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ユトランド沖海戦

ユトランド沖海戦(ユトランドおきかいせん、、、)は、デンマークのユトランド半島沖でおこなわれた第一次世界大戦最大の海戦。同大戦中唯一の主力艦隊同士による決戦であった。スカゲラックの戦い(、、)とも呼ばれる。この海戦は1916年5月31日から6月1日にかけてユトランド半島沖の北海でドイツ海軍(帝国海軍)の大洋艦隊(ラインハルト・シェア中将指揮)とイギリス海軍の「大艦隊」()(大将指揮)が戦った。ドイツ海軍の作戦は、フランツ・フォン・ヒッパー中将指揮する巡洋戦艦5隻からなる偵察部隊が、イギリスのデヴィッド・ビーティー中将指揮下の巡洋戦艦部隊をドイツ艦隊本隊の進路へと誘導し撃滅する計画だった。5月30日朝、ドイツ海軍は出撃を始めた。イギリスは、通信傍受によって主力艦隊の作戦行動を迅速につかみ、ジェリコーの「大艦隊」は行動を開始した。ビーティとヒッパーは5月31日の午後に遭遇し戦闘を開始し、南下しながらヒッパーはイギリス巡洋戦艦隊をドイツ大洋艦隊の進路に誘導した。この砲戦でイギリス側は2隻が撃沈された。しかし、ビーティは寸前に「大艦隊」の方向へ引き返してドイツ艦隊を引き込んだ。18時30分から20時30分ごろまで両国艦隊(151隻のイギリス艦隊、99隻のドイツ艦隊)が激しく交戦した。イギリス艦隊は14隻、ドイツ艦隊は11隻の艦艇が沈没し、多くの人命が失われた。ジェリコーは21時以降は夜戦を避けながらドイツ艦隊の基地への退路を絶ち、翌朝の戦闘再開で撃滅を目論んだ。しかしシェアは夜陰に乗じてイギリス艦隊の航跡を横切り本国へ帰還を成功させた。双方とも勝利を主張したが、イギリスはドイツより多くの艦船と乗員を失い、ドイツ海軍の作戦も失敗に終わった。戦争の残りの期間、1916年8月と1918年4月の短い出撃を除いて大洋艦隊は港に留まった。ドイツ艦隊の脅威は続き、イギリス艦隊主力は北海に集中せざるを得なかったが、ドイツが2度と制海権を争うことはなかった。その代わり、ドイツ海軍は直前より開始していた潜水艦を用いた通商破壊作戦(無制限潜水艦戦)を本格化させた。なお、日本海軍の東郷平八郎は、この海戦の勝敗について「ドイツ艦隊が負けて逃げ帰った」と評したという。第一次世界大戦の開戦以来、英国海軍の「大艦隊」(本国艦隊を改変。指揮官は引き続きジェリコー大将)はスコットランドの北の果て、オークニー諸島のスカパ・フローを根拠地とした。ビーティー率いる巡洋戦艦部隊はフォース湾奥の要塞基地ロサイスを根拠地として、「大艦隊」とは独立して軍令部から指揮を受けていた。ジェリコーは「静かなる男(サイレント・ジャック)」の異名を持ち、論理的すぎる提督でもあった。ジェリコーは「大艦隊」をむやみに出撃させることはなく、現存艦隊主義を取り、大洋艦隊の殲滅は火急事項ではなかった。イギリス海軍の規模は、国力が劣るドイツの大洋艦隊を戦闘が無くとも抑え込んでいたからである。対するドイツ海軍大洋艦隊司令長官フリードリヒ・フォン・インゲノール大将は、皇帝ヴィルヘルム2世が軍令部を通じて作戦に口を出しており、思い通りに艦隊を動かすことができなかった。それでも彼は与えられた権限の中で戦力を可能な限り有効に使うべく、ヒッパー提督の偵察部隊(巡洋戦艦部隊)でイギリス本土を砲撃し、イギリス国民の士気を挫く作戦を行った。1914年11月と12月に行われた2回の出撃は成功し、沿岸都市に損害を与えた。しかし1915年1月に行われた3回目の出撃では、ビーティ率いる巡洋戦艦部隊が待ち伏せしており、ドッガー・バンク海戦が発生した。この海戦ではドイツ部隊は装甲巡洋艦ブリュッヒャーを失いつつも脱出に成功し、英艦隊は旗艦ライオンが脱落した。インゲノールは責任をとり、1915年2月2日に職を辞した。またドイツ海軍はこの海戦以降1年ほど北海では大きな動きを止めた代わりに、潜水艦による通商破壊戦を強化したが、1915年5月にルシタニア号事件が発生してこれも一旦中止した。バルト海ではドイツ艦隊が露国バルト海艦隊をリガに封じ込めて制海権を確保した。イギリス海軍は地中海でガリポリ上陸作戦を支援し、前弩級戦艦5隻を失った。しかしイギリス海軍戦力の優勢は変わらず、さらに国力の差により徐々に差が開いていった。1915年中にイギリス海軍はクイーン・エリザベス級戦艦3隻が竣工し、翌年には残りの2隻とリヴェンジ級戦艦が竣工する予定であったが、ドイツ海軍は1915年でも巡洋戦艦リュッツオウ1隻、翌年も戦艦2隻が竣工するだけであった。1916年1月18日、大洋艦隊の指揮を取っていたフーゴー・フォン・ポール大将が死病に侵され職を辞し、後任に第3戦隊司令官だったラインハルト・シェア中将が司令長官となった。2月21日に始まったヴェルダンの戦いでは海軍にも積極的な支援が求められ、皇帝は自由裁量権をシェアに与えた。シェアはかねてより温めていた作戦構想を進めた。また相手となるジェリコーも積極行動に移ろうとしていた。東部戦線で苦戦するロシアがドイツ海軍をバルト海から駆逐し、物資補給を輸送してくれるようイギリス政府に矢のように催促したからである。軍令部は5月12日にジェリコー、ビーティ両提督と話し合い部隊編成に一部変更を行い、高速で15インチ(381mm)砲を装備する新鋭のクイーン・エリザベス級戦艦4隻からなる第5戦艦戦隊はビーティの指揮下に編入し、偶々訓練目的でスカパ・フローにいた第3巡洋戦艦戦隊は「大艦隊」に編入することにした。この決断は後に正しかったことが証明される。5月中旬、シェアは本格的に動き出した。17隻のUボートを展開させてイギリス海軍を警戒させると共にサンダーランドへの攻撃のため、主力全艦艇を率いて出撃しようとした。しかし天候の悪化と1部の艦艇の機関の不調に対する修理により出撃は遅れ、5月30日朝、目的地をスカゲラック海へ切り替えて出撃した。イギリス海軍は午前のうちにドイツ海軍の通信を傍受・解読し、潜水艦部隊が北海を行動中であることも、艦隊が出撃していることも把握していた。軍令部はジェリコーとビーティに対して出撃を命じた。ジェリコーは、ヒッパーが5月30日にジェイド・エスチュアリーを出発するより早く、「大艦隊」の24隻の弩級戦艦と3隻の巡洋戦艦を率いてスカパ・フローから出撃。翌日、ビーティ率いる巡洋戦艦部隊(6隻の巡洋戦艦と4隻の弩級戦艦)もフォース河口から出撃した。ジェリコーはユトランドの沖合のスカゲラク海峡の西90マイル(145km)でビーティと合流し、ドイツ艦隊を迎撃する、あるいはその意図が判明するまで待機するつもりであった。シェアが16隻の弩級戦艦、5隻の巡洋戦艦と6隻の旧式な前弩級戦艦を持つのに対して、ジェリコー配下の部隊は28隻の弩級戦艦と9隻の巡洋戦艦を保有していた。イギリス艦隊は軽艦艇においても同様に優位に立っていた。斉射重量においてもイギリス艦隊は332,400lb(151トン)と、ドイツ艦隊の134,000lb(61トン)に対して、優位にあった。しかしドイツ艦隊は、イギリスに比べ射撃指揮が優れ命中率が高かった。また、ドッガー・バンク海戦の戦訓から弾火薬庫などの防御に細心の注意を払い、巡洋戦艦も防御力の強化を行っていた。さらに主力艦艇の主砲の最大仰角を引き上げ射程距離を伸ばす工事を実施していた。これらは海戦で重要な意味を持つようになる。ジェリコーの「大艦隊」主力は5月30日21時30分、スカパ・フローを出撃、シェアの大洋艦隊がまだヤーデ湾の掃海水路をゆっくり進んでいる間に、高速でスカゲラク海を目指した。スカゲラク海の西を会合点に設定、ビーティの巡洋戦艦部隊は会合点の南南東150海里まで進出し、何事も起こらなければ針路を北に変えて会合点へ向かうよう指示されていた。偵察任務をおびていたドイツ潜水艦艦隊はまったく機能せず、イギリス艦を一隻も沈められなかったばかりか、偵察隊としてもなんら有益な情報をもたらさなかった。ジェリコーの艦隊は無傷でビーティとの合流海面に達したが、本国海軍本部情報部のミスにより、実際より9時間遅い時刻にドイツ艦隊が到着すると思い込んでいた。5月31日正午ごろ、ビーティの部隊は予定地点に到着したが霧の中で敵を発見できず予定どおり本隊と合流すべく北への変針を指示した。但し第1軽巡洋艦戦隊(司令;アレクザンダー・シンクレア代将)は、艦隊東方で見つかった国籍不明船を監視するためそちらの方へ向かった。この船は中立国デンマークの貨物船だったが、偶然にも時を同じくして、その50海里東方を北進していたヒッパーの巡洋戦艦部隊(偵察部隊)もこの船を発見し、調査のため第2偵察群(司令:ベディッカー少将)の軽巡洋艦エルビンクを向かわせていた。14時18分、第1軽巡洋艦戦隊旗艦ガラティアは「敵艦見ユ」の信号を出し、エルビンクも敵発見の無電をうった。こうしてユトランド海戦の幕が上がった。最初の発砲はガラティアが行った。ガラティアはその後、エルビングから大遠距離の砲撃を受け被弾したが、不発弾だった。ビーティは北東に、ヒッパーは北西に針路をとり、互いに増速して接近した。しかしビーティの部隊に編入されたばかりの第5戦艦戦隊(司令:サー・ヒュー・エヴァン=トマス少将)は進路変更の信号を見落とし、大きく遅れてしまう。ヒッパーの巡洋戦艦部隊は作戦にしたがって南東に針路を変えた。15時25分、ビーティはヒッパーの巡洋戦艦部隊を発見した(地図の1)。15時48分、ヒッパーは砲撃開始を指示、その1分後にビーティの部隊も砲門を開いた(地図の2)。こうして「南走(Run to the South)」として知られる巡洋戦艦部隊どうしの戦闘が始まった。ビーティは並航戦を指示し南東へ変針した。しかし、風は西風でビーティの部隊は自分たちの排煙と砲煙に射線を妨げられる不利を負わされていた。対するヒッパーの部隊は夕陽を背にくっきり浮かび上がる英艦艇に精確に命中弾を与え、防御力の劣るイギリス艦隊に損害を与えた。モルトケは2隻のイギリス巡洋戦艦の攻撃の標的となりながらも、僅か数分の間にイギリス巡洋戦艦タイガーに7〜8発の命中弾を与え、船体中央部に損害を与え煙突を吹き飛ばした。デアフリンガーは交戦から外れたまま、妨害されることなく自由に砲撃できプリンセス・ロイヤルに多数の命中弾を与え前部砲塔などに損害を与えた。互いの巡洋戦艦部隊から報告を受けたジェリコーとシェアはそれぞれ戦場へ急行。ジェリコーは本隊に所属する第3巡洋戦艦戦隊(司令:ホーレス・フッド少将)を分派して先行させた。16時、ビーティの旗艦ライオンにリュッツオウの12インチ砲(305mm)一斉射撃が命中し、Q砲塔を大破させ、数十人の乗員が即死した。致命傷を負った砲塔指揮官フランシス・ハーヴェイ海兵隊少佐は、弾薬庫の扉を閉め弾薬庫に注水するよう命じ、火薬に引火して大規模な爆発が起こることを防いだ。16時05分、フォン・デア・タンの11インチ砲の3発の砲弾がインディファティガブルの船尾に命中し、インディファティガブルは戦線を離脱した。さらに直後の一斉射撃の砲弾は装甲を貫通し弾薬庫を爆発させた。インディファティガブルはこれによって轟沈し、1019人の乗組員のうち2人を除いたすべてが戦死した。(地図の3)ヒッパーの部隊も無傷ではなかった。クイーン・メリーの射撃によりザイドリッツも砲塔を撃ち抜かれた。しかしドッガー・バンク海戦以降の防御力向上の効果で大損害とはならなかった。運はヒッパーに傾いていたが、そう長く続かなかった。16時06分、第5戦艦戦隊が追いつき、1万5千mから砲撃を開始し参戦した。ヒッパーの巡洋戦艦部隊部隊は艦砲が小さく、有効な反撃ができずに窮地に追い込まれたが、シェア率いる主力の大洋艦隊本隊が急速に接近しつつあることを知ったヒッパーはこれを誘致すべく東へ転進する。巡洋戦艦同士の戦闘は激しさを増し、16時25分にクイーン・メリーは、デアフリンガーとザイドリッツの斉射の命中弾を受け、弾薬庫が爆発して沈没した。乗組員1,275名のうち、生き残ったのはわずか9名だけだった。戦死者の中には観戦武官として乗艦していた日本海軍の下村忠助中佐も含まれている。インディファティガブルとクイーン・メリーの轟沈を見たビーティは、「(ちくしょう、)我が艦隊は今日は何かおかしいんじゃないか」("There seems to be something wrong with our bloody ships today")と旗艦の艦長に語っている。16時30分頃、ビーティ指揮下の第2軽巡洋艦戦隊(司令:ウィリアム・グットイナフ代将)の軽巡洋艦サザンプトンがシェアの大洋艦隊本隊を発見した。さらに、この部隊の戦力を詳細に報告するため多数の艦艇から放たれる砲弾を回避しながら接近。敵主力が弩級戦艦16隻と旧式戦艦6隻であることが判明した。「大艦隊」の駆逐艦部隊もヒッパーの巡洋戦艦部隊に立ち向かい、サイドリッツに向けて魚雷を発射した。ビンガム艦長指揮するイギリスの駆逐艦ネスターはドイツの水雷艇V-27、V-29を撃沈したが、その後ネスターと駆逐艦ノマドはシェアの本隊が通過するときに命中弾を受け、放棄された。ビーティはジェリコーの「大艦隊」に敵を引きつけるため北への回頭を決め接触を中止した(地図の4)。 ビーティは旗下の部隊に北上するよう指示を出したが、またも情報の伝達に失敗。第5戦艦戦隊は回頭が遅れた。エヴァンが「一斉回頭」ではなく「逐次回頭」の命令を出したため、同じ海域で4隻すべてが回頭し、ドイツ艦隊の射撃に照準のしやすさと十分な時間を与えてしまった。第5戦艦戦隊は、一時期単独でヒッパーの巡洋戦艦部隊と大洋艦隊本隊と渡り合わなければならなかった。戦艦マレーヤは被害を受け続けたが、艦長が回頭の決断を速やかに下したので損害はいくぶん軽減された。さらにマレーヤの15インチ砲は敵に有効打を与え続け、ザイドリッツは20発近い命中弾と魚雷1発を受けてそれまでの損害を含めて5基の主砲塔が全て使用不能となり、リュッツオウとデアフリンガーも被弾した。ジェリコーは全面的な接触が近いことに感づいていたが、ドイツ艦隊の位置と針路に関する情報が不十分であった。ジェリコーは戦闘に向けて第1巡洋艦戦隊(司令:ロバート・アーバスノット少将)に陣形の前方を警戒させ、先行する第3巡洋戦艦戦隊に速度を上げてビーティを掩護するよう指示した。17時30分頃、第1巡洋艦戦隊の装甲巡洋艦ブラック・プリンスは視界内にビーティ指揮下の第3軽巡洋艦戦隊を見つた。しかし、同時に第3巡洋戦艦戦隊と連絡行動中の軽巡洋艦チェスターが偵察部隊第2偵察群に阻止され猛攻撃を受けた。第3巡洋戦艦戦隊が救援に向かうが到着前にチェスターは大きな被害を負った。第3巡洋戦艦戦隊旗艦インヴィンシブルは軽巡洋艦ヴィースバーデンを攻撃、これを航行不能にさせ第2偵察群所属の他の艦はフッドが北と東の方向からイギリス主力艦を誘導していると勘違いしたので、ヒッパーとシェアの艦隊がいる方向に逃走した。ヴィースバーデンはこの後もイギリスの駆逐艦などの攻撃を受け6月1日午前2時45分頃に沈没した。生存者は1名のみだった。同じ頃、ビーティとエヴァンはヒッパーの偵察部隊との交戦を再開したが、視界状況はイギリス艦隊に有利だった。艦隊の戦闘力がかなり落ちたので、ヒッパーは18時頃にシェアの大洋艦隊本隊の方に向かって反転した。時を同じくして戦艦アイアン・デューク艦上のジェリコーは、ようやくビーティの旗艦ライオンを視界に捉えた(地図の1)。ジェリコーは直ちにビーティに最新のドイツ艦隊の位置の情報を要求したが、ビーティは返答するまでに10分近くもかかってしまった。ジェリコーは敵の勢力を過大評価し、位置取りを憂慮していた。並列陣形から単縦陣に変更する時期と方法を判断するために正確なドイツ艦隊の位置を知る必要があったが、陣形変更は東西いずれの戦列からもできたものの、ドイツ艦隊が到着する前に行わなければならなかった。しかも、早すぎる陣形変更では決戦の機会を逃す恐れがあった。西に向かいながらの陣形変更は艦隊をシェアの本隊に近づけ、夕暮れが迫る中で貴重な時を稼ぐことが出来たが、陣形変更が完了する前にドイツ艦隊に遭遇する恐れがあった。東に向かいながらの変更ではイギリス艦隊をシェアの本隊から遠ざかってしまうが、ジェリコーの艦隊はドイツ艦隊に対してT字戦法で戦闘を挑める他、西日に浮かぶシェアの本隊のシルエットを見られるという利点があった。陣形変更には最短でも20分はかかり、一方で2つのドイツ艦隊は高速で接近中であった。ジェリコーは18時10分に東に向かっての陣形変更を命じた(地図の2)。一方、ヒッパーの偵察部隊はシェアの本隊と再び合同し、北方で陣形変更を決意したジェリコーの「大艦隊」に向かって進んだ。シェアにはジェリコーの「大艦隊」が北西から接近しているという知らせが入らず、北方のビーティと東方に出現したフッドの部隊に気を取られていた。この時第1巡洋艦戦隊の旗艦ディフェンスは弩級戦艦同士の戦闘で役に立たない旧式の装甲巡洋艦であったが、航行不能に陥っていたヴィースバーデンを発見し、同隊のウォーリアと共に止めを刺しに近づいた。しかし2隻は迂闊にもシェアとヒッパーの艦隊の射程圏内に入り込んでしまった。たちまち砲撃を受けたディフェンスは、「大艦隊」の大半からも視認できるほどの大爆発を起こし、アーバスノット司令以下全乗組員903名とともに沈没してしまった。ウォーリアも命中弾を受けて深刻な損傷を被り沈没の危機に晒された。だが、近くの超弩級戦艦ウォースパイトが被弾により操艦不能になり、大きく円を描くような旋回しかできなくなった。この影響でドイツ艦艇の矛先がそちらに逸れることとなり、ウォーリアは難を逃れた。このウォースパイトの行動は、ウィンディ・コーナーとして知られる。ウォースパイトは命中弾13発を受けつつも耐えていたが、エヴァンは離脱と帰港を命じた。ウォーリアは生存者743名が水上機母艦エンガディンに移り、エンガディンによって曳航された。しかし、6月1日8時25分にウォーリアは放棄され、その後沈没した。18時14分、ジェリコーのもとにビーティからドイツ艦隊の位置の報告が届き、艦隊を左翼に展開させた。18時25分、水雷戦隊からの報告でこのことを知ったシェアは艦隊が危険な状態に追い込まれていることを察知、南南東への針路変針を指示した。18時30分、フッドとビーティの部隊を前衛、エヴァンの部隊を後衛につけたジェリコーの部隊が砲撃を開始、独偵察部隊は瞬く間に被弾。リュッツオウは艦首を大きく沈めて戦列から脱落、フォン・デア・タンは主砲塔を殆ど破壊され、デアフリンガーは中破、戦闘力を維持しているのはモルトケのみとなった。ジェリコーはシェアの本隊をT字戦法で効果的に横切る形をとれた(地図の3)。ジェリコーの旗艦アイアン・デュークは、先頭をゆく独弩級戦艦ケーニヒにたちまち数発の命中弾を与えた。しかし、この数分間の短い交戦では「大艦隊」の24隻の戦艦の内わずか10隻程度が砲戦に加わったのみであった。対してフッドの第3巡洋戦艦戦隊は有効射程にドイツ艦隊を捉えて砲撃、リュッツオウの喫水線下に2発の命中弾を与え、最終的に戦列からの離脱に追い込んだ。ドイツ艦隊は視界不良と不利な戦術的位置に苦しみ、シェアは、18時33分に回頭して退却することを命じた。その直後、突然あたりの濛気が晴れ、第3巡洋戦艦戦隊旗艦インヴィンシブルは空の明るい一部を背景に艦影を明瞭に現わしたため、約8600メートルの近距離にあったデアフリンガーからの主砲弾がインヴィンシブルの砲塔を貫通・誘爆で船体を真っ二つに割り、フッド提督以下乗組員1032名のうち、わずか6名の生存者を残して轟沈した。ジェリコーは戦艦部隊を雷撃される危険を意識し、追跡ではなくドイツ艦隊を西に見る陣形を保つ南への変針を決心した。また、シェアは撤退するのにまだ暗くないということを意識しており、艦尾から追撃されて苦戦しないよう、18時55分に東へ反転した(地図の4)。シェアのこの考えを裏付けるように18時58分に第1戦艦戦隊旗艦マールバラに魚雷が1発命中している。グットイナフ代将の第2軽巡洋艦部隊は接触を続けるため、大洋艦隊からの砲撃を回避しながら19時過ぎに再び接近した。18時55分、シェアは第2偵察群の報告からジェリコーの艦隊の位置を予測し、その戦列の後方を横切りながら一気に東へ突破しようとした。ところがシェアの受けた報告は全て誤っており、ジェリコーの位置はそれよりもずっと北だった。この過誤により今度こそ大洋艦隊は壊滅すると思われた。しかし過誤に気づいたシェアはすぐさま正しい決断をする。19時13分、ヒッパーに対して敵戦列への突入を指示、ヒッパーもこの命令の意味するところを理解し、ヒッパーの指示で離脱したリュッツオウを除いた巡洋戦艦4隻と残存する駆逐艦がイギリス艦隊に突入を開始した。後に言われるドイツ巡洋戦艦部隊の「死の騎行」の始まりである。19時15分にはジェリコーの艦隊も再びT字戦法で砲戦を開始できた。既に大損害を受けていたヒッパーの第1偵察群はこの突入で徹底的に打ちのめされ、モルトケを除く艦は残骸同然の有様となったが、なお強靭な防御力を発揮しつつ洋上を走り続けていた。今度の砲撃は大洋艦隊の戦艦にも損害が出て、特にベーンケ少将の第3戦艦部隊に対して損傷を与えた(地図の5)。この砲戦でイギリス艦隊に2発の命中弾を与えたが、ドイツ側は37発もの命中弾を受け、このうちの14発がデアフリンガーに集中した。ヒッパーらの、この捨て身の援護のおかげでシェアの主力部隊は敵前での困難な右一斉回頭をなしとげ19時35分までに敵の砲火から脱した。同じく第6・第9水雷戦隊が数波に分けてイギリス艦隊を雷撃、遠距離雷撃で命中は期待できなかったものの時間稼ぎになり、イギリス艦隊の追撃を振り切ることができた。しかし大洋艦隊はまだ安全ではなかった、ビーティ率いる巡洋戦艦部隊がヒッパーらの「死の騎行」にも遭遇せず、大洋艦隊を猛追してきたからである。20時18分、ビーティは陣形が未だ乱れたままのドイツ艦隊を発見、直ちに反撃できたのは満身創痍の偵察部隊と旧式戦艦からなる第2戦隊(司令官:モーフェ少将)だけだった。ビーティが大洋艦隊を抑えている間にジェリコーの部隊も追いつく。しかし20時24分から日が落ち始め、大洋艦隊とビーティの部隊の区別がつかなくなりジェリコーは追撃を断念して南に転進、大洋艦隊は離脱に成功した。この間、英戦艦キング・ジョージ5世と独戦艦ヴェストファーレンが数度の砲撃を交えたが、双方とも第一次世界大戦において弩級戦艦同士の戦闘がこれで終わるとは想像していなかった。21時、「大艦隊」の夜戦での弱さを認識していたジェリコーは、払暁まで大規模な交戦を避けようと考えた。彼はシェアがエムズへ逃亡するのを防ぐために南進する間、後方を警備させるため主力艦隊の後方に巡洋艦と駆逐艦の列を置いた(図の7)。実際には、シェアは英国艦隊の航路を横切りホーンズ岩礁方面へ逃亡しようと企てていた。シェアにとっては幸運なことに、ジェリコーは慎重になりすぎて多くの状況証拠からドイツ艦隊がジェリコーの背後を取りつつあると判断してしまったため、ジェリコーの偵察艦はシェアの本当の進路を発見できなかった。シェアの逃走とジェリコーの不活発がドイツの夜戦能力の全面的優位を物語っているとは言え、夜戦の結果は会戦全体ほど明瞭ではない。グッドイナフの旗艦サザンプトンは深刻な損傷を受けていたが、有効な偵察を行っており、ドイツの軽巡洋艦フラウエンロープを何とか撃沈した。フラウエンロブは22時23分に全乗組員320名とともに沈没した。しかし、6月1日2時、運の悪い第一巡洋艦戦隊のブラック・プリンスは戦艦チューリンゲンの砲撃で致命傷を受け、戦隊の旗艦ディフェンスの数時間前の運命を再現するかのように、全乗組員857名とともに轟沈した。2時10分、イギリス第12水雷戦隊はドイツ艦隊に向けて魚雷を発射した。駆逐艦5隻の喪失といくらかの損傷と引き換えに、どうにか前弩級戦艦ポンメルンを全乗組員844名とともに沈め、軽巡洋艦ロストックに魚雷命中、さらに弩級戦艦ポーゼンに衝突されて放棄された軽巡洋艦エルビングに損傷を与えた。巡洋戦艦リュッツオウは生存者1150名が脱出したあと、1時45分に自沈した。ジェリコーの過剰な慎重さに加えて、ドイツ海軍はロンドンの海軍情報局の失策にも助けられた。海軍情報局は、大洋艦隊の正しい位置を知らせる無線傍受を転送したが、ジェリコーがシェアの居場所をつかんだのは4時15分のことであり、もはや戦闘を続けられないのは明らかだった。1916年には「栄光の6月1日」は訪れそうになかった。大洋艦隊主力は1日午後にはヤーデ湾に帰投。夜明けまでドイツ艦隊を探していたジェリコーもドイツ艦隊主力の帰投の連絡を受け、自艦隊への帰還命令をだした。司令長官:ジョン・ジェリコー大将○戦艦部隊 (ジェリコー大将直卒)○巡洋戦艦部隊 司令長官:デイビッド・ビーティー中将司令長官:ラインハルト・シェア中将○戦艦部隊(シェア中将)○偵察部隊 司令長官:フランツ・フォン・ヒッパー中将イギリスの損失は、3隻の巡洋戦艦を含む、合計14隻、排水量にして115,000トンと兵員6,094名を失った。ドイツは合計11隻、62,000トン、2,551名を失った。他にもイギリスの巡洋戦艦"ライオン"やドイツの巡洋戦艦"ザイドリッツ"が大破する被害を負った。イギリスの損害のほうが大きかったが、戦闘終了後、イギリスには即時戦闘可能な弩級戦艦と巡洋戦艦が合わせて24隻残っていたのに対してドイツは10隻だけとなり、残存戦力でイギリス艦隊が優勢を維持した。沈没損傷戦死 6097名捕虜 177名沈没損傷戦死 2551名この海戦はドイツ海軍の戦術的勝利、戦略的敗北とよく言われる評価であるが、ではイギリス海軍は戦略的勝利を得たのかといえばそうとは言えなかった。ドイツ大洋艦隊は損害を被ったものの未だ戦力を保持し続け、この後も幾度か出撃するなどしている。これに対してイギリス「大艦隊」は引き続き大洋艦隊に備えて北海に睨みをきかせ続けることを強いられ、よく見ても現状が維持されただけだった。イギリス・ドイツ両国とも大型の戦艦を数多く揃えて、シーパワー獲得を目指したが、結局のところシーパワーを獲得するための道具として「戦艦」は強力ではあるものの完全ではなかった。大きくて高価な戦艦は、より小さくて安価な武器(機雷、魚雷、潜水艦など)からの攻撃に脆く、故に戦艦は自分と同じ戦艦相手でないと投入できない、極めて費用対効果の悪い兵器となった。純粋な戦術面でも戦艦に限らず、そもそも水上艦同士の戦闘というものが本質的に双方が決戦を望んでいる場合(日本海海戦など)か不期遭遇戦(夜戦)を除いて、劣勢側は素早く退避して戦闘を逃れようとするので海上で決戦が起こること自体希であった。日露戦争黄海海戦しかり、後年のアッツ島沖海戦しかりである。この海戦を通じて当時の用兵家や思想家たちも戦艦の能力の限界を認識したが、その対策として彼らは戦艦という艦種の更なる強化を目指し、戦艦は高性能化する反面、更に大型で複雑、高価、費用対効果の悪化をもたらし、第一次世界大戦時以上に投入しづらい兵器となった。かくして国家の資源に占める戦艦1隻の割合は上昇し、戦艦はますます武器としての現実性を喪失していった。巡洋戦艦における設計の問題と運用の誤りは、イギリス海軍に重大な損害をもたらした主因である。この戦闘は、イギリス海軍が技術と作戦の両面でドイツ海軍に劣っていた証拠だとされることが多い。ジェリコーは報告書へ以下のように書いている。2003年の夏にはダイバー隊が、イギリス艦に多かった艦内爆発の原因を調査するため、沈没した巡洋戦艦インヴィンシブル、巡洋戦艦クイーン・メリー、装甲巡洋艦ディフェンス、巡洋戦艦リュッツオウの残骸を調べた。この時の調査結果によると、艦内爆発の主な原因は主砲弾の推進剤であるコルダイトの雑な取り扱いを原因として挙げている。これは当時のイギリス海軍の方針で、敵に対して遅くて正確な射撃より、むしろ速射率を重視していたせいである。特に発射のスピードを重んじる訓練の際に、ホイストとハッチを通じてコルダイトを供給していたのでは間に合わないので、次の斉射のための装填に間に合わせるため、誘爆に備えた防火扉の多くを開いたままの状態にして、コルダイトの袋を砲塔近くに置いていた。これでは安全のための設計がまったく無意味になるが、このような「悪い習慣」が実戦時にも行なわれてしまった。さらにドイツ海軍の推進火薬であるRP C/12は真鍮製のシリンダーに収められていたのに対し、イギリス海軍のものは絹製の袋で供給されており、火炎に敏感で誘爆を招きやすかった。しかも1913年には、弾薬不足を恐れて、各艦の砲弾とコルダイトの積載量を50パーセント増やすと決定された。これが弾薬庫の収容力を超えた時には、コルダイトが危険な場所に保管されることになった。海戦の後、イギリス海軍はコルダイトの取り扱いについて批判的な報告書を作成した。しかしその時にはすでに、ビーティは「大艦隊」の司令官になり、ジェリコーは第一海軍卿(日本で言う軍令部総長)になっていた。そのため、艦内爆発の責任の一部は参加した艦隊の士官たちにあるとする報告書は握りつぶされ、ほとんど一般の批判を受けることはなかった。海戦はイギリス海軍の概念と巡洋戦艦の使用に欠点があったと見られた。巡洋戦艦はジョン・アーバスノット・フィッシャーの、「速度は装甲」という言葉通りに設計された。それは敵の戦艦より速く、優れた射撃管制を用いて敵の巡洋艦を射程外から圧倒して反撃する余地を与えないことを目的としていた。しかし、この海戦で射撃管制の使用を可能にする開発が行われず、フィッシャーの方式は成り立たなかった。また、敵の戦艦からの攻撃に耐える装甲も不足していた。特に、本海戦では遠距離砲戦により大角度から被弾することが多くなり、ドイツ艦で取り入れられていた水平防御の重要性が認識されることとなった。また、本海戦に参加した戦艦を含む主要艦艇の多くは旧式で速力が遅いために主戦闘には参加できず、新たな高速艇の開発が課題となった。しかし、上記のように装甲の充実も戦訓とされたため、これら相反する条件をクリアするため各国の設計者たちは悪戦苦闘することとなる。当時、ジェリコーは慎重に過ぎてシェアの逃走を許したと批判された。とりわけビーティはジェリコーは第二のトラファルガー海戦に勝利して独国艦隊を撃滅する絶好の機会を逃したと確信していた。ジェリコーの昇進は止まり、第一線から外されて第一海軍卿に回され、一方ビーティがその後を継ぎ「大艦隊」司令長官に昇進した。戦後も10年近くにわたって賛否両論が続いた。批判は主にジェリコーが19時15分に下した決定に集中した。シェアは戦艦部隊の退却を援護するために巡洋艦隊と駆逐艦隊に魚雷攻撃のため前進するように命令した。もしジェリコーが(事実と異なり)西に転じていれば、雷撃をかわしてドイツ艦隊を撃破出来たであろうか、という疑問が残る。ジェリコーの擁護者は、海戦史家Julian Corbettを含めて、すでに制海権を確立した後に敗北の危険を冒すことの愚かさに言及している。Corbettの公式戦争史である「海軍作戦」(Naval Operations) は次のような異例ともいえる否定的文章を含む、「いたずらに戦闘を欲すること、それを決定的なものにしようとすることは重要ではないということは海戦の戦術で重要な原則であるが、これに全く反するものの見方をする人が多いようだ (Their Lordships find that some of the principles advocated in the book, especially the tendency to minimise the importance of seeking battle and forcing it to a conclusion, are directly in conflict with their views.)」。各自が海戦の結果をどのように評価しようとも、それに賭けられていたものは恐るべきものであり、ジェリコーにかかっていたプレッシャーはとてつもないものだった。ジェリコーの慎重さは充分理解できる。ジェリコーは恐らく勝利の確率が90パーセントであっても、大英帝国の運命を賭けるには充分ではないと判断したのだろう。かつての海軍大臣チャーチルは海戦を評して、「ジェリコーは半日で戦争を敗北に終わらせることの出来る唯一の人間だった」としている。ジェリコーへの批判は同時にシェアへの評価を落とすことにもなっている。シェアは決戦を避けることにより艦隊を保全することを決意したのであり、退却戦において優れた技量を発揮したのであった。イギリス艦隊が完全な勝利を逃したことについてビーティーの行動を批判する一派も存在する。ビーティーの勇敢さに疑問の余地は無かったが、ドイツ艦隊との交戦でビーティーがとった処置のため海戦は危うく敗北に終わるところであった。イギリス艦隊の損失の大半はビーティーの戦隊である。その日に失われた三隻の主力艦はいずれもビーティーの指揮下にあった。ビーティーはその巡洋戦艦をその設計目的にそぐわない戦闘に投入した。それらは対巡洋艦作戦に用いられるためのものであり、大きく強固に装甲された弩級戦艦との直接交戦のためのものではない。弩級戦艦との砲戦で巡洋戦艦は決定的に不利である。加えて、ビーティーの戦闘行動が統制がとれていなかったこともしばしば批判される。ビーティーは明らかに海戦において緻密な指揮統制が重要とは考えていなかったようである。ビーティーは巡洋戦艦「ライオン」に座乗していたが、途中で他の4隻の巡洋戦艦との接触を失ってしまった。ビーティーの12インチ砲搭載の巡洋戦艦はドイツの11インチ砲搭載巡洋戦艦より射程が長かったにもかかわらず、ビーティーはドイツ艦隊の砲術が威力を発揮する距離まで距離を詰めてしまった。一方でビーティーの巡洋戦艦の砲術は訓練不足から今一つで、「南走」(The Run to the South)において重大な影響をもたらした。ただし、別の見解によれば、ビーティの主力は13.5インチ砲搭載であった。またドイツ艦隊もリュッツオウ、デアフリンガーは12インチ砲搭載だった。また射程距離は必ずしも口径によらず、ドイツ艦砲の短射程は仰角が小さいことが主因である。この戦いの間、ビーティーは「(ちくしょう、)我が艦隊は今日は何かおかしいんじゃないか」という有名な発言をしている。ビーティーが非難を他人になすりつけていること自体に賛否両論がある。巡洋戦艦の指揮がまずく、第5部隊をなおざりにし、戦闘の準備が不適当だったとは言え、攻撃精神が不十分だったという点で、ビーティーはジェリコーを非難する理由がある。一方で、この戦いの間ビーティーとアーバスノットは敵に突撃するという愚行を犯している。日本において海戦名が書かれる場合は、「ユトランド(沖)海戦」、「ジュットランド(沖)海戦」等、表記が文献によって様々である。

出典:wikipedia

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