吉見 正頼(よしみ まさより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大内氏、毛利氏の家臣。石見国の国人である石見吉見氏は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。永正10年(1513年)、吉見頼興の五男として生まれる。初めは石見津和野で僧籍にあったが、天文9年(1540年)、父より家督を継いでいた兄・隆頼(頼隆)が不慮の死を遂げたため還俗して家督を継ぎ、隆頼の正室であった大宮姫(大内義隆の姉)を娶った。正頼は清廉な人物で、義隆から厚く信任を受けた。天文20年(1551年)、義隆が重臣の陶隆房の謀反によって討たれる(大寧寺の変)。陶氏と吉見氏は同じ大内家臣でありながら応仁の乱以来の仇敵であった。加えて隆房は、当時正頼と領地を巡って争っていた益田藤兼の従兄であり、隆房自身も益田氏側に味方をしていたことから、正頼は反隆房の急先鋒として挙兵する。また、密かに安芸国の毛利元就と交渉して決起を促した。天文23年(1554年)、大内軍による総攻撃を受けて三本松城に籠城するが、最終的には子・広頼を人質に出し講和する(三本松城の戦い)。弘治3年(1557年)、元就の防長経略に際しては毛利軍と同調して山口に侵攻、長門国阿武郡にある渡川城から大内軍(野上忠房の軍勢)を排除して山口北部の宮野口へ迫り、山口を陥落させた。同年、大内氏が滅ぶと元就の家臣となった。元就も義隆同様、正頼の清廉な性格を厚く信頼した。元亀2年(1571年)に元就が死去した後は、後を継いだ嫡孫・毛利輝元の補佐を吉川元春から依頼されている。天正9年(1582年)、備中国高松城への出陣を最後に、家督を子・広頼に譲って指月城に隠居。同地で天正16年(1588年)に死去。
出典:wikipedia
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