ウォースパイト(HMS Warspite)は、イギリス海軍のクイーン・エリザベス級戦艦2番艦。ウォースパイトは第二次世界大戦中の1943年にアンドリュー・カニンガム中将が語ったコメントに由来して、敬意をこめて「オールド・レディ」「老嬢」と呼ばれるようになった。第一次世界大戦では同型艦と共にユトランド沖海戦に参加して大破したものの、沈没は免れる。また、改装を経て第二次世界大戦でも大西洋、地中海、インド洋と各地で戦った。その活躍ぶりから第二次大戦において最も活躍した戦艦としても称賛されている。艦名の由来は分からなくなっているが、同じ艦名を持つ艦としては7代目にあたる。ウォースパイトを含むクイーン・エリザベス級戦艦は最初の大口径砲を搭載したドレッドノートが完成した時の海軍軍令部総長だった提督ジャッキー・フィッシャー卿が設計の骨格に携わり、後に首相まで登りつめる海軍大臣ウィンストン・S・チャーチルの働きかけによって建造が決定された。1912年10月31日、デヴォンポート海軍工廠で起工した。1913年11月26日に進水し、1915年3月8日に竣工した。エドワード・モンゴメリー・フィルポッツ艦長指揮するウォースパイトは本国艦隊(別名グランド・フリート)の第2戦艦戦隊に加わり、砲撃試験を含む試運転を行った。試運転にはチャーチルが出席し、精密で迫力のある15インチ(381mm)砲の射撃に好印象を与えた。同年の後半に座礁して護衛の駆逐艦と小型船チャンネルに引き揚げられたが軽く損傷した。後に修理を行った上で本国艦隊に復帰し、新たにクイーン・エリザベス級戦艦のみで構成される第5戦艦戦隊に加わった。12月の初め、ウォースパイトは少しばかり運が悪く、訓練中に姉妹艦のバーラムと衝突事故を起こして大破してしまった。1916年にウォースパイトを含む第5戦艦戦隊は一時的にデヴィッド・ビーティ指揮下の巡洋戦艦部隊に編入された。同年5月31日、ウォースパイトは初の戦歴で最大の海戦であるユトランド沖海戦に参加し、ドイツ海軍の主力艦から放たれた砲弾が15発命中した。ウォースパイトは姉妹艦のヴァリアントと衝突を避けるため旋回したが、運悪く舵が故障してしまった。ウォースパイトは同じ地点で旋回を続け、艦長は停止や後退するよりも良いと判断して針路の変更をしなかったが、却ってウォースパイトがドイツ艦隊の餌食となる原因になりかねなかった。しかし、ドイツの巡洋戦艦は大破させて無力化した装甲巡洋艦ウォーリアから、ウォースパイトにターゲットを変更したため、巧みにウォーリアを危険から救う結果になった。これらはウォーリアの乗員も意図的にそうしたと勘違いして深い信頼を得た。また、ウォースパイトの復旧は潜在的にドイツの大洋艦隊を引きつけるのに失敗する恐れがあったが、旋回している間に修理が行われて2回目の円を書くころには完了した。そのため、ウォースパイトに修理の許可が与えられ、停止して修理が行われた。修理の後、再び発進して難を逃れたもののウォースパイトは生涯に渡って舵のトラブルに悩まされた。ウォースパイトは戦闘中に多数の負傷者と14名の死者を出し、深刻な損傷を負っているにも関わらず戦闘を続けていたが、第5戦艦戦隊の指揮官ヒュー・エヴァン=トーマス少将は本土に帰還するよう命じた。帰還中の6月1日にドイツ潜水艦の襲撃を2度も受けたが、魚雷は2発とも不発に終わった。その後、ウォースパイトの前方に潜水艦が浮上したため体当たりしようとしたが失敗し、沈没することなくロサイスに到着して修理が行われた。それらの修理を終えるとウォースパイトは第5戦艦戦隊に再び加わった。しかし、またも姉妹艦ヴァリアントと衝突してしまい、修理を受けることになったが、1917年6月には駆逐艦とも衝突した。ウォースパイトはスカパ・フロー泊地で係留されていたが、同年6月9日にセント・ヴィンセント級戦艦のヴァンガードが事故で弾薬庫の1つが爆発し、何百人という多数の死者が出た。1918年にウォースパイトのボイラー室で火災が発生し、修理を受けることになった。大戦が終結するとドイツ大洋艦隊をスカパ・フローへ受け入れるため、11月21日に本国艦隊と出撃した。武装解除の上、係留されていた大洋艦隊だったがパリ講和会議中の1919年6月21日に大部分が自沈してしまった。ウォースパイトは大西洋艦隊に所属する間、多くの時間は地中海にいた。1924年にジョージ5世が出席する英国艦隊観艦式に参加した。その後、ウォースパイトは部分的な近代化改装工事を行った。それは装甲と上部構造の改装だけでなく、新しく小口径機関銃を増設するもので、工事は1926年に完了した。同年、再び大西洋艦隊の所属のまま地中海で過ごした。ウォースパイトは地中海艦隊の旗艦と同等の働きを見せ、最終的に地中海艦隊の旗艦として母港を地中海に移した。1930年、ウォースパイトは大西洋艦隊に編入された。翌年の1931年9月に手当ての減給が原因でインバーゴードン反乱が起き、演習実施前の大西洋艦隊が水兵に占領された際はすでにウォースパイトは港を出ていた。1934年から1937年にかけてウォースパイトは機関の配置と武装を変更し、航空機の格納庫を設置する完全な近代化が行われた。その年に艦隊に復帰し、ヴィクター・クラッチレーを艦長に迎え、地中海艦隊の旗艦になった。しかし、機関とユトランド沖海戦で起こった舵の故障の問題で何ヶ月か遅れてしまった。1939年6月にアンドリュー・カニンガム中将が地中海艦隊の司令官代理に任官した。同年の9月3日にイギリスはフランスとともにドイツに対して宣戦布告を行い、第二次世界大戦が始まった。10月28日、ウォースパイトは本国艦隊に加わるためマルタへ向け出発。しかし、11月6日にジブラルタル到着すると船団護衛のためハリファックスへ向かうよう命じられた。ハリファックスには11月14日に着き、4日後にHX9船団を護衛して東へ向かった。その途中の11月23日、イギリスの仮装巡洋艦ラワルピンディがドイツ海軍艦艇によって撃沈された。イギリス艦隊は敵捕捉のため出撃し、11月24日にはウォースパイトも船団から離れて北北東へ向かうよう命じられた。11月27日にはデンマーク海峡を通過し、捜索活動をおこなったが敵は発見できず、12月4日にグリーノックに停泊した。その後もウォースパイトは船団護衛に従事していた。1940年2月27日には国王ジョージ6世がウォースパイトを訪れた。1940年4月のドイツ軍によるノルウェー侵攻により、ウォースパイトもノルウェー沖に展開した。4月13日、ジョッキー提督(ウィリアム・ホイットワース中将)はナルヴィク沖海戦で損傷を負ったレナウンに代わって旗艦をウォースパイトに移した。そして、ナルヴィクを占領したドイツ軍部隊の攻撃に向かった。同日、オフォトフィヨルド偵察のためにウォースパイトを発進したソードフィッシュ(水上機型)は潜水艦U-64を撃沈したが、これは第二次世界大戦で最初となる航空機の潜水艦撃沈例だった。駆逐艦を率いてフィヨルド内に進入したウォースパイトは1隻の駆逐艦エーリッヒ・ケルネルを粉砕し、ディーター・フォン・レーダーとエーリッヒ・ギーゼを目標にした。ディーター・フォン・レーダーは乗員の手によって爆破処分が行われ、ウォースパイトと駆逐艦部隊はエーリッヒ・ギーゼを撃沈した。オスト・フィヨルドで立ち往生してしまったドイツの駆逐艦部隊を全滅させ、ウォースパイトは強力な戦艦の火力をもって掩護を行った。イギリス側も駆逐艦3隻が損傷した(第2次ナルヴィク海戦)。この海戦後もウォースパイトはノルウェー沖で行動し、4月19日には独潜水艦U47の雷撃を受けたが被害はなかった。4月24日にはナルヴィクを砲撃した。1940年5月にウォースパイトは地中海艦隊に戻った。イタリア参戦直後の1940年6月11日にウォースパイトを含む地中海艦隊はアレクサンドリアから出撃した。だが敵は発見できず、6月14日に艦隊はアレクサンドリアに戻った。7月7日、ウォースパイトを含む地中海艦隊はマルタからの船団護衛(MA5作戦)のためアレクサンドリアから出撃した。7月9日、地中海艦隊は同じく船団護衛のために出撃していたイタリア海軍と交戦した(カラブリア沖海戦)。この海戦でウォースパイトはイタリアの戦艦ジュリオ・チェザーレに命中弾を与えた。7月13日、アレクサンドリアに帰投。7月27日、エーゲ海からの船団支援のため、戦艦ウォースパイト、マレーヤ、ロイヤル・サブリンなどがアレクサンドリアを出撃。7月30日、艦隊は帰投した。8月16日、戦艦ウォースパイト、マレーヤ、ラミリーズと重巡洋艦ケントが護衛の駆逐艦を伴ってアレクサンドリアから出撃した。目的はエジプトとの国境近くにある、リビアのフォート・カプッツォとバルディアの砲撃であった(MB2作戦)。8月17日、ウォースパイトとケントはフォート・カプッツォを、マレーヤとラミリーズはバルディアを砲撃した。また、12月19日にはアルバニアのヴァロナ砲撃に、1941年1月3日にはバルディア砲撃に参加した。3月のマタパン岬沖海戦では夜間に巡洋艦3隻と駆逐艦2隻を撃沈するなどし、戦略的・戦術的な勝利に貢献した。しかし、姉妹艦のバーラムはドイツのUボートの攻撃によって沈没し、クイーン・エリザベスとヴァリアントの両艦はアレキサンドリア港でイタリアの特殊潜水工作兵(人間魚雷)による攻撃を受けて大破着底し、復帰には長い時間を費やした。ウォースパイトはこの間何度か損傷を受けたが、深刻な損害とはならずに済んだ。カラブリア沖海戦では、移動する艦艇から移動する目標に対する長距離射撃の記録を残した。1940年6月にグローリアスを撃沈したドイツのシャルンホルストによる砲撃に並ぶ26,000ヤードという遠距離でジュリオ・チェザーレに命中弾を与えた。しかし、秋にクレタ島近海で哨戒中の9月22日にドイツ空軍爆撃機による空襲によって大破した(クレタ島の戦い)。同年のうちにウォースパイトはアレキサンドリアを去って修理のためアメリカに向かった。8月から西海岸のピュージェット・サウンド海軍造船所(ワシントン州)で修理が行われ、15インチ砲の砲身を交換した。しかし、日本海軍に真珠湾を攻撃され、太平洋戦争が勃発するとドックに入っていたウォースパイトはインド洋に展開する東洋艦隊に加わるため、工事を切り上げて出港した。1942年1月にウォースパイトは東洋艦隊に編入された。そして、1927年にウォースパイトを指揮したことがあるサー・ジェームズ・サマヴィル中将が乗艦し、東洋艦隊の旗艦となった。東洋艦隊は低速のリヴェンジ級戦艦4隻と空母ハーミーズの旧式艦隊とウォースパイトとフォーミダブル、インドミタブルの空母2隻からなる高速艦隊を擁するようになった。サマヴィル中将は艦隊を保護するため移転を決め、モルディブ諸島のアッドゥ環礁を泊地にした。しかし、伝えられる情報に日本が攻撃してくる予兆があったにもかかわらず、サマヴィル中将は重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーの2隻とハーミーズをセイロン島に戻してしまった。4月の初旬、2つの日本海軍部隊がインド洋空襲を開始した(セイロン沖海戦)。1つは空母龍驤を含む巡洋艦6隻で、もう1つのは戦艦4隻と真珠湾攻撃に参加した空母5隻だった。その時、日本海軍は強力な存在となっている東洋艦隊を捜索するためインド洋に進出していた。1942年4月4日に日本艦隊を発見し、直ちに巡洋艦2隻に対してサマヴィル中将の艦隊との合流を命じられた。数日後、ウォースパイトを含む高速艦隊が日本艦隊を攻撃するためアッドゥ環礁を出撃した。結局、艦隊を離れたコーンウォール、ドーセットシャー、ハーミーズが多くの乗員とともに撃沈されたが、日本艦隊は本命の東洋艦隊を発見できず、高速艦隊に対して攻撃することなく撤退してしまった。その後、ウォースパイトは1943年にインド洋を去るまでの期間、限られた作戦行動で特に損傷は受けなかったが、喜望峰回りで帰還する航海で主舵に不具合が生じたが、応急処置により復旧して5月に本国に戻った。その後は問題は起きず、6月にもう一度地中海に向かった。1943年6月にジブラルタルに拠点を置くH部隊に加わり、7月にはハスキー作戦に参加した。戦艦ネルソン、ロドニー、ヴァリアント、空母フォーミダブルらとシシリー島への上陸支援のため、ウォースパイトは7月17日にカタニアのドイツ軍に対して艦砲射撃を行った。9月8日と9日にはサレルノ上陸を掩護し、ドイツ空軍の激しい爆撃を受けたが、多くを撃墜した(イタリア戦線)。9月10日、1940年から1941年にかけてウォースパイトと戦闘を行ったイタリア艦隊が連合国に引渡しのためマルタ島で抑留されることになり、ウォースパイトはそれらの監視にあたった。サレルノに上陸した連合国軍がドイツ軍の反撃で劣勢に追い込まれたため、ウォースパイトは9月15日に支援任務に戻った。ウォースパイトと戦艦ヴァリアントはドイツ軍に対して艦砲射撃を行った。しかし、不運にも9月16日にドイツ空軍の攻撃で大破した。ウォースパイトは初期の誘導爆弾であるFX-1400(フリッツX)が3発中2発が命中。そのうちの1発が煙突の背後の水上機格納庫に命中、フリッツXは主甲板をも貫いて機関区で爆発。船体中央部の甲板に巨大な穴を開けた。もう1発は右舷側のバルジを貫通して爆発した。これにより第4ボイラー室が壊滅。隣接するボイラー室へも舷側からの浸水が入り込んで6基あるボイラーのうち稼働できるのは1基のみとなって大破してしまった。浸水はみるみるうちに5000トンにも達し、右側に5度も傾いてしまった。唯一の救いは犠牲者が少ないことで、9名が戦死して負傷者14名だった。わずかな時間で劇的に変わり、堂々としていた戦艦は破壊と戦争の傷跡を残した。アメリカ海軍がすぐさまマルタ島に後退させようとしたものの曳航は困難を極め、メッシーナ海峡で曳航線が2本とも千切れて漂流してしまうこともあった。9月19日にようやくマルタ島に到着し、ジブラルタルに曳航する前に応急修理を行ったが、この時のマルタ島ではウォースパイトが入れるドックが全壊しており、応急修理は困難を極めた。それでもボイラーが修理され、タービン機関が1基だけ動くようになったのでジブラルタルへと曳航することができた。11月8日にジブラルタルに到着したウォースパイトは4週間にもわたる修理を受けたが、損傷を受けた第4ボイラーの修理は断念して主砲塔も2基しか稼働できない状態だった。1944年3月にウォースパイトは更なる修理のためイギリスのロサイスへ戻った。ロサイスでの修理では3番主砲塔の修理は見送られたが、機関の修理が進んで約21ノットまでの航行が可能となった状態で4月末で戦線復帰した。1944年6月6日にウォースパイトは東方機動部隊の一員としてノルマンディー上陸作戦に参加し、ソード海岸の上陸を掩護するためドイツ軍に対して艦砲射撃を加えた。その後も上陸したアメリカ軍を支援していた。さらに数日後にはゴールド海岸の上陸部隊を支援した。間もなくウォースパイトは砲身の交換が必要になってロサイスに送られたが、その途中で左舷後部に磁気機雷に触雷し、機関をはじめとしてスクリュープロペラや舵に損傷を受け、とうとう左舷側のタービン2軸が停止して大破した。その翌日にロサイスで修理を受けたが修理は艦砲射撃の任務に必要な箇所だけ行われ、推進軸は3軸のみとなって速力は更に15ノットに落ち込んだ。修理後はフランスのブレスト、ルアーブルの友軍を支援し、11月1日にはゼーラント州のワルヘレン島にも艦砲射撃を行ったが、それらが最後の主砲発射となった。ワルヘレン島の作戦行動以降、1945年2月1日にウォースパイトは予備役のカテゴリー Cへ籍を置いた。戦争終結後、ネルソン提督の乗艦した戦列艦ヴィクトリーのように博物館としての保存を求められたが、それらの意見は容れられず、1947年にスクラップとして売却された。ユトランド沖海戦を始め第一次世界大戦と第二次世界大戦で多くの困難をくぐり抜けてきたウォースパイトだったが、1947年にもう1つの「勝利」を重ねた。解体所に向かう途中嵐に遭ったのだが、その後、錨が外れ、プロシア入り江で座礁するまでスクラップ業者からの逃走を続けたのである。しかし、発見された後に本来の場所で解体が進められた。これは1950年に完了し、この年、不沈艦として名を馳せたウォースパイトも、ついにその輝かしい戦史に、悲しみとともにピリオドを打ったのであった。ウォースパイトは最も著名な戦艦としてイギリス中の親愛の念を一身に集め、イギリス海軍の最も尊敬された提督たち、とりわけアンドリュー・カニンガムが賛辞を贈っている。その戦歴は伝説となり、艦名の「ウォースパイト」は「尊厳」や「勇気」の代名詞となった。正にイギリス海軍が保有した戦艦の中で最も偉大な存在であったといって過言ではない。
出典:wikipedia
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