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紙芝居

紙芝居(かみしばい)は、絵を見せながら演じ手が語って進める芝居的パフォーマンスのことで、主に子供たちを対象にした簡易な芸能である。明治時代以降存在した「立絵」の紙芝居と、世界恐慌時代に立絵が廃れた後で誕生した「平絵」の紙芝居とに大きく分けられる。平絵の紙芝居は、世界恐慌時代(1930年代)の日本で誕生した。日本独自の存在で、バリ島のワヤン・クリなど影絵芝居や紙人形芝居を除けば他国に例を見ないものであった。絵話、絵芝居、平絵と呼ばれることもある。台本に沿って描かれた数枚から十数枚の絵をその筋書きに沿ってそろえて重ね合わせ、演じ手は、1枚目から順に観客に見せながら、筋書きとセリフを語っていく。見せ終わった絵は、横に引き抜いて裏に回し、物語を展開させていく。紙芝居では、演じ手(一人)と観客(複数)とが向き合い、実演を通して直接交流することにより盛り上がる。演じ手は観客の反応を見ながら、絵の引き抜き方、声色、台詞回しなど演じ方を自在に変える事もできる。この双方向性と一体感は、テレビなどの一方通行のメディアでは得られぬ紙芝居の特質である。よって、紙芝居においては素材の「絵」だけでなく、実演する「演じ手」も重要な要素であり、演じ手の質が紙芝居の効果をはっきり左右することになる。紙芝居は「絵」と演じ手の「語り」が主体である。これに対して現在の日本で隆盛を誇るマンガは、紙芝居の「語り」や動きを「絵」に書き込んだものと見ることもできる。アニメは絵とセリフが主体であり紙芝居にかなり近いが、観客は「受身」に終始する。現在見る形式の紙芝居のうち、「街頭紙芝居」は、戦前と戦後に1回ずつのブームに沸いた後、内容が教育的でないなどの批判に遭って自主規制したため自由奔放な発想を失ったこともあり、お株をテレビに奪われて急速に衰退していった。現在では、街頭紙芝居はほとんど廃れ、代わって一般市民が「手づくり紙芝居」を楽しんでいる。古来より、日本には「絵解き」と言って、絵を見せながら物語を語って聞かせる伝統があった。『源氏物語』にも、女房が姫君たちに絵巻を見せながら物語る場面が出てくる。寺では僧侶が曼荼羅や寺の縁起を「絵解き」で参拝者たちに語って聞かせた。時代が下り、江戸時代から明治・大正にかけて、小さな穴から箱の中の絵を覗くのぞきからくり縁日の見世物小屋で楽しまれた。絵だけではすぐあきられるので、これに語り(のぞきからくり節)をつけたものが人気を博した。また同じ時期に寄席や縁日で楽しまれた、写し絵、手影絵、影絵眼鏡もまた、「絵を見せながら語る」という点で、紙芝居の源流と言うことができる。この延長線上に無声映画があり、映画館では活弁士がスクリーンの前で熱弁を振るった。そのうち、「立絵」と言う、竹の串につけた20×10cm程度の紙人形を舞台で動かす芝居が現れた。1890年代には、円朝の弟子「新さん」が考案したといわれ、1930年代に現在の紙芝居形式(平絵)が登場するまで、この立絵が「紙芝居」と呼ばれていた。1920年代末期になると、戦後恐慌が悪化する中で立絵は消えていった。禅僧の西村上人による絵説き説教“絵話”を真似て、平絵による、現在のような形式の紙芝居が広まる誕生当初は大道芸的存在で、「子供の娯楽」として観客の子供たちから愛されたが、一部の保護者・教師からは「低劣、俗悪」と批判的な目で見られることもあった。「紙芝居屋」にはトーキーの隆盛で追われた活弁士や不況による失業者なども多く、子供たちからは紙芝居のおじさんと呼ばれていた。紙芝居のおじさんは自転車に紙芝居と水飴などの駄菓子を積んで街頭を回って、拍子木を打ち、子供を集めて駄菓子を売り、人数が集まれば紙芝居を始めた。紙芝居のおじさんはたいてい話が佳境に入ったところで「続きはまた来週」と話を止め、次回に期待させた。紙芝居屋が町を回って子どもを集め、駄菓子を売って紙芝居を見せる、という営業形態が成り立つのは、小銭を持って子どもが簡単に集まってくる場所に限られた。姜竣は農村には紙芝居はなかったとしている。「貸元」が作家・画家に1巻10画前後の紙芝居を制作させ、賃料を取って「紙芝居屋」に貸出した。作品例内容街頭紙芝居は駄菓子を売るのが主たる目的(大道芸の一種)であったため、客寄せのための過激な表現・描写はエスカレートするばかりで、エロ(性的描写)・グロ(虐待や暴力の描写・残酷・流血・退廃)などに走りすぎたとの批判がある。街頭紙芝居は手描きが主であったが、その成功を見て、宗教・教育・思想啓発のための教材として印刷紙芝居が刊行されるようになった。戦後は児童図書館にも備えられるようになった。第二次世界大戦中には、「少国民文化協会」が設立され、この中の紙芝居部会に各紙芝居団体は入って、国策・軍国紙芝居が慰問活動など戦争協力の一翼を担うことになった。これが戦後のGHQによる検閲と処分を招くことにもつながった。日本占領を始めたGHQは、当時の日本における"Kamisibai"(紙芝居)の子どもたちに対する影響力に驚くことになった。当時の紙芝居はGHQにとって「予想もしなかった人気メディア」だったのである。戦前からの国策・軍国紙芝居を取り締まるため、GHQは1945年(昭和20年)11月15日、映像部門に紙芝居担当係を新設し、内々にピクトリカル・コードを定め、検閲を行った。戦後に活動の自由を得た共産党系の組織が左翼思想の浸透に印刷紙芝居を活用しているとして、GHQはこれに神経を尖らせ、検閲を強化。左翼系紙芝居として公表禁止や一部削除の処分を受けた作品も出た。戦後の街頭紙芝居は1946年(昭和21年)ごろから人気上昇し、GHQ占領時代に最盛期を迎える。しかしその内容が「低劣、俗悪」であり子どもによくないという世論を受けて、自治体が条例や認定制を設け、また業界が自主規制を行ううちに紙芝居はその自由奔放さと輝きを失っていき、その後は1953年(昭和28年)に放送開始した街頭テレビなどにも押されて衰えていった。ただし、貸し元や演者の数が減ったという数的なことではあっても、文化として全く消えてしまった訳ではない。博物館・資料館での紙芝居、地域サークルによる紙芝居、観光業者、広告業者による紙芝居など、形はいろいろながら往年の街頭紙芝居を維持している人々、再現を試みている人々が存在する。教育紙芝居について言えば、流通では新作があり、教育施設・文化施設などで公演されており、実演者も相当数いる。保育現場では絵本とならぶ「日常的な保育教材・教具」である。学校での紙芝居:1960年代になるとTVの台頭で街頭紙芝居が廃れたのち、母親が我が子やその友達のために作って見せる「手づくり紙芝居」が各地で作成されるようになり、サークルなどもできはじめた。紙芝居の双方向性が見直され、自治体や公共図書館が主体となって「紙芝居まつり」や「手づくり紙芝居コンクール」などのイベントを中心に、全国各地の個人・団体が活動しており、地道に力を伸ばしつつ、紙芝居文化を継承している。日本の文化である紙芝居を使って唯一の原爆被爆国からの発信として平和紙芝居を講和している佐治妙心は、日本国内外で活躍中である。アメリカ、カナダ、中国、ラオス、タイ、スペイン、イギリスで講演、日本の文化として平和のメッセンジャーとしてその評価を得ている(誰によって?).近年ではラオス、ベトナムなどに紹介され、作られ楽しまれるようになってきている。また、国際協力NGOのジョイセフなどを通じてタンザニアの村にてエイズ教育活動に紙芝居が用いられている。お笑い芸人のネタ:松本人志「プー太郎のお昼ごはん」や大竹一樹「サンタさん」や山口智充「安田晴彦物語」や鈴木拓「桃太郎」などは自分たちの番組やネタ番組で紙芝居のパロディネタを披露している。それらは昔話やオリジナルに笑いのネタを足したり脱線したり絵の下手さで笑わすパターンが多い。また、ツッコミにツッコんでもらうというパターンもあり、大竹は相棒の三村、山口は上田晋也、鈴木は相棒の塚地武雅というパターンである。

出典:wikipedia

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