カープ戦では、1点差に詰め寄る適時打を放ち、最終回でも敬遠されたが赤星憲広がサヨナラ適時打を放ったことでリーグ優勝達成に貢献した。同年の日本シリーズ(対福岡ダイエーホークス戦)では、第7戦に和田毅から三振を喫し、阪神の最後の打者となってしまった。は、この年加入した鳥谷敬の台頭もあって、出場機会が前年の約3分の1に激減。も当初出場機会に恵まれず6月10日にこの年から新規参入し、遊撃手の強化が求められた東北楽天ゴールデンイーグルスへ前田忠節との交換トレードで移籍した。楽天では最初のトレード移籍で、さらに最初の移籍加入選手となった。楽天では離脱した高須洋介と入れ替わる形で、2番・遊撃手のレギュラーの座を獲得する。規定打席には到達しなかったものの、打率.313を記録した。同年8月27日の対西武ライオンズ戦では、延長10回表に安打を放って西口文也の完全試合を阻止した。は楽天の新監督として野村克也が就任し、再び野村の下でプレーすることとなる。開幕こそは2番で迎えたものの、自身の打撃不振、さらには野村曰く「(沖原は)性格的に(2番に)向いていない」と言われたことで下位打順に甘んじただけでなく、遊撃手と三塁手の併用となる。さらには塩川達也・西村弥が台頭したことで交流戦以降は二軍降格となり、そのままシーズンを終える。は開幕戦で9番・遊撃手に抜擢されて復活が期待されたが、同年3月29日に新人の田中将大と入れ替わる形で降格となった。交流戦後に再昇格を果たすが、夏場以降は再び降格して出番がなかった。は開幕を二軍で迎え、5月中旬に渡辺直人の離脱によって昇格を果たすもののすぐに再降格となった。そのまま再昇格することなく同年10月1日に戦力外通告を受け、現役を引退した。引退後は楽天の球団職員として、「楽天イーグルスベースボール・クラブ」のジュニアコーチとして野球指導を行った。その後、に楽天ファームディレクターに就任した。からは二軍打撃コーチ、は二軍内野守備走塁コーチを務めた。からは同球団の北関東地区担当のアマ・スカウトを務める。
出典:wikipedia
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