一条 兼定(いちじょう かねさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン・戦国大名、土佐国司。土佐一条氏の事実上の最後の当主。従三位・一条房基の子。天文12年(1543年)一条房基の嫡男として生まれる。天文18年(1549年)父・房基が自殺したため7歳で家督を継いだ。このため、土佐一条氏出身で関白となっていた大叔父(兼定の祖父・一条房冬の弟)の一条房通が養父となって後見する。房通が亡くなった弘治2年(1556年)以後に元服、房通の跡を継いだ義兄の一条兼冬より偏諱(「兼」の字)を受けて兼定と名乗る。永禄元年(1558年)に伊予国の宇都宮豊綱の娘を娶るが、永禄7年(1564年)に離別して豊後国の大友義鎮の次女を娶り大友氏と結んだ。また、伊予国の覇権をめぐって永禄11年(1568年)には豊綱を支援して伊予に進出するが、安芸国の毛利氏の援兵を受けた河野氏と戦って大敗した(毛利氏の伊予出兵)。また、京都の一条家本家(当主は兼冬の弟・内基)とも次第に疎遠になってきていた。この頃から土佐国において長宗我部元親が台頭すると、妹婿の安芸国虎と呼応してこれを討とうとしたが、永禄12年(1569年)に国虎が逆に元親に討たれた。その後は長宗我部氏によって領土を侵食され、また重臣の土居宗珊を無実の罪で殺害したために信望を失い、他の三家老である羽生、為松、安並などの合議によって天正元年(1573年)9月に隠居を強制された。なお、この際に本家より義弟の一条内基(兼冬の弟)が訪れ、兼定の嫡子・万千代(吉房子とも)の元服を執り行い1字を与えて内政と名乗らせている。天正2年(1574年)2月に豊後臼杵へ追放されて大友氏を頼った。兼定の追放を知り憤慨した加久見城主・加久見左衛門は平素から土佐一条氏老臣に反感を抱いていた大岐左京進、大塚八木右衛門、江口玄蕃、橋本和泉らと謀りに挙兵して中村を襲い老臣を討伐した。しかしこの混乱に乗じ、叛乱鎮定に名を借りた元親により中村を占領されることになった。翌天正3年(1575年)キリスト教に入信し、宣教師ジョアン・カブラルから洗礼を受けた。洗礼名はドン・パウロ。同年7月、兼定は大友氏の助けを借り再興を図って土佐国へ進撃したが、四万十川の戦いで大敗し戦国大名としての土佐一条氏は滅亡した。その後は瀬戸内海の戸島に隠棲したが、旧臣の入江左近に暗殺されかけ重傷を負うなどの苦難にあった様子がアレッサンドロ・ヴァリニャーノの書簡などから伺える。天正9年(1581年)京都から長崎への帰路の最中ヴァリニャーノは兼定を見舞っているが、その際、兼定は熱心で信心深い信仰生活を送っており、ヴァリニャーノは感嘆したという。天正13年(1585年)7月1日に戸島で卒去。『諸家伝』による。
出典:wikipedia
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