佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。子に信栄・信実。従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政・佐久間安政・柴田勝政・佐久間勝之の父)がいる。尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区)に生まれ、若い頃から織田信秀に仕えた。後に幼少の織田信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟・信時を守山城に置く際に城主だった信長の叔父・織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせ、信長の弟・信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った。その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)といわれた。信長に従って各地を転戦し、織田家の主だった合戦には全て参戦した。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、戦後に鳴海城を与えられた。永禄11年(1568年)の近江国の六角義賢・義治父子との観音寺城の戦いでは箕作城を落とすなどの戦功をあげ、長島一向一揆や越前一向一揆戦でも活躍した。吏僚としての活動も見られ、永禄10年(1567年)に徳川家康の長男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に岡崎城まで供奉、家康の領地と接する西三河を任され、永禄11年の上洛後に畿内の行政担当者の1人に選ばれ、大和国の松永久秀を交渉で味方に付けている。浅井長政が信長に敵対した後は近江永原城に配置され柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)、姉川の戦い、志賀の陣にも出陣している。比叡山焼き討ちで武功を上げ元亀2年(1571年)11月には知行地として近江国栗太郡を与えられている。同年に松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当、久秀と順慶を和睦させている。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、平手汎秀・水野信元と共に3,000の兵を率い、徳川家康軍8,000の援軍に赴くも、信盛は27,000の武田信玄軍を目の当たりにして、ほとんど戦わずして、三河と尾張の境目にある境川付近の今切まで退却した。天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。その際信盛は涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と弁明し、信長の怒りに油を注いだ(『信長公記』)。同年11月には足利義昭を匿った河内若江城主・三好義継を信長の命令で討伐した(若江城の戦い)。天正3年(1575年)の高屋城の戦い・長篠の戦いにも出陣している。天正4年(1576年)には石山合戦の一環であった天王寺の戦いで石山本願寺攻略戦の指揮官である塙直政の戦死を受け、後任として対本願寺戦の指揮官に就任。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊といった7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であったが、信盛は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着した。この間にも天正5年(1577年)の紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも織田軍の部将として出陣している。天正8年(1580年)、信長自らが朝廷を動かし本願寺と和睦して、10年続いた戦に終止符を打った。この時点まで信盛は近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括し、信長相続前からの古参であることもあわせ、作家の津本陽いわく「織田株式会社の副社長」ともいうべき位置にあった。同年8月、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられた信盛は、嫡男の信栄と共に高野山へと上った。その後、高野山にすら在住を許されずにさらに南に移動、佐久間家の郎党も次々に信盛父子を見捨てて去っていった。高野山に落ちる時はつき従う者は2、3名、熊野に落ちる時は1名きりだったという。なお、この最後まで付き従った者は、後に信栄が赦されて帰参が叶った時、その忠誠心を賞されて小者の身分から士分に抜擢されたという。『信長公記』はこの間の佐久間父子の凋落をあわれみをもって記している。信盛失脚後に信長の実質的な本拠地である近畿地区で大軍団を統率することになったのは明智光秀であり、この事件は本能寺の変に心理面、軍事面、さまざまな影響を与えている。なお、佐久間家は信長に身ひとつで仕え始めた羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益らとは違って、元から尾張に勢力を持つ土豪であり、独自の判断で守護代の分家にすぎなかった織田信秀につき従ってきた、いわば盟主と傘下協力者に近い(徳川家と酒井家のような)関係にあった。それがこの時期には、一言で全領地を召し上げられても文句がいえないような絶対君主と臣下の関係になってしまっており、武家社会が決定的に変質したことが窺える。また、羽柴、明智のように本拠地としての城や領国を与えられず近衛軍団長のような立場であったため、佐久間には反乱する足場もなかった。天正10年(1582年)1月16日、紀伊熊野にて死去した。享年55。法名は洞無桂巌または宗佑。直後に信栄は織田信忠付の家臣として帰参を許された。佐久間氏の武功を記録した『佐久間軍記』には、追放について「誰かの讒言でもあったのではないか」という意味のことが書かれており、この書が成立した江戸時代初期でもそのような見方が存在していたことが窺える。また『寛政重修諸家譜』の信栄(正勝)の項にはと、「明智光秀の讒言があった」ことが明記されている。ただし、『寛政重修諸家譜』は18世紀末に成立したものであり、また、その内容について出典を明記していない為、注意が必要である。一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考えていたのか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。一、信盛の与力・保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けていたではないか。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである。言語道断である。一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を無駄にし、卑怯な事をしている。一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。どちらにせよ、折檻状は命を惜しんで隠棲するか命を懸けて功績を挙げ挽回するかという道を選ばせており、少なくとも追放されたのは信盛自身が選択したことで、信長自身が問答無用で追放したのではないことを考慮する必要がある(前田利家は功績を挙げて挽回したくちである)。また、このことから追放以外の措置を許さなかった林秀貞等よりも評価はしていたようである。
出典:wikipedia
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