九戸氏(くのへし)は、陸奥国を本拠とした武家。九戸党とも。「九戸政実の乱」を起こした、11代目(説により14代目)の九戸政実が有名。中野氏・高田氏・坂本氏・上野氏・小軽米氏・江刺氏・姉帯氏などがこの一族という。九戸氏の始まりは、南部氏の祖・源光行(南部光行)の六男、九戸行連(ゆきつら)と伝わる。行連が分家して、初め陸奥国九戸郡伊保内(岩手県九戸村)を領し、九戸氏を称した。ただし南部氏研究により南部光行が陸奥国に下向していない可能性が指摘されたため、九戸行連の九戸郡領有も信頼が置けなくなっている。また『参考諸家系図』の編者・星川正甫は、『系胤譜考』の九戸系図に対し、代数が南部氏宗家に対し少なすぎ、中世一般にはあまりない官途名の名前が多いとして、全面的に否定している。また出自に異説もあり、九戸村の九戸神社伝「小笠原系図」(現存せず)によると、結城親朝の配下の総大将小笠原政康の5代の孫小笠原右近将監政実が九戸氏の始祖と伝える。なお結城親朝は元弘3年(1333年)に九戸に所領を持っていたと記録にある。軍記物『九戸軍談記』では九戸政実を結城氏配下・小笠原正安の末裔とする。また九戸氏の確実な史料初出たる「光源院殿 御代当参衆並足軽以下衆覚」(永禄6年)では、南部晴政と並んで「九戸五郎(奥州二階堂)」の名がみえる。九戸五郎は九戸政実と考えられるが、二階堂氏との付記がある。古文書に拠ると元弘4年(1334年)に二階堂行朝が九戸を含む久慈郡に代官を派遣したことがみえ、二階堂氏と九戸に関係があったとされる。『系胤譜考』や『参考諸家系図』は初代の行連から戦国末期の政実まで11代の系譜を載せる。一方、『奥南落穂集』は九戸信実を12代孫、九戸信仲を13代、政実を14代に作る。歴代の事蹟はほとんど不明。大館村に当初はあったが、のち九戸城を築城し移ったのが、『系胤譜考』では九戸光政のとき、『奥南落穂集』では信実の代という。また他説では、政実が岩手郡、紫波郡に出陣し、安東氏との鹿角合戦にも武功をたてたことにより宗家三戸南部氏の南部晴政から二戸を加増され、そこの九戸城に移ったとされる。信実、信仲のとき浄法寺氏、新田氏、七戸氏、久慈氏、野田氏などと姻戚関係を結んでいる。政実のときには三戸南部氏、八戸氏(根城南部氏)と並ぶ糠部郡の雄となっていた。三戸南部氏の晴政、晴継が急死しその後継者が、以前に南部晴政の長女の婿となり養嗣子でもあった田子(南部)信直と、九戸政実の弟で晴政の二女が正室である九戸実親が候補に挙げられた。しかし北信愛が八戸政栄を調略、さらに信愛が南氏の兵と軍事クーデターを起こし信直が南部惣領家の後継者に決定する。これに政実は不満を持ち、南部信直による津軽為信の討伐にも動かず、三戸南部と対立を深めていった。しかし工藤利悦によると、対立は後継者争いに端を発するものではなく、南部晴政・九戸氏の連衡と南部信直を盟主とする南長義・北信愛の連合の対立がはじめにあり、また九戸氏と三戸南部氏はほぼ対等な立場(いわゆる盟主関係)にあったとされる。九戸氏が八戸(八戸南部)氏などともに三戸南部氏の「家臣」と見なされるのは奥州仕置以後である。天正19年(1591年)政実は三戸城での南部氏の正月参賀を拒絶し、同年3月に5千人の兵力をもって挙兵した。これには九戸一族のほか、二戸郡の領主の大半が参加している。精強な九戸軍と南部家中の日和見により九戸側が当初は優位にあったが、南部信直の豊臣氏への働きかけにより、九戸側を奥州仕置に反する行動とみなした豊臣秀吉による鎮圧軍が派遣され、九戸氏は敗北、政実が斬首されて九戸氏は滅んだ。政実の一子・九戸亀千代は母とともに捕らえられ、村松の蒲生氏郷の陣で死に、首は長光寺に送られて手厚く葬られた。と『奥羽永慶軍記』では伝わるが、追手の名や殺害場所に諸説ある。また、生き延びて堀野三右衛門政信と称し、徳川秀忠に仕え3000石を得たとするものもある。ただし『寛政重修諸家譜』にはその名は無い。 参考諸家系圖 七姉帯氏(あねたいし)、三戸南部16代助政の代に分かれたとの所伝もあるが(奥南旧指録)、九戸連康の子姉帯兼実が、糠部郡姉帯村(二戸郡一戸町)を領し、郷村の在名を氏としたのに始まるとするのが通説である。天正19年(1591年) 九戸政実の乱において姉帯城は九戸軍の最前線として、城主姉帯大学兼興と弟の五郎兼信はともに籠城して討死し、一族供に滅亡した。九戸政実の弟・中野康実が岩手郡東西中野村(現在の盛岡市中野)を南部信直より賜わり、これによって中野修理に改めた。しかし信直の子で南部氏27代・南部利直と不和になって毒殺されたとも、九戸落城で浪人した従弟・九戸連伊と歓談中に口論となり殺害された後、連伊は康実の息子に討ち取られたとも、言われている。連伊の弟・九戸伊実は落城時浪人したが、葛西大崎一揆に参加し蒲生氏との戦いで戦死した(『奥南落穂集』)。その後も中野氏は八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。6代当主の中野光康(吉兵衛)は、享保10年に18歳で藩主となった南部利視の後見人となった。文政元年(1818年)には南部藩の家格昇進を祝って八戸氏、北氏、南氏、東氏と共に嫡子嫡孫まで南部の称号を許された。 中野氏 本名九戸氏 高田 紋丸ノ内割菱 同鳶
出典:wikipedia
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