ニック・ラース・ハイドフェルド(Nick Lars Heidfeld、1977年5月10日 - )はドイツ、メンヒェングラートバッハ生まれのレーシングドライバー。日本では「ハイドフェルド」と表記されることが多いが、ドイツ語の発音では「(ラルス・)ハイトフェルト」に近い音となる。元F1ドライバーで、からまでF1に参戦していた。元ドイツF3ドライバーのSven Heidfeldは実の弟。ドイツ国内のカート選手権でチャンピオンを獲得するなど活躍した後、1994年にドイツFF1600フォーミュラにステップアップ、1996年にドイツF3に参戦を果たし2年目となる1997年にタイトルを獲得した。1998年国際F3000へ。初年度ながらファン・パブロ・モントーヤとタイトル争いを演じる。が、最終戦で燃料規定違反が発覚し、ペナルティを受け最後尾スタートとなる。これでチャンピオンを逃しシリーズ2位で終わる。1999年マクラーレンのテストドライバーを務める傍ら、引き続き国際F3000に参戦。4勝を挙げチャンピオン獲得、冷静なレース運びから「コンピューター・キッド」、「クイック・ニック」と称される。この年にはメルセデスのワークスドライバーとしてル・マン24時間レースにも参戦したが、メルセデス・ベンツ・CLRが宙を飛ぶ事故を三度も起こしたことによりチームの判断で全車リタイアとなった。2000年から2011年までF1に参戦。2012年以降はF1を離れ、世界耐久選手権(WEC)にレベリオン・レーシングから参戦。その他2013年にはアメリカン・ル・マン・シリーズに、2014年はフォーミュラEにも参戦している。2000年よりメルセデスの契約下、国際F3000選手権のタイトルを引っさげてプロスト・グランプリからF1デビュー。メルセデスの秘蔵っ子として期待されたが、ハイドフェルドはチームメイトのジャン・アレジとの接触など精彩を欠き、全く目立つことなく無得点に終わった。イギリスF3選手権から飛び級でグランプリデビューした同じく新人のジェンソン・バトンに完全に話題をさらわれた形となってしまった。2001年ザウバーへ移籍。開幕戦オーストラリアGPで初入賞を果たし、第3戦ブラジルGPでは雨や運に恵まれながらも3位初表彰台を獲得する。シーズン成績はチームメイトの新人キミ・ライコネンよりポイントでは上回ったが、天性の速さ、潜在能力の高さにおいては経験値の違いなどからも明らかにライコネンに軍配が上がった。その結果、ミカ・ハッキネンが2002年シーズンからの休養宣言をしたのと同時にライコネンのマクラーレン入りが発表され、メルセデス契約下(2003年契約解除)のハイドフェルドは新人のチームメイトに先を越される形となり、大きな屈辱を味わった。2002年には新人のフェリペ・マッサと組む。4回の入賞を果たしたが、得たポイントは7ポイントと前年より下回った。2003年もザウバーに残留した。ベテランのハインツ=ハラルト・フレンツェンと組んだ。レギュレーションでポイント制が8位までと広がった為、辛うじて3回の入賞を果たすも、フレンツェンには及ばなかった。2004年ジョーダンへ移籍。チームは末期的な状況で戦闘力の低いマシンであったが、モナコGPで入賞。又、カナダGPでも入賞を果たした。2005年、アントニオ・ピッツォニアとのレギュラーシート争いを経て、まさにテスト入団の形でウィリアムズへ移籍した。チームメイトにはラルフ・シューマッハの後任として加入したマーク・ウェバーとコンビを組むこととなった。第2戦マレーシアGPで自身2度目の3位表彰台、第6戦モナコGPで自己最高位の2位、第7戦ヨーロッパGPでは搭載燃料が軽かったことが要因としては挙げられるが、初のポールポジション獲得。決勝は3位を走行中、ラスト1周、首位ライコネンが1コーナーでタイヤトラブルによりクラッシュ、リタイヤとなると、労せずして2戦連続2位フィニッシュした。開幕前はセカンドドライバー的な見方が多かったが、ウェバーに対してほぼ互角の成績を残したといえる。イタリアGP前のモンツァ・テストでのクラッシュの影響により、イタリアGP・ベルギーGPを欠場し、復帰を目指したトレーニング中に再度負傷してしまい、結局ブラジルGP以降の残り3戦全てを欠場することとなり、ウィリアムズの戦闘力低下と相俟って「尻すぼみ」の印象を与えることとなった。余談だが、ハイドフェルド離脱によりラスト3戦はアントニオ・ピッツォニアがシートに収まった。2006年のF1世界選手権よりドイツの自動車メーカーでありF1にエンジン供給を行ってきたBMWが中堅コンストラクターであるザウバーの株式を取得し、BMWザウバーとして参戦する。これに伴い、BMWザウバーはウィリアムズからオプション権を買い取り、ハイドフェルドは古巣からレギュラー参戦することとなった。初めの12戦を元ワールドチャンピオンジャック・ヴィルヌーヴ、終盤の6戦をルーキーロバート・クビサとともに戦い、2人を上回るポイントを獲得した。2007年もクビサと共にBMWザウバーから参戦。車の安定性やマクラーレンのスパイ事件にも助けられ、コンストラクターズランキングではフェラーリに次ぐ2位の獲得に貢献し、ドライバーズランキングでは61ポイントを獲得し自己最高位の5位につけた。2008年も引き続きクビサとのコンビでBMWザウバーより参戦する。シーズンを通して予選、決勝ともにクビサの後塵を拝するレースが目立つ結果となった。主な原因として2008年仕様のブリヂストンタイヤの特性への対応しきれなかった、特に予選でタイヤを適正温度に加熱する事に非常に苦労していたことが挙げられる。その一方で第15戦シンガポールGPでは6位完走で、前年の第8戦フランスGP以来25連続完走を果たし、ミハエル・シューマッハの24連続完走という歴代1位の記録を更新した。また、この年出走したドライバーの中で唯一全戦完走を達成した。年間決勝全戦完走はF1史上7人目の達成者となる。2009年もBMWザウバーから参戦。KERSを搭載したマシンで臨んだ開幕戦オーストラリアGPだったが、決勝レースのスタート直後に他車と接触、終始後方でのレースとなり完走こそ果たしたものの無得点に終わった。足掛け3年にわたり更新し続けた連続完走記録は第13戦イタリアGPまで続き、第14戦シンガポールGPでスピンしたエイドリアン・スーティルに接触されてリタイアを余儀なくされ、連続完走記録は41で止まった。BMW撤退のためレースシートを失う事が確定していたが、今期のハイドフェルドは2位表彰台1回を含む6回の入賞で19ポイントを獲得し、本人はシーズン終了後の去就を楽観視していた。BMWザウバーの撤退に伴い、ハイドフェルドはマクラーレンなどのいくつかのチームと交渉するも、どのチームも合意には至らなかった。このシーズンより参戦したメルセデスがドイツ人ドライバーを欲していた為にハイドフェルドが移籍する可能性もあったが、皇帝ミハエル・シューマッハのF1復帰ということもあってシーズン開幕直前の2010年2月4日にメルセデスのテスト・リザーブドライバーとしての契約を結び、レギュラードライバーから退く事になってしまった。しかし、メルセデスはレギュラードライバーの経験向上を念頭とした為に、結局はメルセデスに在籍中に一度もハイドフェルドに対してテスト走行の機会を与えられる事はなかった。その後、10年近いF1でのキャリアを買われ2011年のF1世界選手権よりタイヤサプライヤーとなるピレリのテストドライバーに就任することとなった。尚、メルセデスとの契約は2010年8月に解除された。ハイドフェルドはピレリにおいてのタイヤテストを8月から9月16日にかけて数回行ったが、2010年9月14日、古巣ザウバーのレギュラードライバーにペドロ・デ・ラ・ロサの後任として9月17日より就任し、第15戦シンガポールGPからレース復帰することが発表された。それに伴いピレリのテストドライバーの座をロマン・グロージャンに譲り降板することとなった。日本GPでは、復帰後初の8位入賞を果たした。その後の韓国GPでも入賞したが、ザウバーは来シーズンハイドフェルドに代わり、メキシコ人のセルジオ・ペレスを起用したため、再びレースシートを失うこととなった。ハイドフェルドの去就に関して先行き不透明であったが、2011年2月6日にロータス・ルノーGPのクビサがラリー事故により骨折する重傷となった為、クビサの容態が開幕戦バーレーンGPまでに完治して復帰できなかった場合を踏まえ、ロータス・ルノーGPは2月9日に同チームのテスト兼リザーブドライバーを務めるブルーノ・セナらと共にハイドフェルドもスペインのヘレスで行われる合同テストに参加することを発表した。2月12日、ルノー・R31を86周走行し、最速タイムを記録し、テスト後の16日にはクビサの復帰までロータス・ルノーGPに加入することが発表された。第2戦マレーシアGPでは3位表彰台を獲得するが、その後はチームメイトの持参金ドライバーであるヴィタリー・ペトロフの後塵を拝すなど不甲斐ない成績に終始し、第12戦ベルギーGPにはリザーブドライバーのブルーノ・セナにシートを奪われた。チーム代表のエリック・ブーリエは、ハイドフェルドは期待したほどの速さはなく、クビサに代わってチームをリードする能力を持っていなかったと述べている。ハイドフェルドは契約の有効性を主張し、ロンドン高等法院にドライバー交代の差し止め命令を求める訴えを見せたが、9月3日に訴訟を撤回し、チーム側との和解とチームからの離脱を発表した。
出典:wikipedia
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