1300(せんさんびゃく)は、本田技研工業が1969年から1972年まで生産、販売していた4ドアセダンおよび2ドアクーペの小型乗用車である。2輪車や軽自動車を主力であった本田技研工業が初めて出した小型乗用車であり、前輪駆動(FF)や空冷エンジン、四輪独立懸架など、独創的な技術が盛り込まれていた。ボディの種類は、4ドアセダンと後に追加された2ドアクーペの2種で、型式はそれぞれH1300およびH1300Cである。バンやピックアップといった商用車仕様は市販されなかった。1300最大の特徴としては、水冷よりも空冷を推す本田宗一郎の技術的信念により、このクラスとしては、この当時でも珍しくなっていた空冷エンジンを用いていた点が挙げられる。また1300の設計と発売に関して藤沢武夫も不安視していたが、宗一郎にブレーキをかけることができなかった。エンジンは、オールアルミ製 1,298cc 直4 SOHC 8バルブ クロスフローで、シングルキャブレター仕様で100PS/7,200rpm、4連キャブレター仕様は115PS/7,500rpmを発揮、この出力は当時の1.3L級エンジンとしては極めて優秀であり、1.8 - 2.0L 並みであった。最初で最後の採用となった後述するDDACと呼ばれる冷却方式は、通常の空冷エンジンのシリンダーブロックやシリンダーヘッドの中に、水冷エンジンのウォータージャケットにあたる通路に通風することから、「一体式二重空冷」の名を持つ。空冷エンジンを搭載するF1マシンのRA302からのフィードバックというのがセールスポイントであった。開発には、騒音が大きい空冷の弱点の克服も目標とされた。しかし、高出力とDDAC方式、アルミ製オイルタンクを持つドライサンプ機構など構造が複雑で重くコスト高となり、構造が簡単で軽量、低コストという空冷エンジンの長所が薄れる結果となった。このエンジンを採用したため、フロントまわりの重量が増加し、しかも発売当初のサスペンションスプリングとダンパーがソフトなもので、77の標準タイヤは細く剛性の低いクロスプライのバイアスタイヤであったことから、アンダーステアやタックインといった挙動が現れやすかった。1300の極端なフロントヘビーを示す逸話として、経年劣化が進むとフロントストラットのアッパーマウントが重みに耐えきれずに破断し、ダンパーがボンネットを突き上げて破壊してしまうというものがある。このようなトラブルは1300以外にはシトロエンの一部車種に存在する程度で、通常他の車種ではあまり見られない欠点である。後に追加されたクーペやマイナーチェンジ後のモデルでは、最高出力が引き下げられ、サスペンションも固められたことで徐々に改善されたが、エンジンの廃熱を利用する標準ヒーターの熱量不足、大きい最小回転半径などの一部は解決できなかった。なお、H1300系はPCDが120.0mmという特殊な規格のホイールハブを採用しており、これは145はもとより初代シビック・初代アコード・TNアクティ/アクティストリートまで継承された。総生産台数は3年強の間に約10万6千台、このうち1053台が日本国外に輸出された。1300はエンジンやオイルタンクにアルミ合金が多用されており、DDACという構造上その使用量もかなり多いものであった。アルミのスクラップ価格が高価であった当時の社会事情もあり、1300の事故車や廃車は解体屋によって先を争うように回収・解体されたとも言われており、今日残る現存個体は廃車体も含めて同社の他の車種と比較しても非常に少なくなっている。本車と、F1車RA302のエンジンが空冷であることは、本田宗一郎の現役晩年のエピソードとしてしばしば語られる。DDAC(Duo Dyna Air Cooling system:デュオ ダイナ エア クーリング システム)の略。1968年に本田技研工業が発表した空冷エンジンの冷却方式である。日本語では一体構造二重壁空冷方式、または一体式二重空冷エンジンと呼ばれる。水冷エンジンでいうところの「ウォータージャケット」の考え方を空冷エンジンに導入したもので、シリンダーブロックの外壁を「一体」鋳造成型で二重構造にし、その間の空間を冷却風の通り道とした。そこに強制冷却ファンで風を送り込むと同時に、エンジンの外側にも風があたるようにして冷却をする構造である。その構造ゆえに、オールアルミ製のエンジンにもかかわらず重量が大きかった。非常にユニークな発想だったが、そのエンジンを搭載した1300は商業的に失敗を喫し、ホンダの4輪車用エンジンが、空冷から水冷へと一斉に転換するきっかけとなった。1300の販売不振にホンダが悩んだ1970年頃、エンジンの冷却方法について本田宗一郎と若手技術者達は激しく対立した。内燃機関では、熱は集中的に発生する。伝熱特性の良い液体に一旦熱を移し、ラジエータの広い面積から熱を捨てるという構造は合理的であり、若手を中心として技術者たちは「水冷のほうがエンジン各部の温度を制御しやすい」と主張した。しかし本田宗一郎は「水でエンジンを冷やしても、その水を空気で冷やすのだから、最初から直接空気でエンジンを冷やしたほうが無駄がない」と頑として譲らなかった。両者は激しくぶつかり合い、当時技術者だった久米是志(後の3代目社長)が辞表を残して出社拒否をしたほどであった。技術者達は、副社長の藤沢武夫に、あくまで空冷にこだわる宗一郎の説得を依頼、藤沢は電話で宗一郎に「あなたは社長なのか技術者なのか、どちらなんだ?」と問い質した。設立以来、経営を担ってきた他でもない藤沢のこの言葉に宗一郎は折れ、技術者の主張を認めた。そして、1300の生産中止と共に1971年の初代ライフを皮切りに、初代シビック、145と水冷エンジン搭載車が次々にホンダから送り出されるようになり、本田宗一郎が執念を燃やした空冷エンジン乗用車はホンダのラインナップから消滅した。本田宗一郎は藤沢武夫と共に、翌1973年に引退したが、この空冷水冷の一件が決定打であったとされている。ホンダ1300発売当初、RSC(レーシング・サービス・センター、現在のホンダ・レーシングの前身の一つ)によって同車のエンジンを流用したR1300と呼ばれるレーシングマシンが開発されていた。ブラバム・ホンダのフォーミュラ・シャーシを一部改良しFRPボディを被せたものに、初期型99用のエンジンに軽度のチューンを施しミッドシップに搭載していた。1969年5月31日、鈴鹿1000km耐久レースに松永喬/永松邦臣の11号車と高武富久美/木倉義文の12号車の2台のR1300が初参戦。予選ではR1300より遥かに排気量の大きいローラT40、ポルシェ・カレラ6に次いで3位と4位のタイムを記録する。決勝では2台共にポルシェ・カレラ6とトップ争いを繰り広げたが、59ラップ目に12号車が、続いて113ラップ目に11号車がそれぞれプライマリーチェーン切れによりリタイヤした。1969年8月10日、鈴鹿12時間耐久レースに高武富久美/木倉義文の6号車と松永喬/田中弘の7号車の2台のR1300が参戦した。6号車はトップを快走しながらも118ラップ目、ガス欠によりリタイヤしてしまう。7号車は抜きつ抜かれつの展開を繰り広げながらも一位を守ったが、レース開始から11時間が経過した225ラップ目スプーンコーナーでスピン、現場に差し掛かった周回遅れの後続車が追突し二台とも炎上した。7号車に乗っていた松永喬は全身に大火傷を負い、事故から25日後の1969年9月4日に死亡した。この事故は、前述の同じく「空冷」F1のRA302が、約一年前にフランス ルーアン・レゼサールで起こした事故に似た結末とも言え、空冷エンジン車に対するイメージダウンを恐れた為か、R1300は高いポテンシャルを有しながらも僅か二度の参戦をもって開発が打ち切られた。
出典:wikipedia
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