仲田 幸司(なかだ こうじ、1964年6月16日 - )は、アメリカ・ネバダ州出身の元プロ野球選手(投手)、指導者、野球解説者、タレント。イゼル株式会社所属。愛称は「マイク」「マイク仲田」「ジンタ」。アメリカ・ネバダ州で生まれた。父親がアメリカ人で母親が日本人のハーフ。1967年に沖縄県に移住し、興南高校を卒業。1983年のドラフトで阪神タイガースから3位指名され入団。1985年はヤクルト戦で完封、初勝利をあげるなど、21年ぶりの優勝に貢献(この年3勝4敗)。1986年から1990年は先発ローテーション投手としてストレートを武器に活躍。しかし、三振はとるもののコントロール難と精神的なもろさから勝ち星が伸びず、1989年には11試合連続完投勝利を続けていた斎藤雅樹と投げ合って完封して斎藤の記録を止めたり、1991年には東京ドームの読売ジャイアンツ戦で、2回で降板した猪俣隆の後、2対2同点の3回から登板して桑田真澄と投げ合い、延長13回まで10イニング無失点と、そのシーズンの不調から思えば信じられない好投を見せ、延長12回マーベル・ウィンの特大本塁打が出て、勝ち投手になったりしたが、次の試合に続かず「年1回好投の男」(ネンイチ)の汚名を着せられたり、「性格が良すぎる」とまで言われた。1992年にスライダーを習得し、好調なチームの勢いにも乗り自身初の2桁勝利(14勝)に初タイトル(最多奪三振)を獲得、オールスターゲームにもファン投票で選出、チームも前年最下位から2位へと躍進し最高のシーズンとなった。「桃栗3年、柿8年と言うが、ようやく一人前になってくれた」と関係者は喜んだ。ところが翌1993年は再び3勝12敗と低迷、1994年は勝ち頭の新人・藪恵市(9勝)に次ぐ7勝で復活の兆しを見せたが、この年を最後に目立った活躍は出来なかった。その後は若手投手の台頭で登板機会に恵まれず、1995年オフ、FAで千葉ロッテマリーンズへ移籍した。1996年はサイドスローに転向するも結果を残せず、1997年オフに自由契約を言い渡される。その直後、古巣阪神の入団テストを受け内定を得たものの、投手の採用枠が1つしかない状況で同時に受験した遠山昭治が採用され、その結果不合格となった。それを受け現役を引退した。1998年から2006年まで毎日放送で野球解説者を務めていた。現在は講演活動を主としている他、関西ローカルのテレビ番組やCMに出演している。所属事務所はDプロモーションを経て現在はイゼル株式会社に所属。2009年6月に設立準備が表明された大阪エキスポセブンティーズの監督に就任する予定であったが、同年10月に球団の活動休止により監督就任の契約は白紙となった。2010年から、社会人野球の京都ジャスティスベースボールクラブで投手コーチを務めている。阪神在籍時の投球フォームはノーワインドアップで右足を高く上げて右足に近付けた両手と頭をくっ付けて一種の貯めを作ってから投げる変則的なモーションであり、現在でいう二段モーションといえる投球フォームだった。阪神時代に二塁への牽制悪送球でバックスクリーンにボールを投げ入れたことがある。愛称の「マイク仲田」は彼のアメリカ名のマイケル・フィリップ・ピーターソンに由来する。また、阪神時代はチーム・メイトに中田良弘がいたため、仲田を「にんべんのなかだ」と呼ぶファンもおり、これが愛称のジンタに繋がっている(中田良弘はにんべんが無い為、「チュンタ」と呼ばれていた)。英語は日本語と同様に彼にとっては母語であるので流暢に操れる。FA移籍が噂された際も「英語には不自由しないのでメジャーリーグも選択肢にはある。もっとも実力が必要だけど・・」とインタビューに答えている。「仲田」は、母親の再婚相手の義父の姓である。1992年頃「プロ野球ニュース」(フジテレビ)のオフ企画で、義父が出演し、幼少期について回想していた。また、その中で仲田は、実父への思いは殆どなく、義父が自分にとっての父親である旨の発言をしていた。ロッテへFA移籍する経緯として、オフに阪神から「君のFA権は紙切れ同然」と言われた。そして、過去特別に指導してもらうなどお世話になった広岡達朗を慕い、広岡が当時GMを務めていたロッテへ移籍した。ブレイクした1992年の翌シーズン(1993年)、他球団から打ち込まれた際のエピソードを亀山つとむによって、亀山自身がパーソナリティを務めるMBSのラジオ番組内で2010年5月に明かされている。仲田は1964年生まれであるが、1965年(昭和40年)生まれのプロ野球選手の集まり「プロ野球昭和40年会」に参加している。ちなみに高校卒業年度は40年会のメンバーと同じである。
出典:wikipedia
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