佐々木 剛(ささき たけし、1947年5月7日 - )は、日本の俳優。本名:福井 憲雄(ふくい のりお)、旧芸名:八代 悠(やしろ ゆう)。新潟県新発田市出身。身長172cm、体重75kg。血液型はA型。新潟県立新発田高等学校卒業。1965年、新潟県立新発田高等学校卒業後、日活のスターだった赤木圭一郎に憧れ、俳優を目指して上京。東宝芸能学校に入るが、『セールスマンの死』の滝沢修の演技に影響され、新劇に転向。劇団NLT俳優教室1期生、劇団俳優小劇場付属養成所を経て、高垣葵の紹介により、新国劇の研究生となる。同期には石橋正次がいる。1968年、養成所時代に八代 悠(やしろ ゆう)の芸名で『開化探偵帳』(NHK)で俳優デビュー。1969年、『柔道一直線』(東映、TBS)出演を機に芸名を「佐々木 剛」に改める。1970年、7月から『お荷物小荷物』(朝日放送)に出演。この番組で、一躍人気俳優としての地位を決定的なものとする。1971年、NHK連続テレビ小説『繭子ひとり』に出演。同年7月より『仮面ライダー』(東映、毎日放送)に出演。撮影中のバイク転倒事故により重傷を負った藤岡弘演じる本郷猛 / 仮面ライダー1号に代わって、新たな主人公の一文字隼人 / 仮面ライダー2号役を演じる。こうして一文字 / 2号が活躍する通称「2号編」は、佐々木が劇中でとる「変身ポーズ」が「真似ない子どもはいない」とまで言われるほどの爆発的なブームとなり、「変身ブーム」と呼ばれる社会現象を引き起こした。1972年、24歳。当初の約束を守り3月をもって『仮面ライダー』を降板し、4月開始の『黒帯風雲録 柔』(日本テレビ)で主人公・矢野浩を演じた。その後、『仮面ライダー』ではゲストとしてダブルライダー編に出演し、後番組『仮面ライダーV3』以降の仮面ライダーシリーズへも多く客演している。1973年、近衛十四郎主演『素浪人 天下太平』(NET)で「うづ巻の勘太」役を演じる。以後、時代劇や刑事ドラマへのゲスト出演を多数こなし、善悪問わず様々な役柄で俳優として活躍。1982年2月15日早朝、34歳。当時の妻と泥酔して自宅アパートに帰宅し、ガスストーブをつけっぱなしで寝入ってしまう。その上にバスタオルが落ちて燃え広がり、自宅アパートだけでなく隣家も全焼する大火災となる。この火災で顔を含む全身の7割に及ぶ大火傷を負い、5度に及ぶ皮膚移植手術で一命は取り留めたものの、顔には俳優として致命的な傷跡を負うこととなった。妻も軽い火傷を負ったものの、3人の子どもは妻の実家に行っていたため、被害を免れている。回復後、仕事を声優活動に切り替え、「新人と同じ扱いでどんな仕事でもこなしていきたい」と望んだが、「ベテランゆえに使いにくい」との理由で仕事は激減。新国劇の師匠からも「役者は諦めろ」と宣告され、長らく俳優業を離れることとなる。治療・入院のための借金返済と生活の維持のため、警備員、チリ紙交換、焼き芋屋、竿竹屋と職を転々とする。1984年、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』(毎日放送)で仮面ライダー2号を演じるが、顔の火傷のために声のみの出演だった。1985年には『仮面ライダー大全集』(講談社刊)収録の座談会に参加し、モノクロ写真ながら久々にその姿を披露した。その後、離婚やホームレス生活を経験し、酒を飲んで暴れたり、一日中パチンコ屋に入り浸るなど、稼いだ金をその日のうちに使い切るような荒んだ生活を送るようになる。1991年、44歳。新国劇時代からの親友・石橋正次をはじめ俳優仲間の支援で、舞台『会津士魂外伝・山本覚馬』にて俳優業への復帰を果たす。この際、長年のブランクのプレッシャーから、「舞台直前に逃げ出したこともあった」と後年告白しているが、これに対して石橋は「怖いと思うのが普通だ」と励まし、無事に務め上げたという。1995年ごろには日光江戸村に所属俳優の演技師範代として在籍し、常設舞台での芝居と並行して若手の指導にあたった。近年は年齢を重ねた押し出しの強い風貌を武器に舞台を中心に俳優活動を展開し、好評を博している。2011年、『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』で仮面ライダー2号の声を担当。映像作品で2号を演じるのは、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』以来となった。2012年、「自分を支えてくれたファンや芝居仲間のため」として、東京都板橋区大山東町に居酒屋「バッタもん」を開業。実質名義貸しのようなタレント不在の店ではなく佐々木が主宰であり、常駐して自ら酒肴を調理し、接客にあたっている。最初の芸名「八代悠」は、師匠の高垣葵から命名されたもの。その後のNHK番組への出演は、高垣の紹介によるものだった。「佐々木剛」の芸名は、『柔道一直線』の出演が決まった際に、「名前だけは強そうにしよう」と、「桜木健一のライバル」ということで、東映の企画部長だった渡邊亮徳が宮本武蔵のライバルである「佐々木小次郎」から「佐々木」の姓を採ってつけてくれた。名前の読みは「剛(ごう)」にしようとしたが、「同じ事務所に若林豪がいたため紛らわしい」との理由から「たけし」の読みに決めた。柔道初段、空手初段。左利き。 小さい頃は身体が弱く、学生時代には空手や柔道、キックボクシングなどに励んでいたが、左利きであることを負い目に感じていたという。ちなみに剣戟による殺陣は右利きのみで、左利きは通常ない。1982年の自宅火事で重傷を負った際、当時の新聞記事には「仮面ライダー、脱出不能!!」などと面白おかしく見出しをつけられた。入院費は友人達が工面してくれたが、手術費の返済、火元であったため自宅アパートの修理費、妻や3人の子供たちの生活費のために警備員、ちり紙交換、竿竹売り、石焼き芋屋などを掛け持ちし、1日16時間も働く毎日だったと語っている。しかし結局、妻子とは別れることとなり、世の中のすべてから見放された気持だったという。この間、親族や関係者とも連絡を断っていたため、父親の葬儀にも参列できなかった。「佐々木とは家族ぐるみで30年来の親友」という石橋正次の呼びかけで、1991年に舞台復帰した。また、子供時代に『仮面ライダー』を観ていたファンと接するようになり、その熱い視線に対し「このまま役者を辞めるのはファンに対して失礼だ」と考えるようになり、ファンを裏切らない生き方をしようと決意したことも復帰の原動力であったと語っている。『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』に出演した際は旧知の平山亨らに佐々木だと気づかれないほどの火傷であったが、長年の皮膚移植治療で顔の傷もかなり回復している。佐々木は「おかげで本当に改造人間になってしまった気分」と語る一方で「火傷による挫折と復帰で、それまでの自分を大いに反省した」と述懐している。歌手としてシングル盤2枚をリリースしている。またCD「石ノ森章太郎・男も泣けるTV主題歌集」(1998年)には佐々木の歌う『仮面ライダー』主題歌「レッツゴー!!ライダーキック」が収録されている。「好きな言葉」として、「我が幸福は今…夢の途上」と書き記している。佐々木は番組途中からの参加であるが、これは主演の藤岡弘が放送開始前の撮影中の事故で出演不可能となったための緊急登板による主役交代だった。藤岡と佐々木は劇団NLT時代の同期で、友人の間柄だったため、当初出演依頼を「彼の役を取りたくない」との理由から一度断っている。しかし『柔道一直線』に出演させてもらった恩を返そうを思い直し、東映プロデューサーの平山亨と「藤岡が帰って来るまで」との約束を交わした上で『仮面ライダー』出演を承諾した佐々木だが、当時はそれ以外にも2本のドラマのレギュラー(内1本は大阪での撮影)を務めていたため、佐々木が『仮面ライダー』のために割ける時間は少なかった。そのプレッシャーから一時期円形脱毛を発症し、それをカムフラージュするためカツラを被って殺陣に臨んだが、ジャンプ等でカツラがずれてしまうため、やがてカツラの上にヘルメットを被るようになった。一文字隼人にヘルメットや帽子着用のシーンが多かったのはこれが理由である。『仮面ライダー』が人気番組となり、『お荷物小荷物』でも劇中で「変身ポーズ」をとるシーンが挿入されたが、佐々木はのちに「他の番組で変身ポーズをとるのは照れくさくて嫌だった」と語っている。多忙な当時は、一文字のカットを先に撮って変身後は後まわしにしたり、「変身ポーズをとってジャンプ後に、『お疲れさま』と言って別作品のロケ地に行った」こともあったそうである。その後、藤岡が主役復帰した際にスタッフから「是非ダブルライダーで引き続き主演を」と依頼されるも、「藤岡君がカムバックするまでという約束で引き受けたのだから、当然、藤岡君に返すべきだ。自分がいたままでは、彼が付録のようになってしまう」と、これを固辞し、当初の約束を守り3月をもって主役を降板した。撮影開始当時、自動二輪の免許を持っていなかったため、本郷猛と同じようにバイクに乗ってベルトに風を受けて変身するシーンの撮影ができない問題があった。佐々木が撮影中にスタッフにその事を話すと、「なんでそんなこと隠してたんだね、酷いじゃないか」と詰め寄ったスタッフに対し佐々木は「いえ、別に隠してた訳じゃ…誰にもそんなこと聞かれなかったんで」と困惑しながら返答したという。もし、無免許の問題で警察に聞かれたら「仮面ライダーだから、国際免許だ」と言おうかと考えていたと言っていた。バイクに乗るシーンは苦肉の策としてトラックの荷台に固定してそれに跨っての撮影となったが、『仮面ライダー』の撮影中に免許を取得し、バイクの上にうつ伏せになって運転する「飛行機乗り」を披露している。また、先述の円形脱毛症の為、鬘やヘルメット着用での撮影となったが、ヘルメットを被ったまま電話に出るシーンについては、後のインタビューで「普通なら聞こえるわけないけど、改造人間だからちゃんと聞こえるんだよ」と子どもたちの夢を壊さないように笑い話として語っている。仮面ライダー2号から取り入れられた変身ポーズは、佐々木が自動二輪免許を持っていないことが理由の1つとして挙げられているが、プロデューサーの平山亨はそれだけが理由ではないと述べており、佐々木自身もそれが理由であるという説明は受けていないと述べている。「変身ポーズ」が、結果として『仮面ライダー』を爆発的な人気作品にすることとなった。第14話で初めて一文字が「変身ポーズ」をとるシーンでは、佐々木が照れてしまってなかなかOKが出ず、最後にはスタッフも一緒になって変身ポーズをとったという(折田至監督の談話による)。本編に使われたOKテイクの変身ポーズも、本来なら上着からベルトを出して変身ポーズを取るところを変身ポーズの途中にベルトを出すという不自然なものになっている。この事について佐々木は「お見せしよう!と言ってもベルトが見えていないんだから(笑)。今なら絶対NGになるはずですけど、当時は予算がなくてフィルム代がもったいないからOKになったんでしょうね(苦笑)。」と語っている。また、当初「変身」の掛け声は正式決定ではなく、折田監督が「アフレコで変更できるから」と現場で叫ばせたものだった。初期の仮面ライダー1号は藤岡弘がスーツアクターも務めていたが、藤岡の負傷降板により2号からは大野剣友会がスーツアクターを担当している。しかし佐々木は『柔道一直線』で撮影を共にした剣友会の苦労を知るためとして、初期数話で2号のスーツアクターを務めている。この時の演技では『素浪人 天下太平』でも用いた左手での剣技を披露している。佐々木は自身でも大変さを実感したことによって剣友会のメンバーに対して感謝の気持ちで後を託すことができるようになったという。『仮面ライダー』でスーツアクターや擬斗を担当した岡田勝は、『仮面ライダーZX』までの主演俳優の中では佐々木の立ち回りが一番上手かったと評価しており、仮面ライダーの立ち回りもやらせたかったと述べている。その後も「仮面ライダーシリーズ」に一文字隼人役で多く出演している。仮面ライダーのオファーは断ったことがなく、「『仮面ライダー』は心の故郷」と語っている。仮面ライダーシリーズの映像作品への出演は1984年のTVSP以降途絶えていたが、2005年にはゲーム『仮面ライダー 正義の系譜』で十数年ぶりに仮面ライダー2号並びに一文字隼人の声を務めた。近年では、仮面ライダー関係のイベントに出演する機会も増えてきており、2009年の『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』製作発表時にはビデオメッセージを送っている。2010年4月4日に行われたイベント『大野剣友会 in 永田町 仮面ライブ:昭和』では、当時の剣友会の面々や速水亮、荒木しげる、高杉俊介と共に出演。舞台上で短い殺陣や「変身」を披露した。2011年1月9日に行われたイベント『SUPER FESTIVAL 55』では、『仮面ライダー THE FIRST』でリメイク版・一文字隼人を演じた高野八誠と共演。さらに、仮面ライダー40周年記念映画『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』で再び仮面ライダー2号の声を担当すると発表した。丸の内TOEIで行われた舞台挨拶では「生身で出られなくて寂しいので、ここで変身ポーズを見せる」として、仮面ライダーV3 / 風見志郎役の宮内洋と共に自ら観客の前で変身ポーズを披露した。『柔道一直線』『仮面ライダー(初代)』『宇宙鉄人キョーダイン』と、長きにわたって仕事をともにした大野剣友会とは旧知の仲で殺陣師の岡田勝は佐々木と同じ左利きで親交も深い。『仮面ライダー(新)』でゲスト出演した時は、あまりの懐かしさにロケ前日に飲みあかし、撮影時は泥酔状態だった。翌日の本番では殺陣担当の岡田に「剛、酔い過ぎだよ。駄目だ、海に入れよう!」と言われたそうで、本番では一文字が海に入って変身している。『仮面ライダーストロンガー』に岬ユリ子/電波人間タックル役で出演していた岡田京子と親交があった。1986年8月12日、持病の喘息の発作のため27歳の若さで死去の報を受けた際には、大きな衝撃を受けたという。
出典:wikipedia
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