佐野 元春 (さの もとはる、1956年3月13日 - )は、日本のロックミュージシャン、シンガーソングライター、音楽プロデューサー、ラジオDJ。東京都出身。1980年にシングル「アンジェリーナ」でデビュー。1980年3月21日、シングル「アンジェリーナ」で歌手デビュー。詩人としてのメッセージを内包した歌詞、多様なリズムとアレンジ、ラップやスポークン・ワードなどの新しい手法を実践し、さまざまなジャンルの音楽を折衷させた曲を数多く発表して作品の商業的ヒットに関係なく高い評価を得ている。現在は独立系レーベル「Daisy Music」を主催し、インターネットを通じた音楽活動などでも先駆的な試みを続けている。東京都千代田区神田生まれ(出身は台東区の浅草寺に近い下町)。当時の家族構成は本人、両親、妹が一人。父は会社の経営者で、母は元新劇女優で青山のレコード喫茶店のマスター。中野区立第四中学校入学前後に、友人からトランジスタ・ラジオをもらい、HOT100系のポップスやブリティッシュ・インヴェイジョン系のロックに傾倒。中学1年の夏にザ・フーのピート・タウンゼントのギター姿に憧れ、のちにアルバイトで資金を貯めてギターを購入。この時期に詩にもはまり、ランボーやマラルメなど愛読。中学2年の初夏にヘルマン・ヘッセの「赤いブナの木」にメロディを付けたものが初の自作曲になる。立教高等学校(現・立教新座高等学校)1年の夏にボブ・ディランを知り、強い影響を受ける。ディランが影響を受けた文学を探っているうちにジャック・ケルアックを知り、ビート・ジェネレーションに傾倒。15の時の3大ヒーローはボブ・ディラン、J・D・サリンジャー、ジャック・ケルアックだったという。高校2年になってようやく音楽部に入部、ピアノを始める。この頃、吉祥寺の「ジョージ組」なるバイク集団に所属、この時期に無謀運転で2回交通事故を起こしている。高校3年の7月、実家の引っ越しに同行せず一人暮らしを始め、夏休みに横浜で出会ったモダン・ダンサーに強い影響を受ける。同年12月、音楽部が母体のバンド「バックレイン元春セクション」を結成。結成当時は5人編成だったが、まもなく同級生の妹であるMANNAが加入し、6人編成になる。1974年4月に立教大学社会学部に入学。バックレイン元春セクションの活動は続き、初夏にヤマハポピュラーソングコンテストに応募する際にホーンセクションが4人加入。ボーカル・ピアノ(佐野)、キーボード(MANNA)、ツインギター、ドラム、ベース、ホーンセクションという10人編成の大所帯バンドになる。ポプコンでは「Bye Bye C-Boy」を歌い杉真理らを抑えて関東・甲信越地区代表になるが10月の本選会では無冠で、同時にバンドの維持が不可能になったために解散(一説には主催者を誹謗する発言をしたためにノミネートから外されたと言われている)。同年11月に慶應義塾大学の学園祭のミニコンサートに出演した時に佐藤奈々子と知り会い、彼女にボブ・ディランを聞かせるなどの音楽的教育を施す。この時期に全くの別メンバーでバックレイン元春セクションを再度立ち上げようとしたが、ハイ・ファイ・セットにドラムとベースを引き抜かれたことをきっかけに自然消滅し、翌1975年冬からは佐藤と共に音楽活動を始める。同年末に佐藤が大学主催の女性シンガーソングライターのコンテストに出場した際に「鋼渡り」という曲を共作し、翌1976年3月に優秀賞を受賞。同年秋に佐藤のデビューが決まってからは自身の音楽活動の他、佐藤の裏方としてプロデュース・マネージメント活動を行う。1977年、佐藤奈々子のアルバム『Funny Walkin'』、『Sweet Swingin'』にも参加。この時期、佐藤の所属事務所の代表小坂ペン(小坂忠夫人)の紹介で小坂忠と知り合い、CM音楽の録音、ブレッド&バターのテレビライプでのコーラス、「ムキムキマンのエンゼル体操」の録音(キーボードで参加)などを手伝う。1978年に当時使用していたスタジオのエンジニアの薦めで再びヤマハポピュラーソングコンテストに出場。「Do What You Like-勝手にしなよ」を歌い、関東・甲信越地区代表になり、5月の本選会では優秀曲賞を受賞。同年秋に生活費・学費を稼ぐため広告代理店に入社、間もなく真野響子のラジオ番組の制作担当になる。1979年に立教大学を卒業し、この時期からEPIC・ソニーのプロデューサー小坂洋二から熱烈な勧誘を受け始める。同年秋、真野のラジオのためのアメリカ取材旅行の直後に制作担当から外されて間もなく退社。この時期に小坂の勧誘を受諾してデビューが決まる。同年末に小坂の紹介でフォーク・ニューミュージック系の芸能事務所ヤングジャパンと契約。ヤングジャパン初のロック・ミュージシャンとなる。1980年2月からレコーディングに入り、そこで伊藤銀次と知り合う。同年3月21日にシングル「アンジェリーナ」(EPIC・ソニー)でデビュー。同年4月7日から始まった音楽番組『ファイティング80's』(TVK)のレギュラーに抜擢される(デビュー後の初ライブはこの番組で、日本電子工学院ホールにて収録)。同年4月21日にアルバム『BACK TO THE STREET』を発表。6月から横浜舶来屋で定期的に、7月からルイードで月一で『ファイティング80's』のバックバンドとともにライブを始める。8月にマネージャーが交代したことを機に、ヤングジャパン所属ミュージシャンの前座(アリス、岸田智史、ばんばひろふみなど)の仕事が増える。10月6日のワンマン・コンサート(横浜教育会館)の打ち合わせの際にバックバンドの名前を「THE HEARTLAND」に決定。同年末にプロデューサー小坂洋二の元同僚木崎賢治からの依頼で沢田研二のアルバム『G.S.I LOVE YOU』に楽曲提供したことを皮切りに他ミュージシャンへの楽曲提供も幅広く行うようになる。1981年4月から『サウンドストリート』(NHK-FM)の月曜日担当になり、同番組の枠で『元春レイディオショー』を開始。同年6月にシングル「SOMEDAY」を発表。これが大瀧詠一の目にとまり、大瀧のプロジェクト「ナイアガラ・トライアングル」に杉真理とともに参加。3人の所属レーベル・事務所(大瀧と杉はレーベルのみ一緒)が違い、関係者間の調整が長引くことを嫌がった大瀧は7月24日の杉のイベントライブ(ゲスト:大瀧、友情出演:佐野)のステージ上で、ファンに『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』の制作をゲリラ的に発表し、既成事実を作って関係者間の調整を縮めるという力技を使った。自らのアルバムと『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』のレコーディングを並行して制作、大瀧から多くのことをインプットしながら自作にアウトプットしていった。同年11月には大瀧の「ヘッドフォンコンサート」(渋谷公会堂)に参加、ナイアガラファンクラブのハワイ旅行にも参加するなど、ナイアガラとの交流を深めた。『BACK TO THE STREET』『Heart Beat』と2枚のアルバムを発表していたが、なかなかセールスには結びつかなかった。しかしラジオDJとして、あるいはライブパフォーマンスの凄いロックミュージシャンとして、大瀧詠一のお薦めミュージシャンとして、徐々にファンが付くようになり、そのファン達が自主的に会場を押さえてそこでライブを行うなどファンに支えられながら、背水の陣(これで売れなかったら最後だ)と自分の全てを投じたアルバム『SOMEDAY』を1982年5月に発表。レコーディング・エンジニアに吉野金次を迎え、フィル・スペクター並みのウォール・オブ・サウンドを導入したことで、シングルでは注目されていなかった「SOMEDAY」が注目を浴びるようになり、アルバム『SOMEDAY』はオリコンアルバムチャートで最高位4位を記録。前ツアーからほとんど間を開けず、1982年9月から1983年3月までコンサートツアー『Rock & Roll Night Tour』を全40ヶ所で行い全国的に成功を収める。ホールクラスで行われた同ツアーは軒並みソールドアウトを記録。このツアーを観た吉川晃司や尾崎豊は感銘を受けたと後に語っている。ツアーの最終公演である東京・中野サンプラザのステージで、ニューヨーク行きを発表。渡米直前に編集盤『No Damage (14のありふれたチャイム達)』がオリコンで1位を記録し、佐野元春ブームが起きる中で同年5月に渡米。この時期に事務所のヤングジャパンが解散しており、、プロデューサーやマネージャーの仕事(アルバムのレコーディングの手配やスケジュール管理など)を全て自ら行った。また弁護士を雇い、音楽ビジネスについて一から学んだとしている。渡米直前の『新譜ジャーナル」のインタビューでは「ニューヨークに行くことに目的はない。同時代の世界中のアーティストと同じ呼吸をしたい」「ニューヨークにいる期間は未定です。ヴァイブレーションが合えばいますし、合わなければすぐに帰ってきます」と述べている。ニューヨークでアパート生活をしながらクラブシーンのミュージシャンや前衛の映像作家などと交遊関係を築き、現地のミュージシャンとともにラップを取り入れながらもそれを換骨奪胎した「新しいサウンド」で新曲をレコーディングし、アルバム『VISITORS』を製作。完成の達成感からか帰国してからも長い間躁状態に悩まされたという。1984年5月にアルバム『VISITORS』を発表し、翌6月に帰国。数曲でラップを取り入れたことや、前作までのナイアガラ系に通じるサウンドから一変したことで、賛否両論が巻き起こったもののオリコンで1位を記録する。メジャーレーベル系ミュージシャンとしては初の日本語によるラップとして扱われることもある。また「COMPLICATION SHAKEDOWN」のPVは前衛の映像作家ジョン・サンボーンが担当するものの、ラディカルすぎるという判断で20年近くお蔵入りすることになった。また、全国70カ所におよぶコンサートツアー『VISITORS TOUR '84〜'85』では、ナム・ジュン・パイクの影響でTVモニターを何十台も積み重ねて不規則な映像を流すなど、アバンギャルドなステージを展開。コンサートの形態にも新たな試みを取り入れた。同年、松田聖子の「ハートのイアリング」をHolland Rose名義で作曲した。1985年2月に国際青年年のテーマ曲として「Young Bloods」を発表。佐野自身初のトップ10ヒットとなり、同曲の印税はアフリカ難民救済のチャリティーとして寄付された。同年に行われた「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」にも出演。5月にはエレクトリックサウンドにのせた自作詩の朗読(スポークン・ワード)と詩集・写真集・ストリートアートなどが複合的にミックスされたカセットブック作品『ELECTRIC GARDEN』を小学館から発表。続く7月には、ライヴエイドに日本代表として参加。アフリカの飢餓状況を映した映像とライブでの演奏シーンをミックスした「シェイム─君を汚したのは誰」が、歌詞の英語訳テロップと共に世界に発信された。1986年、それまで培ってきた音楽制作やビジネスのノウハウを元にして自由な表現フィールドを獲得するために、自身によるプライベートレーベル「M's Factory」を立ち上げる。責任編集の季刊誌「THIS」を扶桑社より発刊するなど多岐にわたるメディア活動を展開。またライブ活動においても、東京・日本青年館で月に一度のペースで定期ライブを行う「Tokyo Monthly」を開催。チケット申し込みの電話回線がパンクする事件がおきるほどの人気を博す。ちょうど次作アルバムの制作中ということもあり、レコーディング前の未発表曲を演奏するなどのアクションも頻繁に行われた。1986年12月には、先に発表されていた「Young Bloods」「Christmas Time In Blue -聖なる夜に口笛吹いて-」を含むアルバム『Café Bohemia』を発売。アルバムに先駆けてシングル発売され、チャートトップ10入りを果たしていた「WILD HEARTS -冒険者たち-」「STRANGE DAYS -奇妙な日々-」なども収録。イギリスやフランスを旅しながら作られた楽曲群は、ジャズ、ソウル、スカ、レゲエなどの多彩なリズムが採り入れられている。これは当時イギリスでムーブメントとなっていた、ブラックミュージックや第三世界の音楽をUKポップ音楽に融合させたスタイル・カウンシルなどのアプローチであり、この流れを主導していたロンドンのレコーディング・エンジニア、アラン・ウインスタンレイを起用している。『Café Bohemia』のリリースと前後して、10月から翌年9月までの約1年間で約80公演にも及ぶ「Café Bohemia Meeting」と題された全国ツアーを決行。ストレートなロックンロールから、複雑なポリリズムによるダンスサウンド、ソウルフルな演奏が披露され、THE HEARTLANDの演奏力が確立することになる。1987年9月に初の単独スタジアムライブが横浜スタジアムで行われ、この日の演奏を収録したライブアルバム「HEARTLAND」(オリコン1位を記録)が発表された。この頃、国内で大きな議論となっていた原子力発電所の建設問題について自身のラジオ番組「AJIスーパーミクスチャー」で特集を組む予定が、地方局からクレームが来て頓挫。急遽シングル「警告どおり 計画どおり」を発表。一方、同番組内で、M'sFactoryのレーベルの主催者として、自身の偽名ユニット「ブルーベルズ」やTHE HEARTLANDの別名義のバンド、インディペンデントで活躍するアーティストのプロデュース活動も開始。最終的にはコンピレーションアルバム『mf Various Artists Vol.1』としてまとめ、1989年8月に発売となった。1988年、次作のアルバム制作をスタート。初期段階ではTHE HEARTLANDとのレコーディング作業を重ね、ラディカルなロックサウンドが最終形に近い形で完成していった。しかし、より明快かつポップなサウンドを求め、それまでのセッションを白紙に戻して単身渡英。エルヴィス・コステロなどを手がけたプロデューサーであるコリン・フェアリーを陣頭指揮とし、ブリンズレー・シュウォーツ、アトラクションズ、ピート・トーマス等、UKパブロック周辺のミュージシャンとレコーディングセッションを開始する。こうしたセッションを経て、先行シングルとなった「約束の橋」や、「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」、「ジュジュ」などを収録したアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』が完成。1989年6月にリリースされる。サウンド面では、伝統的なUKロックと、オリエンタリズムが融合。60年代のF-Beatサウンド的な疾走感をもつタイトル曲から始まり、アフリカンビートやスキッフル、シャッフル、ロックンロールといった様々なリズムが取り入れられている。詩においてはそれまでの英語やカタカナ語でビートにアクセントをつけていく、いわゆる「佐野元春文体」とは一線を画すものとなっている。啓示的な内容をもつ現代詩を元に、カタカナ語を廃し、語数も少ない。抽象的かつ象徴的な言葉の組み合わせによってイメージを聞き手に喚起させる手法は、佐野元春の作品におけるひとつのターニングポイントとなった。本作のプロモーションツアーである「ナポレオンフィッシュ・ツアー」を1989年6月から12月まで決行。ステージ背景には荒涼とした砂漠の写真が映し出され、そうした映像を背にして、これまでのキャリアの中でもっとも攻撃的な演奏を展開した。二度目となる横浜スタジアムでのライブを間に挟み、年末まで続けられた本ツアーの最終公演のステージ背景には「Good by 80's, so don't look back」と記されていた。デビューから10年目となった1990年には今までのシングル曲とカップリング曲一部を収録した「Moto Singles」を5月に発売。並行して新作アルバムの制作をスタートさせ、佐野元春 with THE HEARTLAND名義としては『Café Bohemia』に続く2枚目となる『Time Out!』を11月にリリースした。アルバムタイトルが示すとおり、過去作品に見られる大上段から振りかざすような音楽のダイナミズムは一旦休憩となり、全面アナログレコーディングと、少数編成のバンドサウンドを核とした素朴な音作りの曲が並んだ。詩も「街に暮らす少年少女」が成長した様子を平易な言葉を選んで描きながらも、時代が狂乱のあとで疲弊していく様子を見つめながら「家に帰ろう」(収録曲「空よりも高く」より)と歌う。『Time Out!』のプロモーションツアーの最終公演である大阪フェスティバルホールでは、ステージにオノ・ヨーコと子息のショーン・レノンが登場。ジョン・レノンの生誕50周年を記念したイベント『グリーニング・オブ・ザ・ワールド』(G・O・W)の趣旨に賛同して、佐野が作詞作曲し、三人でレコーディングした「エイジアン・フラワーズ」をステージで披露した。なお、東京ドームで開催された『グリーニング・オブ・ザ・ワールド』でも共演を果たしている。1991年、過去のバラードの再アレンジも含めたアルバム『Slow Songs』発売。その一方で、佐野本人が「空白の一年」と呼ぶように、この時期はしばらく音楽活動から離れている。その後、新作レコーディングをスタートする前に、ノンプロモーショナルな全国ツアーとして「See Far Miles Tour PartI」を1992年1月から4月まで決行。オーディエンスとのコール&レスポンスを通じて、創作的な悩みやスランプを断ち切ったという。1992年には、2年ぶりのオリジナルアルバム『Sweet16』を発売。このアルバムは第34回日本レコード大賞の優秀アルバム賞を受賞した。また『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』に収録の「約束の橋」がドラマ「二十歳の約束」の主題歌に選ばれたことから、カップリングに「Sweet16」を伴って再リリース、オリコン4位を記録。急遽、「VISITORS」以降「約束の橋」を含む『No Damage II』もリリースされる。『Sweet16』を携えての全国ツアー「See Far Miles Tour PartII」が1992年9月から翌年1月まで行われた。さらに1993年11月には、佐野元春としては異例の短いインターバルでアルバム『The Circle』がリリースされる。これは前作『Sweet16』と、音楽的にも感情的にも表裏一体となるもので、ソウルやゴスペル、リズム&ブルース色が色濃い作品となっている。なお、収録曲「レインガール」はトヨタ・カルディナのCMソングに起用され、佐野自身もCMに登場した。シングル「彼女の隣人」はローソンのCMソングに使用された。1993年12月から1994年4月まで「The Circle Tour」が行われる。このツアーに先立ち、1993年10月には東京・渋谷公園通りで突然のシークレットライブを決行。その後も学園祭でのライブや「Act Against Aids '93」でのステージアクトをこなすなど、さまざまな規模のライブ活動が行われた。このツアー中の1994年4月、バンドの解散が発表された。同年9月に解散ライブ「Land Ho!」を、所縁の地である横浜スタジアムで行う。1995年3月、バンド解散後の初めて、阪神・淡路大震災被災者チャリティ・コンサートに出演。3月13日にはインターネット時代の本格到来に先駆けて国内初のアーティスト公式サイト「Moto's Web Server」を開設。ファン有志によって作られたこのWebサイトは、オフィシャル・ファンサイトとして、現在もボランティアスタッフにより運営されている。1996年には、新しいバンドやアーティストとのコラボレーション活動も積極的に展開している。8月には佐野が主催するロック・イベント「THIS!」を東京・赤坂BLITZで開催。1996年から1998年まで3回開催されたこのイベントは、優秀な新人のショーケース・ライブとして、山崎まさよし、Dragon Ash、TRICERATOPS、Coccoなど後に第一線で活躍することになるミュージシャン・バンドが多数出演した。また、トリビュートアルバムブームの先駆けとも言うべき佐野のトリビュートアルバム『BORDER』が発売された。これは佐藤奈々子が企画したもので、彼女の呼びかけに応えたザ・グルーヴァーズ、川村かおり、GREAT3、ヒートウェイヴ、プレイグスらが参加。それぞれ佐野楽曲の新解釈を披露している。新作のレコーディング作業を続けていたこの時期、レコーディングセッションを通じて集まったメンバーによる新バンド「INTERNATIONAL HOBO KING BAND」(その後何度か改名の後、最終的に「The Hobo King Band」という名称になった)が結成される。1996年1月に「INTERNATIONAL HOBO KING TOUR」が行われ、7月にはTHE HEARTLAND解散後初のアルバムとなる『FRUITS』をリリース。それまでのオリジナルアルバムの中でもっとも多い収録曲数となる全17曲は、もともと指向が広い佐野の音楽性に彩られながら、いずれも2分から3分のポップソングとなっている。THE HEARTLAND解散後の新しいスタイルが早くも提示された。また、このアルバムはミュージック・マガジン誌で年間ベストアルバムNo.1に選出されるなど、現在も評価の高い作品である。1996年9月から年末にかけて、The Hobo King Bandとともに全国ツアー「Fruits Tour」を行う。さらに12月には日本武道館、大阪城ホール、横浜アリーナというアリーナクラスの会場で「Fruits Punch」を敢行。中でも特筆すべき点として、日本武道館では国内初のインターネット・ライブ中継を実施した。「FRUITS」プロジェクトを終えた佐野とThe Hobo King Bandは、さらに音楽的結束を固めるため1997年夏に渡米。ザ・バンドやジャニス・ジョプリンの出世作を手かげたプロデューサーであるジョン・サイモンを迎え、ウッドストックにてアルバム『THE BARN』を製作。1997年12月にリリースした。アルバムタイトル「Barn」が示すとおり、アルバム制作はウッドストックのベアズビルにある納屋を改造したスタジオに住み込み状態でレコーディングが進められるという、ウッドストックのマナーに沿ったものであった。近くに住むガース・ハドソン(ザ・バンド)、ジョン・セバスチャン(The Lovin' Spoonful)、エリック・ワイズバーグらがスタジオに訪れてはセッションに参加した。アルバムは、その完成度もさることながら、アメリカン・ロックに対するリスペクトの念に溢れたものであり、また1990年代後半に台頭してきたオルタナティブカントリーという新しい流れに呼応した姿勢は、音楽評論家筋から高く評価されることになった。翌年初頭である1998年1月から4月にかけて「The Barn Tour」を行う。中でも3月29日に行われた大阪フェスティバルホールでのライブでは、この日のためにジョン・サイモンとガース・ハドソンが来日し、サイモンはタンバリンで、ハドソンはアコーディオンで演奏に参加した。また、ステージ袖で佐野のパフォーマンスを見ていたサイモンは、ステージ上にあるプロンプターに「Elvis loves you」というメッセージを演奏中の佐野に贈ったという。デビュー20周年を目前とした1999年、佐野は「どうしても20周年前に一枚アルバムを作っておきたかった」という思いから、プライベートスタジオを作り、MacとPro Toolsを核としたデジタルレコーディングシステムを構築。そこでさまざまな楽曲のレコーディングを始める。こうして出来上がっていった作品群が結実したアルバム『Stones and Eggs』を1999年8月にリリース。ほぼすべての楽器演奏やプログラミングを自身で行った。一方、詩の面では、次第に混乱していくこの国の現実と、その中でサバイバルする人々を表現した作品が増えた。この視点は後の『THE SUN』『COYOTE』に脈々と繋がっていく。また、「GO4 Impact」ではDragon Ashの降谷建志とコラボレーションした。1998年8月には、国内初の有料インターネットライブ「The Underground Live」を開催。まだナローバンド回線だった時代にアンプラグドライブをThe Hobo King Bandと共に演奏された。なお、この模様は当時開局したばかりのCS局「Viewsic」(現MUSIC ON! TV)にても生中継された(ただし、途中で放送が打ち切られた)。続く12月には、ファンへの感謝を込めたメッセージ曲「イノセント」がソニー・ミュージックエンタテインメントより国内初の有料音楽ダウンロードとして販売。数年後に活発化する音楽のネット販売を見据えたアクションとして注目を集めた。デビュー20周年となる2000年は、それまでの活動を総括する作品が多くリリースされた。まず1月には、それまでの代表曲32曲をリミキシングとリマスタリングしたアルバム『The 20th Anniversary Edition 1980-1999 his words and music』がリリースされ、1月から3月までは20周年記念の「The 20th Anniversary Tour」を全国で9公演行う。9月には主要なクラブミックス、ダンスミックス・ヴァージョンを集めたコンピレーション・アルバム『Club Mix Cllection 1984-1999』をリリース。続く11月には、コンピレーション・アルバム『GRASS』をリリース。さらに12月にはスポークン・ワード作品を集めた編集版『Spoken Words Collected Poems 1985-2000』を発売した。また、初期の主要作品を発表してから20周年にあたる年に、20周年記念盤をリリースするというアクションも行われている。2002年5月にはアルバム『SOMEDAY』の発売20周年を記念した『Someday Collector's Edition』を発売。デモトラックなど未発表音源と当時の詳細な資料がパッケージされた。その後も80年代に発表した重要なアルバムである『VISITORS』『Café Bohemia』『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』がそれぞれ20周年記念盤としてリリースされ、ニューヨークで制作された「COMPLICATION SHAKEDOWN」の未発表PVや、『Café Bohemia』制作時に訪れたパリでのプライベートフィルム、横浜スタジアムで行われた「ナポレオンフィッシュツアー」の模様など、その時々の貴重な映像がDVDの形で収録されている。2001年、21世紀最初の作品となるべく新作のレコーディングをThe Hobo King Bandとスタートする。バンドにはザ・ハートランド時代からの旧友、古田たかしがドラムで参加。サックスに山本拓夫が参加。レコーディングの模様は逐一「Moto's Web Server」でレポートされていった。2001年3月、坂本龍一の呼びかけの元、地雷廃絶を訴えるキャンペーンに参加し、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。坂本龍一による地雷除去のためのチャリティーソングZERO LANDMINEの制作にも参加する。9月11日、アメリカ同時多発テロを受け、すぐさま「光 - The Light」を書き下ろす。祈りと慈悲と癒しが交差するこの曲は、プライベートスタジオで多重録音され、ラフミックス後すぐにMoto's Web ServerからMP3無料ダウンロードでネット配信された。この動きに異を唱えた所属レコード会社との交渉の末、9月18日〜30日までの期間限定配信となったが、一週間で約10万ダウンロードされることとなった。9月21・22日には、井上鑑らとスポークンワーズライブ「In Motion 2001-植民地の夜は更けて」を鎌倉芸術館で行う。そのとき、観客を前に「光」を演奏した。2003年には、デビュー以来所属していたレーベル、エピックレコードジャパンの25周年記念イベント「LIVE EPIC 25」に参加するも、CCCD問題などでレーベルと対立が発生。翌年2004年6月にはエピックレコードを離れ、自主レーベル「Daisy Music」を発足する。原盤制作および管理は自主レーベルで行い、宣伝と流通はメジャーレコード会社に委託するという、世界的に進むアーティスト主体のメジャーインディペンデントな考えを実践したレーベル形態となっている。2004年7月21日にはデイジーミュージックからの第一弾アルバムとなる『THE SUN』が、4年半ぶりの新譜としてリリースされる。曲毎にさまざまな人物の視点で描かれた短編集のような作りになっている。そしてそれらはすべて「2004年の日本」を生きる人々の歌であり、自由の追求、「連帯」がもつ陰と陽の部分、そして夢を見る力をもつことの尊さが歌われている。2004年10月から2005年にかけて全国30公演で行われた「THE SUN TOUR 2004-2005」を行う。二部構成のステージとなったこのツアーは、The Hobo King Bandに古田たかし(Dr.)と山本拓夫(Sax)が加わったことで、一部の佐野元春クラシックではThe Heartland時代からお馴染みのライブアレンジが次々と再現され、続く第二部ではアルバム『THE SUN』がディテールを含めてライブで再現された。スィングしながら縦横無尽に演奏を繰り広げるジャムバンド的な側面も色濃くなり、現在まで続くThe Hobo King Bandのバンドサウンドが確立されたツアーとなった。2005年夏には「ap bank fes '05」や埼玉県狭山市で開催された「ハイド・パーク・ミュージック・フェスティバル2005」など音楽フェスティバルに意欲的に参加。また、この年に日本上陸となったiTunes Storeへ、インディペンデントレーベルとして最初の参加表明をするなど、インターネット時代のレーベルとしてその基盤を着実に整備していった。2005年9月から新作のレコーディング作業を開始する。バンドは盟友The Hobo King Bandではなく、ノーナ・リーヴスの小松シゲル(Dr.)、GREAT3の高桑 圭(Bass)、Mellowheadの深沼元昭(G.)という、佐野元春の音楽を聴き続けてきた若い世代のミュージシャンとのレコーディングセッションが続けられた。その最初の成果として2005年12月に3トラックEP「星の下 路の上」がリリースされる。こうした世代を超えたミュージシャンやソングライター同士の連帯は、翌年のポッドキャスト番組「MUSIC UNITED」を経て、深沼元昭、山口 洋(ヒートウェイヴ)、藤井一彦(ザ・グルーヴァーズ)の三人がボーカルとして参加した音楽プロジェクト「MusicUnited.」にまで発展していく。新作レコーディングを続ける一方、全国ツアーも精力的に展開。The Hobo King Bandに女性コーラスグループ「T.T.Sisters」を加え、2006年1月から4月まで全国ツアー「星の下 路の上」を全13公演行う。千秋楽となった東京国際フォーラムの公演では3時間以上に及ぶステージを披露し、その模様は2枚組DVD「TOUR2006 星の下 路の上」でノーカット完全版として発表された。また、同年11月には「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2006」に出演し、ザ・ビートルズの「カム・トゥゲザー」を演奏。また、年末には音楽雑誌「ロッキング・オン」のイベント、「COUNTDOWN JAPAN 06/07」に出演した。続く2007年も新作レコーディングと並行して「札幌市民会館 最後の日」や東京・新宿コマ劇場での「サンボマスター vs 佐野元春」で演奏するなど、精力的な活動が続けられた。続く6月には新レーベル体制になってから2作目となるフルアルバム『COYOTE』が発表される。前作『THE SUN』で見せた、さまざまな登場人物の喜怒哀楽をスケッチする手法から大きく転換し、「コヨーテ」と呼ばれるアウトロー的な男の視点で描かれた「架空のロードムービーのサウンドトラック」というコンセプト・アルバムとなっている。収録された全12曲はいずれも、ビート・ジェネレーション的であり、サウンドの面でも今までの佐野元春作品とは違った形の現代性を持っている。特にタイトルトラックである「コヨーテ、海へ」という7分にも及ぶロックバラッドは、一定の評価を得た。この「コヨーテ」というコンセプトはアルバムだけに留まらず、それまでのスポークン・ワード作品をすべて集めたボックスセット『BEATITUDE』、佐野元春の言葉と音楽について纏めた書籍「ビートニクス - コヨーテ、荒れ地を往く」でも共通のコンセプトとなっている。新作アルバムを発表した直後には必ずアルバムプロモーションのツアーを行っていたが、『COYOTE』リリース後に同作品を主体にしたツアーは行われず、2008年1月から3月までThe Hobo King Bandと共に全国22カ所を回るツアー「Sweet Soul Blue Beat」が行われた。最近では演奏されなくなっていた80年代のレア曲やライブ定番曲、そしてThe Hobo King Band結成以降の楽曲から構成され、いずれの公演も3時間にも及ぶステージが展開された。一方、母校である立教大学の文学部客員講師として、詩作などに関する講義「文学講義412〜詩創作論2〜」を受け持つ。この活動は現在も形を変えて続けられており、70年代から活躍する国内のソングライターを招いて、それぞれの創作の核心に迫るというオープン講座が定期的に開催されている。2009年3月31日には、佐野元春の主たる活動のひとつであるラジオDJがNHK-FMで復活。かつての「サウンドストリート」時代のサブタイトルであった「元春レイディオ・ショー」と銘打たれた音楽番組は、「サウンドストリート」時代から数えて実に22年ぶりとなる。2009年7月から9月,2010年7月から9月にかけては、NHK Eテレにおいて、毎回ソングライターたちをゲストに招いて、主に「歌詞」についてトークしていくテレビ番組『佐野元春のザ・ソングライターズ』を企画・出演。2010年の3月に東京と大阪のライブハウスで、「アンジェリーナの日」と題されたライブイベントが開催。これをきっかけにしてデビュー30周年の数々のアクションが提示されることになる。同年8月には初のスポークンワーズツアー「in motion 2010 僕が旅に出る理由」を全国5ヶ所で開催。また、「佐野元春のザ・ソングライターズ 2nd Season」がNHK Eテレにて放送される。続く9月にはベストアルバム「ベリー・ベスト・オブ・佐野元春 「ソウルボーイへの伝言」」をリリース、翌10月からは、全国クラブハウスツアー「ソウルボーイへの伝言」を全国21ヶ所で開催する。「ソウルボーイへの伝言」の初日の前の日にはWOWOW主催のスペシャルライブ「佐野元春30周年アニバーサリープレミアムライブ」も開催された。2011年1月3日には佐野のアルバム「コヨーテ」をBGMにした堤幸彦監督のロードムービー「コヨーテ、海へ」がWOWOWにて放送、同日には佐野の特番と、ビートを探求する番組も同時に放送された。1月からは大都市をめぐる「ALL FLOWERS IN TIME」ツアーが全国6ヶ所で開催、その合間にセルフカバーアルバム「月と専制君主」がリリースされる。3月に入り、ツアー・ファイナルを大阪で開催、大阪城ホールには佐野にゆかりのあるゲストが多数出演し、イベントを盛り上げた。大阪の後には東京ファイナルも控えていたが、東日本大震災の影響により公演が延期、一時は開催中止も視野に入れていたが、6月に振替公演が決定し、東京国際フォーラムでの2Days公演にて30周年アニバーサリーイベントを締めくくった。デビュー30周年アニバーサリーツアーの最終公演から半年後の2012年12月にホットスタッフ・プロモーションのイベント「L'ULTIMO BACIO Anno 11」(ルルティモバーチョ アンノ11)にCOYOTE BANDとしてライブを行い、珍しい曲を中心にライブを敢行する。同バンドには新たにギタリスト藤田顕が加わり、深沼とのツインギター体制になる。このバンドで「COUNTDOWN JAPAN」にも出演。2012年になってから更にこのメンバーで新曲のレコーディングを開始する。2012年3月から5月にかけてはビルボードライブ東京と大阪で、The Hobo King Bandによるライブを開催。新曲「トーキョー・シック」を含む20曲程度をチェロを交えたオルタナティブな演奏でファンを驚かせる。同6月から7月にかけては、COYOTE BANDとともにクラブハウスツアー「Early Summer Tour」を開催。新曲2曲を含む珍しい曲のオンパレードでファンを喜ばせる。特にライブ初演奏となる「警告どおり 計画どおり」はファンから意外性を持って迎えられた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。