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江夏豊

江夏 豊(えなつ ゆたか、1948年5月15日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。奈良県生まれ、兵庫県尼崎市出身。日本記録であるシーズン401奪三振、最優秀救援投手5回などを記録。オールスター9連続奪三振や江夏の21球を演出し、1960年代後半から1980年代前半にかけて日本プロ野球で活躍した。鹿児島県出身の母親が、大阪大空襲で疎開した奈良県吉野郡で父親と知り合い、そこで生を享けた。間もなく両親が離婚し父も失踪したため、生後半年で鹿児島県市来町の母の実家に移って5年間を過ごした後、母と二人の兄と共に兵庫県尼崎市に移り、高校卒業まで尼崎で育った。兄弟姉妹皆父親が違う複雑な家庭であり、江夏姓も母方の姓だった。なお、江夏とは南九州に多い姓で、本来は『こうか』と読む。霧島酒造を創業したのは祖父だという。子供の頃には、近所の子供達と粗末な道具で野球を楽しんでいた。そんな折に兄から「お前は左でやれ」と左利き用のグラブを買い与えられ、右利きであったにもかかわらず強制的に左利きへと矯正された。中学生となってからは一度野球部に入部するが、入部2か月を経ても球拾い程度で練習をさせてもらえないことに不満を抱き上級生に直訴、これが乱闘騒ぎとなってしまい野球部を退部となる。この時、野球部の監督だった教師から「野球はいろんなスポーツの結晶だから、いろんなスポーツを体験しろ」と諭され、バレーボールやラグビー、相撲などを経験、最終的に陸上部に落ち着いた。陸上部では砲丸投の選手として活躍し、県大会で準優勝したこともある。本格的に野球を始めるのは、当時は弱小野球部だった大阪学院大学高等学校に入学してからのことである。高校時代は制球に難があり、またそれを理由に変化球を一切教えられてこなかったが、球威のある直球と様々な駆け引きで活躍。3年時(1966年)の夏の甲子園府予選では準決勝に進出するが、後に阪神の同僚となる桜塚高の奥田敏輝投手と投げ合い0-1で惜敗。しかし予選7試合を1人で投げ、わずか3失点という成績を残した。この時の活躍がプロのスカウトの目に留まり、「直球もよいが、なかなか頭の使える選手だ」として1位指名に踏み切らせるきっかけとなった。なお、高校時代には一度も柵越えのホームランを打たれたことがなく、唯一平野光泰(明星高校)にランニングホームランを喫したのみである。江夏は高校時代を振り返って、衝撃的だった出来事として鈴木啓示との対戦を挙げている。大阪学院大学高校は江夏が2年生の時、鈴木を擁する育英高等学校と練習試合をして延長15回0-0の引き分けに終わった。この試合で、江夏が15イニングを投げ抜き15奪三振を挙げる好投を見せた一方、育英の3年生エースだった鈴木はそれを大きく上回る27奪三振をマーク。4番打者として打席に立った江夏は、速度のある直球と落差の鋭いカーブに手も足も出ず、「1球もかすらなかった」と述懐している。この時以来、カーブを習得したい願望が芽生えたという。、この年の第1次ドラフト会議において、阪神タイガース、読売ジャイアンツ、東映フライヤーズ、阪急ブレーブスの4球団から1位指名を受けての競合抽選の結果、指名権を獲得した阪神へ入団した。江夏は球団から、「1」、「13」、「28」のどれかを自身の背番号として付けることを勧められた。「1」は「ライバルであった鈴木啓示と番号が被る」という理由から拒否。「13」は「なんとなく縁起の悪い数字だから」という理由で拒否。消去法で「28」を選択したということが2014年12月30日放送の『背番号クロニクル』(NHK BS1)で語られている。ちなみに同番組内では、28が完全数であることが紹介されているが、江夏本人は「完全数って何なのか、それすら僕は知りませんでした」と語っている。入団1年目の春季キャンプでは、高校時代まで投げられなかった変化球を習得するため権藤正利ら先輩投手に教えを請うたが、どの投げ方も習得できないまま公式戦に突入。それでも豪速球を武器に225奪三振を挙げてシーズン最多奪三振を記録したが、その一方で与四球や被本塁打も多く、打撃力に乏しい当時のチーム事情も重なって12勝13敗と負け数が上回り、新人王のタイトルも、武上四郎に阻まれ獲得はならなかった。ただ、球団とは1勝10万円のインセンティブ契約を結んでいたため、年俸相当の収入を得たという。のキャンプでは、新たに投手コーチとなった林義一によって、砲丸投げの影響だったいわゆる「担ぎ投げ」の癖を矯正され、変化球も教え込まれた。これによりコントロールと球種の幅を身に付け、この年は開幕から前年を上回るペースで奪三振と勝利を挙げた。この年を境に江夏は、血行障害に悩む村山実に代わる阪神のエースとなり、球界を代表する投手へと成長していった。この出来事以降江夏は、温厚で真摯に教えてくれた林のことを「お師匠さん」と呼び慕っている。プロ入り当初は、村山実のストイックな野球観に感銘を受けて「弟子入り」を決意、練習からロッカールームに至るまでそばにつき、村山の一挙手一投足を観察していた。しかし江夏が初年度から新人離れした成績を挙げると、村山は江夏を露骨に遠ざけるようになったという。これに対して江夏は当初、エースの座を奪われそうになった村山の器量の狭さゆえの行動だと憤慨していたが、後に自分を一人前の投手として認めてくれたがゆえのものだったと気付き、「あれが本物のプロ、勝負師のあり方だと教えてもらった」と自著の中で語っている。ルーキー時代の江夏は、当時監督だった藤本定義に非常に可愛がられた。かつては鬼監督として数々の名選手を厳しく育て上げた藤本だが、野球人として最晩年にさしかかっていたこの頃は好々爺然としており、江夏と茶を飲みながら球界の昔話をのんびり聞かせるのを好んでいた。江夏は藤本のことを陰で「おじいちゃん」と呼んでいた。ところが、オールスターゲームでルーキーの江夏を3連投させた川上哲治(当時巨人監督、川上は選手時代は藤本の教え子だった)に対し、オールスター明けの巨人戦で阪神のベンチに呼び出し、「おい、哲、うちの豊(江夏のこと)を乱暴に使いやがって、この馬鹿野郎!」と普段とはまったく別人のような剣幕で叱りつけたことがあった。江夏にとって厳しい大監督である川上が、直立不動の姿勢で好々爺の藤本に怒鳴られているのを目の当たりにした江夏は、鬼監督時代の藤本が突然蘇ったことに心底驚いたという。藤本と江夏の交友は藤本の退団後も続き、江夏が阪神から南海にトレードされた時には、藤本はショックで号泣し体調を崩していた。また広島時代に江夏が自身初の優勝を決めた時には、既に高齢のため歩行もままならなかったにも関わらず、藤本が広島のベンチ裏まで訪れて「豊、本当によかったなあ、おめでとう」と江夏を涙ながらに直接祝福していた。1968年9月17日、甲子園球場における対巨人戦で、稲尾和久の日本記録を塗りかえるシーズン354奪三振を記録。試合に先立って江夏は、日本記録更新となる354個目の奪三振を「王(貞治)さんから取る」と公言していたことが当日の新聞に載っている。そして試合では、日本記録タイとなる353奪三振を王の打席で記録したが、江夏本人はこれで日本記録を更新したものと勘違いをしており、ベンチに戻ってから捕手の辻恭彦にそれを指摘されて初めて気がついたという。そこで後続の打者は全て意図的に凡打で打ち取り、再び王の打席が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業を実現してのけた。江夏によると、「森(昌彦)さんと高橋(一三)さんからは三振を取らないようにするのが、むしろ大変だった。特に高橋さんを2ストライクまで追い込んだのが一番困った」という。しかもこの試合では、延長12回に自らサヨナラヒットを放って試合に勝利を収めている。この試合の様子にも表れているように、江夏は王から三振を奪うことに取り分けこだわっていた。これは村山実が節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似たものである(新人時代に村山がONを指さして「お前の相手はあれ〔王〕、俺はこっち〔長嶋〕や」と、王をライバルとするよう命じられたともされている)。これ以降も江夏は王との勝負に固執し、通算で57個もの三振を奪ったが、直球で勝負を挑んでいたために20本の本塁打も打たれている。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を打った打者もまた王である。そしてこのシーズン、江夏は最終的な奪三振記録を401個にまで伸ばした。これは現在でも日本プロ野球記録であり、また世界記録として認定されていないものの、MLB記録(ノーラン・ライアンの383個)をも上回っている。7月17日、阪急西宮球場で行われたオールスターゲーム第1戦で、速球と正確なコントロールで打者のバットにことごとく空を切らせ、初の9者連続奪三振を記録した。オールスターゲームは、投手は規定で3イニングまでしか登板できないため、これは1試合における事実上最高の奪三振数であり、現在でもオールスターにおける単独記録である。この後全セは、江夏の後を受けて登板した渡辺秀武、高橋一三、水谷寿伸、小谷正勝の継投で全パを1四球1失策16奪三振で無安打に抑えて、継投によるノーヒットノーランを達成している。この9連続三振の前年には連続5三振、翌日には1三振を奪っており、この3試合を合わせた連続15奪三振もオールスター記録となっている。更にこの試合で江夏は、の巽一に次ぐ史上2人目となる、オールスターでの投手による本塁打を放っており、これを最後にオールスターにおける投手による本塁打は記録されていない。この試合で、キャッチャーフライを追った田淵幸一に「捕るな!」と叫んだとされているが、実際には、スタンドに入るだろうしテンポ良く投げたかったため「追うな!」と叫んだものであると、江夏は著書の中で語っている。この9連続奪三振を達成した時のボールは、江夏の手元にはない。これはこの時キャッチャーを務めていた田淵が、三振のコールを聞くと同時に無意識にボールを放り投げてしまい、そのために行方が判らなくなったためとされている。当時の映像でも、田淵がコールの確認直後に立ち上がり、ベンチ方向へと歩き出しながらボールを後方に放り投げる様子が確認できる。ただ、後年江夏が番組で王理恵と共演した際には、「(三振のあと)田淵というキャッチャーはボールを放り投げてしまった。でも君のお父さん(王貞治)が拾ってくれてスっと渡してくれたんだよ」とも述べている。8月30日の中日ドラゴンズ戦では、史上59人目となるノーヒットノーランを達成。この試合で江夏は松本幸行と延長戦まで投げ合い、11回裏に松本からの初球をライト側ラッキーゾーンに運び「自らサヨナラホームランを放つ」という劇的な形で、日本プロ野球史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成した。2015年現在、日本プロ野球で延長戦ノーヒットノーランを達成しているのは江夏だけである。この試合の後、江夏のコメントが「野球は一人でもできる」と歪曲されて報道され物議を醸したが、自身はこれについて一切の否定をせず、それが非難に拍車をかけるかたちになった。また、この試合を実況した朝日放送のアナウンサーが興奮のあまり「バンザーイ! 江夏大バンザイ!」と万歳を連呼、公平性を欠くと注意を受けるという後日談もあった。上述のように華々しい記録を樹立し続けたのみならず、最多勝利(1968年・1973年)、最優秀防御率(1969年)、最優秀投手(1968年)、沢村賞(1968年)のタイトルも獲得。20勝以上4回、6年連続リーグ最多奪三振も達成し、4年目のには通算1000奪三振を記録。これは、通算奪三振の日本プロ野球記録保持者・金田正一を上回る最短記録であった。このように名実共にセ・リーグを代表する投手として活躍した江夏だったが、当時は巨人が前人未到の9連覇を成し遂げている真っ只中であり、優勝戦線に加わることはあったものの、ペナントをその手にすることは遂にできなかった。中でも9連覇を許した1973年は、あと1勝すれば優勝という10月20日(129試合目)の対中日最終戦に先発し、5回3失点と打ち込まれて敗戦投手になったことから、優勝を逸した元凶とまで言われることとなった。またこの試合については、直前に長田睦夫球団代表と鈴木一男常務から「優勝すると金がかかるから残り2試合で勝ってくれるな」「金田正泰監督も了承しているから」などと言われたと、『左腕の誇り』など自著に綴っている。1973年シーズン終了後、権藤正利と鈴木皖武それぞれによる二度の金田監督殴打事件が発生。これは普段から二人を愚弄する発言を続けていた金田に対する不満が爆発したものであるが、二人と同じく金田に対する確執のあった江夏は、これに乗じる形で「金田監督の下ではプレーできない」と表明し、金田の方も「江夏を抱えてチーム作りをする自信がない」として辞意を表す事態となった。この時は戸沢一隆球団社長が仲裁に入り、最終的には両者ともチームに残留することとなったものの、確執の解消には至らなかった。また、翌オフに金田に代わって就任した吉田義男監督とは、吉田が現役だった頃から性格が合わなかった。そのため監督となった後も関係は良好とは言い難く、親しいコーチだった辻佳紀が間に入ることでようやくコミュニケーションが取れる状態だったという。これらの事情から「一匹狼」といった異名をつけられ、マスコミにチーム首脳やフロントとの対立がクローズアップされるようになった。またの黒い霧事件に続く騒動に不本意ながら巻き込まれたことも、江夏へのマイナスイメージをファンに植え付けることとなってしまった。からは血行障害や心臓疾患(心室性期外収縮)が悪化し、肩痛・肘痛を抑えるために服用していた痛み止めなどの影響で体重も激増。同世代のライバルであった巨人・堀内恒夫に先んじて通算150勝を達成するも、成績は年々下降していた。そして1月28日、球団事務所へ呼び出された江夏は、江本孟紀・島野育夫らとの交換トレードで南海ホークスへの移籍を宣告される。フロント主導で一方的に決められたトレードで、会見の場で江夏は涙ながらに無念を語っていた。なおこのトレードの際、江夏は交換相手の江本に関し「なぜあんなレベルの選手と(俺が交換させられるのか)」とぼやき、それを聞いた江本が「言いたい放題言いやがって」と激怒、一触即発の状態に陥った。しかし後に和解して良い友人となり、後年江夏の刑事裁判において情状陳述をするまでの関係になっている。当初は南海ホークスへの移籍に拒否感を示していたが、野村克也選手兼任監督と会った時にその野球観に深い感銘を受け、南海での現役続行を決意する。感銘を受けたきっかけは、10月1日の対広島戦を観戦していた野村が、走者満塁で打者衣笠祥雄という場面で、江夏がカウント3ボール2ストライクから意図的にボール球を投げ空振り三振を奪ったことを看破、それを直接指摘してきたことだったという。移籍1年目は先発として登録されたが、血行障害や心臓疾患などで長いイニングを投げられず、思うような成績が残せなかった。試合中によく心臓病の発作が起きて動けなくなり、監督の野村がハラハラすることもよくあったという。しかし抜群の制球力は健在であったため、50球程度の短い投球回なら十分に戦力になると考えた野村から、リリーフへの転向を何度となく打診された。当時はリリーフ投手の地位が極めて低かったため、江夏は当初「トレードの上に今度はリリーフと、何で自分ばかりに恥をかかせるのか」と反発し続けていたが、「野球界に革命を起こそう」という野村の説得が決め手となり、6月にリリーフ投手へと転向を決意。この年19セーブをあげ最優秀救援投手に輝き、日本野球界におけるリリーフ投手のパイオニアとなる。江夏は後に、「ムース(野村)の『革命』という言葉が心に響いた。革命と言われなかったらリリーフ転向は受け入れなかったと思う」と語っている。当時の日本にはリリーフ専門投手の調整法というものが確立されておらず、ずっとベンチに座って待機していることが腰痛持ちの江夏には辛かったことから、知り合いの記者にメジャーリーグでのリリーフ投手の調整法などを聞き、自己流の調整を始めた。試合が始まっても5回までベンチに入らず、ロッカールームでマッサージを受けたり睡眠を取ったりする調整法は、当時チーム内や球界で非難を浴びたが、今日ではこれらは全試合待機を義務付けられるリリーフ投手のコンディション維持方法として定着している。この南海時代以降、阪神時代の豪腕は鳴りを潜めたが、打者との綿密な駆け引きと変化球を巧みに使い分ける技術を身に付けていった。探りを入れるために初球をボールにする事も厭わぬ その投球術は、金田正一をして「現役時代の自分を上回る」と言わしめた。なお、吉田義男は阪神監督時代に、長いイニングで球威が落ちるようになった江夏に抑え投手への転向をそれとなしに打診したが、当の江夏にはその気はなかったと語っている。南海時代は野村監督に傾倒し、自宅が近所同士だったこともあって家族ぐるみの付き合いをしていたという。江夏が夜遊びで帰宅が遅いときは、野村がまだ幼い江夏の娘を自宅の風呂に入れたりするというような野村の気遣いもあった。江夏が野村を慕うようになったきっかけは、江夏は上述の移籍交渉における指摘だったと語っているが、一方の野村は、この出来事はあくまでホークスへの移籍を決意した要因に過ぎないとしている。野村によると、江夏が自分を慕うようになったのは、江夏の意図的とも思える制球ミスで負けた試合の後、黒い霧事件を引き合いに出して「疑惑を持たれた人間が、自分は潔白だと口で何度言ったところで誰も信じない。マウンド上での態度で示せ」と厳しく叱責したところ、これに対して「阪神時代はそんな言いにくいことを言ってくれる人はいなかった」と感激したことだったという。江夏は今にいたるまで「野球に関しての見識は間違いなく球界一の人物」と野村を評し、また野村も江夏のことを「自分が接した投手では一番の頭脳をもった奴だった」と高く評価している。オフ、野村監督の解任に際して「野村さんがやめる以上出してください」と発言。金銭トレードで広島東洋カープへ移籍し、広島でもリリーフエースとして活躍する。この広島時代、江夏の投球術はますます冴え渡り、打者心理を読み込んだ上で、ボールのスピードだけでなくモーションの変化によっても緩急を加えることで、打者を大きく翻弄していった。それによって、のチーム2年連続日本一に大きく貢献、『赤ヘル黄金時代』を築く大きな原動力となった。1979年には、自身初、そして日本のリリーフ投手でも初となるシーズンMVPに輝いている。そのピッチングの最大の面目躍如となった場面が、近鉄バファローズとの対戦となった1979年の日本シリーズ最終第7戦(大阪球場)である。1点リードの9回裏に無死満塁のピンチを自ら招くも、一死からのスクイズを見抜くなどして近鉄の反撃を鮮やかに断ち、広島を日本一に導いた。この時の様子は、後に作家の山際淳司が『江夏の21球』という短編ノンフィクションに記し、現在ではプロ野球史屈指の名場面として定着している。1980年7月22日オールスター第3戦(後楽園球場)では、2-0とリードしたセ・リーグが9回裏に1点差に詰め寄られ、無死満塁のピンチに陥った野村収(大洋)をリリーフ。後続のレロン・リー、有藤通世(ともにロッテ)、山内新一(南海)を3者連続三振に打ち取り、先制打を打った真弓明信、ホームランを打った掛布雅之を抑えMVPを獲得。「9連続三振の再現」「江夏の21球の再現」と話題になった。ただし、江夏は後年、「実は、前の日にあるお偉いさんと漢字の勉強(徹マン)をしてた」と語っている。一方で広島時代には、古巣である阪神との試合では1度も勝利投手になれなかった。その結果、現役通算での全球団勝利を逃してしまっている。この時のチームメイトだった衣笠祥雄とは無二の親友であり、現在でも交流が深い。著書によると「広島時代は、嫁さんといる時間よりサチ(衣笠)といる時間の方が長かった」という。またこの時期、大野豊にフォーム改造などの熱心な個人指導も行い、後の大野の成長の礎を作り上げた。また広島フロントの選手の扱いも非常に厚いもので感動したと江夏は著書で語り、「最も愛着があるのは最初にユニフォームを着た阪神時代だが、最も楽しかった時代は広島時代」とさえ述べている。しかしその反面、球団首脳部からの評価は決して高くなかった。特に古葉竹識監督からは、高い成績を残しても特別な労いの言葉がなく、江夏も様々な場面での起用法などについて確執があり、これが退団の動機の一つとなったという。ただ古葉との確執は、のちの西武時代の広岡達朗との確執ほど大きいものではなく、江夏も古葉そのものについてはそれほど否定的な発言をしていない。1980年、日本ハムファイターズはパ・リーグ後期シーズンで優勝争いを演じた。自らのチーム強化に手応えを感じた大沢啓二監督は、リリーフエースを求めて広島へ江夏の獲得を自ら打診。同年オフ、先発エースだった高橋直樹とのトレードで、江夏のファイターズ移籍が決定した。大沢の親分肌は江夏の気性に合っていたようで、大沢も「江夏を最後に使うのが我がチームの勝ちパターン」として江夏を信頼、それに応えるように移籍1年目の、リリーフエースとしてチームの19年ぶりの優勝に大きく貢献し、シーズンMVPに輝いた。両リーグでのMVP受賞は、プロ野球史上初めてのことであった。また、広島時代の1979年からまで5年連続、セパ両リーグに跨って最多セーブ投手のタイトルを獲得し、同時期、12球団全てからセーブを挙げる史上初の記録も作り上げた。、通算200勝を達成し、日本プロ野球名球会に入会。1982年、後期優勝を果たした日本ハムは、前期優勝した広岡達朗監督率いる西武ライオンズとプレーオフで対決。事前予想では、ライオンズ打線がシーズン通して江夏に完全に封じ込められていたことから、ファイターズが優勢であるという見方が態勢であった。しかし広岡は、プレーオフで江夏の攻略法を徹底的に研究し、投球した後の守備に大きな難があるという江夏の欠点を突くために、江夏の周辺に執拗なプッシュバントを仕掛けさせた。これによってリズムを崩した江夏はライオンズ打線に打ち込まれ、その結果、ファイターズはプレーオフ敗退を喫し日本シリーズ出場はならなかった。この出来事がきっかけで江夏は、広岡の戦略眼の鋭さに尊敬の念を抱くようになる。前年日本一になった広島から移籍してきた事もあり、当時の日本ハムのチーム力はとてもお粗末なものだったという。この時、チームメイトだった大宮龍男、岡部憲章、間柴茂有、坂巻明など、大沢監督に頼まれ指導したといわれる。当時の事を振り返り、彼らと一緒に野球をやって自分自身勉強になったと後述している。オフ、大沢監督が勇退し、新監督として植村義信が就任。植村のチーム構想から外れていたこともあって、江夏のファイターズからの放出が決定した。江夏はこの時大沢から「一緒に退団してくれないか」と言われたと語り、大沢は「俺は監督を辞めようと思っている。お前もよそのチームでやり直した方がいい」と退団を持ちかけたとされている。移籍に当たって江夏は、球団常務となる大沢に希望球団を聞かれ「広島とか阪神とか、巨人を倒すチームだったら行ってもいい」「西武も嫌である」と答えていた。しかし、柴田保光・木村広とのトレードで西武ライオンズへの移籍が決定。これは、巨人が江夏獲得に乗り出してくると見た西武が、巨人に取られる前に自分の所に引き入れようという意図によるものであったと、後に坂井保之(当時の西武球団代表)は語っている。また大沢も、江夏に移籍を勧めた際にはすでに西武から申し入れがあり、西武の広岡達朗監督の厳しさを知る方が江夏のためになると考えたと述べている。、江夏は開幕から調子が上がらず、シーズン途中で体調不良を訴えた。広岡は江夏の体調の報告が再三にわたって大きく食い違うことに不信感を抱き、二軍落ちを宣告し入院を命じた。その一方で江夏も、二軍落ちの決定を広岡本人ではなく新聞報道によって知らされるなど、広岡が選手とコミュニケーションをとらないことに不満を募らせていた。そしてこの年、チームは優勝争いから脱落、シーズン途中で早くも将来を見据えての若手中心の選手起用を行っており、7月12日の登板を最後に、江夏に出番が与えられることはなかった。江夏は史上初の通算200セーブ、通算3000奪三振を目前にしながら、同年限りで西武を退団し、現役引退を表明。球団主催の引退試合は行われなかったが、多摩市一本杉公園野球場にて、Number誌編集部主催、名球会協力の下、「たったひとりの引退式」を行った。この引退式の引退挨拶で、メジャーリーグ挑戦の意志を表明し、「江夏豊36歳、本当にバカな男かも分かりません。ですが、日本に帰ってきたときには、たった一言、ご苦労、それだけ言ってやってください」と語っている。江夏の西武退団の直接的な原因は、広岡監督との確執であった。自著によると江夏は、事前に野村に言われていたことでヘッド格の森昌彦バッテリーコーチの言うことはよく聞いたが(野村と森はチームをこえて長年の親友である)、広岡とはまったくそりが合わなかった。衝突の決定的な要因は、1984年、オーナー陣も参加したキャンプ朝食会の席で、健康のための栄養学に重きを置いて玄米や豆乳を選手に普段から強制する広岡の前、他のコーチや選手がいる中で、「ねぇ監督、こんなもの食べて何で痛風なの?」と問いかけ広岡の怒りを買ってしまい(当時広岡は自身の肉食を制限しておらず、スパイクが履けないほど痛風に悩まされていた)、それ以後出場機会が減らされたとされている。そういった事情から江夏は、広岡について「人間的に許せない所があった」と語っていたが、その一方で日本ハム時代に西武から受けた執拗なバント攻めなどから広岡の野球観を高く評価しており、「人間としては問題があっても、野球という面では教えられることが多かったし、素晴しい指導者」と、監督としての広岡を今でも高く評している。広岡の方も「江夏は投げることに関しては素晴らしかったし、何といっても抜群に頭がいい」と今なお江夏を評価している。翌、ミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに参加。「アメリカでの野球生活を終えて日本に移るメジャーリーガーが多い中、日本での野球生活を終えて36歳でメジャーに挑戦するルーキー」として地元マスコミからも注目された。キャンプでは順調に結果を出し、オープン戦でも好調を維持して開幕ロースター入り最終選考まで残るものの、最後の最後で調子を落とし、開幕メジャーリーグとはならなかった。この時、球団からはマイナー契約を打診されていたが、実質的には戦力構想外であったという。また当時のブルワーズの発表によると、やはり36歳という高齢がチーム編成においてネックであったとされており、本人も「そこまでやる気はない」として、現役を完全に退いた。この時江夏と最後までメジャー枠を争ったテディ・ヒゲーラは、この年に投手として15勝、翌年は20勝を挙げる活躍を見せた。後にヒゲーラが日米野球で来日したとき、かつてはビールを買う金すら持ち合わせていなかったヒゲーラの生活の変わりぶりに、江夏は「これがアメリカンドリームか」と驚いたという。渡米の際には、現役時代につけていた日記や試合ノートを全て焼却したと語っている。現役を引退した後は、日本テレビおよび朝日放送解説者、東京中日スポーツ評論家を務めた。そのかたわら、映画、テレビドラマ、バラエティ番組に出演するなど、タレント・俳優としても活動していた。1993年3月2日、覚醒剤所持の現行犯で、覚せい剤取締法違反により逮捕される。逮捕数日前まで日本ハムファイターズの臨時コーチをつとめていた。起訴された犯罪事実は、覚醒剤水溶液約0.25mlを左腕に注射した覚醒剤の使用と、覚醒剤合計52.117g及び覚醒剤水溶液約0.5mlの所持である。さらに、判決では「大量の覚せい剤(約100グラム)を入手したうえ本件で検挙されるまで数年にわたって使用し続け、昨年9月ころからは同居していた女性にも勧めて一緒に使用させるなどしながら」犯行に至ったことが示された。そして、「覚せい剤の所持量は52グラム余と自己使用のためのものとしては稀に見るほど大量」及び「同居していた女性は、覚せい剤使用の罪で有罪判決を受けており、そのきっかけをつくった」と指摘され、「到底、刑の執行猶予を相当とする事案とは認められない」として、初犯ながら懲役2年4か月の実刑判決となった。この使用経験について、江夏本人は、2016年の清原和博の覚醒剤事件に際してコメントしている。現在はテレビ大阪解説者を務めており、わかりやすく明晰な技術論で高い評価を得ている。選手を君付けで呼ぶ野球解説者のはしりで、これは野球選手という職業へのリスペクトからであると本人は語っている。また、週刊プレイボーイ(集英社)で『江夏豊のアウトロー野球論』を連載中。2007年まで週刊ベースボール(ベースボール・マガジン社)で『江夏豊の球界にんげん交遊伝「球人蔵」』も連載していた。野球選手としては、マスターズリーグの東京ドリームスやモルツ球団に所属。2015年には、阪神の一軍春季キャンプで臨時コーチを務めた。2016年には、阪神の二軍春季キャンプで臨時コーチを務めた。高校時代に練習試合で対戦して以来、鈴木啓示と親交が深い。その一方で、鈴木と確執のあった野茂英雄から師匠として慕われていた。かつて近鉄バファローズにおいて鈴木監督とエースだった野茂との衝突が取り沙汰されていた頃、江夏はこれについて「トレーニングに関する野茂の主張も分かるが、自らの経験から考えると鈴木の言う事も全て間違っているわけではなく、この件だけは野茂と同調できない」と自著の中で述べていた。司馬遼太郎作品を愛読し、中でも「燃えよ剣」をお気に入りとして挙げている。その理由は、刀一本で戦う新撰組と左手一本で戦う自分、更には作品の主役土方歳三の最期の地である函館と、自身が現役最期にメジャーリーグに挑戦した地であるアリゾナが妙に重なって思えたことと、登場人物のある一人の女性が非常に魅力的に思えたことだという。酒は飲まない。体質的に受け付けないわけではないが、阪神時代に主治医から「今の無茶な生活を続けていれば、間違いなく数年以内に命を落とす。酒、タバコ、女、麻雀、どれかを止めろ」と言われて酒を断つことを選び、そのまま現在に至っている。ただし、どうしてもタバコだけはやめられないことを、ニュースステーションのコーナー「最後の晩餐」内で話している。1980年には歌手として『俺の詩』というレコードをリリースし、7万枚を売り上げた。江夏は1960年代後半から1980年代前半にかけて、先発・リリーフとして最も高い評価を受けた左腕投手である。捕手として実際に投球を受けた伊東勤は、その高い制球力と、リリースの際に指先の操作だけで瞬時にコースを変え、しかも捕手が捕りやすいところへ投球する並外れた技術のみならず、三塁ランナーの動きを見ずサイン交換もしていないのにスクイズを見抜いてボールをウエストさせた的確な判断力に驚嘆したと語っている。セーブ記録が採用される以前の年(1967年~1973年)は合計で37セーブをあげている。ねじめ正一の著書『落合博満 変人の研究』の対談の中で、江夏は「一番攻めにくい打者はある球種をひたすら待つ者」と語り、その典型として落合博満の名前を挙げている。現役時代のある日、江夏が落合と麻雀を楽しんでいた時、江夏は「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ、お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と落合に説いた。その後、1982年のロッテオリオンズ戦で落合と対戦。結果は江夏が三振を奪ったものの、この打席で落合はカーブ以外の球種には見向きもせず、後年この試合を振り返って江夏は「落合の成長を見て、非常に感慨深いものがあった」と語っている。江夏はファンの間でも今なお『20世紀最高の投手の一人』との呼び声が高く、広島・日ハム時代に大車輪の活躍を見せてチームを優勝に導いたことから『優勝請負人』の異名も取った。Yahoo! JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門では、沢村栄治・金田正一・稲尾和久ら往年の名投手を抑えて1位に選出されている。薬物に手を出し、自ら指導者の道を断ってしまったことを悔やむ声は多い。また現在の選定方式で江夏が選ばれることはもうないが、野球殿堂入りを熱望するプロ野球関係者も多い。無類の阪神ファンである作家・小川洋子の『博士の愛した数式』(第1回本屋大賞受賞)では、その背番号(28、完全数)の持つ意味を題材に、著者から熱烈なオマージュを捧げられている。江夏本人も、この作品が映画化された際にコメントを寄せている。ルーキー時代、王貞治に「豊のカーブは解っていても打てない」「曲がらないから」などと言われた。

出典:wikipedia

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