偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。また、これを行う者は偽善者とよばれる。外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事を指している。腹黒いやゴマすりや食わせ物という表現もある。また、和英辞書では偽君子(snob)も hypocrite とされている場合がある。英語のhypocrite(偽善者)はギリシャ語hypokrisis 「舞台の見せかけの役」から来ている。英語hypocriteは「見せかけの役を演じる役者」という意味であり、行動が心の底からの行いではないので「偽善者」の意味になった。英語において偽善()とは主張と実情の不一致であり、ある信条、規範、美徳を持っていると主張・暗示、または自身で思っていながら実際にはそうではない状態を指す。一般的には自身が行っていないことを他人に要求する行為を表すことが多く、例えばある国が他国に人権擁護を求めながら自国の人権を守ろうとはしていない状態などに使用される。この意味における偽善性は議論においてしばしば攻撃される(や日本語における「お前が言うな」、「どの口でそれが言えるんだ」というフレーズ)。ただしこのような攻撃は主張に対する適切な反論がなければ単なる詭弁(論点のすり替え・人身攻撃)となることが多い。日本語における偽善の意味として、「善を掲げつつ、その善行を行わない」という上記英語のhypocrisyの訳語のほかに、「ある善行が“真の善”ではない」という用法がある。例えばある人がアフリカにおける児童の貧困を望ましくないと主張し、お金を寄付したとする。この場合、主張と行為が一致しており、英語における“hypocrisy”には当たらないが日本語における偽善に当てはまる可能性がある。その根拠として以下の点が挙げられる。また、たとえある行為が上記の意味で偽善であるにしてもそれを評価するかどうかには様々な意見がある(やらない善よりやる偽善)。まず、自分の事を「偽善者」だと思う人は、外面的には自分を善と見せかけていても、実は内面的に悪であると知っている。したがって「偽善」とは、自己の悪の自覚を含む主観であり、自己の善性に対する懐疑から深い思索を生み出す事もある。逆から言えば、自己の善性に対する懐疑のない「善」は、時には「偽善」となってしまうことも、仕方が無いと言える。一方、自己ではなく他者を「偽善者」と非難する人もいる。外面的には善と見せかけているが、その他者の内面の悪を見抜いてしまっていると言う場合と、善行に対する思慮の浅さを指摘する場合がある。前者の場合、他者の内面というのは外から簡単に分かるものではないから、その他者の中に悪を推定するだけで、善行に対して猜疑心を向けているに過ぎない。後者の場合、善行自体があまりよい結果を生み出さなかったことを指摘していることがあり、そうした場合は謙虚に受け止め、思慮の浅さを反省すべきである。別の可能性として、内面的な事柄を度外視しても「偽善」が指摘されうる事もある。つまり、目立つところでは善い事を言ったり行ったりしていても、目立たないところでは悪事を行い、表面上の善を無にして余りあるような害悪をばらまいているような場合である。こうした時には表面上の善はいわゆる「きれいごと」であり、むしろ社会的に善行として評価されることなどによる自己利益が企図されていることもある。このとき「偽善者」という批判は、隠蔽された悪事を暴露して問題の本質を明らかにする。ところが、こうした「きれいごと」を非難する声の中には、実質的な悪への関心が見られない事も稀ではない。人に先駆けて行う事を臆するあまり、結局は何も出来ないでいる者たちが、目立った行いをする者を「偽善者」だと嘲笑する(似非ニヒリズム)。ボランティア活動などは常にこうした困難に直面するが、「偽善」への深い思索に裏打ちされ、常に自分の行為の及ぼす影響に留意してなされる継続的な行為は、たんなる主観的な善悪の次元を超越したものになりうる。
出典:wikipedia
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